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第2章 灰色の帳に包まれて

4.改めての対面

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 戻ってきた意識の中、司が真っ先に感じたのは自分への嫌悪と後悔だった。
 死んでもなお生前の心残りにとらわれている事実がなんだか可笑しい。もしかすると怪談などでよく聞く“無念を残した者”とはこういった状態なのだろうかと思ったとき、すぐ横で名を呼ぶ声がした。

「司!」

 自分の死を確信した最大の要因となる高い声だ。せっかくなのだから久しぶりに彼女の顔を見ようと思ったが、司の視界はひたすら暗いばかり。
 体中の力を集める気持ちで目のあたりにだけ意識を向けると、ごく薄く瞼が開いた。死んだというのに妙な話だ。

「気が付いたか、司!」

 大丈夫だと言いたかったのだが、どんなに力を入れても司の喉はうめき声すら出さず、返事ができない。
 仕方がないので喉に見切りをつけ、司は目に注力する。わずかでも隙間ができたことで弾みがついたのか、こちらは喉よりも素直だった。さほど力を入れなくても瞼はすんなり開いたのだが、残念ながら瞳は休憩中だったようで辺りの様子は霞んでよく見えない。
 何度か瞬いていると、ようやく左手側の視界の端にぼんやりとした輪郭を認めた。そちらへ瞳を動かすと、布が擦れる音と共に輪郭が司を覗き込む。

「司。苦しいところはないか?」

 苦しくはないが、頬に落ちた何かがくすぐったい。そう言おうと思ったが、やはり声は出なかった。

「……もしかして聞こえてないのか? 見えてないのか?」

 明るくなったはずの声が曇った。
 なんとか彼女を安心させたくて司は必死に腹へ力を入れる。ようやく喉が開き、空気が通っていく感覚があった。

「……聞こえてるよ……」
「声が出る! 良かった!」
「……ありがとう……知穂ちゃん……」
「……ちほ?」

 途端に怪訝そうになった声を聞いて司は思い出す。知穂は髪を短く切った。ならば司の頬をくすぐるこの長い髪の持ち主は、知穂ではない。

「……っ、ごめん、間違えた」

 詫びを述べると、小さな輪郭は安堵とも不満とも取れる息を吐いて身を起こす。司の頬からくすぐる感触が消えて、少し寂しい気がした。

(知穂ちゃんじゃない? じゃあ、この子は誰だ? ここはどこなんだ? ……俺は、死んだんじゃないのか……?)

 何か情報が欲しいのだが、横の彼女は黙ってしまった。どうやら名前を間違えたせいで気分を害したようだ。重くなった空気の中、仕方なく司も瞬きだけを繰り返す。そのうちようやく視界がはっきりしてきたのだが、はっきりしたことで逆に司は自分の目か、あるいは頭を疑うことになった。

 司の横で座っていたのはやはり女の子だ。声が似ているだけあって知穂とは同年代の、小学校に上がる前くらいの年齢に見える。着ているものは和服で、白い生地の上で咲き誇る赤い花の柄が美しい。そこまでは良かった。

 肩の下ほどで切りそろえられた髪は白で瞳は金色だ。しかも彼女の頭頂部には狐の耳が付いており、背後にはふさふさとした白い狐の尾が三本もあった。
 どう見てもただの人間ではない。

(……なんなんだ、この子は……)

 司は体に力を入れる。瞼を開くのにあれだけ苦労したのに思いのほかあっさり起き上がれた。不思議な娘は起き上がる司の様子を見ていたが、目が合うとふいと横を向いた。その眉と唇の形から察するに、やはり機嫌を損ねているようだ。
 司は迷って、とりあえず呼びかけてみる。

「あの……お嬢ちゃん」
「ユクミ」

 ぶっきらぼうな言葉が何を意味するのか分からずにいると、彼女は横を向いたまま繰り返す。

「ユクミ。私は、ユクミ」

 どうやら名前らしい。彼女はそれしか言わなかったが、言外に「呼んでみろ」という気持ちが伝わってきた。試しに司が「ユクミ」と呟くと、横顔からでも分かるほどに少女は金色の瞳を輝かせる。

「そうだ。覚えたな?」

 声もどことなく弾んでいる。名を呼ぶだけでこれほどの反応をしてもらえると「知穂」と呼んだことが本当に申し訳なくなった。司は改めて頭を下げ、心からの言葉を述べる。

「覚えた。もう間違えない。本当にごめん」
「……だったらいい」

 顔を上げるとユクミがこちらを見てくれていたので、司はホッとした。

「ありがとう。……ところでユクミ。それは本物か?」
「それ? どれだ?」

 わずかに傾げた首に合わせ、狐の耳がぴょこりと動く。

「へえ、すごいな」

 手を伸ばした司が思わず耳を摘まむと、ユクミは声にならない叫びをあげて司の腕を叩き落とした。

「何をする!」

 素早く立ち上がる彼女の背後では尻尾の毛が逆立っていた。唖然とする司が少女の耳と尾に視線を行き来させていると、顔を真っ赤にしたユクミが叫ぶ。

「お、お、お前が『約束の者』でなかったら、すぐに追い出してやるところだぞ!」
「『約束の者』……」

 その言葉を聞いて司の背筋が凍った。

 ――野原を覆うちぎれた服。消えた友介。壊れたスマートフォン。四本の手を持つ大きな猿。「さようなら」と言って背を向けた聡一。「……ごめんね……」という小夜子の声――

 視界がぐらりと揺れて司は布団へ仰向けに倒れ込む。倒れて気付いた。隠邪がいれば背後に違和感を覚えるはずなのに、それがない。司は右手で恐る恐る首の後ろに触れる。

 そこには布が巻かれているだけだった。

「……ない」

 寝ころんだまま背を浮かせ、腕を背後に回して触れてみるがやはり何もない。そういえば体もスムーズに動く。隠邪から生気を奪っていた時は考えてから二秒ほどかかっていた。

「どうなってるんだ?」

 腕を上げ、確かめるように動かしていると、膝をついたユクミが司の顔を覗き込んできた。

「お前の隠邪は、とうに消滅した」

 彼女は先程の怒りの形相から一転し、気遣う様子を見せている。

「今のお前は私の力で動いてる」
「私の力? って、どういうことだ? ユクミは……なんていうか、その……何者なんだ?」

 ぴこぴこと動く狐耳を見ながら司が口にすると、ユクミは少し首を傾げる。白い髪がさらりと揺れた。

「……そうだよな。力の源が根底から変わったんだ。体に馴染んでいないかもしれないし、意識が混濁していてもおかしくない。さっきも叩いたりして悪かった」
「え? あ、いや……」

 布団に横たわる司の隣で、床に座るユクミは居住まいをただした。それだけで辺りが凛とした空気に変わる。

「改めて名乗ろう。私はユクミ。ここで『約束の者』を待っていた者だ」

 司は目を見開く。
 白の髪に黄金の瞳という珍しい色彩をしたこの幼女は、普通ではありえない狐耳と狐の尾まで持っている。人ではない存在だろうとは思ったが、まさか。

「えーと」

 さすがに寝ころんだままでは礼を失するだろうと判断し、司は起き上がって布団の上で正座する。

「じゃあ俺も改めて名乗るよ。梓津川しづがわ つかさだ。――ユクミ。教えてくれ。俺たちの世界では、ここに“強大な力を持つ妖”がいるのだと伝わっている。……もしかして、その“妖”というのは、ユクミのことなのか?」
「……ここにいるのは私だけだ。お前たちの中でこの場にいる者の話が伝わるのなら、それは私で間違いない」

 ユクミの言葉には躊躇いが感じられたが、司にはそれを気にする余裕がなかった。
 五歳ほどにしか見えないこの愛らしい幼女こそが祓邪師の当主の間で長く伝わってきた妖なのだ、という衝撃の方が大きかったためだ。
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