聖女の加護

LUKA

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「こっ、恐い~~~!!お願いだから、あっちへ行ってぇぇ~~!!」
 べそをかいたネルは、房の隅で震えながら、声のあらん限りに叫んだ。
 哀れな碧い両目の端には、恐怖の涙がたっぷりと滲んでおり、瞬く度に、ポロポロッと零れ落ちた。
 格子の向こうでは、一体の醜い魔物が付いて離れず、その恐ろしい一つの瞳で、品定め(食べるためのだろうか?)といわんばかりに、怯える聖女へ血眼を注いでいた。
 会ったことも見たこともない一つ目もそうだったが、怪物の牙――象や犀のように口の端から鋭く飛び出ていた――が、ネルの恐怖心を一層募らせ、ただただ竦んでしまう始末だった。
 「こっ、恐い~~~!恐いよ~~~!!うぇぇ~~ん!!」
 幼い子どものように、ネルは恥も外聞もなく、泣き叫んだ。
 サイクロプス・・・、いや「魔物」という存在は、彼女の頭の中にはなかった。
 故に、もう一体の奇妙な魔物を目にした時、新しい恐怖のために、ネルは息を詰まらせた。
 「ニー、退くんだ。アッシュまが見えないだろう?」
 姿は見えなかったが、潰れてしゃがれたおかしな声が、ほの暗い地下牢に響いた。
 「・・・!?」
 そして、緊張に身をこわばらせるネルの目前で、べったりと格子を覆っていたモンスターは、斜め後ろを振り返り、のそのそと下がっていった。
 「・・・!」
 ネルは涙に濡れた碧い瞳を見開き、驚いた。
 巨大な一つ目の怪物に代わって、今度は小さな怪物――馴染みのある装いをしていたが、異様に長く鋭い爪や、白目のない真っ黒な瞳、大きなわし鼻、額のコブ(何故だか、頭にコブのある魚を連想させた)、尖った耳と、人間とは似つかぬ特徴もあった――が、格子の向こうにちょこちょこ歩きで現れた。
 続けて、冷たい石床を踏みしめる、革靴の重たい足取りが、格子の奥から響き渡り、次の瞬間には、彼女を攫ったのだろう、例の長身で黒ずくめの男が、ネルの前に立った。
 「「・・・」」
 格子を境に、二人はしばし黙って、お互いを見合った。
 男は、今までの恐怖が吹き飛んでしまう、いや、恐怖を忘れてしまう・・・・・・ほど、妖しく、美しかった。
 彼は、先の怪物にも引けを取らないほど、スラリと背が高く、ごわごわした生地の漆黒のスパッツの上から、膝下まである黒いブーツを履き、逞しい上半身を包む闇色のチュニックは首が詰まっていて、男らしい喉仏を隠すかのように、灰白色のクラヴァットがきっちりと巻かれていた。加えて、引き締まった腰のあたりに、銀色のチェーンベルトがゆったりと巻かれ、ろうそくの火の光を受けて、キラキラと輝いていた。
 服装と同じく、宵闇の如く真っ黒で艶やかな髪は、額の真ん中あたりで立ち上がり、少し尖りを帯びた耳殻まで、緩やかな弧を描いて収まっていた。
 唇は麗しく、高い鼻梁とその筋、そして微かに上向いた黒い眉は、はっきりと見事な線を引き、同様に、黒い睫毛に縁どられた濃い灰色の瞳は、格子の向こうのネルをしっかりと捉えていた。
 以上の特徴だけであれば、彼女と変わらない、至って普通の人間だということが、彼女の青緑の眼に、ありありと見て取れたが、ただ一つ、額の傷のようなものが、男が、ただの人間ではない事実を物語っていた。
 正確には、それ・・は傷ではなかった。
 刺青――とでも言うべきか、男の額には、黒々と妖しい紋様が彫られ、時折、まるで生きている・・・・・といわんばかりに、始めは小さかった模様が、徐々に広がり、大きくなっていった。
 同様に、アッシュも檻の片隅で、涙に頬を濡らした、哀れな聖女を冷ややかに見据えた。
 聖人たちの住まう居館では分からなかったが、彼女は豊かな白金の髪をしており、こめかみから後ろ頭の中央にかけて、ねじった毛束が合わさり、くるくると螺旋を描く毛先へ流れていた。
 また、そういった柔らかい毛に縁どられた顔の真ん中で、鮮やかな翡翠色の瞳が怯えたように、こちらを窺っていた。
 ピンク色の唇は、恐怖に青ざめていたが、ほっそりした首は、ワンピースと同系色の肌着に覆い隠され、種族特有の模様を示した、白銀のワンピースが、彼女の白金の髪を実によく引き立てつつも、大人の女らしい体つきを曖昧にしていた。
 アッシュは黙りこくったまま、考えた。
 やはり、リサイクルの言ったことは本当だったのだ。
 自分が攫ってきた女は、あの誇り高い聖人族の女にしては、威厳のかけらもない・・・どころか、サイクロプスのサニーごときで慌てふためき、泣き喚いている。本来の聖女であれば、魔人族に連れ去られたといえども、決して取り乱しはせず、冷たい尊厳をもって、自分と対峙するはずだと、アッシュは思った。しかし、今自分の目の前にいる女はどうだろう?
 したがって、一つの不愉快な考えが、アッシュの頭に浮かんだ。
 この女は偽者かもしれない。認めたくはないが、彼は身代わりか何か――、目当ての人物とは別の女を攫ってきたのかもしれない。
 だが困ったことに、特別な力を持った真の「聖女」でなければ、彼の目的は遂行できないのだ。
 「おい」
 確認・・のために、アッシュはようやく口を開いた。
 「お前、ネルとか言ったな。何故そこまで怯えている?」
 何故・・・?
 一瞬、ネルは質問の意味が分からなかった。
 というのも、彼女は怖いから怯えているのであって、そのように分かり切ったことを、わざわざ聞いて尋ねるような人間がいる現実が、飲み込めなかったのだ。
 だから、彼女は質問に質問で返した。
 「こ、ここはどこですか・・・!?わたしを、元いた場所・・・・・まで帰してください・・・!」
 (ここはどこ、だと?)
 即座に、アッシュは聞き捨てならないといったように、ピクリと眉頭を寄せた。
 「・・・お前、ここがどこだか分からないと言うのか?」
 信じられるものかと、アッシュはやや横柄に尋ねた。
 彼の尊大な態度が理解できず、ネルは困惑を覚えたものの、問いに答えた。
 「し、知りません!・・・何だか、わたしがいた世界・・と、違うみたい・・・」
 「世界?お前のいた、『聖域サンクチュアリ』のことか?」
 アッシュは小首をかしげた。
 『聖域サンクチュアリ』?
 内心、ネルも小首をかしげたい気分だった。
 彼は何について言っているのだろう。『聖域サンクチュアリ』とは、一体何のことだろう。
 「な、何ですか?『聖域サンクチュアリ』って」
 とネルが訊くと、格子の向こうの男は、灰色の瞳を見開いて、びっくりした表情をした後、足元の老ゴブリンを素早く見下ろし、少しの間、一人と一匹は互いを見つめ合い、何やら視線で会話しているようだった。
 「? ?」
 彼女は何か変なことでも言ったのだろうか?檻の中、ネルは新しい不安と混乱に苛まれた。
 やがて、背いていたアッシュの端正な顔がネルに向き直り、彼はまたしても疑問を口にした。
 「お前は誰だ?本当に、特別な『聖女』なのか?」
 特別な、聖女・・・?
 驚きと不可解に、ネルは口をポカンと開けた。
 この人(おそらく)は、さっきから何を言っているのだろう?セイジョ?サンクチュアリ?全く、訳が分からない!
 「せ、聖女?ですか・・・?な、何ですか、それ・・・?」
 ネルはちんぷんかんぷんながらも、答えた。
 「何だと!?」
 アッシュは衝撃の回答に面食らい、声を荒げた。
 (・・・参ったな・・・)
 アッシュは凛々しい顔を手のひらへ埋め、途方に暮れた。後に、憂いのため息が続いた。
 (・・・肝心の聖女が偽者かもしれない、か・・・)
 「・・・リサイクル、何か真偽を確かめる、いい方法はないか?」
 さほど期待はしていなかったが、アッシュは足元の老ゴブリンに訊いた。
 すると、リサイクルは主人の足元で、キイキイと小うるさい演説を始めた。
 「ああ、おいたわしや、この老いぼれゴブリンめの旦那ま!おのれ、奴らいじんどもめ!いじょをりかえるなぞ、卑ょうな手を使いおって!でがアッシュま。ご安心くだい。いいでか、いじょにまつわるこんなうわが、巷にはありま。アッシュま。真のいじょは、何があっても対象を護り抜く、の類まれなる力、つまり、『いじょの加護』をの体内に有ると言われていま・・・。して、うわによると、いじょから譲り受ける・・・・・の力は、直いじょと交わること・・・・・によっても、受け取ることがでるようで・・・」
 アッシュは、ひどい斜視のために、左右の黒目がそれぞれ上下に動いた、滑稽な魔物を見た。
 「それは確かか、リサイクル?」
 アッシュは確認を取った。
 「はい。一つのうわ話にぎまんが、他に確かめる方法はないかと・・・」
 リサイクルは、潰れたしゃがれ声で言いながら、主人の均整のとれた顔から、格子の奥で不安げな顔つきをした聖女へ、その焦点のずれた視線を移した。
 その黒い瞳の気味悪さに、ネルは鳥肌が立った。
 あれ・・は何て醜い、恐ろしい生き物だろう!
 きっとお化けは、彼女の膝あたりまでしかないくらい小さいはずなのに、ネルは恐怖に寒気がしてならなかった。一体どうしてあの男以外は、誰もかれも、恐ろしく長い爪と、危険で乱ぐいな歯をしているのだろう?まるで、長い爪は自分を捕らえて逃がさないために鋭く、同様に、黄ばんだ牙は、捕まえた自分の身体を深く刺し貫くためにあるようだと、恐怖に駆られたネルは、最悪の想像が止まらなかった。
 ああ、もう嫌だ!元の世界・・・・に帰りたい!
 ところが、どれだけ必死に願っても、そういう風向きにはいかない様子が、ネルには分かった。
 再び、物陰の奥から、牢屋番のサニーが、のしのしと主人の方へ歩み出て、手にした房の鍵を渡すと、アッシュはネルの檻へ進み、扉の鍵を開けた。
 キイッという金属音を響かせ、扉が開けられると、ネルは有無を言わさず抱き抱えられ、またしても、アッシュの逞しい肩の上へ乗せられた。
 「ま、物は試しだな」
 驚く彼女を抱え上げたまま、アッシュが平然と呟くのを、ネルは聞き逃さなかった。
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