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   ◇

 怪しげな自称魔法使い男子と出会った次の日、私は同じ車両の同じドアのところに立っていた。
 もちろん、彼を待っていたわけではない。
 絶対にそんなことはない。
 あんな人とまた出会ったら最悪だ。
 ただ、わざわざ別の車両に変えてしまうと、逃げたとか、意識しすぎなんじゃないかとか、いろんなことが気になってしまうからだった。
 それだったら、あえて堂々と同じところにいればいい。
 だから私はこの場所を自分で選んだのだ。
 いつもなら逃げてばかりの私にしてはよく踏みとどまった方だと思う。
 べつに誰かが褒めてくれるわけじゃないけど、自分で褒めてあげたっていいじゃない。
 いつも通り英単語帳を取り出して周囲に壁を張り巡らせる。
 これでいい。
 完璧。
 土砂降りの雨で外は暗い。
 激しく窓に打ちつける雨が周囲の音を消してくれて心地よい。
 私はすうっと英単語の世界へと入り込んでいた。
 と、その時だった。
 電車に乗り込んできた男子高校生が私を見て、「あっ」と、声を上げたのだ。
 私は思わず英単語帳を落としそうになってしまった。
 導火線に火がついて体の芯が弾けたような感覚があって、私も思わず声を上げそうになる。
 でも、それは全く知らない別の人だった。
 ――ふう。
 なんか、ほっとしたような息が漏れてしまった。
 べつに、会いたかったわけじゃないし。
 昨日から私のまわりでいったい何が起きているんだろう。
 私の中で、私の知らなかった感情が次々に沸き起こっては消えていく。
 その人はすぐに人違いに気づいたのか、耳を真っ赤に染めながら反対側のドアの脇に立って横を向いてしまった。
 私の頬も熱いから、たぶん同じように真っ赤なんだろう。
「各駅停車発車します。ご利用のお客様はご乗車になってお待ちください」
 私もドアの方に向きを変えたら、窓にうっすらと自分の姿が映っていた。
 前髪が汗で湿ってかきあげると、おでこに小さなニキビができていた。
 思わずため息が出てしまう。
 後ろでドアが閉まって、電車が発車する。
 反対側にいる男子生徒は同じ高校の制服を着ていたけど、知らない人だった。
 ネクタイの色が昨日の彼と同じ臙脂色で、それは一年生の学年色だから同学年だ。
 看護科の二人ではないから、普通科に違いない。
 それくらい、探偵でなくても推理できる。
 ――初歩だよ、ワトソン君。
 心の中でそんなくだらない独り言を唱えていると、また体が熱くなってきてしまった。
 人との会話を避けるくせに、自分の心の中ではおしゃべりが止まらない。
 窓に映る私は笑顔だった。
 なんでこんなに浮かれてるんだろう。
 ――あの人に会えたわけでもないのに。
 別人なのに。
 そもそも、どっちでも関係ないし。
 踏切の音がして、電車が駅に滑り込んだ。
 一駅三分があっという間だ。
 これが本当の時間感覚。
 昨日がおかしかっただけ。
 こちら側のドアが開いて、激しい雨が降り込んでくる。
 一歩後ずさろうとしたら、後ろから来ていた男子生徒とぶつかりそうになってしまった。
「あ、すみません……」
 声はかすれていて、うまく伝わらなかったかもしれない。
「いや、ども……」
 男子生徒は振り向くこともなく改札口へと駆けていった。
 静かにドアが閉まって電車が動き出す。
 ――ふう。
 激しい雨が打ちつける窓にぼんやりと映っているのは、眼鏡で顔を隠したフクロウみたいな女の子だった。
 これが本当の私。
 紛れもない自分の姿を見ると、動揺していた心が徐々に静まっていく。
 私はまた英単語の世界に戻って、世界との境界に壁を築いていた。
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