5 / 29
第一章 復讐編
04 - 折れない心、歪む心
しおりを挟む
果たして、男を撃たなかったのは正解だったのか?
理性ではなく本能に従ったあの選択は、正しかったのだろうか?
その答えは分からなかった。
撃つべきだったと何度も思った。
大男を殺したことへの感慨は――結局なにひとつ浮かぶことはなかった。
「さあ、今日からここが君の部屋だ」
男が案内したのは、いつもの牢獄ではなかった。
それは部屋だった。
ベッドもある、クローゼットもある、壁には水槽さえあって、その中では熱帯魚が優雅に泳いでいた。
何だか映画で出てくるような部屋だな、と思った。――その映画が具体的にどういうものなのかは思い出せない。
「この部屋は自由に使っていい。出入りも自由だ。ただ、好き勝手に歩くと危険な目に遭うかもしれない」
あと、と男は笑った。
「僕の名前はベリオスだ。覚えておいてくれ、我が息子よ」
男はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
啓人は力のない足取りで部屋の中に入ると――力もなくベッドに横たわった。
深くため息を吐いて、久々のベッドの感触を何度も何度も確かめる。
まるで天国のようだ。これで風呂があれば最高だ。
(風呂……入りたい……)
不意に思ったその言葉が、その欲求を呼び覚ました。
この三か月の間、風呂に入れたことは一度もなかった。
もう慣れてしまったが、体中から腐臭がする。拷問のたびに血をかけられ、終わるたびに水で洗われるが、その臭いが取れることはない。
いや、あの牢獄に比べれば天国じゃないか。それだけで十分――と思ったら、急に『ポン』と音が鳴った。
「!?」
不意にベッドから起き上がる。周囲を見渡すと、壁に埋め込まれていた液晶画面に指が触れていて、何かが映し出されていた。
(……マニュアル? これは英語か……)
英語は難なく読むことができた。
そもそもあの男が話しているのも英語だった。それを意識することすらなかったというのは、今思えば笑い話にすら思えた。
マニュアルによると……これは部屋の使い方を説明するものらしい。
ナビゲート開始、と英語で書かれた画面の中のボタンを押した。
(……バスルーム?)
メニュー一覧の中に浮かんだその言葉に、鼓動が逸る。
部屋の片隅に配置された、小さなバスルーム。
しかし機能は十分だった。シャワーに、浴槽まである。
逸る心を抑えながら、部屋に備え付けられた端末を操作して、浴槽にお湯を張った。まるで早送りのように、浴槽にお湯が張られていく。
節々が痛む体に少々苦労しながら、服を脱ぎ捨てる。
思わずダイブしたくなったが――いや、と俺はかぶりをふった。
まずシャワーで身体を流すのが先決だ。
不意に、鏡に映った自分の姿を見た。
髪はやや白い。アッシュグレイとでも言えばいいのか。顔の造形からして、西洋の血だろうか? やや彫りの深い、いわゆる美少年だった。眼の色も黒いから、日本人に見えなくもない。
肉体の記憶によれば、『少年』の母親は日本人だ。父親は知らない。死んだのか、捨てられたのか。
これが自分なのか、とすんなりと思えたのは、『自分自身』の顔が微塵たりとも思い出せなかったからだ。それがまるで『奪われた』ように思えて、思わず顔をしかめる。
(……どうでもいい。それより風呂だ)
かぶりを振って、シャワーのボタンを押した。
……こうして、俺は三か月ぶり?の入浴をのぼせるまで堪能した。
体中の拷問の傷跡が悲鳴を上げたが、そんなものはどうもでいいぐらいに心が満たされた時間だった。
風呂に入り、冷蔵庫に備蓄されていた保存食を平らげて、再びベッドに寝ころんだ。
そして――
(あの男としては、これで懐柔したつもりなのかもしれない)
そんなことを思った。
まさに地獄から天国だ。堪能しておいて言うのも何だが、甘い飴を与えることで服従させるつもりなのだろう。
実際、この生活を保つためなら、ベリオスと名乗ったあの男に従うべきでは――という考えがよぎらなかったわけではない。
人の心は弱い。苦痛に折れなくとも、甘露に折れる。どれほど強靭な心があっても、贅沢はすればするほど手放せなくなる。
(はっ)
鼻で笑い飛ばした。
勘違いしている、と思った。
(ベリオス……俺はあの男を殺して、自由を手に入れる)
虚空に手を伸ばし、そして握る。
決意は、微塵もゆらがない。
今はまだ、手に入れたものはこの部屋だけだ。
だが全て手に入れてやる。あの男を殺して。
――新谷啓人は気づかない。
彼はすでに、人として歪んでいた。
人を殺しても平然とし、決して折れない復讐心を維持し続ける。
絶望に心を砕けることもなければ、ただ安住を求めるのでもない。
拷問を受けたからそうなったのか?
復讐心に囚われすぎてそうなったのか?
どれも違うだろう。
拷問は結局、ただの一度も彼の心を折ることはなかったし、彼にとって『復讐』は希望であって目標だが、しかし通過点に過ぎないことも事実だった。
新谷啓人は歪んでいる。
では、いつから?
それを答えられるものは、この世界にはいなかった。
理性ではなく本能に従ったあの選択は、正しかったのだろうか?
その答えは分からなかった。
撃つべきだったと何度も思った。
大男を殺したことへの感慨は――結局なにひとつ浮かぶことはなかった。
「さあ、今日からここが君の部屋だ」
男が案内したのは、いつもの牢獄ではなかった。
それは部屋だった。
ベッドもある、クローゼットもある、壁には水槽さえあって、その中では熱帯魚が優雅に泳いでいた。
何だか映画で出てくるような部屋だな、と思った。――その映画が具体的にどういうものなのかは思い出せない。
「この部屋は自由に使っていい。出入りも自由だ。ただ、好き勝手に歩くと危険な目に遭うかもしれない」
あと、と男は笑った。
「僕の名前はベリオスだ。覚えておいてくれ、我が息子よ」
男はそれだけ言うと、部屋を出て行った。
啓人は力のない足取りで部屋の中に入ると――力もなくベッドに横たわった。
深くため息を吐いて、久々のベッドの感触を何度も何度も確かめる。
まるで天国のようだ。これで風呂があれば最高だ。
(風呂……入りたい……)
不意に思ったその言葉が、その欲求を呼び覚ました。
この三か月の間、風呂に入れたことは一度もなかった。
もう慣れてしまったが、体中から腐臭がする。拷問のたびに血をかけられ、終わるたびに水で洗われるが、その臭いが取れることはない。
いや、あの牢獄に比べれば天国じゃないか。それだけで十分――と思ったら、急に『ポン』と音が鳴った。
「!?」
不意にベッドから起き上がる。周囲を見渡すと、壁に埋め込まれていた液晶画面に指が触れていて、何かが映し出されていた。
(……マニュアル? これは英語か……)
英語は難なく読むことができた。
そもそもあの男が話しているのも英語だった。それを意識することすらなかったというのは、今思えば笑い話にすら思えた。
マニュアルによると……これは部屋の使い方を説明するものらしい。
ナビゲート開始、と英語で書かれた画面の中のボタンを押した。
(……バスルーム?)
メニュー一覧の中に浮かんだその言葉に、鼓動が逸る。
部屋の片隅に配置された、小さなバスルーム。
しかし機能は十分だった。シャワーに、浴槽まである。
逸る心を抑えながら、部屋に備え付けられた端末を操作して、浴槽にお湯を張った。まるで早送りのように、浴槽にお湯が張られていく。
節々が痛む体に少々苦労しながら、服を脱ぎ捨てる。
思わずダイブしたくなったが――いや、と俺はかぶりをふった。
まずシャワーで身体を流すのが先決だ。
不意に、鏡に映った自分の姿を見た。
髪はやや白い。アッシュグレイとでも言えばいいのか。顔の造形からして、西洋の血だろうか? やや彫りの深い、いわゆる美少年だった。眼の色も黒いから、日本人に見えなくもない。
肉体の記憶によれば、『少年』の母親は日本人だ。父親は知らない。死んだのか、捨てられたのか。
これが自分なのか、とすんなりと思えたのは、『自分自身』の顔が微塵たりとも思い出せなかったからだ。それがまるで『奪われた』ように思えて、思わず顔をしかめる。
(……どうでもいい。それより風呂だ)
かぶりを振って、シャワーのボタンを押した。
……こうして、俺は三か月ぶり?の入浴をのぼせるまで堪能した。
体中の拷問の傷跡が悲鳴を上げたが、そんなものはどうもでいいぐらいに心が満たされた時間だった。
風呂に入り、冷蔵庫に備蓄されていた保存食を平らげて、再びベッドに寝ころんだ。
そして――
(あの男としては、これで懐柔したつもりなのかもしれない)
そんなことを思った。
まさに地獄から天国だ。堪能しておいて言うのも何だが、甘い飴を与えることで服従させるつもりなのだろう。
実際、この生活を保つためなら、ベリオスと名乗ったあの男に従うべきでは――という考えがよぎらなかったわけではない。
人の心は弱い。苦痛に折れなくとも、甘露に折れる。どれほど強靭な心があっても、贅沢はすればするほど手放せなくなる。
(はっ)
鼻で笑い飛ばした。
勘違いしている、と思った。
(ベリオス……俺はあの男を殺して、自由を手に入れる)
虚空に手を伸ばし、そして握る。
決意は、微塵もゆらがない。
今はまだ、手に入れたものはこの部屋だけだ。
だが全て手に入れてやる。あの男を殺して。
――新谷啓人は気づかない。
彼はすでに、人として歪んでいた。
人を殺しても平然とし、決して折れない復讐心を維持し続ける。
絶望に心を砕けることもなければ、ただ安住を求めるのでもない。
拷問を受けたからそうなったのか?
復讐心に囚われすぎてそうなったのか?
どれも違うだろう。
拷問は結局、ただの一度も彼の心を折ることはなかったし、彼にとって『復讐』は希望であって目標だが、しかし通過点に過ぎないことも事実だった。
新谷啓人は歪んでいる。
では、いつから?
それを答えられるものは、この世界にはいなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【SF短編集】機械娘たちの憂鬱
ジャン・幸田
SF
何らかの事情で人間の姿を捨て、ロボットのようにされた女の子の運命を描く作品集。
過去の作品のアーカイブになりますが、新作も追加していきます。
どちらかといえば、長編を構想していて最初の部分を掲載しています。もし評判がよかったり要望があれば、続編ないしリブート作品を書きたいなあ、と思います。
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる