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甲斐国での交渉
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美濃のまむし、斉藤道三から助言を貰った成政だったが、直接武田信玄と会見できるとは思えなかった。それまでには乗り越えなければいけない関門がいくつかあったからだった。一応、信長からの手紙を渡すことは成功したが、その返書は決して喜ばしいものではなかった。
だから成政は目的を果たすために、説得する相手を変えることにした。最終的には武田信玄と対話することになるのだが、その前段階に御しやすいところから攻めることにしたのだ。未来の知識があるがゆえの早道でもあった。
成政が甲斐国に入るには、並々ならない困難があった。織田家とは違って武田家やそれまでの道中に領地がある今川家には関所がある。身分を偽って入るに当たって、薬屋に変装した彼は、分からぬようにきちんと薬を清洲の町で買い、その効能も覚えていた。
多大な苦労を強いられながら、何事もなく甲斐国にやってきた彼は、武田家の本拠地である躑躅ヶ崎館ではなく、とある男の屋敷に向かった。彼を利用すれば上手くいくかもしれないと考えたのだ。
屋敷には門番が一人いた。どうやら下人らしく、退屈そうに欠伸をしている。薬屋の籠とのぼり旗を背負った成政は門番に近づき「もし。主人はいますか?」と声をかけた。
「ああ、いるぜ……なんだ、薬屋か」
「ええ。お一ついかがですか?」
「要るかそんなもん! どっか行け! ここをどこだと思っていやがる!」
口の悪い男だなと思いつつ「主人にお話がありましてね」とにこやかに成政は言う。
「ご主人様に話? 薬屋が?」
「……織田家家臣の者とお伝えいただければ」
声を落として門番に耳打ちする成政。門番は驚いたように見つめ返した。織田家と武田家はあまりよろしくない関係であるのは、下人である彼でも知っていることだった。
「お、お前……」
「どうか――長坂釣閑斎様にお目通り願いたい」
門番はごくりと唾を飲み込んで「し、しばし待たれよ」と言い残して、慌てた様子で屋敷の中に入っていく。成政は籠に仕込んだ刀を使わずにいられれば良いなと物騒なことをぼんやりと考えた。
しばらくして違う男――どうやら位の高い使用人らしい――がやってきて「どうぞこちらへ」と言う。成政は少し頭を下げて屋敷の中へと歩いた。それから男の案内で屋敷の一室に通された。客間のようでお茶を用意されたが、成政は手を付けなかった。
待っているとがらりと障子が開いた。中年の男性が険しい表情で入室し、成政の正面に座った。
「織田家家臣の者が、どのような用事で、この長坂釣閑斎を訪ねたのかな?」
長坂は目つきの鋭く、知恵者のような風格のある男だった。とても後世で『奸臣』と呼ばれるようになるとは思えないなと成政は思った。
「本日はお目通りありがたく存じます」
「前口上はいい。本題を話せ」
「……あなた様に武田家当主を引き合わせていただきたいと思いまして」
回りくどい言い方は長坂は好まないと思ったので、率直に自分の要求を述べる成政。
長坂はある程度予想できていたのか「何故私がそのようなことをしないといけないのだ?」と油断無く答えた。
「そんな義理はない」
「義理は無くとも、長坂様には得が生まれます。今日は良い話をお持ちいたしました」
「ふん。良い話か。尾張国の大名の家臣がどんな話を持ってきたのだ?」
まだ釣れてはいないが、話は聞いてくれるらしい。成政はにっこりと笑って「武田家は海が欲しくないですか?」と切り出した。
「海だと? ……今川家や北条家からそれなりの物が交易されている。不要だ」
「しかし逆に言い換えれば、それなりの物しか、手に入らないのでは?」
「……なるほど。分かったぞ。貴様、我らをけしかけるつもりだな?」
成政は内心、口笛を吹いて手を叩いて目の前の長坂を称賛したい気持ちだった。ここまで頭が回るとは予想外だったのだ。後世の評価は当てにならないなと彼は感じた。
「我らが海を獲るには今川家か北条家、あるいは越後国の長尾家を攻め入るしかない。しかし攻め入れるのは長尾家しかないが……」
「かの家を攻めても、労あって利なしですね」
「だが二家も手強い。そして何より盟約を結んでいる」
ここまで話が進みやすいと楽になるなと成政は思った。
そして長坂は「今川家を攻めろと唆しに来たのか」と図星を突いた。
「我が殿に何を吹き込むつもりか分からんが、僭越ながら私が代わりに答えてやろう。断る」
「……長坂様。しかしそれではあなた様の将来は暗いものになりますよ」
成政が退座しようとする長坂に素早く言い放つ。
腰を浮かした長坂の動きは止まり、再び静かに座り直した。
「……どういう意味だ?」
「あなた様は当主の出家に合わせて、ご自身も出家なされた。忠臣の鑑と言うべき行ないですね」
「下手なお世辞はよせ! 貴様、何が言いたい!」
「けれどその忠節は、今のままでは報われませんよ」
成政はここが正念場だと思い、怪訝な顔をしている長坂に言う。
「あなた様は武田家のご子息であらせられる、武田勝頼様と親しいご様子ですね」
「……親しいというわけではない。ただ殿にお付きになれと言われただけだ」
「ということは、勝頼様の派閥に入られたと認識してもよろしいですか?」
長坂は黙ったまま、成政を見つめた。それは肯定と言っても良かった。
「他国の私がそう思うのですから、周りの者もそう思いになられるでしょうね。となれば将来は暗澹なものになる」
「意味が分からん。私の立場には関係ない」
「次の後継者は、嫡男の義信様ですよね? 当主様の正室の子です。しかし勝頼様は違います。側室でしかも諏訪家の出……」
諏訪家とは信濃国の名門の大名で、武田家に滅ぼされた。その生き残りの娘を、信玄は側室にし、生まれたのが勝頼である。
「義信様が武田家を継いだら、敵であった諏訪家の勝頼様は疎んじられます。良ければ諏訪家を継いで飼い殺しにされるか、悪ければ追放されるかもしれません」
「……勝頼様は武田家の忠誠を誓っている。諏訪家を継ぐことに些かの抵抗はない」
「勝頼様に無くとも、あなた様にはありますよね? お付きの家臣となられた今、義信様が当主になられたら、出世の芽は無くなります。ご子息の家臣に抜擢されても、その後は惨めになる……」
長坂はぎろりと成政を睨んで「……貴様、何が言いたいのだ?」と慎重に訪ねた。
成政は穏やかに「仮定の話をしましょう」と話を続けた。
「武田家が織田家の味方になり、今川家を攻撃したならば、最も困るのはどなただと思いますか?」
「今川義元公だろう」
「いえ、違います。最も困るのは、今川義元公の娘を妻にした……義信様ですよ」
武田家と今川家と北条家の間で結ばれた甲相駿三国同盟には条件があり、それは互いの娘をそれぞれの息子の妻とするものだった。義信には今川義元の娘が嫁いでいた。
「親今川家の義信様はさぞかし困ることになるでしょう。もしかしたら当主様に反旗を翻すかもしれません」
「…………」
「そうなれば、後継者がお変わりになるかもしれませんね。次男は幼き頃から盲目、三男は夭折なされた……順当に行けば、四男の勝頼様が指名されます」
長坂は知恵者ゆえに成政の話が偽りではないことに気づいていた。
同時に否定もできずにいた。間違ったことを言っていないからだ。
それは未来の知識を持つ成政だからこそ、できることだった。
「勝頼様が武田家当主になられたのなら、お付きの家臣であった長坂様は筆頭家老に抜擢されるかもしれません」
「自分の出世のために、義信様を追い込めと?」
「いえいえ。そうではありません。当主様に引き会わせてくだされば、それでいいのですよ」
成政は自分が汚れた仕事をしているなと実感していた。
汚いやり方だと自覚していた。
でも止まることはできなかった。自分の運命を変えるために。
「私が語ったのはあくまでも仮定の話です。そのとおりになるのかは予測できません。でも、あなた様には『良い話』だと思いますよ……長坂釣閑斎様?」
だから成政は目的を果たすために、説得する相手を変えることにした。最終的には武田信玄と対話することになるのだが、その前段階に御しやすいところから攻めることにしたのだ。未来の知識があるがゆえの早道でもあった。
成政が甲斐国に入るには、並々ならない困難があった。織田家とは違って武田家やそれまでの道中に領地がある今川家には関所がある。身分を偽って入るに当たって、薬屋に変装した彼は、分からぬようにきちんと薬を清洲の町で買い、その効能も覚えていた。
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「ああ、いるぜ……なんだ、薬屋か」
「ええ。お一ついかがですか?」
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「ご主人様に話? 薬屋が?」
「……織田家家臣の者とお伝えいただければ」
声を落として門番に耳打ちする成政。門番は驚いたように見つめ返した。織田家と武田家はあまりよろしくない関係であるのは、下人である彼でも知っていることだった。
「お、お前……」
「どうか――長坂釣閑斎様にお目通り願いたい」
門番はごくりと唾を飲み込んで「し、しばし待たれよ」と言い残して、慌てた様子で屋敷の中に入っていく。成政は籠に仕込んだ刀を使わずにいられれば良いなと物騒なことをぼんやりと考えた。
しばらくして違う男――どうやら位の高い使用人らしい――がやってきて「どうぞこちらへ」と言う。成政は少し頭を下げて屋敷の中へと歩いた。それから男の案内で屋敷の一室に通された。客間のようでお茶を用意されたが、成政は手を付けなかった。
待っているとがらりと障子が開いた。中年の男性が険しい表情で入室し、成政の正面に座った。
「織田家家臣の者が、どのような用事で、この長坂釣閑斎を訪ねたのかな?」
長坂は目つきの鋭く、知恵者のような風格のある男だった。とても後世で『奸臣』と呼ばれるようになるとは思えないなと成政は思った。
「本日はお目通りありがたく存じます」
「前口上はいい。本題を話せ」
「……あなた様に武田家当主を引き合わせていただきたいと思いまして」
回りくどい言い方は長坂は好まないと思ったので、率直に自分の要求を述べる成政。
長坂はある程度予想できていたのか「何故私がそのようなことをしないといけないのだ?」と油断無く答えた。
「そんな義理はない」
「義理は無くとも、長坂様には得が生まれます。今日は良い話をお持ちいたしました」
「ふん。良い話か。尾張国の大名の家臣がどんな話を持ってきたのだ?」
まだ釣れてはいないが、話は聞いてくれるらしい。成政はにっこりと笑って「武田家は海が欲しくないですか?」と切り出した。
「海だと? ……今川家や北条家からそれなりの物が交易されている。不要だ」
「しかし逆に言い換えれば、それなりの物しか、手に入らないのでは?」
「……なるほど。分かったぞ。貴様、我らをけしかけるつもりだな?」
成政は内心、口笛を吹いて手を叩いて目の前の長坂を称賛したい気持ちだった。ここまで頭が回るとは予想外だったのだ。後世の評価は当てにならないなと彼は感じた。
「我らが海を獲るには今川家か北条家、あるいは越後国の長尾家を攻め入るしかない。しかし攻め入れるのは長尾家しかないが……」
「かの家を攻めても、労あって利なしですね」
「だが二家も手強い。そして何より盟約を結んでいる」
ここまで話が進みやすいと楽になるなと成政は思った。
そして長坂は「今川家を攻めろと唆しに来たのか」と図星を突いた。
「我が殿に何を吹き込むつもりか分からんが、僭越ながら私が代わりに答えてやろう。断る」
「……長坂様。しかしそれではあなた様の将来は暗いものになりますよ」
成政が退座しようとする長坂に素早く言い放つ。
腰を浮かした長坂の動きは止まり、再び静かに座り直した。
「……どういう意味だ?」
「あなた様は当主の出家に合わせて、ご自身も出家なされた。忠臣の鑑と言うべき行ないですね」
「下手なお世辞はよせ! 貴様、何が言いたい!」
「けれどその忠節は、今のままでは報われませんよ」
成政はここが正念場だと思い、怪訝な顔をしている長坂に言う。
「あなた様は武田家のご子息であらせられる、武田勝頼様と親しいご様子ですね」
「……親しいというわけではない。ただ殿にお付きになれと言われただけだ」
「ということは、勝頼様の派閥に入られたと認識してもよろしいですか?」
長坂は黙ったまま、成政を見つめた。それは肯定と言っても良かった。
「他国の私がそう思うのですから、周りの者もそう思いになられるでしょうね。となれば将来は暗澹なものになる」
「意味が分からん。私の立場には関係ない」
「次の後継者は、嫡男の義信様ですよね? 当主様の正室の子です。しかし勝頼様は違います。側室でしかも諏訪家の出……」
諏訪家とは信濃国の名門の大名で、武田家に滅ぼされた。その生き残りの娘を、信玄は側室にし、生まれたのが勝頼である。
「義信様が武田家を継いだら、敵であった諏訪家の勝頼様は疎んじられます。良ければ諏訪家を継いで飼い殺しにされるか、悪ければ追放されるかもしれません」
「……勝頼様は武田家の忠誠を誓っている。諏訪家を継ぐことに些かの抵抗はない」
「勝頼様に無くとも、あなた様にはありますよね? お付きの家臣となられた今、義信様が当主になられたら、出世の芽は無くなります。ご子息の家臣に抜擢されても、その後は惨めになる……」
長坂はぎろりと成政を睨んで「……貴様、何が言いたいのだ?」と慎重に訪ねた。
成政は穏やかに「仮定の話をしましょう」と話を続けた。
「武田家が織田家の味方になり、今川家を攻撃したならば、最も困るのはどなただと思いますか?」
「今川義元公だろう」
「いえ、違います。最も困るのは、今川義元公の娘を妻にした……義信様ですよ」
武田家と今川家と北条家の間で結ばれた甲相駿三国同盟には条件があり、それは互いの娘をそれぞれの息子の妻とするものだった。義信には今川義元の娘が嫁いでいた。
「親今川家の義信様はさぞかし困ることになるでしょう。もしかしたら当主様に反旗を翻すかもしれません」
「…………」
「そうなれば、後継者がお変わりになるかもしれませんね。次男は幼き頃から盲目、三男は夭折なされた……順当に行けば、四男の勝頼様が指名されます」
長坂は知恵者ゆえに成政の話が偽りではないことに気づいていた。
同時に否定もできずにいた。間違ったことを言っていないからだ。
それは未来の知識を持つ成政だからこそ、できることだった。
「勝頼様が武田家当主になられたのなら、お付きの家臣であった長坂様は筆頭家老に抜擢されるかもしれません」
「自分の出世のために、義信様を追い込めと?」
「いえいえ。そうではありません。当主様に引き会わせてくだされば、それでいいのですよ」
成政は自分が汚れた仕事をしているなと実感していた。
汚いやり方だと自覚していた。
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