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第一章 復讐編

04 - 折れない心、歪む心

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 果たして、男を撃たなかったのは正解だったのか?
 理性ではなく本能に従ったあの選択は、正しかったのだろうか?

 その答えは分からなかった。
 撃つべきだったと何度も思った。
 大男を殺したことへの感慨は――結局なにひとつ浮かぶことはなかった。

「さあ、今日からここが君の部屋だ」

 男が案内したのは、いつもの牢獄ではなかった。
 それは部屋だった。
 ベッドもある、クローゼットもある、壁には水槽さえあって、その中では熱帯魚が優雅に泳いでいた。
 何だか映画で出てくるような部屋だな、と思った。――その映画が具体的にどういうものなのかは思い出せない。

「この部屋は自由に使っていい。出入りも自由だ。ただ、好き勝手に歩くと危険な目に遭うかもしれない」

 あと、と男は笑った。

「僕の名前はベリオスだ。覚えておいてくれ、我が息子よ」

 男はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
 啓人は力のない足取りで部屋の中に入ると――力もなくベッドに横たわった。

 深くため息を吐いて、久々のベッドの感触を何度も何度も確かめる。
 まるで天国のようだ。これで風呂があれば最高だ。

(風呂……入りたい……)

 不意に思ったその言葉が、その欲求を呼び覚ました。
 この三か月の間、風呂に入れたことは一度もなかった。
 もう慣れてしまったが、体中から腐臭がする。拷問のたびに血をかけられ、終わるたびに水で洗われるが、その臭いが取れることはない。

 いや、あの牢獄に比べれば天国じゃないか。それだけで十分――と思ったら、急に『ポン』と音が鳴った。

「!?」

 不意にベッドから起き上がる。周囲を見渡すと、壁に埋め込まれていた液晶画面に指が触れていて、何かが映し出されていた。

(……マニュアル? これは英語か……)

 英語は難なく読むことができた。
 そもそもあの男が話しているのも英語だった。それを意識することすらなかったというのは、今思えば笑い話にすら思えた。

 マニュアルによると……これは部屋の使い方を説明するものらしい。
 ナビゲート開始、と英語で書かれた画面の中のボタンを押した。

(……バスルーム?)

 メニュー一覧の中に浮かんだその言葉に、鼓動が逸る。

 部屋の片隅に配置された、小さなバスルーム。
 しかし機能は十分だった。シャワーに、浴槽まである。
 逸る心を抑えながら、部屋に備え付けられた端末を操作して、浴槽にお湯を張った。まるで早送りのように、浴槽にお湯が張られていく。

 節々が痛む体に少々苦労しながら、服を脱ぎ捨てる。
 思わずダイブしたくなったが――いや、と俺はかぶりをふった。
 まずシャワーで身体を流すのが先決だ。

 不意に、鏡に映った自分の姿を見た。
 髪はやや白い。アッシュグレイとでも言えばいいのか。顔の造形からして、西洋の血だろうか? やや彫りの深い、いわゆる美少年だった。眼の色も黒いから、日本人に見えなくもない。
 肉体の記憶によれば、『少年』の母親は日本人だ。父親は知らない。死んだのか、捨てられたのか。

 これが自分なのか、とすんなりと思えたのは、『自分自身』の顔が微塵たりとも思い出せなかったからだ。それがまるで『奪われた』ように思えて、思わず顔をしかめる。

(……どうでもいい。それより風呂だ)

 かぶりを振って、シャワーのボタンを押した。

 ……こうして、俺は三か月ぶり?の入浴をのぼせるまで堪能した。
 体中の拷問の傷跡が悲鳴を上げたが、そんなものはどうもでいいぐらいに心が満たされた時間だった。

 風呂に入り、冷蔵庫に備蓄されていた保存食を平らげて、再びベッドに寝ころんだ。
 そして――

(あの男としては、これで懐柔したつもりなのかもしれない)

 そんなことを思った。
 まさに地獄から天国だ。堪能しておいて言うのも何だが、甘い飴を与えることで服従させるつもりなのだろう。
 実際、この生活を保つためなら、ベリオスと名乗ったあの男に従うべきでは――という考えがよぎらなかったわけではない。

 人の心は弱い。苦痛に折れなくとも、甘露に折れる。どれほど強靭な心があっても、贅沢はすればするほど手放せなくなる。

(はっ)

 鼻で笑い飛ばした。
 勘違いしている、と思った。

(ベリオス……俺はあの男を殺して、自由を手に入れる)

 虚空に手を伸ばし、そして握る。
 決意は、微塵もゆらがない。

 今はまだ、手に入れたものはこの部屋だけだ。
 だが全て手に入れてやる。あの男を殺して。

 ――新谷啓人は気づかない。
 彼はすでに、人として歪んでいた。
 人を殺しても平然とし、決して折れない復讐心を維持し続ける。
 絶望に心を砕けることもなければ、ただ安住を求めるのでもない。

 拷問を受けたからそうなったのか?
 復讐心に囚われすぎてそうなったのか?

 どれも違うだろう。
 拷問は結局、ただの一度も彼の心を折ることはなかったし、彼にとって『復讐』は希望であって目標だが、しかし通過点に過ぎないことも事実だった。

 新谷啓人は歪んでいる。
 では、いつから?
 それを答えられるものは、この世界にはいなかった。
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