冬に鳴く蝉

橋本洋一

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賭場荒らし

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 そして翌日。勤めを終えた蝶次郎と賭け事の学習を終えた瀬美は、天道藩の城下町の小さな賭場に向かった。そこは治安があまり良いとは言えない地区の一画にあり、ならず者や無法者が目をぎらぎらさせて己の銭を賭けていた。

 昨日と違い、しらふの状態である蝶次郎は今更ながら瀬美の提案に疑問を持ち始めていた。いくら未来からやってきたとはいえ、賭け事は運である。技術が発展しても運だけはどうにもならない気がしてならなかった。

 それに加えて、蝶次郎は酒こそ好きだが賭け事になると素人同然だった。遊びで何度かやったことはあるものの、賭場に来て賭けなどしたことがなかった。金があるなら酒を飲んだほうがいいし、確実に稼げる保証もないのに賭けをするなんて馬鹿らしいとさえ思っていた。

 だから賭場の入り口で、明らかにやくざ者と思われる三下に「兄ちゃんたち、ここ初めてかい?」とせせら笑いながら問われたのは無理も無いことだった。瀬美はともかく、蝶次郎が場慣れしていないことは誰の目から見ても分かった。

「あ、ああ。そうだ。ここはどんな賭け事しているんだ?」
丁半ちょうはんにちんちろ、おいちょかぶの三種だ。好きなところ行ってもいいが、ここで賭け札を買ってもらう。一枚四十文だ」

 天道藩では一両が四千文であるから、五百両稼ぐのに五万枚ほど勝たねばならない。また他の賭場と比べて賭け札が高かった。しかしそれに疎い蝶次郎は「分かった。二十枚くれ」となけなしの金、八百文を三下に渡した。

「ああ? たった二十枚か? それで勝てると思っているのか?」
「イエス。十分に勝てます」

 蝶次郎の隣にいた瀬美が即答したものだから、三下は馬鹿にするはずだった言葉を飲み込んで「そ、そうかよ。ほれ、二十枚」と賭け札を手渡す。朱塗りに黒で模様が書いてある、それだけでも価値がありそうな賭け札を、蝶次郎は受け取った。

「それにしても兄ちゃん。女連れでここに来るなんて。見ない顔のくせに度胸あるじゃあねえか」
「……どっちかと言えば、俺のほうがおまけだ」
「はあ? 何言っているんだ?」
「賭けるのは俺じゃないってことだ」

 不思議そうな顔をする三下を余所に、瀬美は「丁半博打にしましょう」と促した。蝶次郎は頷いて、丁半博打をしている場所へ移動した。

「どうして丁半博打なんだ?」
「ちんちろりんやおいちょかぶでは、他の方々が勝つ可能性があります」

 ちんちろりんやおいちょかぶは貸元、つまり賭場を仕切る者だけではなく、賭けているものも賽の目を振ることができる。当たり前だが、自分より強い手役を出されてしまったらその時点で負けなのだ。
 しかし丁半博打は貸元が賽の目を振る。他の人間は振るどころか触れることすらできない。言ってしまえば貸元との勝負となる。

「だけど……」
「私にお任せください、蝶次郎様」

 蝶次郎は丁半博打こそあまり勝てない賭け事だと思っていた。理由はもちろん、単純な賭け事であるからだ。奇数か偶数かを当てる、子供でもできる明快なものゆえに、二分の一で外れてしまう可能性を孕んでいる。これを勝ち続けるのは難しいだろう。

 丁半博打の間の末席に座った蝶次郎と瀬美。周りの者はなんだこいつらという顔をしている。上座に座っている三人の貸元の一人が「御ふた方、ここは初めてですね」と声をかけた。

「一応、遊戯の説明をしますか?」
「ノー。結構です。既に習得しております」
「そうですか。では次から参加してください」

 瀬美がゆっくり頷くと貸元はツボ振りを促した。彼は賽の目を隠したツボを上げて「三二の半!」と言う。周りの人間が喜んだり溜息をついたりしている。勝負の途中だったようだ。それが終わったら次から参加できる。

「では、ツボかぶります」

 ツボ振りが賽の目をツボに入れ、盆台と呼ばれる四角形の台にそれらを置いて伏せる。それから手前と奥にツボを三度押し引きする。

「さあ、丁半どっちか!」

 賽の目が偶数であれば丁。奇数であれば半に賭ける。
 目の前にある、線が書かれた床に札を置くことで賭けたことになる。自分の手前が半、ツボ振りの手前が丁である。
 瀬美はツボをじっと見た後、迷うことなく賭け札二十枚全てを丁に賭けた。

「お、おい! 全部賭けるのか!?」
「イエス。そちらのほうが早く稼げますから」

 思わず蝶次郎が喚いたが、瀬美は機械的に応じた。
 二人以外の人間は、こいつら素人だと考えた。全賭けしたことを口に出すのはご法度だし、そもそも場の流れが分かっていないのに全賭けするのもどうだろうか。

「丁半出揃いました……勝負!」

 蝶次郎が止める間もなく、ツボが高々と上がる――彼は思わず目を閉じた。
 しかし周りから「おお!」という声があがったのを聞こえて、恐る恐る目を開けた。
 出目は二六の丁――瀬美の勝ちである。

「おお、やった! やったぞ瀬美!」

 一人はしゃぐ蝶次郎に対し、瀬美は感情を出さずに四十枚となった賭け札を受け取る。
 そしてツボ振りが賽の目を振り、ツボを置いたのをじっと見て、今度は半のほうに四十枚賭けた。

「瀬美! だからなんで全部賭けるんだ!」
「効率的に考えて、適切だからです」
「負けたらどうするんだ!」

 不安そうな蝶次郎に対して、瀬美はにこりともせずに答える。

「心配要りません。私は必ず勝ちますから」


◆◇◆◇


 瀬美の宣告通り、この後一回も負けずに瀬美は連勝した。
 二十枚が四十枚となり、四十枚が八十枚となり、八十枚が百六十枚となり、百六十枚が三百二十枚となる。それに留まらず次々と勝ち続けて、蝶次郎と瀬美の賭け札は一万二百四十枚となった。金に換算すると百両以上となる。あと三回勝てば五百両に達するだろう。

 ここまで十連勝している瀬美。確率としてはとんでもないことになっている。しかしもっととんでもないことになっているのは、貸元のほうである。賭場を仕切っているとはいえ、百両などすぐに用意できない。それにこのまま勝たれてしまったら賭場だけではなく、彼らの親分にも迷惑がかかる。

 だから瀬美が六連勝したあたりで、貸元の一人が親分にこのことを知らせに行った。とても自分たちでは対処できないと思ったからだ。

「せ、瀬美。もう良いんじゃないか?」

 周りが殺気立っているのを感じている普通の人間の蝶次郎。彼は剣の腕が特段立つわけではない。もし一斉にかかってこられたら殺されてしまうだろう。
 一方、普通の人間ではない瀬美は場の空気を読まずに「早くツボを振ってください」と促している。

「姉ちゃん。あんまり調子乗るなよ……」

 貸元の一人がドスの利いた声で言う。得体の知れない女だからと言って、度胸で負けるわけにはいかない。

「何かいかさましているんじゃあないか?」
「そうだ。それ以外に考えられねえ!」

 勝負の途中から部屋に乗り込んできた三下たちが騒いでいる。蝶次郎と瀬美が逃げられないようにと囲んでいて、他の客も固唾を飲んで動向を窺っている。
 すると沈黙を破るように、瀬美ははっきりと全員に向かって言った。

「イエス。私は――いかさまをしています」
「な、なんだと!? てめえ、ふざけるな!」

 三下たちが蝶次郎と瀬美に迫ろうとしたとき、静かに通る声で彼女は言う。

「しかし、いかさまの証拠をあなたたちは見破りましたか?」

 動きを止める三下たち。
 瀬美は「もしも私のいかさまを見破れないのなら」と続けた。

「私を罰することはできないはずです。何故なら、私はいかさまをしていない可能性もあるのですから。そうなれば、あなたたちはいかさまをしていない客に暴力を振るったことになります。その結果、あなたたちは多くの客を失うこととなるでしょう」

 ぐうの音も出ない言葉だった。事実、瀬美のいかさまを見破らない限り、彼女と蝶次郎に手出しできない。三下でも分かる理屈だからこそ、貸元も親分の判断を待つしかなかった。

「遅くなったな……なんだ、そこの女が荒稼ぎしている博徒なのか?」

 襖が開いて現れたのは四十代半ばの男だった。紺色の着流しを着ていて、頬には刀傷があり眼光も鋭い。細身で背が高く、役者のような雰囲気があった。

「と、蟷螂とうろう親分! 来てくださったんですね!」
「馬鹿野郎共。おかげで美味い酒が台無しだ」

 蟷螂親分と言われた男は、蝶次郎と瀬美に「お初にお目にかかります」と言う。

「私、蟷螂一家の親分やらせていただいております。渡世名《とせいめい》を蟷螂といいます」
「私は瀬美と申します。こちらは蝶次郎様です」

 蝶次郎が止める間もなく、瀬美が挨拶を返すと、蟷螂は「度胸のある姉さんだ」と軽く笑った。

「なかなかの腕前とお見受けします。さて、今宵はこちらの用意していた資金がそちらの賭け札を超えましたので、今日のところはお開きとさせていただきます。今、当座で用意できる八十両をどうぞ。残りは後日支払います」

 そう言って貸元に用意させた八十両が入った包みを瀬美の前に置く蟷螂。
 たった八百文が大金になったことに頭をくらくらさせる蝶次郎。
 対して瀬美は首を横に振った。

「ノー。これでは足りません」
「足りない分は、後日を言いましたが」
「そうではありません。蝶次郎様が必要な五百両には足らないのです」

 騒ぎ出す場の人間。冷静沈着に座っているこの女は、やくざ者に囲まれながらも余裕でいるこの女は、五百両欲しいと言った。そのことに全員が戦慄した。

「ほう。五百両。ますます気に入った。そうだな、一つ俺と勝負しないか?」
「勝負ですか。内容はどのようなものでしょうか?」
「内容の前に賭けるものを言おう。こっちは五百両賭ける。だがそっちは今までの賭け分ともう一つ賭けてもらおうじゃないか」

 蟷螂は鋭い目つきのまま、あっさりと言う。

「お前たちの右腕を賭けろ。俺が勝ったらこの場で切り落としてもらう。さあ、どうする?」
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