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第3章 共鏡の世界にのぞむ

1.綯い交ぜ

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「司」

 呼ばれた司が視線を落とすと、朝日のような黄金色の瞳が司を映している。

「大丈夫だ、司」
「ユクミ?」
「私は強い。どんな隠邪にだって負けたりしない。だから、司。お前の望みは絶対に私が叶えてやる」

 その言葉は司にというよりも、自分に言いきかせているように見えた。何しろ胸を張ってはいるものの、ユクミの顔色は少し悪い。
 ユクミだってこの世界を作るのがどれほど大変かが分かっているのだ。それゆえに相手と自分の差異がどれほどのものなのかだって分かってしまったのかもしれない。

「ユクミ。もしも――」

 言いかけて司は言葉を飲む。「もしも猿に勝てないと思ったら引いてほしい」と伝えようと思ったのだがユクミは戦う前から「無理」とは言わないだろうし、そう簡単に引いたりもしないだろう。

「もしも、なんだ?」
「いや……」

 首を傾げるユクミを見て、司は無理にも笑って見せる。

「いつまでここにいても仕方ないから、そろそろ行こうかと思ったんだ。だから、その……もしも隠邪が出たら、頼むよ」

 司の言葉を聞いたユクミは目を見開き、前のめりになって大きくうなずいた。伏せ気味だった彼女の耳もピンと立ち上がる。

「もちろんだ! 私に任せろ!」

 言ってユクミは先に立って石段を下り始める。改めて気を引き締めた司は彼女の背を追い、並ぶ。

 どうやらこの異界でこの場所は古墳だ。塚ではない。
 なぜ塚ではないのか理由は分からないが、とにかく塚がないということは、隠邪の通り道が封じられていないということになる。
 過去の文献によると、塚のない状態での隠邪は夜毎に出現したと聞く。もしかするとこの世界の隠邪の出現状況は、遥かな昔と同じ状況になっているのかもしれない。
 あるいは本当にあの猿がこの世界を作ったのだとすれば、自分たちに都合の良い形にことわりを改変している可能性もある。いきなり目の前に隠邪が現れても何もおかしくないのだ。

(……まあ、この場所に隠邪の通り道があるかどうかも分からないけどな)

 そもそもこの異界自体がどこまであるのか分からない。
 ユクミのいた灰色の世界でも草原が見渡す限り広がっていたが、あれはほとんどが幻ではないかと司は思っている。社の裏側に回り込んだり、あるいは道から逸れて草原の中を進んでいけば早々に“世界の端”に到達したのではないかと。だからこの世界だって途中までしか進めないかもしれない。

 そう思ったが、とりあえずは石段も下れるし遊歩道のタイルも歩ける。しかも感触や音はどちらも見た目通りで画一的ではない。試しにアスファルトの道路も歩いてみるが、こちらも靴裏から伝わってくるのは司の記憶にある通りのアスファルトだった。

(だとしたら、この異界には元の世界と同じようにいろんな素材があるってことじゃないか……)

 うすら寒い気分で歩くうち、住宅街との境界になっている川へ出る。もしかしたらここが世界の終わりかもしれないと期待したものの、残念ながらコンクリート橋はすんなりと司の足を受け入れた。
 一体どこまで行けるのだろう、と思いながら橋を渡りきったところで水仙の香りが漂ってくる。そういえばこの辺りは一月の下旬になると水仙の香りがする。近くにたくさん植えている家があるのかもしれないし、この異界はそこまで再現しているのかもしれない。――あるいは。

「川のこっち側に渡ったら異界から脱出できた……ってわけじゃないのか」

 多少の期待を籠めながら言った司の声は、険しいままのユクミの顔を見て小さくなる。

「ここも異界だ」
「そうか……」

 住宅街も何かしらの変化があるのだろうかと思って司は川近くの近くの表札を覗き込む。文字は司の知る漢字と同じもので、意味不明な異界文字というわけではなかった。残念ながら住人の苗字までは覚えていないのでアプリで調べてみようとスマートフォンを取り出すが、液晶は暗いままで何度ボタンを押しても反応がない。

「どうしたんだろ。壊れたのか? それとも電池が切れた? いや、異界だから繋がらないのか? ……わっかんねーな……」

 ただ、この辺りには司がとてもよく知っている場所がある。そこならば司にも何か分かることがあるかもしれない。

「ユクミ。あっちへ行こう」

 南東の方角へ顔を向けて司は歩き出す。ユクミは静かに後ろからついてきた。彼女の草履の音を聞きながら見覚えのある家を見ながらいくつかの道を曲がり、目的地を見つけたところで司は思わず足を止めた。

 司の記憶にある通り、広い敷地は板塀に囲まれている。しかし司の記憶と違っているのは板塀のあちこちから雑草が覗いているところだ。松や枝垂れ梅といった植木も枝が野放図に伸び、あるいは枯れ、まるで幽鬼のような姿をしている。少なくとも年の単位で放置されていたとしか思えない。

「……嘘だろ……」

 ここは司の祖母、佐夜子の家だ。
 ユクミは司が目覚めるまで五日かかったと言った。逆に言えば“あの日”から五日しか経っていないのだから、こんなに荒れてしまうはずなどない。
 もしや異界だから住人が違うのだろうか、と思いついた司は力のない足取りで板塀を回り込み、大きな木の門を見上げる。しかしそこにはきちんと『梓津川しづがわ』という古びた木の表札がかかっていた。

(どうなってるんだ……?)

 記憶通りの堂々とした墨字を見ながら立ち尽くしていた司は、なんとなく門へ手を伸ばす。
 そのときだった。

「あれ? 司?」

 道の方から名を呼ばれて、司は硬直した。
 この場にいるのはユクミだが、司の名を呼んだ声はユクミのものではない。もっと低い声。そして、司が良く知っている声。
 だが、そんなはずはない。司は二度とあの声を聞くことはできないのだ。なぜなら彼はもうこの世から消えてしまったから。

 ――きっと馴染み深い場所に来たことによる幻聴だ。振り返ると道路には誰もいないはず。

 そう思いながら恐る恐る背後を見る司の目に、明るい笑みが飛び込んできた。

「やっぱり司だ。おはよう!」

 しかしそこで手を振っていたのは声の通りの人物。
 あの月の光の下で隠邪に食われたはずの幼馴染、友介ゆうすけだった。
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