冬に鳴く蝉

橋本洋一

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そして全てが収束して

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「瀬美! やめろ! やめるんだ!」

 縄に縛られたままであったが、蝶次郎は発狂したように、目を見開いて喚き散らした。
 周りの武士に押さえつけられても、必死に瀬美を止め続ける。

「お前は何も悪くないんだ! ただ俺を守ろうとしただけじゃないか! だから、だから――」
「蝶次郎様。私は構いません」

 とても静かに、穏やかに。
 そして機械的に瀬美は――蝶次郎に笑顔で返した。
 皮肉にもそれは、蝶次郎が初めて見る、瀬美の人間らしい微笑みだった。

「私は幸せでした。務めとはいえ、蝶次郎様と共に暮らせたことが、本当に幸せでした。何気ない日々を過ごせたことが、たとえようもなく、幸せだったのです」
「瀬美……なんで、そんな……」
「蝶次郎様は、私の作った食事を、いつも残さず食べてくださりました。時折、美味しいとまで、おっしゃってくださった。私にたまさんたちを紹介してくれて、友達を作ることができました。タダシのことは残念でしたが、こんな私に、ほんの少しだけ、感情を芽生えさせてくれたのです」

 淡々と語る瀬美に、耐えきれなくなる蝶次郎。
 彼の口から「やめろ……」と弱々しくて、情けない声が零れる。

「全て終わったような、悲しいことを言うな……今わの際のようなことを、言うな!」
「藩主様。一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」

 瀬美は二人のやりとりを苦々しく思って見つめていた蛾虫に、傷ついた姿のまま、精一杯の誠意を込めて、懇願した。
 蛾虫は鬱陶しそうに「なんだ」と返した。

「どうか、蝶次郎様のことを、お願いいたします」
「…………」

 蛾虫は内心、憤っていた。瀬美が物の怪かどうか分からないが、少なくとも人間ではないことは、藩医に確かめさせていた。心音のない女などいるはずがない。であるならば物の怪に近しい存在である瀬美は、物の怪を許さないという姿勢のために見せしめで殺さなければならない。

 だが今のやりとりを見ていると、どうも瀬美が物の怪には見えなかった。まるで固い絆で結ばれた主従関係、または男女の愛情に見えてしまう。自己犠牲で蝶次郎ごときを助けるのに、何か理由でもあるのだろうか?

 しかし拷問の合間に詰問しても、彼女は何も答えなかった。傷一つ負わずに平気な顔をして、問いを一切無視していた。否定すらしなかったことから隠しているのは分かった。けどその何かが分からない。

 愛した女性、さなぎが死んだ理由と同じくらい――分からない。

「……磔にせよ。この女を処刑する」

 蛾虫は瀬美の願いに答えず、武士たちに命じた。
 彼らも先ほどのやりとりで、本当に自身の行ないが正しいのか、揺らいでいたが、主君の命令には従わないといけなかった。

「瀬美、逃げてくれ! 俺の死因は、切腹なり斬首なりでいいじゃないか! 使命のために死ぬなんて、やめてくれ!」

 粛々と磔柱に縛られる瀬美に、蝶次郎は訴えた。
 彼女はきつく縛られた状態で、蝶次郎に「ノー、それは違います」と答えた。

「使命のために、死ぬのではありません」
「じゃあなんで!」
「蝶次郎様のおっしゃるとおり、死因を探るという使命のためには、そのとおり行動したほうが良いと分かっております。しかし、それはできません」

 瀬美は機械的――否、ここで初めて芽生えたかけた感情の赴くままに答えた。

「私は――蝶次郎様に生きていてほしいのです。ただそれだけなのです」

 思ってもみなかった答え。
 蝶次郎は胸が苦しくなった。
 ここから逃げ出したかった。
 瀬美の最期など見たくなかった。
 自分のせいで瀬美が死ぬなんて信じたくなかった。

 蛾虫は傍に控えている家老の光原に「どのように殺す?」と問う。

「刀で斬れなかった女だぞ。槍が突き通るとは思えん」
「火あぶりにしてしまいましょう」

 光原の言葉に蛾虫は「な、なに!?」と驚いた。
 事前に殺せる方法があると聞いていただけだった。
 だが、まさかさなぎと同じ死に方を――

「殿。それ以外方法はありませんよ」

 これは光原の嘘である。
 瀬美をただ殺すのであれば土中深く埋めるなどいくらでも手段はある。
 これは蛾虫の心を縛っているさなぎを殺すための処刑でもあった。

「どうか、ご決断を」
「……任せる。好きにせい」

 冷静であれば蛾虫も光原の嘘を見破れたかもしれない。
 先ほどの蝶次郎と瀬美のやりとりと物の怪への恐怖で動揺しているから、正常な思考が働かなかった。

 藁が積み重なっていく。蝶次郎は声がかれるほど叫んだ。

「やめろ、やめてくれ! 瀬美ぃいいいい!」

 瀬美は最後まで抵抗しなかった。
 藁に火がつけられても。
 自身が炎に焼かれても。
 身じろぎすることなく――受け入れた。

 蝶次郎は涙を流しながら見つめていた。
 姉と母が亡くなった、あの日のように。
 ただ茫然と眺めるしかできなかった。

 蛾虫はすっきりしない面持ちで、瀬美が焼かれる光景を見ていた。
 物の怪のような女が死んで、安心できるというのに。
 心がざわめくのが止められなかった。


◆◇◆◇


 瀬美の身体は焼け残ってしまった。
 光原はやはりと考えた。刀で斬れなかったほど頑丈な女だ。完全には燃え尽きることはないだろう。

「死んだか……死ぬとは思わなかったが……」

 蛾虫は瀬美のほうを見向きもしなかった。
 視界に一切入れることなく、蝶次郎に「貴様の処分だが」と告げる。

「命までは取らん。だが藩から追放処分とする。コドク町なり、他藩なり、どことでも行くがいい」

 蝶次郎は無言のままだった。
 瀬美の残骸をただ見つめていた。

「いや。それはいかがなものかと存じます」

 待ったをかけたのは、光原だった。
 彼は蝶次郎を一瞥して「この者も処刑しましょう」と言った。
 これには蛾虫だけではなく、周りの武士も驚いた。

「何故、この者を殺すのだ?」
「物の怪と一緒にいたという事実。それだけでも死罪に値します」
「だが――」
「お、お待ちください!」

 武士たちの中から出てきたのは、蝶次郎の上役、吉瀬鍬之介だった。
 彼は後悔していた。事の経緯を聞いてから、自分が嘆願書を光原に渡したから、こうなったのだと考えていた。だから蝶次郎を助けようと一部始終を見守っていた。

「この者に罪などありません! おそらく、あの物の怪に暗示をかけられていたのでしょう!」
「その証拠は、どこにある?」
「そ、それは……」
「吉瀬。これは天道藩を守るためなのだ。分かってくれるか?」

 光原が優しい口調で脅してきたが、鍬之介は蝶次郎を庇うように立ちふさがった。

「いいえ、これだけは押し通させてもらいます!」

 鍬之介にしてみれば、蝶次郎は仕事のできない駄目な部下である。
 けれど死んでもいい男ではない。彼の父、青葉鎌三郎のことが無くても、先ほどの瀬美とのやりとりもあって、庇ってやりたかった。

「……どかせ」
「な、なにを!」

 光原の命令で武士たちが鍬之介を蝶次郎の前からどかした。
 そして光原は再度蛾虫に言う。

「殿、ご決断を。今命じてくだされば、私が――」
「……いや。私が自ら処断する」

 近習から刀を受け取った蛾虫は、鞘を捨てて蝶次郎の前で刀を構えた。

「さなぎの弟よ。あの世で姉の無聊を慰めろ」

 蛾虫が自ら手を下すのは、彼自身のけじめのためだった。
 他者に命じて殺すのは容易いが、自分の心残りとなってしまいそうだった。
 無論、光原にそう誘導されているとは思っていなかった――

「……瀬美、ごめんな」

 蝶次郎が頭を下げて受け入れた時。
 瀬美の遺体を見ていた数人の武士たちが声をあげた。

「お、おい! あれ……動いていないか!?」

 蛾虫が振り向く――遅れて気づいた。
 あれは、あの黒い姿は――

 瀬美だったものは音を立てた。
 油を揚げるような音。
 機械が不良を起こした時の音。
 それらに似た、蝉の鳴くような音を――

「あ、ああああ!」

 蛾虫が絶叫するのと、瀬美が彼に襲い掛かるのは同時だった。
 蝶次郎を守るため、刀で斬り殺そうとした蛾虫に迫り――彼の首に手をかけた。

「殿! だ、誰か――」

 光原が命じる間もなく、蛾虫は首の骨をへし折られた。
 最期に彼が思ったのは、物の怪への恐怖なのか、それともさなぎへの想いなのか。それは定かではない。

 周りの武士たちが一斉に刀を抜く。
 このとき瀬美は壊れていた。だから殺意を向けられているのは、自分ではなく蝶次郎だと判断した。

 このままでは蝶次郎を守れない。
 そう判断した瀬美は――

「ひ、光が――」

 蝶次郎と瀬美を包む閃光。
 激しい音が広場に響き渡る。

「ちょ、じろ、さ……ま」

 その刹那、瀬美が蝶次郎の名を呼んだと彼は分かった。
 瀬美が自分を守ろうとするのも理解できた。

「瀬美……!」

 全ての音と光が収束するように止んだ後。
 蝶次郎と瀬美はこの世から消え去っていた。
 後に残されたのは、蛾虫の死体だけだった――
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