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   ◇

 次の駅で降りると、私の乗るバスが駅前のロータリーにちょうど入ってきたところだった。
 乗客が入れ替わるとすぐに発車した。
 間に合って良かった。
 これを逃すと、一時間バスはない。
 昭和の時代に作られた住宅街にある家までは駅前からバスで二十分かかる。
 乗り換えがスムーズに行けばそれほど不便というわけではないけど、今日のように電車が遅れるとやはり焦ることもある。
 信号機の多い駅前通りは仕事帰りの車で渋滞していてバスはなかなか進まない。
 一番後ろの座席でそんな外の様子を眺めていてもさっきの彼の顔が頭から離れない。
 よく通る声も、なれなれしいしゃべり方も、そして、あの時の自分の鼓動の高鳴りも。
 同じ学校の制服を着ていたけど、知らない人だった。
 私の通っている高校は普通科と看護科があって、校舎がそれぞれ分かれている。
 看護科の私は普通科の生徒とはほとんど交流がない。
 それに、看護科の定員は四十名だけど、男子は二人しかいない。
 ほぼ女子校みたいな雰囲気が私には合っている。
 とはいえ、女子ともうまくいっているわけではない。
 同じ中学だった知り合いもいないし、人と打ち解け合うのに時間がかかる自分は、入学して三ヶ月たってもどこかのグループに溶け込むことがいまだにできていない。
 そんなに他人に対してかたくなにならなくてもいいじゃないかと思われるかもしれないけど、苦手なものは苦手だ。
 ただ、それでも、クラスで居心地が悪いということはない。
 普通科と違って、看護師になるという目的がはっきりしているせいで、その目標に関係のないことは皆あまり気にしない雰囲気ができあがっている。
 だから授業でグループやペアを作って課題をやる時も、仲のいい人同士にこだわらず、その時隣にいた人と組むのが暗黙のルールになっていたりする。
 正直苦手な相手になる時もあるけど、弾き出される心配がない分、気は楽だ。
 課題に取り組む時のように相手と協調することが必要な場合は割り切ることもできる。
 それくらいのことはできる程度に少しは成長していると思う。
 そもそも、まわりの目よりも、先生の指導の方が百倍厳しいから誰か突出したボスのような存在が生まれにくいというのもあるかもしれない。
『命を扱う仕事』という緊張感の中では、普通だと重要なことでも、いちいち気にしてなどいられないのだ。
 高校の看護科は、普通の高校生の勉強もやる高校課程三年間と、その先に専攻科というのが二年間あって、専門的な勉強や実習をおこなった後、国家試験を受けてようやく看護師の資格を得ることができる。
 この高校は公立だから、五年間の学費がほぼ無料で看護師の国家資格を得ることができるので、とても人気がある。
 大学や専門学校だと、数百万円かかるわけだから、それも当然だ。
 うちも両親が離婚している事情もあって、学費がかからずに一生食べていける資格が取れるという点が一番の決め手になった。
 勉強は嫌いじゃなかったから、というより、勉強に集中していれば人との接触を拒むことができたから、自分を守るバリアとして頑張っていた。
 合格できた時はこんな私でも、心の中で両手を突き上げて喜んだものだ。
 勉強を頑張って、成績が良ければ評価される学校という場所は、私にとっては案外居心地の良い場所なのだった。
 バスがようやく渋滞を抜けて田園地帯を走り出す。
 コンビニとガソリンスタンド、それと、潰れたパチンコ屋を通過してしばらくすると、昭和の時代に作られた住宅街へ入っていく。
 バスは角を曲がって、一丁目から二丁目、そして三丁目へとぐるりと並木道を回っていく。
 終点の一つ手前で降りた時、乗客は私で終わりだった。
 バス停からワンブロック歩いたところが今住んでいる家だ。
 周囲は半分くらい空き家になっている。
 昭和の時代に家を買った世代がみな亡くなってしまい、その子供である私たちの親世代は別のところに住んでいて戻ってくる人などいないらしい。
 人の住まなくなった家は荒れ放題で、住宅街も急激に寂れていく。
 近所にあったパン屋さんやクリーニング屋さんはみんな閉店したし、銀行の支店もなくなったそうだ。
 動物を見かけることも多くなって、野良猫かと思ったら狸だったこともある。
「ただいま」
「おう、おかえり」と、祖父はビールと枝豆でご機嫌だ。
「あら、ちょうどご飯できたところよ」と、エプロン姿の祖母が炊飯器の中を確かめている。
 ほんわりと上がる白い湯気が私の鼻をくすぐる。
 年寄りは夕飯が早い。
 私は今、母方の祖父母の家で暮らしている。
 両親は私が中学に入学した時に離婚して、それから私は母親と二人で暮らしていたけど、半年前、母は再婚した。
 ほんの数ヵ月間だけ、その相手と三人一緒に暮らしたけど、合格が決まって中学を卒業したタイミングで、私は高校に近い祖父母の家に移り住み、今はそこから通学している。
 新しい『お父さん』が嫌いなわけではない。
 むしろ、母にはもったいないくらいのいい人だと思う。
 私のことをいろいろと気づかってくれていることも分かっている。
 だけど、その人はあくまでも母の再婚相手であって、私の父ではない。
 申し訳ないけれど、そうとしか思えない。
 幸いなことに祖父母は孫の私と暮らすことを喜んでくれている。
 甘えているつもりはないけど、私の好きなご飯を用意してくれて、冷凍庫にはいつもアイスを切らさないようにしてくれる祖父母との生活はとても気に入っている。
 炊きたてのご飯みたいな、いい匂いのする場所。
 そんな場所であれば、誰と暮らすかはあまり関係がない。
 もっと早く、こうしていれば良かったと思っているくらいだ。
 高校入学以来、母とは会っていない。
 前の父とも離婚以来会っていない。
 新しいお父さんとは、二度と会わないだろう。
 私はいつも他人から逃げてばかりいるのだ。
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