冬に鳴く蝉

橋本洋一

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源五郎の同情

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 蝶次郎を見送った後、瀬美は見舞い品を持って、町医者の源五郎の診療所へと向かった。
 たまととん坊の様子を見に行くためである。しかしこれは蝶次郎の頼みではない。
 瀬美の個人――いや固有と言うべきかもしれない――の意思だった。

「御免ください」
「おう。今開ける……なんだ、あんたか」

 診療所の戸を叩かれ、開けた先にいたのが瀬美だと分かった源五郎は、あからさまに嫌な顔をした。だが瀬美は気にせず「たまさんととん坊さんはいますか?」と訊ねる。

「さっき起きてお喋りしている。二人に何の用だ?」
「様子を見に来ました」
「心配でもしていてくれたのか?」

 源五郎はてっきり瀬美が否定するものだとばかり思っていた。
 けれど彼女が「イエス、そのとおりです」と頷いたものだから、出かかっていた皮肉を引っ込める。

「……そうかい。なら入りな」
「よろしいのですか?」
「正直、あんたを娘とその友達に会わせたくないがな。しかし……」

 源五郎はタダシの墓の前で悲しむ瀬美の様子をたまから聞いていた。
 それだけで瀬美の印象が変わったわけではない。
 だけど何かが変わったかもしれないと期待したのも事実だった。

「良いから入れ。あんたはともかく、俺は寒がりなんだよ」
「ありがとうございます」

 診療所の病室。中に入ると布団の上で寝ていたとん坊が「あ! 瀬美姉さん!」といち早く気付いた。すると林檎を剝いていたたまが手を止めて「瀬美さん、来てくれたんだ!」と嬉しそうに言う。

「御ふた方とも、元気そうで何よりです」
「えへへ。おらはこんななりだけど、早く治るって言われたよ」
「そうなの。食欲も出てきて、今なんか林檎食べたいって」

 楽しそうに語る二人に対し、瀬美は機械的に「良かったですね」と返答した。

「元気が一番ですから。それとつまらないものですがどうぞ」
「わあ。美味しそうなお菓子!」
「いいの? なんだか悪いなあ」
「瀬美さんと分け合ってお食べになってください」

 さっそく子供たちはお菓子を食べ始める。
 瀬美は正座のまま、たまに「一つ訊ねてもよろしいでしょうか?」と問う。

「うん? なあに?」
「蝶次郎様のことです」
「蝶次郎さんがどうしたの?」

 瀬美は「私は、あの方のことを何も知りません」と打ち明けた。
 たまととん坊は真面目な話になると思って、お菓子を食べるのをやめた。

「何を好むのか。何を厭うのか。どんなことをしてきたのか。何一つ知らないのです」
「……そうだよね。知り合って数日しか経っていないし」

 とん坊は頷くけど、たまは怪訝そうに「よく知らないのに、一緒に暮らしているの?」と鋭いことを言う。

「一体、瀬美さんは何者なの?」
「何者でもありませんよ。ただ蝶次郎様に仕えているだけです」
「瀬美さんにも親いるでしょ。その人は蝶次郎さんのこと、なんて言った?」

 とん坊は商人の息子である。だからどこかの商家の娘が奉公見習いという名目で、蝶次郎に仕えさせているのだと思っていた。そしてゆくゆくは婚姻させるつもりだとも推測していた。

 だから瀬美の親は蝶次郎のことをよく知っているのだと、とん坊は考えていた。それは間違いであったが、瀬美の親、つまり今野忠博士が蝶次郎のことを知っているのは、決して間違いではなかった。

「親ですか。そういえば『全ての始まりとなる人』とおっしゃっていました」
「すべてのはじまり? なにそれ? たま姉さん、分かる?」
「ううん。まったく分からないけど……」

 頭を悩ませていると、がらりと病室の障子が開いた。
 小鍋を持った源五郎が「なんだ。食べているのか」と仏頂面で言った。

「おじやを作ったのだが」
「それ、食べるよ。食ったら早く治るんでしょ?」
「食い過ぎは身体に悪い。後にしよう」

 源五郎は瀬美を一瞥して、すぐに病室から出て行った。
 たまは不思議そうに「どうしてお父さん、瀬美さんを避けるんだろう」と言った。

「おそらく、私のことを嫌っているのでしょう」
「なんで? たま姉さんの命の恩人なのに」
「普通なら感謝すると思うけど……」

 瀬美は何気なく「今日、診療所に他の患者さんはいますか?」と訊ねた。

「ううん。いないよ」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「少し気になったもので」
「ふうん……あ、そうだ! 瀬美さん、明日出かけようよ!」

 たまがぱちんと手を叩きながら言った。
 瀬美は「どこへ出かけるのですか?」と言った。

「城下町の目抜き通り。実は殿様が鷹狩りに行くとき、出店が出るの」
「あれ? もっと先のことじゃなかったっけ?」
「予定が早まったって聞いたの」

 とん坊は口を尖らせながら「ちぇ。行きたかったなあ」と呟いた。

「ちゃんとお土産買ってくるわよ。ねえねえ、瀬美さん、一緒に行きましょう?」
「かしこまりました」

 たまはやったあと嬉しそうに言う。
 背伸びしたい年頃でも、そんなところは子供だった。


◆◇◆◇


 たまととん坊がはしゃぎ疲れて眠ったのを見計らって、瀬美は源五郎の元へと足を運んだ。
 がらりと薬の調合室の戸を開けると、源五郎は「声ぐらいかけろ」と厳しく言った。そして瀬美と向かい合う。

「俺に用があるのか」
「イエス。話が早くて助かります」
「……俺を殺すつもりなのか?」

 冷や汗を滲ませながら源五郎が問う。
 瀬美は首を横に振って「ノー。違います」と答えた。

「あなたに伝言があります」
「伝言だと? 誰だ? 蝶次郎か?」

 瀬美がその場に正座して――かくんと首が下に傾く。
 いきなり意識を失ったと思うような姿勢に声をかけようとする源五郎――

『こんにちは。あなたが源五郎さんですね』

 瀬美の後ろから年老いた男の声がした。
 源五郎が「誰だ!」と怒鳴って、隠し持っていた小刀を突き出す。

『どうか落ち着いてください。私は今野忠と申します』
「はあ? 今野忠、だと?」
『これは瀬美に搭載された記録音声です。会話はできません。一方的に私が話すだけです』

 聞き慣れない単語と訳の分からない言葉に源五郎は戸惑っていた。
 声の主は『数秒、時間を置きましょう』と言った。

『この伝言を聞いているのは源五郎さんだけだと思います。瀬美が上手くやってくれれば。源五郎さんが落ち着くまで、待つことにします。大きく深呼吸して待っていてください。あ、そうそう。瀬美にはこの会話は聞こえませんので』

 その言葉通り、瀬美の後方から聞こえてきた声がしなくなった。
 源五郎は何が何だか分からないまま、深呼吸して心を落ち着かせた。

『落ち着きましたか? それでは本題に入りましょう』
「……会話はできぬと言っていたな。聞くしかないのか」
『源五郎さんに頼みたいことがいくつかありまして。まあ実行してくれるかはあなた次第なのですが、おそらく全て行なってくれると信じております』

 そこから語られた内容は、源五郎の理解を超える話であった。
 瀬美の正体やその目的、そして頼み事を全て聞き終えた源五郎は、険しい顔をしていた。

「……まさか、そのようなことが」
『以上で音声記録の再生は終了します。瀬美は八秒後に目覚めますので、ご心配には及びません。それでは』

 別れの挨拶もないまま、ぶつっと何か途切れる音がして、その八秒後、瀬美は顔を上げて「博士の伝言、お聞きになりましたか?」と源五郎に訊ねた。

「ああ、全て聞いたよ。まさか、あんたがろぼっと……絡繰だとはな」
「たまさんととん坊さんには内緒にしてくだされば助かります」
「あんたは、今野という男から何を聞いている?」

 瀬美は機械的に「蝶次郎様を守れと命じられました」と答えた。

「それ以外のことは聞いておりません」
「分かった。やっぱりあんたは、絡繰だよ」

 源五郎はこんなに同情したのは初めてだった。
 それほど深い悲しみで瀬美に言う。

「今野に従い続けるのか、ずっと」

 瀬美は機械的に言う。

「イエス。それが私の作られた理由ですから」
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