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白拍子、江戸の鍛冶屋と戯れる

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 まつりと征士郎の戦いから五日後。
 職人町よりも大規模な町――そこの一角を占める工房、鍛冶屋に興江は訪れていた。
 弟子入り志望だと思い込んだ若い刀工たちは、二代目に会わせろという興江の要求をせせら笑った。

「師匠は忙しいんだ。どこから来たのか分からないけど、さっさと帰んな」
「……興正の野郎、ろくな指導もしてねえのか」
「なっ!? 師匠を気安く呼ぶなど!」

 二代目の名を気安く呼んだ興江に対し、刀工たちはいきり立つ。
 そのとき、古参の弟子と思わしき中年の男が騒ぎを聞きつけて現れた。
 興江の顔を見て少しだけ驚いた彼は工房の床に座って頭を下げた。

「お久しぶりです――若」
「久作。久しぶりだな。だけど若はやめてくれ」
「手前にとっては若でございます。それで、何用ですか?」
「興正――いや、二代目に会いたい」

 戸惑う若い刀工たちを無視して「かしこまりました」と了承する久作。奥へ案内し、二代目の部屋の前で「客人です」と声をかけた。

「客人? 帰ってもらえ。私は今、眠いんだ」
「興江様でございます」
「えっ!? 兄さんが!? 戻ってきたのか!」

 久作が短くその名を告げると、部屋の中からどたんばたんと物音が立った。
 凄い勢いで襖が開くと、寝巻姿の二代目長曾祢虎徹、興正が「兄さん!」と嬉しそうに出てきた。興江よりも少し年下で、彼と同じくがっちりとした体格をした優男だった。

「ああ、兄さんじゃあないですか! 久しぶりですねえ!」
「元気そうだな。いや、眠いはずじゃなかったのか?」
「眠気なんて吹き飛びましたよ! やっと兄さんが跡を継ぎに戻ってきてくれたんですから!」

 こっそりと様子を見ていた若い刀工たちは度肝を抜いた。
 そして、あの冴えない男が自分たちの師匠に兄として慕われていることに驚天動地した。

「跡を継ぎに帰ってきたわけじゃない。お前に確かめたいことがあったんだ」
「そうですか。ならこちらへ。久作、兄さんに茶を。熱いのは好まないから、温めでな」
「かしこまりました」

 場を改めて興江と二代目は向かい合う。
 傍には久作と数人の若い弟子たちがいた。

「跡を継ぎに来たのなら、私はいつでも譲りますよ。兄さんが継ぐべき名跡ですから。虎徹はね」
「お前がしっかりと受け継いだもんだ。大事にしろ」
「私はそんな気はないんですけどね。まあいいや。それで、どんな用件ですか?」

 興江はふっと息を吐いてから「乃村征士郎を知っているな?」と問う。
 二代目は「ええ。存じ上げています」と答えた。

「数年前、刀を買いに来た方ですね。印象的でしたから覚えていますよ。まるで柄杓お化けみたいに満たされそうにない方でした」
「江戸の町で悪名高き人斬りだった。それは知っているか?」
「あ、そうなんですね。知りませんでした」
「じゃあ、お前の刀が人斬りに使われていたことも知らないよな」

 二代目は何故、興江が怒っているのか分からないまま「知りませんでした」と頷いた。

「ということは、私が打った刀で多くの人が亡くなったわけですね。ご愁傷様です」
「まさか、それだけで済ませるわけじゃないよな?」
「……兄さん。まだそんなところで止まっているんですね」

 二代目はため息をついた。
 尊敬している人物の失態を見たときのような、がっかりとした表情だった。
 興江は「お前は意図的に人を殺す刀を打っている」と指摘した。

「お前ならばそんな刀、打たないことができる」
「つまり、品質を下げろと? 兄さん、それはできない相談ですよ。私に駄作を打てと言うんですか?」
「人を斬りたくなるような刀は、品質が悪い」

 二代目は「そりゃあ解釈違いってやつですね」とにこやかに笑った。

「刀を持ったら人を斬りたくなるのは当然ですよ。なまくらだろうが、名刀だろうが関係ありません。それに兄さんも知ってのとおり、刀は人を斬るために存在します」
「お前の言うとおりだ。それに関しては何も言えない」
「それに私が作らなくても他の刀鍛冶は作りますよ。武士が日の本にいる限り、需要があるんだから」

 それもそのとおりだと興江は思った。

「だけどね、最近思うんですよ。いつか人は刀で人を斬らなくなるって」
「お前が平和主義者だとは思わなかったよ」
「そんな大層なもんじゃありません。やがて刀は古いものになって、時代遅れの時代物になると考えています」

 その言葉に久作は眉をひそめ、若い弟子たちはざわめいた。
 興江は黙って二代目の続きを待った。

「その理由はですね、南蛮から鉄砲が輸入され、戦国時代で台頭したように、刀より効率的に人を殺せる道具ができるはずなんですよ」
「効率的にか……」
「簡略化とも利便化とも言い換えてもいいですけどね。そうなれば何年も剣術の稽古をしなくては満足に扱えない刀なんて、誰も見向きしませんよ」
「なら何故、お前は今も刀を打つ?」
「そこなんですけどね。いつの日か、刀が人殺しの道具ではなくて、芸術品として扱われる時代が来るかもしれないと考えているんですよ」

 二代目は狂気に満ちた笑みを見せた。
 若い弟子たちはぞっとしてしまう。
 興江は修業時代を思い出した。腕はいいけど変なことを思いつく奴だった。

「そうなったとき、私は人殺しの道具を作った者ではなく、芸術品を作った者になる……なんかぞくぞくしませんか?」
「……実際は人殺しの道具を作った者だよ、お前は。乃村征士郎が何人斬ったと思う?」
「前も言いましたけど、そんなのいちいち気にしていたら刀は打てませんよ」

 二人の意見は平行のままだった。若い時分からそうだったと久作は懐かしく思えた。

「二代目。俺はお前の言っていることは正しいと思う。むしろ鍛冶屋としては真っ当な意見だ」
「へえ。兄さんが私の意見を認めるなんて。明日は雨が降るかな?」

 軽口を叩く二代目。
 興江は素早く立ち上がって――彼の頬を思いっきり殴った。

「ぐはっ!?」
「わ、若!? 何を――」
「痛いか? それが殴られる痛みだ」

 興江は拳のままの手を振りながら「お前は師匠――親父とよく似ているよ」と言う。

「親父と話しているようだった。胸糞悪い」
「……へへへ。誉め言葉として受け取っておきます」

 若い弟子たちに「何もするな」と指示を出して二代目は起き上がった。

「親父が俺の頬を斬ったのを覚えているか?」
「ええ、昨日のように覚えていますよ」
「親父は『斬られる痛みを知らなければ刀は打てない』と言った。不本意だが、それで俺は刀を打てるようになった」

 興江は立ったまま二代目に「俺が今、殴ったのは人の痛みを教えるためだ」と告げた。

「俺の友人が人斬りに殺された。その心の痛みと、その仇を討ってくれたあいつの痛みを、お前に教えるためだ」
「…………」
「今日はお前を殴るためにやってきた。ただそれだけだ、用件は」

 興江はそのままくるりと踵を返し帰っていく。
 お茶には手を付けなかった。

「に、二代目……大丈夫ですか?」
「痛い。物凄くな。兄さんに殴られたのは初めてだ」

 若い弟子の質問に答えた後、二代目は嬉しそうに笑った。
 誰もが嫌悪感を抱くような、悪意の籠った笑みだった。

「兄さんの刀傷が羨ましかった。だってあの痛みで傑作を作れるようになれたんだから。そして嬉しい。この痛みでもっと良い作品を打てるのだから……ふふふ……」


◆◇◆◇


 その足で興江は職人町のはずれの小さな沼に向かった。
 そこは子供たちが魚を釣ったりして遊ぶところだった。
 今は夕暮れ時なので子供たちの姿はない。

 沼近くにある岩の上に座って、まつりは興江を待っていた。
 興江の姿が見えると、彼女ははにかんで「興江殿、こんばんは」と挨拶した。
 格好は水干と烏帽子……ではなく、普通の町娘のようだった。流石に血塗れのまま着ていられないのだろう。

 そんな普通の恰好をしているまつりが、あの人斬りを倒したのだと思うと、なんだかおかしく思える興江。
 だが現実として彼女は乃村征士郎を倒したのだ。

「打った刀はどこにやった?」
「ちゃんと持っていますよ」

 紫の包みを見せるまつり。
 興江は「これでようやく、お前は行けるんだな」と笑った。

「ええ。もう江戸には用はありません」
「そうか。いつ出立するんだ?」
「興江殿に別れを告げてすぐに。というより、今から出るのです」

 淋しくなるなと興江は言った。
 私もですよとまつりは言った。

「少し残念なのは、乃村征士郎のことです。治療を受けても助からなかったらしいですね」
「……そうだな。せっかく息の根を止めなかったのにな」
「私の手、汚れちゃったのかもしれません」

 その表情は少女らしい汚れを忌避する顔だった。
 興江は「しっかりしろよ」とまつりを励ました。

「赤松って同心もお前のせいじゃないって言ってくれたじゃないか」
「そうですけど……」
「あ、そうそう。銀蔵一家、潰されるかもしれないぞ。乃村との関係が明るみになったからな」
「天網恢恢疎にして漏らさず、ですね」

 興江は「そういえば、誰に贈るつもりなんだ?」と気になっていたことを訊ねる。

「あはは。実は、母上に捧げようと思いまして」
「母親がいるのか」
「正確に言えば『いた』ですけどね。亡くなったんですよ」

 興江は思わず黙ってしまった。

「母上は白拍子として最高の舞い手でした。私なんかより美しくて強かった」

 まつりは「嘘をついてすみません」と岩から降りて興江に謝った。

「死んだ人に贈るって言ったら、打ってくれないと思ったので」
「まあ頑なだったからな、俺も。許すよ」
「興江殿は、刀を打たないですか?」

 興江はにっこりと笑って「さあな」と答えた。
 夏の縁側で鳴る風鈴のように爽やかだった。

「打ってほしい人間が現れたら打つさ」
「では、私の子供に打ってあげてください」
「なんだお前。夫でもいるのか?」
「今はいません。でも将来は分からないじゃないですか」

 興江はしばらく黙って「いいだろう」と頷いた。

「腕がなまっていなければ、打ってやるよ」
「ふふふ。楽しみですね」
「ああ、そうだ。前々から気になっていたんだけどよ」

 興江はまつりを見据えて、真剣な面持ちで問う。

「お前は一体、何者なんだ?」

 まつりは極自然に答えた。

「最後の白拍子ですよ。それ以外に何もありません」

 町娘の姿のまま、まつりは笑っていた。

「それに私は私です。元禄に生きて、江戸で数日過ごした、ただのまつりなんですよ」
「……そうかい。野暮なことを聞いちまったな」
「それでは、私はこれにて。また会いましょう」

 そう言い残して、まつりは再び岩に乗って――向こう側へと飛んだ。
 興江はきっと覗き込んでも、まつりはすでにいないのだろうと分かった。

 興江は思う。なんて純粋無垢で、自由で、華やかで、軽やかで、夢見がちで、向こう見ずで、大人を振り回して、子供にも好かれて、格好良くて、可愛らしい少女だったのだろう――
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