邪気眼侍

橋本洋一

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猫女房 其ノ壱

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「ククク、愚か者め……我が『邪気眼』からは逃れられぬわ……」

 奇妙な恰好をした男だった。
 身体は小柄で年は二十半ばといったところ。端正な顔つきをしているが、何故か左目に眼帯をしていた。しかもその眼帯には蛇が刺繍されている。

 何の模様もない真っ黒な着流しを着ていて、右腕には真っ白な包帯を巻いている。しかし怪我をしていないのは彼の様子から推測できた。一応、刀を腰に差していることから士分と分かるが、尋常ではない空気を放っている。

 怪しげな雰囲気とぴたりと合う不気味な笑顔で、その男は標的を捕まえようとしている。
 男の標的は怯えきっていて、悲鳴すら上げられない。
 これも男が言う邪気眼の成せる業なのか……

「観念してもらうぞ……多数の血肉を貪りしケダモノよ……!」

 大仰に言い放つ男は、標的に手を伸ばす――逃げ場のないので、大人しく身を縮こませることしかできない――

「よし、捕らえたぞ! フハハハハハ!」

 ひょいっと首根っこを掴み、男は魚屋から依頼された泥棒猫を捕らえることに成功した。
 にゃあにゃあと騒ぐ猫を無視して、そのまま持って歩く。
 その男の後ろから「旦那! 桐野の旦那ぁ!」と別の男の声がした。

 その呼んだ男は町人風の恰好をしている。もしくは武家屋敷に仕える奉公人といった風貌をしていた。黒衣の男と比べれば真っ当ななり形だが、頬を走る刀傷のせいで普通の堅気には見えない。どう見てもやくざ崩れと間違えられるだろう。桐野と違って普通の体格、中肉中背だった。

「弥助……我が相棒よ……遅かったな……」
「旦那が早いんですよう。しかしよく分かりやしたね」
「我が邪気眼のおかげだ……」

 自慢気に言う男――桐野という名らしい――を半ば無視して、弥助と呼ばれた男は「はあ。左様ですか」と気の抜けたことを言う。

「これで魚屋から報酬を受け取れますね」
「ククク……公平なる対価か……」
「さあ行きましょう。周りの目が酷いですから」

 桐野から猫を受け取った弥助。
 周りの目とは桐野を見る町人たちのことである。目抜き通りで大捕り物――猫を捕まえるだけだが――をしたので、格好と相まって目立ちすぎてしまった。

「我はくだらぬ群衆の目など気にせん……ククク……」
「あっしが気にするんでさあ。ささっと行きましょうや」

 桐野の背中を押すように弥助は急かした。
 そんな男二人の騒ぐ様子を見て、通りかかった鼻たれ小僧が「あれなにー?」と母親に訊ねる。すると目を塞いで「見ちゃあいけません」と叱られてしまった。

「邪気眼侍なんて見ると、頭がおかしくなるからね」

 そのとおり、彼――桐野政明は有名だった。
 人呼んで、邪気眼侍。
 誰もが近寄りたくないし近寄りがたい、不気味な奇人だった。


◆◇◆◇


 時は太平、場所は大江戸。
 八百八町と呼ばれるほどの大都会に、邪気眼侍こと桐野政明は万屋を開いていた。

 万屋の中は桐野が集めた品々で一杯だった。河童の干物、人魚の木乃伊、猿の右腕。一風変わったところで、鬼のふんどしなど。怪しげな商人から買い求めた、真偽不能な珍品で部屋中を満たしている。

 そんな部屋の中で、弥助は懸命にそろばんを弾いていた。もう慣れているのか、気にしても仕方ないと思っているのか、判然としないが物凄く難しい顔で計算している。

「我が相棒よ……何を戯れているのだ……」
「相棒って言わないでくだせえ。身分が違います……今月の家賃やらの計算ですよ」

 弥助はふうっと溜息をついてそろばんから手を放した。計算が終わったのだろう。
 それから曇った顔で「今月、ぎりぎりで家賃を払える程度です」と報告した。

「どうしましょうか? またご主人様から借りますか?」
「……ケダモノの対価はどうなった?」
「それも入ってのことです。ねえ、旦那。実家に帰りましょうよ。意地張っても仕方ないんですし」

 弥助の提案に「……我に安らぎの里などない」とそっぽを向く桐野。

「我を産み出し者たちは……死んだ……」
「ご健在じゃないですか。ご主人様とご母堂は。勝手に死なさないでください」
「……差配は任す。我は快楽に浸る」

 拗ねたまま、桐野は近くに置いていた読本を読む。
 怪談物だと弥助には分かった。そういうのが好きなくせに、夜中に厠行けなくなるんだよなあとひっそりと思う。

「あーあ。新しい依頼でもあればいいんですけどね」
「我が相棒よ……争乱を知らせる『疾風』は吹いておるぞ」
「よう分からんこと言わんでくだせえ」

 大の男が昼間から仕事もせずに馬鹿話をしていると、控えめに言っても惨めに見える。
 しかしそのとき「御免よ」と言いながら万屋の戸が開かれた。
 大工の姿をした男だった。ねじり鉢巻きに甚平を羽織った、どこにでもいるような男。眉が太く、少し日に焼けている。

「いらっしゃい。ご依頼ですか?」
「ああ……本当に万屋、なのか? 怪しげな店にしか見えないが……」
「ククク。予期せぬ客か。歓迎するぞ……」

 弥助が茶を用意する間、桐野は大工を不躾にじろじろ見ていた。
 大工は、これが噂の邪気眼侍かと視線を合わせずに思う。

「粗茶ですが。ではさっそく名前と依頼のほうを教えていただけたら」
「ああ。俺は元太ってんだ。それで依頼は、俺の嫁さんのことで――」

 桐野がすかさず「ククク。気でも違ったか」と言い出した。
 弥助が「失礼ですよ、旦那!」と注意したが、当人の元太はぽかんと口を開けた。

「な、なんで分かったんだ? それも邪気眼ってえ力のおかげか?」
「ほ、本当ですか? 旦那、よく分かりましたね」

 驚く元太と感心する弥助。
 桐野は「失せもの探しや人探しとは思えない……」と言う。

「もっと焦った口調になる……」
「な、なるほど。それで、元太さんの嫁さんの気が違ったってのは?」
「実は、うちの嫁さん――」

 桐野と弥助が待つ中、元太は意を決したように言う。

「――猫になっちまったんだ。それをどうにかしてほしい」
「はあ? 猫?」

 弥助は首をかしげる。
 人が猫になるなど聞いたことが無い。
 桐野も初耳らしく「詳細を述べよ」と促した。

「じ、実は……ある日を境に、嫁――れん、というんだが――猫みたいになっちまったんだ」

 話をまとめるとこうである。
 酒を飲んで帰ると、女房のれんの様子がおかしかった。
 猫のように身体を丸め、猫のような鳴き声を出していた。食べるものも生魚しか食べない。まるで猫がとり憑いたようにしか思えないと言う。

「医者に見せても、高名な寺の僧や神社の神主にお祓いしてもらっても、ちっとも治らねえ。それどころか、念仏や祝詞を聞き流しやがる」
「……ククク、それは奇妙だな」

 奇妙な男に奇妙と言われるほど嫌なことはない。
 元太はあからさまに不快な顔になった。

「それで、どうしてうちに依頼を?」

 場の空気を変えようと弥助は柏手を打ちながら元太に問う。

「あんたの噂を聞いてな。邪気眼、って言うんだろ? 蛇の道は蛇って言うし、何とかしてくれそうだったから」
「そりゃあうちは万屋で、旦那は邪気眼侍って呼ばれるお方ですが……」
「頼む! 頼れるのはあんたらしかいねえんだ! 嫁のれんを助けてやってくれ!」

 手を合わせて懇願する元太に、弥助は「どうしますか、旦那?」とお伺いを立てる。
 桐野は不気味な笑みを浮かべて「実に愉快だ」と言う。

「その依頼、受けよう」
「いいんですかい? 医者も僧も神主も匙を投げたんですよ?」
「我はそれらを超えし者……不可能などない……」

 桐野は得意げに言うものの、弥助は根拠のない自信だと看破していた。
 長年の付き合いから、単に桐野が面白そうと思っただけだと分かっていた。

「それでは参るぞ、我が相棒よ……」

 桐野に言われた弥助はしょうがないなと立ち上がる。
 元太は「ありがてえ! 助かるぜ!」と喚いている。

「ククク……ケダモノに魅入られし女か……実に面白そうだ……」
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