烙印を抱えて

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4 ノワールベール

4-3 断層

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退勤し事務所を出て三十秒程だろうか。突然ザァァ!と言う音と共に空から水がものすごい勢いで降り注いでくる。

「おいおい……。」

傘を持って行かなかった私は小走りで帰路に着いた。

「ただいま。」

言えば葵の自室から葵がひょこりと出てくる。彼も帰ってきたばかりなのか少しだけ髪が湿っていた。

「おかえ、りぃ?!ちょ、ちょ!びしょ濡れじゃんか!タオル持ってくるから中入らないでね!」

葵はそう言うとどたばたと洗面台へ向かう。戸棚を忙しなく開ける音が聞こえて、その後すぐにフェイスタオルを私の元に持ってきた。それだけなら良かったのだがあろうことか何故か葵はそれを私に手渡さず拭き始めた。

「おい……!自分でできる!」
「いーからいーから!鞄も濡れてるんだし片手じゃ難しい……」
は子供じゃないんだ!それくらい一人で出来る!」

私は葵の手を払った。葵はといえば、突然のことに頭が追いついていないのか私を見つめていた。やめろ、その目で私を映すな。

「ご、ごめん……。」

葵のその言葉に私もハッとし少しばかり反省した。

「わ、私も声を荒げてすまない。」
「あっ。…お、俺飯の準備するよ!薫さん風邪ひかないうちに着替えちゃいなよ!」
「あ、あぁ……。そうさせてもらう。」

頭に乗せたタオルをするりと取って私は自室に向かった。



「あ、ねえねえ薫さん。」

先ほどの件もあり夕飯中は会話が少なかったが食べ終わった頃に葵が話しかけてきた。

「……ん。なんだ。」

葵はそばに置きっぱなしにしていたらしい通学用のリュックサックから紙の束を取り出した。上には中央揃えで『蓬本事件』と記されていた。私はおそらく、あからさまに嫌な顔をしただろう。

「これの男の人?の名前、読めない漢字で。部首もよく分からなかったら調べようが無くて。薫さん、読める?」

私は幾度となく、嫌というほど見たその名前が記された紙を出され思わず吃る。

「っ………。なずな、だ。」
「へえ~ありがと……」
「なずなの『ず』は『す』に濁点だぞ。」
「わ、分かってるよ、薫さん!」
「…………あっ。」


『なずなは『す』に点々をつけるんだよ~。』
『分かった!』


今まで忘れていた記憶が突然出てくると共に自分が今何を言ったのか、葵の発言でハッとした。

「どうかした?薫さん。」
「……いいや。ご馳走様。」

私はまた葵から逃げるように席を離れ自室に向かった。

「あ、薫さん!」
「……まだ何かあるのか。」
「風呂入れてるよ。雨に降られたんだしもう入っちゃいなよ!」
「……じゃあ、ありがたく。」






私は見たこともない海の砂浜に立っていた。海は荒れに荒れ、少し近づくとそのまま呑み込まれてしまいそうだった。時間は夕刻頃だろうか。オレンジ色の陽が色んなものを包み込んでいる。私はそのオレンジ色が大嫌いだ。『アレ』を思い出す。

空には大量の鴉が飛び交っていた。空を覆いつくすのではないかと錯覚してしまいそうなほどの鴉はどこかに行く様子はなく、まるで理由があってそこにずっといるかのようにぐるぐると周回するばかりだった。私はそれらから目を離し砂浜を歩き出す。留まっていても仕方がない。

しばらくすると突然黒い蛇がどこからともなく現れた。よく見るとそれは私が以前葵と出かけた際に作った蛇の置物とそっくりだった。蛇はしばらく私を睨んだ後急にスピードを上げてこちらに寄り、私の足元から身体に向かって巻き付いてきた。巻き付いてきた蛇はみるみるうちにギュウ、と絞り上げるように私に巻きつき、私の方はといえば当然息苦しくなる。

「ッ……!ぅ、ぐ……!」

蛇はどんどん上まで上がってきて最後には首にまで巻きつく。息もうまく吸い込めず視界が霞みつつある中、蛇が耳元で発した言葉は妙にはっきりとしていた。



『お前はもう一度、大切なものを失うことになる。』



「!」

毛布をがばりと持ち上げて目を覚ました。……どうやら夢だったらしい。起きても尚息は苦しく反射的に首をさすった。巻き付いていた感触が生々しく残っている。

(…………父の、声だったな。)

先程囁かれた声音を思い出して更に気分が悪くなる。自分の父親の声を使ってそんなことを喋られるのは気分の良いものではない。

そもそも、私にとって未だ失われていない『大切なもの』とはなんなのか。もうとっくの昔に全て滑り落ちていったというのに。

支度をしようとベッドサイドテーブルに置いてあるメガネをかけ跡がつかないタイプのヘアピンを左側の髪につけた。机を見ると例のファイルがない。急いで記憶を辿ると昨晩食卓に置いたままだったことを思い出す。

(見られていないと良いが。)

以前は見るなと忠告したが私がいなければ見放題だ。開かれていてもおかしくない。今の葵ならば尚のことだ。




早足でリビングに行くと食卓の上に既にご飯が用意されていた。その上に紙が乗っている。

『今日も早く出ま~す。帰る時間はいつも通りの予定だよ。P.S.ファイルの中身は見てないので安心してね。』

余程熱心なのか葵はもう行ってしまったらしい。

(まだ七時前だぞ……。……そんなに探したところで手がかりなんて見つかりやしないのに。)

そう考えて一度自室に戻って着替えている最中、先程の私の考えは間違いである可能性があることに気がついた。

(……なるほど、私が葵を避けているように、葵も私を避けているのか。)

葵は恐らく、それがどんな理由かはさておいて『蓬本事件』に関して私が良い顔をしないことを悟っている。だから聞きたいことはどうしても会わざるを得ない夜にまとめて聞いてそれ以外は私と距離をとっているのだろう。




着替え終わって席に着くと妙なことになっていると気がついた。例のファイルの向きが昨日とは変わっている。いつもは以前女性弁護士に突っ込まれた『あの番号』をファイリングしている中身の関係上もあって自分の手前側になるように置いているのだが、今は葵が座る席から見た時手前になるようになっている。

(見た……のか?)

一瞬、葵を疑うが彼もそこまで馬鹿ではない。中身も特に変わった様子はなく、折れたり皺がついたりなどもなかった。恐らく数字を気にして自分の方向に向けたのだろう、と考えることにした。




それからの日々は地獄のようだった。




「薫さん!」
「薫さん!これなんだけど……」
「この資料って……」
「ここについてなんだけど……」
「いい加減にしろ!」

葵が『蓬本事件』を調べてから約一週間。私はついに、堪忍袋の緒が切れた。机をバンと叩いて立ち上がり、椅子は絶妙なバランスでぐらぐらと揺れた後なんとか立て直した。

「私は知らないと言っているだろう!」

私は机の面を見たままそう叫んだ。葵のことは分からない。

「で、でも……!」
「甘えるな!分からないなら変えなさい。……その事件には関わるなと再三言っている……。今からでも全く遅くない。変えることだな。」

私は自分で自分を宥めながら葵を叱咤する。そのまま葵の返事を待つことなく、私は自室に閉じこもった。
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