ハビアン ~全てを棄てた宗教者~

橋本洋一

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「おらたち、地獄にいるの?」

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「やーい、泣き虫! さっさとここから出て行け!」
「そうだそうだ! 不心得者め!」

 数人の子供たちに囲まれている一人の子供がいた。
 年の頃は九才か十才ほどで、賢そうな顔つきをしている。しかし今は涙と鼻水が顔中覆っていて見る影も無い。痩せていて普段から満足な食事を摂っていないことが分かる。髪も伸ばし放題で括る紐すら買えていないのは、服装から見てとれた。

「やめてよ……おらが何したって言うんだ……!」

 彼は毎日苛烈ないじめを受けていた。身体には擦り傷や痣があり、数日経っても消えないどころか、消える間もないほど暴力を振るわれていた。
 子供の一人が「決まっているだろう」と得意そうにいじめの理由を言った。

「お前の親父が俺たちの信じる僧じゃないからだよ! つまり俺たちの仲間じゃないからだ!」
「そ、そんな……同じ信者なのに……」
「同じ信者? てめえ、ふざけんな! 一向宗と一緒にすんじゃねえ!」

 殴る蹴るのいじめはそれから続いた。彼らのいる村には大人もいるが、見て見ぬふりをしている。むしろ清々しているようだった。中にはいいぞ、もっとやれと煽る者もいた。

 彼らが暮らしている村は加賀国にある。つまり、一向宗が支配している国であった。今から百年近く前に当時の領主を滅ぼし『百姓の持ちたる国』として確立していた。
 だが天正二年の現在では一向宗の力は弱まっていた。東は上杉家、西は織田家の進攻に戦々恐々としているのが実情だった。

 だからこそ、村の子供たちや大人は彼がいじめられているのを、やめたりたしなめたりすることはなかった。言ってしまえば閉塞した状況の中のうさ晴らしに過ぎなかったのだ。

 しかし当の彼はそんなことは分からない。
 自分がいじめられているのは、他宗派の仏教徒の息子であると考えていたのだ。
 泣いても喚いても助けてくれない大人たちに対しても不信感を持っていた。

 結局、子供たちが飽きるまで、殴られ続けた彼は、ゆっくりと立ち上がり、家路へと帰っていく。正直、村にいるのも嫌だったが、そうしないともっと酷い目に遭わされるのだ。

「……ただいま」

 小さな疲れきった声で家に入ると、痩せている女が「お帰り」と返した。
 女も酷く疲れていた。やつれていると言ってもいい。この暮らしが本当に嫌でたまらないみたいだった。

「恵太、今日もいじめられたの?」

 女は彼の名前を呼ぶ。
 村ではほとんど呼ばれない名前を、溜息混じりに言う。
 恵太は「……うん」とか細い声で答えた。

「父ちゃんは、もう寝た?」
「そうだね。酒飲んで寝ているよ。朝まで起きないから安心しな」

 女は恵太の母親で、父親のことを恐れているようだった。
 恵太は「母ちゃん」と呼びかけた。

「おら、こんな暮らし嫌だ……」
「……私だって嫌だよ」

 母親はくすんだ髪を撫でながら「でもね、仕方ないんだよ」と再び溜息をついた。

「父さんがこうなっちゃったのは、この世が地獄だからだよ」
「おらたち、地獄にいるの?」
「ああ、そうかもね……」

 澱んだ空気の中、家中に響く声で「酒持って来い!」と怒鳴り声がした。
 どうやら酒が足りなかったようだ。母親は急いで酒瓶を持って父親の部屋に向かう。

「遅いぞ! 何しているんだ! この役立たず!」
「ごめんなさい! 分かったから、もうやめて――」

 恵太は座り込んで耳を塞いだ。
 母親が父親に暴力を振るわれる。
 その声と物音を聞きたくないから、彼はいつも家の外にいて、いじめられていたのだった。


◆◇◆◇


 彼が生まれたのは永禄八年のことである。
 出生の経緯は分からない。
 物心ついたときから、彼は僧侶だった父親と母親と一緒に加賀国で暮らしていた。
 そして村人からの迫害を受けていた。

 父親が酒びたりになったのは他宗派の僧侶だったからだと彼は母親から聞いた。
 どうやら母親と駆け落ちしてこの村まで逃げたらしい。
 母親はあの頃はあの人も優しかったとだけしか語らない。

 父親の過去が何かの拍子にばれてしまい、彼らの家族は迫害を受けることとなった。
 もしも父親が宗旨替えして一向宗の門徒になれば話が違っただろう。
 しかし彼は酒に逃げてしまった。

 その金はどこから捻出しているかと言うと、母親の『仕事』にある。
 特別美しいとは言わないが、整った顔立ちをしている彼女は多くの『客』がいた。
 もちろん、そういう『行為』をしていれば子を為すだろうけど、父親に殴られたことで流産し、それ以降子供を産めぬ身体になってしまった。

 父親が母親に暴力を振るうのはそういう仕事をしているのもあるが、働く術を持たず、酒だけが快楽となっている彼は酷い暴力をすると酒も飲めなくなると分かっているので、最低限の暴力に留めていた。

 恵太は母親の仕事や父親の現状を幼いながらも十分に分かっていた。
 だからこそ、自分と母親が地獄にいると思っていた。
 救いはないと子供ながらに思い込んでいたのだ。

 今日も恵太は家の中で物音を立てずに夜を迎える。
 少しでも音を立てれば父親が起きて母親に暴力を振るう。
 不思議と父親は恵太に暴力は振るわないけど、母親が殴られるのは自分のことのように痛かった。最低な暮らしを強いられていても、母親を気遣う優しい気持ちを、彼は持っていた。


◆◇◆◇


 それから半年が経った頃、父親の体調が悪化した。
 当然と言えばそうなのだけれど、浴びるように酒を飲んだせいで病魔に蝕まれていたのだ。

「酒だ……酒を持って来い……」

 うわごとのように呟く父親を恵太はじっと見ていた。
 母親に暴力を振るうことは無くなった。
 今は虫の息でほとんど死に掛けている。
 面倒を見なければ、死ぬ。

 そんな父親に対し、母は懸命に看病をした。
 唾棄すべき仕事を増やし、客からのツテで医者から薬をもらった。
 この人がいなくなったら嫌だとばかり、必死で助けようとした。

 恵太はそれが分からなかった。
 この頃は仏教に明るくなく、道徳というものもさほど理解していなかったが、母親の献身がおかしいのが分かる。

 おそらく自分の仕事のせいで父親が酒びたりになったという負い目や恵太には分からない事情があったのだろう。全てが飲み込めるほど、彼は大人ではなく、幼かった。ましてや無償の愛など分かるはずも無い。

 結局、母親の頑張りも虚しく、父親は今わの際を迎えることとなった。
 母親は泣く気力すらなく、恵太は初めて見る肉親の死に怯えていた。

「お前たちに、言っておくことがある……」

 父親は震える声で恵太と母親に告げた。

「京の大徳寺に行け。そこの恵徳という僧に会うんだ。俺の知り合いだ。きっと良くしてくれる」

 それだけを言い残して、父親は息を引き取った。
 酒びたりで暴力を振るう最低な父親だったけど、最後に残してくれたのは未来だった。
 呆然とする母親を残して、恵太は一人、家の外に出た。

 外はすっかり真っ暗で、空には星たちが瞬いていた。
 鳥の鳴く声、澄み切った空気。
 まるでこの世に一人きりだと錯覚してしまいそうだった。

「父ちゃん。地獄からどこへ行くんだろう」

 恵太は一人呟く。
 誰も返さないと分かっているが、言わずにいれない。

「母ちゃん。おらたち極楽に行けるんだろうか」

 今の生活は地獄だけれど、死んだ後は極楽に行きたい。
 幸せになりたい。

「おら、あんな死に方したくない」

 夜空を見上げながら恵太は言う。
 酒に溺れて苦しんで死ぬなんて、そんな目に遭いたくなかった。

「おらは絶対に幸せになる。何が幸せか分からないけど、きっと清く正しく生きれば幸せになれると思う」

 仏教すら知らない彼には清く正しく生きる方法は分からない。
 それでも彼は決意した。
 幸せになって死ぬと。
 それが全ての始まりだった。
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