聖女の加護

LUKA

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地響きと言っても過言ではないほどの盛大ないびきが、ネルの留まる地下牢中にけたたましくこだましていた。
 一時、空気を吸い込む音によって、騒音にも等しいいびきは影を潜めたが、再びぶり返しては、ネルの鼓膜に多大なる損傷をもたらしていた。
 両手で耳を塞ぎ、音を懸命に押し殺しているネルは、格子の内側から、はた迷惑ないびきの主へ碧い瞳を向けた。
 見ると、腹の底から囂々ごうごうと唸る声の主は、簡単な木組みの椅子に腰かけて、任務そっちのけで昼寝に耽る、愚図でのろまな牢屋番、サイクロプスのサニーだ。
 だらしなく大股をおっぴろげ、大きな口からはよだれを汚らしく垂らし、鼻提灯を豚のような鼻の孔からぶら下げている様は実にみっともなく、救いがたいほど隙だらけだった。
 このままでは気が変になりそうだ、もう一秒だって聴いていられない!とひび割れそうな頭を抱えて、ネルがこう思った時、別の一体の魔物が影と共に現れた。
 は、自分の上背の何倍もある何やら布のようなものを引きずって、石段をえっちらおっちら降りると、耳がろうするほどの騒音をまき散らす原因の方を向いてから、鋭く長い爪が載った指を素早く動かした。
 瞬間、天井から滴っていた雨だれが突如向きを変えて、白目をむいたサニーのたった一つの眼球へぶつかると、びっくりしたいびきの主は、やっと深い眠りから目覚めた。
 「? ? ?」
 薄青い眼を寝ぼけた調子で瞬きながら、毛髪の一本も生えていない卵型の頭のてっぺんを、尖った爪でポリポリと搔くサニーだったが、傍らの魔物に気づくと、もごもごと話しかけた。
 「れはぞかしいい夢だったろうよ」
 半ば吐き捨てるように、小さな魔物は言った。
 聞き覚えのある、独特なしゃがれ声を聴いたネルは、格子の内側で少し震えた。
 そして、こちらに向かってよちよちと歩いてくる、何とも醜悪な妖怪を翡翠色の横目に入れながら、ネルはますますその身を固くした。
 アッシュの老いたしもべは格子の手前で立ち止まると、手にしていた長い布を格子の間からせっせと入れ、威圧的な口調で命じた。
 「これをろ」
 だがしかし、彼の言うこれ・・とは、着るためのものなのだろうか?
 見た感じ、薄汚れたぼろ布にしか見えないが・・・。
 よって、不確かなネルは粗悪な布をおずおずと手に取って、目の前で広げてみた。
 間違いなく、それ・・はただの粗末な布ではなく、粗末な布で仕立てられた鼠色のワンピースだった。
 全体的に埃が被り、布がほつれて糸があちらこちらと飛び出ている上に、継ぎ接ぎの施された、恐ろしく地味で簡素なワンピース。
 襟と袖口に、白い(と言っても年月が相当経っているがために、ワンピースの鉛色とほとんど変わらなかった)生地が申し訳程度に当てられていたが、彼女が今着ているものよりも、大分、いや完全に劣る服だった。
 ネルは、リサイクルの顔色を格子越しにチラリと窺ったが、腕を組んだ醜い魔物は、細長い爪の指先を苛立たしそうに、忙しなくトントンと動かしていた。
 これはどうしたことやら、ネルは今着ている白銀のワンピースよりも、この雑巾にでもした方がましな、古ぼけた鼠色のワンピースを着なければならないようだ!
 一通り偉そうにふんぞり返り終わって、鍵を取りに、サニーの方へちょこちょこと向かっていく老ゴブリンを見届けた後、ネルは大変にひどい衣服に視線を落としたまま、憂いのため息を自然とついた。



一体いつになったら元の世界へ戻ることができるのか!
 とりあえず、あの陰気な地下牢(+馬鹿でかい一つ目の化け物)から出られたことに小さな喜びを感じつつも、未だ囚われの身である自分を、ネルは嘆いた。
 彼女は、今の今まで身に付けていた白銀のワンピースに別れを告げ、平凡どころか劣悪な鉛色のおんぼろワンピースをその身に纏い、しわくちゃの老ゴブリンに顎で指図されるまま、城の廊下をゆっくりと進んでいた。
 リサイクルの小さな歩幅に合わせているので、足取りは自然と遅く、カタツムリ並みだった。
 ・・・どうしようか、このまま走って逃げてしまおうか?
 ネルはふと心の中で考えた。
 いや、でも待てよ、つい先ほどまで、この小さい不気味なお化けは一つ目の怪物を、指一本触れずにどうやって起こした?
 ・・・それこそ、魔法だ・・・!
 ネルは物言わず、唖然と驚いた。
 彼女は、魔法なんていうものが存在する現実や、そんな非日常的な世界に居合わせていること自体、到底信じられなかったけれども、魔法としか説明のつかない不可思議な光景を目の当たりにしすぎている。
 おまけに、彼女は丸腰な上、無力で非力な一般人ときている。
 だからもし逃げ出そうものなら、自分も魔法のような不思議な力の下で、コテンパンにやられてしまうかもしれない・・・!
 全くもって最悪の想像に、ネルは恐ろしい思いで竦むと、ここはひとまず大人しく言う事に従った方がいいと、脱出をあきらめた。
 「入れ」
 遂に、幾つめかの角を曲がり、一人と一匹はある突き当りの部屋へ辿り着くと、リサイクルはみすぼらしい格好の聖女を見上げて、指図した。
 恐る恐る、年季の入った古い木戸を手で押し開けると、ドアの隙間から室内をほんの少し覗いたネルは、やはり逃げておくべきだったと、恐怖の身震いと共に後悔した。
 ここは調理場兼、召使の魔物たちが休息や食事をとる食堂のようだ。
 というのも、ネルの青緑の瞳にまず飛び込んできたのは、昼食をとるゴブリンたちのにぎやかな姿だった。
 主人のアッシュが使う食堂ダイニングホールと異なり、こちらは天井が低く、石やレンガで空間が築かれていた。
 部屋に四台置かれているテーブルは畳一枚程度の大きさで、扉と同じ、ささくれ立った木製の椅子は背もたれがない、横長のベンチのようで、一枚板の上に三~四体ほどのゴブリンが座っていた。
 食卓の上には、大皿に盛られた昼食が所狭しと机一杯に載っており、小柄な魔物たちは、木彫りのジョッキやマグカップ、銀でできたスプーンやフォーク、ナイフなどを銘々手に、わいわいがやがやと愉快にお喋りしながら、食事とその時間を楽しんでいた。
 「こっちだ」
 キィーッ、バタンと、開いた扉が勝手に閉まる音を背後に聴きながら、目の前で和気あいあいと食事をとる、二十数名のゴブリンたちの中でも、一際年寄りのリサイクルがちょこちょこと歩みを始めながら、しゃがれた声をドアの前で呆然と立ち尽くすネルにかけた。
 克服することのできない恐怖と驚きのために、ネルは文字通り言葉を失っていた。
 まさか、これほどまでに、奇怪なお化けがたくさん棲んでいようとは!
 しかも、この小さい鬼のような老人とそっくりな物の怪が大勢いる!
 独特な眺めに圧倒されつつも、恐怖から派生した緊張のせいで、ネルは手の先が冷たくなってくるのを感じた。
 しかし、恐怖の対象であるゴブリンたちは、怯える彼女の存在に気が付いていない様子で、ネルはぎくしゃくと、こわばった足を一歩ずつ慎重に進めた。
 そしてリサイクルは仲間の最前線に立つと、軽く咳払いをしてから、話を始めた。
 「あー、ちょっと」
 瞬間、食事や話に興じていたゴブリンたちは次々に口をつぐみ、それぞれ調理台の方へ顔を向けた。
 「おい、あれ・・って・・・」
 「ああ、らしいな・・・」
 「旦那様が奪ってきた・・・」
 彼と同じ鋭い爪の指で目の前の聖女を指したり、低い声でひそひそと囁き合う同類たちを尻目に、リサイクルはわざとらしく喉をうるさく鳴らしてかき消すと、再び言葉を発した。
 「・・・旦那まの新しいしもべだ。しばらく、この城にむ。面倒を見てやってくれとのお達しだ・・・」
 「おい、ボコ!あいつ、前の晩旦那様が抱えてきた奴じゃないか!?」
 夜警にもあたる門番の一人、マルが隣で座る酔いどれゴブリンに興奮気味に囁いた。
 「いや、ヒック、違うね。俺が見たのは、ウィック、もうちょいマシな恰好だったぜ」
 大ぶりのジョッキになみなみと注がれたエールを、これでもかというくらい飲み下すと、ボコは酒臭い息を吹きながら、相棒の質問に答えた。
 「こでだ、諸君。私はこいつを、アッシュまの忠実なしもべとして、城の下働として、奉仕ようと思う」
 そして、同胞たちの似通った顔を、一通り焦点の合わない黒目で見渡すと、リサイクルはとある提案を打ち出した。
 「誰か、下働の手が必要な者はいないか?仕事に十分な手が足りずに、困っている者は?」
 人々・・・、いやゴブリンたちは互いを訝しげに見交わしつつ、口々に喋り出すと、途端に場がざわざわと騒がしくなった。
 「まあまあ・・・。ヤジロベエ、どうだ?鍛冶見習いが欲しいと、前々から言っていただろう?」
 リサイクルはややつま先立って、少し離れた食卓に座る仲間の一人に、醜いしゃがれ声をかけた。
 ヤジロベエと呼ばれた小鬼ゴブリンは、頑固そうな職人肌の刀鍛冶で、深い皺の刻まれた片頬には、これまた深々と十字に切られた古傷が物々しい。
 彼は黙ったまま、咥えた長煙管きせるを吸い込み、白い煙を静かに吐き出していたが、やがて口をゆったりと開いた。
 「腕を見せてみな」
 (え?腕?)
 怯むネルをよそに、ヤジロベエを始め他のゴブリンたちはいっせいに、好奇心と侮蔑の混じった視線を、ネルに投げかけた。
 余りに多くの小粒の眼にじいっと見つめられ、怖いやら恥ずかしいやらで、縮むネルだったが、足元のリサイクルまでもが、そのずれたピカピカの黒目で凝視してくるので、ネルは仕方なしに、恐る恐る袖をまくった。
 細長い白い腕が姿を現すと、ヤジロベエはまたしても煙管を咥えこみ、深々と吸った。
 「そんな生っ白い腕じゃあ、だめだなあ、嬢ちゃん・・・。まず使い物にならねぇよ」
 フーッと窄めた唇から煙を吐き出しながら、ヤジロベエは机の角に煙管を勢いよくぶつけて、煙草の燃えがらを落として捨てた。
 「あー、ちょっとベエちゃん!その吸殻を誰が片づけると思ってるの!もう、ちゃんと吸い殻入れに捨てて頂戴よね!?」
 ヤジロベエが座る食卓の隣のテーブルから、喉がつぶれたような本来のしゃがれ声とは違って、彼らにとっては比較的珍しい通った声で、別の目ざといゴブリンが席から立ち上がり、すぐさま苦情を呈した。
 すると、リサイクルはもう一体のゴブリンに目線を移して、訊いた。
 「・・・どうだ、ピケ、い事の手伝いは欲しくないか?」
 「えっ」
 ピケと呼ばれたゴブリン――女性のような話しぶりにも拘わらず、口の周りをふさふさと生える黒髭が、明らかに男性であることを物語っていた――は、束の間キョトンと口をつぐんだが、すぐに二の句を次いだ。
 「残念だけど、間に合ってるのよね、生憎。そうね、家畜番のやつらに任したらいいんじゃない、ボス?」
 「「!」」
 豚やガチョウ、アヒルに雌雄鶏めんおんどりといった、城の家畜動物の世話を担当している小鬼たちの、驚きに息をのむ声が聴こえた。
 「なっ、なっ、なっ、何を言うんだ、ピケ!ぼっ、ぼっ、ぼっ、僕は手伝いなんかいらない!僕たちだけで十分だ!」
 動転しているためか、それとも吃音症に悩まされているのか、家畜番のゴブリンの一匹は目を白黒させた。
 「そうだそうだ!」
 もう一体の家畜番も、仲間の主張を後押しした。
 「あーら、そんなこと言って、この間、旦那様が大切にしていた、金の卵を産むガチョウを逃がしたのは、どこのどいつよ!?」
 挑戦的なピケは手を腰に当てて、鼻をふんと鳴らした。
 「そ、それは・・・!」
 しどろもどろと言い訳を探しあぐねた末、家畜番のゴブリンは、別のゴブリンを指さして言った。
 「モンタがいけないんだ!きちんと見張ってろって言ったのに!」
 したがって、モンタという小鬼はびっくり仰天、仲間を容易く裏切る同僚に呆れ怒った。
 「ミノ!(ガチョウを)檻から出そうって言ったのはお前だろ!?」
 たちまち醜い口論が始まり、しまいには取っ組み合いの喧嘩へと発展してしまうと、楽しい昼食は一変して修羅場と化した。
 ミノ・モンタの襟をつかむ腕や肘が、エールが入ったコップやおかずの載った皿にぶつかり、銀のフォークやナイフ共々、悲惨な音を立てて床に落ちると、そんな二人を遂に見かねたリサイクルは、ちょいちょいと動かした指で、底が丸い中華鍋とおたまを手元に引き寄せると、力いっぱい鳴らした。
 耳をつんざくような騒音に、ミノ・モンタはようやく争いの手を止めると、使用人頭のリサイクルは憤然と意を下した。
 「全く・・・。の件については、我らがアッシュまは失敗をお怒りになるどころか、笑顔で許して下っただろう。本当にもう・・・。ピケ、いいか、お前が新しいしもべの面倒を見るんだ」
 「えっ、ちょっと待ってよ!何でアタシが!」
 ピケは席を立ったまま両手を広げ、抗議を示した。
 「当然だ。お前がミノとモンタをけしかけたんだからな。ああもう、昼やみが終わってしまった・・・!」
 そして、このリサイクルの言葉尻を皮切りに、ゴブリンたちはガタガタと音を立てて席から立ち上がると、それぞれちょこちょこ歩きで、調理場兼食堂を後にして、仕事へ戻っていった。
 ネルは一人、初めて見る小鬼と一緒にその場に取り残され、緊張から唾をごくりと飲み下した。
 ピケという名の黒い髭が生えたゴブリンは、自分の背丈の何倍もあるネルの、フェルト靴を履いたつま先から、白金に輝く頭のてっぺんまで、じろじろと心行くまで見渡すと、嘘偽りない心からの印象を述べた。
 「え、ダッサーい・・・」
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