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第3章 共鏡の世界にのぞむ

5.間抜けのおのれ

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「じゃあ、行こうか」

 声をかけて司が歩き出すと、小さな足音は半歩ほど後ろからついてきた。ユクミの手を取った方が良いだろうかと考えたが、結果的に繋ぐのをやめたのはユクミに失礼だろうとの結論に達したからだ。数百の齢を重ねている妖を小さな子ども扱いしては彼女のプライドが傷つくだろう。それで、司はただ声をかけた。

「ユクミはそんな姿にもなれるんだな」

 辺りを見ながら歩いていたユクミが、司へちらりと視線を向ける。

「人の中に紛れるのなら、人とよく似た姿にした方がいいだろう?」
「そうだな。助かるよ」

 ここは確かに司のいた世界とは異なる場所だが、先ほど会った友介の言動からすると常識は司の世界と同じだろう。元々ユクミに関しては「コスプレだと言い切って乗り切ろう」と思っていたが、彼女が術を使って人に変化できるのであればその方がずっといい。着物姿は少々目立つが、このくらいなら許容範囲だろう。

(そう。ここは俺の知る世界と違う部分を探す方が難しいんだ)

 人間はいるようだし、花や木、草もある。空を飛んでいるのはスズメだし、あの家の屋根にいるのはカラスだ。
 もしも司が一人でここにいたら、自分の記憶がおかしくなってしまったのだと考えたはず。それほど元の世界に忠実で、ユクミのいた灰色の世界とは比べ物にならないほど大きく、世界にはまだ果てが見えない。

(あの隠邪を倒す方法なんて、本当にあるんだろうか)

 さらに今になって司は思い出した。
 塚が古墳となって観光化されてしまっているここで、祓邪師はどのように行動しているのかが分からない。

(さっき友介に確認しておけばよかったな。……まあ、婆ちゃんの家が元の場所にあるくらいだ。友介の家も俺の記憶通りだろうし、いざとなったら聞きに行こう)

 途中で見つけたのは見慣れた看板を出したコンビニだ。立ち寄って、ところ狭しと並んだ品の中から顔色の悪さを隠すための白い不織布マスクを手にする。レジへ向かう途中で飴が目に入ったときはユクミのために買おうかとも思ったのだが、悩んだ結果やめたのは残り金額を考えたためだ。
 妙に機械的な店員と遣り取りを終え、外へ出た司はマスクを着ける。初のマスク姿を見たユクミからはしかめっつらと共に、

「司の顔が見えなくなってつまらない」

 の言葉に加えて

「その布の色は黒い方が良かった」

 との苦言をいただいた。

 更に歩いて駅に着き、司は券売機で大人の切符を一枚買う。ユクミに「これから乗り物に乗る」と言い、自動改札の通り方を教えた。指示通り自動改札へ近づいたユクミは最初はおそるおそる、後半はやや早足で機械の間を抜け、振り返ってほっとした様子を見せる。
 到着した電車にはほとんど人がいなかった。そういえばここへ来るまでの間もほとんど人を見ていない。そろそろ通勤通学ラッシュになるはずの時間だというのに、と少し違和感を抱きつつも、司は車両端部のやや短めなロングシートを選んで座る。ユクミも司の横で正面を向き、両手を膝の上に置いてきちんと畏まった。膝立ちになって後ろの窓を見るかと思っていた司は意外に感じたが、ユクミの目は正面の窓に釘付けだったので、外の景色に興味があるのは間違いないようだ。
 例えいくつになっても見たことがないものに惹かれるのは分かる。ただ、ユクミの場合は外見も相まって、どうしても子どものように見えてしまうのがなんだか申し訳ない。

 実を言えば先ほども券売機の前で、司はユクミのためにこども用の切符を買う必要があるかどうか考えた。最終的にいらないだろうと判断したのは、ユクミが司の良く知る子――五歳の知穂と背丈がほぼ同じだったからだ。五歳ならまだ無料で電車に乗れる。

 三年ばかり前、知穂は運賃不要の状態で改札を通るのが不満なようだった。「早くあたしも“ピッ”てしたい!」と何度も言っていたのを司も覚えている。
 しかし司のいたあの世界で、知穂が電子マネーや切符を使って改札を通ることはなかった。

 この作られた世界で本当に知穂がいるのかどうかを確認したい。
 もしも知穂がいるのなら聡一が世界を作った意味が分かる。それは聡一を攻略する手掛かりになるはずだと司は考えていた。

 本当ならばユクミにもこの話をした方が良いだろうとは思う。だけどそれには知穂について話さなくてはならず、ひいては隠邪や祓邪師のことを外で話すということにも繋がる。司は外でそれらことを話さぬようにと強く教えられ、実際に今まで塚周辺以外の場所で話したことがない。例え異界と言えど、電車の中で隠邪や祓邪師について口を開くという行為にはどうしても抵抗があり、ユクミに話すことができなかった。

 あとであの灰色の世界へ戻ったときに話そう、と司は考える。
 今日は平日だ。幼稚園に行っているはずの知穂とはきっと会わない。


***


 目的の駅は都会の喧騒から離れた場所にあり、祖母宅の最寄り駅からも思いのほか遠い。
 何度か電車を乗り換えながらようやく到着したとき、朝のキリリとした寒さは高くなってきている陽のおかげでだいぶ緩んできていた。

 司は空を見上げて目を細める。
 死人となったからだろう、今の司は寒暖の差こそ感じるものの、体に影響が出ることはないようだ。寒さによって身を縮めたりもしなければ、暖かさに和んでほっと息をついたりもしない。同様に、電車に揺られて硬くなった体をほぐす必要もなかった。

 ただしそれはあくまで司だけのことで、同行者も司と同じだとは限らない。
 足音が聞こえなくなったので後ろを振り返ると、ユクミは駅の前に立ち止まって正面奥の山向こうに広がる空を見つめていた。
 木製のレトロな小さい駅舎に、和服姿の小さな女の子は良く似合う。ここだけ切り取るとまるで一枚の絵のようだ、などと思いながら司はユクミに声をかけた。

「どうした、ユクミ? 長く乗って疲れたか?」

 ユクミは遠くの空を見たままでぽつりと答えた。

「時が経つんだな」

 返事の内容は質問とずれている気がする。司は内心で首を傾げながらも、ユクミと同じ空を見上げた。

「そうだな。ここは少し奥まった地域にあるから乗車時間も長くなるんだよ。おかげで到着するまでには結構――」

 言いかけた司はそこでユクミの言葉の意味に気が付いて愕然とした。駅舎に飾ってあるアナログ時計で時間を確認し、もう一度正面を見る。

 陽の高さも時計と合わせた程度のものになっており、空も既に青が広がっていて明け方とは全く違っている。
 駅前の小さなスーパーマーケットでは、年配の女性が様々な売り物の棚を出して開店準備をしている。出汁の香りを漂わせているのは駅近くの蕎麦屋だ。営業時間に合わせて仕込みをしているのだろう。
 人も、自然も、どちらも時間の経過に合わせた動きをしている。もちろん司もだ。時刻通りに来た電車に乗り、時刻通りにこの駅に着いた。

(……つまりこの世界には、俺のいた世界と同じように“時間”がある)

 ユクミのいた世界はずっと灰色の雲に覆われていた。時間の経過によって変わったりはしなかった。雨を吸い込む地面でさえ、土の状態は司が思う程度の「普通」だったのだ。霧雨とはいえ何百年も降り続いていたのだから、本来なら川のようになっていてもおかしくはないはずなのに。

 今いるこの異界が司の知る世界とあまりにも似ていたせいで感覚が麻痺していたことに気づき、司は思わず歯噛みする。
 広さにばかり気を取られて時間の差に気が付かなかった。この広大な異界には生き物がいて、時まで存在する。世界の差は作った者の力の差だ。こんなところでも大きく水をあけられて、隠邪とユクミの差がまた一つ顕著になった。

 ただ、あの惨劇の夜の状況からすると司が生き残る可能性はほとんどなかった。おかげで聡一も隠邪も「司はもう死んだ」と思っているはずだ。記憶を持ったまま死人となって動き、妖と一緒にこの異界まで来たとは夢にも思っていないだろうから司は奇襲ができる。強大なあの猿に正面から立ち向かうのはあまりに無謀だが、不意を突けば勝てるチャンスがあるかもしれない。

 そう考えた司が、遠くを見つめたままのユクミへこれからの行動を改めて説明しようとしたときだった。

「あーっ! つかさだーっ!」

 辺りに高い声が響く。
 ユクミのものによく似ているが、ユクミの声ではない。彼女は唇を開いていない。

 何が起きたのか分かって司は身を震わせる。向かい合うユクミが視線を遠くの空から司の後ろ、ごく近い場所へ移した。
 その直後、司の下半身に何かが勢いよくぶつかってきた。
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