冬に鳴く蝉

橋本洋一

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種明かしと仔犬

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 明くる日から蟷螂一家は天道藩の大工をかき集め、燭中橋の改修を行なった。
 気風のいい声と高らかに鳴る工具と木材の音が周辺を包み、その光景を見た者は思わず足を止めた。

 一時的に燭中橋が使えなくなるのは不便だが、以前より老朽化が激しく先日のような事故が起こらないか不安に思っていた町の住人は、この改修工事を喜ばしく思った。中には大工に差し入れする者もいた。

「これでたまの事故みたいなことは防げるな。お前のおかげだよ、瀬美」
「ノー。私は大したことはしておりません。交渉をまとめたのは、蝶次郎様ですから」

 謙遜というより、事実をそのまま述べた印象の瀬美。
 蝶次郎たちは燭中橋を少し離れたところの川岸で会話をしていた。
 改修工事を見たかったからである。かといって自分の手柄として誇るつもりもなかったため、近くでは見ずにこの距離だった。

「ところで昨日から聞きたかったんだが。どうやってピンゾロを出さないようにしたんだ?」

 昨夜から必死になって方法を考えていたが、まったく見当がつかなかった。瀬美が振って出さないことはできそうだが、蟷螂が振っても出ないということは流石にありえない。サイコロに細工をしたのは間違いなさそうだが、どんな仕掛けなのか……

「ピンゾロは出ていました。しかしそれをあの場にいた皆様は感じとれなかったのです」
「……詳しく説明してくれ」
「私には感知センサー、つまり人の気配を感じ取れる機能があります。これは子守りや育児のために作られたので、対象の子供を見失わないように備えたものです」
「あー、なるほど。子供はすぐどっか行くもんな」
「イエス。私は身体から電波などを発して、その波形から形状や位置を読み取るのです」
「電波? なんだそりゃ?」

 幕末には電波という日本語はない。
 瀬美は「反響するものと考えてください」と言う。

「まったく違いますが、やまびこを想像すれば分かりやすいでしょう」
「……えっと、その電波を発して、何かに返ってくることで、その何かの形を知ることができるということか。じゃあ最初の丁半博打のときは、それで出目が分かったのか」

 てっきり透視能力でもあるのかと蝶次郎は想像していた。
 瀬美は「イエス。そのとおりです」と答えた。

「この電波を使えば、人間の感覚を操作することも可能です」
「ど、どういう原理なんだ?」
「詳しくは申し上げられません。説明するには長い時間が必要ですので」

 渡り鳥が電波で感覚を狂わされて、正しい方向に進めなくなる事例もある。しかしそう言ったことを説明しても、電波という概念がない幕末の人間には理解ができない。さらに言えば瀬美が発しているのは電波だけではない。これ以上は蝶次郎の思考力と理解力では難しいと瀬美は判断した。

「四十五回のうち、ピンゾロが出たのは八回でした。しかしその八回全て、認識できなかったというだけなのです」
「未来の技術というのは凄いというか、凄まじいというか……それならば未来では賭け事など成立しないのではないか?」
「ノー。それはありえません。あらゆる不正を防止しておりますので」

 六百四十年後の世界は想像もできないほど進んでいる。そこに思いを馳せるが、結局理解できないと悟る蝶次郎。
 すぐ傍にいる瀬美のことさえ、分かりかねているのに。
 途方も無く遠い未来など、欠片も分からないに決まっている。

「さてと。知りたいことも知れたし、勤めに行ってくる」
「かしこまりました。どうかお気をつけて」

 瀬美は深く頭を下げた。蝶次郎は頬を掻きながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。
 見送ってくれたことに対する礼なのか、それとも燭中橋を改修できたことのお礼か、蝶次郎自身、判然としなかった。

 だから瀬美は、自分がどうして礼を言われたのか理解できない。
 複雑な感情や細やかな機微を察するほど、瀬美は完璧ではなかった。
 たとえ感知センサーを備えていても、人の心は読めないのだ。


◆◇◆◇


 昼を少し過ぎた頃。夕食と朝食の買い物を済ませた瀬美は、一定の速さで蝶次郎の家に帰ろうとしていた。そんなとき、男の子が路地裏の近くでしゃがんでいるのを彼女は見た。普通ならば通り過ぎるが、見覚えのある――正確には電子回路に記憶していた――男の子はとん坊だった。

「どうかなさいましたか?」
「うん? ああ、瀬美さんか。変なところで会うね」

 にこやかに話すとん坊の近くには仔犬がいた。首輪をつけていないことから、おそらく野良犬だろう。とん坊の手にあるお椀から水を舐めるように飲んでいた。

「この犬、お腹が空いているだろうけど、生憎水しか持っていなくて。瀬美さん、何か食べ物ある?」
「イエス。メザシが数匹ありますが」
「ちょっとでいいから、あげてほしいんだ。駄目かな?」

 瀬美は蝶次郎の朝食のための魚を、仔犬にあげるべきか一瞬迷った。
 しかしうるうると瞳を濡らしている仔犬を見ていると、何故かあげるべきと思い、買い物籠から一匹、メザシを取り出してとん坊に渡す。

「どうぞ。好んでくださると良いのですが」
「ありがとう、瀬美さん! ほら、お食べ」

 とん坊がメザシを差し出すと物凄い勢いで食べ始める仔犬。
 数日間、食事をろくに取っていなかった証である。

「あはは。良かったなあ」

 無邪気な顔で仔犬の頭を撫でるとん坊。
 瀬美は「その犬をどうなさいますか?」と訊ねる。

「うーん。おらん家じゃあ飼えないなあ。ときどき餌をあげに来るよ」
「ここにいつもいるとは限りませんが」
「それもそうだなあ……」

 子供なのに大人の真似して腕組みをして考え込むとん坊。
 その間、とん坊の着物の端を噛む仔犬。
 すると瀬美は「飼い主が見つかるまで、預かりましょう」と言った。

「いいの? そんなあっさり決めちゃって」
「大したことではありませんから」
「いや、そうじゃなくて。蝶次郎さんに相談しなくても良かったの? 一緒に住んでいるんでしょ?」

 瀬美は買い物籠を持ち直して、片手で仔犬を抱いた。
 仔犬が瀬美にすり寄ってくぅううんと鳴く。

「蝶次郎様は必ず認めてくれるでしょう。いたいけな仔犬を見捨てることはできません」
「ふうん。そういうものなんだ」
「それに飼い主が見つかるまでだけですから」

 仔犬が嬉しそうにわんと喚く。メザシのおかげで元気が出たようだ。
 瀬美はにこりともせずにそのまま家に向かう。
 そこになんとなくとん坊がついて行く形になった。

「そういえば、たま姉さん元気になったよ。もう歩けるし話せるんだ」
「それは良いことです。元気が何よりですから」

 とん坊は瀬美が家に帰るまで様々ことを話した。
 主にたまと蝶次郎のことだった。瀬美は仔犬を見ながら「そんなことがあったのですね」などと律儀に反応する。家の前に来ると「お茶でも飲みますか?」と瀬美が訊ねた。

「あー、大丈夫。そんな喉渇いていないから」
「そうですか。それではまた機会があれば」
「その前に、この犬の名前決めようよ」
「名前、ですか」

 生き物に命名することは、瀬美にしてみれば初めてのことだった。
 だかららしくなく迷ってしまった。名づけなど彼女に備わっている機能やプログラムにない。
 黙りこんでしまった瀬美に対し、とん坊は「難しく考える必要はないよ」と笑った。

「その犬をどう呼びたいか。それだけでいいと思うよ」
「分かりました。この子は『タダシ』にします」

 犬の名前にしては珍しく、どちらかというと人間のものだったが、とん坊は指摘することなく「うん、いいと思うよ」と肯定した。
 このタダシというのは、瀬美を作った今野忠博士から取ったのだけど、瀬美と蝶次郎以外は知らない。

「良かったな、タダシ!」

 とん坊がさっそく頭を撫でると、タダシは嬉しそうにわんと鳴く。
 瀬美は仔犬のタダシに向かって頭を深く下げた。

「これからよろしくお願いします、タダシ」
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