聖女の加護

LUKA

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あのマンレイ湖を形成するほどまで、湧き水が豊富だったラスブールの森は、至る所から清水がしみ出ており、私たちは休息をとる度、滴る水を飲み、炎症を起こした筋肉が張り詰めた、熱い脚を冷まして、一日がかりを要した雑木林を踏破した。地図は私たちをラトゥール街道へ誘い、ようやく開けた視界いっぱいに見えた、白銀の雄々しい山並みが、それぞれの網膜に映ると、口には出せなかった不安や疲労がどっと融解した。遂にここまで来たのだ。聖域サンクチュアリを後にしてから、これまでの長く遠い道のりを、改めて思い返した私は、しみじみと感無量だった。しゃがむ者はしゃがみ、立つ者は立つと、みんなは乗合馬車を待った。あいにくの曇り空を仰げば、おおよその時刻として、途切れ途切れの太陽が、お昼を指していたから、今となってはありがたい乗り物が、通りかかることを期待してもいいはずだった。そうだ、きっと彼らは、今回の旅を決して忘れないことだろう。何故ならば、思いもかけない災難に遭った人は、その疎ましい経験を、生涯胸に刻みつけ、後に生かすものだから。次に彼らは移動する時、おそらく魔除けのお守りなんかを身に付けることだろう。だがしかし、とはいえども、あの恐ろしいモンスターどもと出くわして、命があっただけマシではないかと、憐れみと慎みを装った、他人事らしい世俗は言うだろうものの、彼らのように馬車を没収され、あんまり距離を歩いては、文字通り骨が折れてしまう!物騒な魔物が本当にいるとかいないとか、巷の論客は、一銭の値打ちにもならない議論に熱を上げているが、結局のところ、百聞は一見に如かずなのだ。そうだ。お守りもいいが、短刀くらいは持ち歩いた方が身のためではないかと、房飾りの付いた帽子をかぶった学者の男は、ひらめいた。しかし冒険者でなかった彼は、武器を使わずに済めば、それに越した遠出はないのだろうが。
 次第に、ゆっくりと単調な蹄の音が響き、地面に座っていた者は、待ってましたといわんばかり、さっと立ちあがり、私たち全員は音のする方向を見やった。二頭立ての乗合馬車――きちんと人間の御者と、乗客を幾人か載せていた――が、そびえるバランウートル山脈を背に、街道をのんびりと進んでいた。ああ、待ちわびた彼らを、それはやっとカナンへ連れて行ってくれる!どうしようもない喜びに、疲れた顔を明るく輝かした私たちは、馬車が側まで来る時間さえも惜しく、そわそわと身動きした。やがて間もなくして、ぽっちゃりした御者のおばさんが手綱を引っぱり、さして早くもなかった馬の足並みを完全に止め、しっかりした車を、希望と歓喜で胸膨らむ私たちの横で停めると、遠慮知らずの口をずけずけと開いた。
 「――おや、こんなところであんたたちおそろいで。珍しいね、ラスブールの森から乗る客なんてめったにいないよ!まあ、たまに近道で通ることも、あることはあるんだけれどね・・・。乗るのかい?」
 直ちに、「もちろん!」という分かり切った台詞が、それぞれの口から一斉に放たれ、新しい乗客のらしからぬ勢いに、おばさんは少々面食らった様子だった。一人、また一人と、目的地カナンを目指す旅人たちが乗り込む中、エフィは御者のおばさんと何やら話し込んでいた。
 「実は私たち三人は、マンモルトル山にある、ふもとの村まで行きたいの」
 と、エフィ。
 「マンモルトル山!するとあんた、インノケンティウス・アルアル村へかい!まああんな僻村がよくもあったもんだね!もっとも、あのとんでもなく高い雪山は、ふもとでさえ分厚い氷と、おぞましい野獣だらけで、わざわざ好んで住む人間なんて、人っ子一人いないと思っていたけど!装備はいいのかい。一体何しにあすこへ行くんだい?」
 と、御者のおばさん。
 「大切な用なの。私たちは一秒でも早く、そこへ着かなければならないの」
 おばさんは声を立てて陽気に笑った後、言った。
 「ふざけた冗談はやめとくれ。いいかい、雪遊びや雪男探しの冒検も大概だけど、もう何日も山へ向かう客はいないのさね。そら、途中のアルバカ村とか、カーキ村で乗り降りする客なら、ほんの少しはいるさ。けどね、あの山麓の村までは違うよ。一体全体あんなところに何があるんだい?わたしゃつまらない嘘は言わないよ。何なら、山へ行く運転手に訊いてみるといい!」
 「もう馬車は街を出発しているの?」
 「だろうね。きっとジュネのじじいが、あんまり客が少ないもんだから、商売あがったりだって嘆いているろうよ!」
 と、おばさんは言うと、カラカラと笑った。
 パチンと、下ろした革ひもが、馬たちの背中へ当たる小気味よい音を聴いたら、動き出した乗合馬車が、ガタゴトと去っていくのを、私とエルフ姉弟の三人は見送った。したがって、別の乗り物を待つ私たちは、流れる時間を話すことに使った。
 「・・・インノケンティウス・アルアル村って、長い名前の割には、全く人が住んでいないみたいだけど、本当に勇者はそこにいるんだよな、姉ちゃん?」
 まずケットが口を開いた。
 「たぶんね。私がジンと最後に会ってから、もうずいぶん経つわ」
 と、エフィは答えた。
 「連絡は取っていたんですか?」
 と、私は尋ねた。
 「取ってないわ。もしかしたら、聖域サンクチュアリの長老は取っていたかもしれないけど。ハト達を使ってね」
 「勇者が引退したこと以外、ジイは何も言っていませんでした」
 「そう・・・。可哀そうにジンは、すっかり自信を無くしちゃって、『何もかも全部投げ出して、田舎に引きこもってやる!』とか何とか、ぶつぶつ言ってたわね」
 「なるほどなー。それであの村へ移り住んだのか~」
 「一応彼の名誉のために言っておくけど、聖女を魔人から救いだそうと戦ったジンは、とても頑張り屋さんだったわ。だけど、信じられないような話だけど、魔人が強すぎたの。・・・ごめんなさい、聖女ネルを助けてあげられなくて」
 「そんな!謝らないでください!だってそれもこれも、悪いのは、世界征服をもくろむ魔人じゃないですか!それにジンさんは、完全にあきらめたわけじゃないと思います。きっと何かネルを救う手が、必ずあると思います。正義は勝ちます。いえ、勝たなければいけません。私たちみんなの平和のために」
 ちょっと臭かったかなと、自分の発言に恥ずかしさを覚えた私は、赤らむ頬の熱さをすぐに感じた。
 「――って、姉ちゃん!賭けは!あっぶねー、まんまと忘れるところだった・・・!」
 「んもう、あんたって本当にガキね。よして頂戴。私たちは遊びに来たんじゃないのよ!」
 「あっ、ずっけーの!なかったことにしようってか!全く、どっちが悪党だか!」
 「な、何ですって・・・?もう一ぺん言ってみなさいよ!」
 「賭けをチャラにしようとする姉ちゃんは悪党だよ。ヘンだ」
 よって、短気なエフィは怒りやすいから、例のごとく微笑ましい(?)姉弟げんかが始まり、どのみち仲裁もできなかった私は、喧嘩するほど仲がいいエルフたちをよそに、とぼとぼとこちらへ向かってくる生き物を認めた。だんだんと姿がはっきりしてくるにつれて、私は二頭の褐色のロバに曳かせた、幌なしおんぼろ荷車を目の当たりにした。持ち主もくたびれた風貌で、白髪交じりで鼠色の頭髪は、ぐしゃぐしゃと乱れてはいるものの、血色はいいおじいさんが御者席に座っていた。
 「おー、あんたらか。山へ行きなするのは」
 一目で私たちを見たおじいさんは、手綱を引き、言った。
 「ひゃひゃひゃ。てっきりマデリーンが、わしをからかっているもんだと思いきや、本当だったのかい、ええ?」
 面白そうに目を細めた老人は愉快に笑い、ところどころ抜けた歯を見せた。
 「・・・それは確かにそうで、間違いはないけれど・・・。これじゃあ馬車じゃなくて、ただの荷車じゃない!それものろまなロバに曳かせた!」
 ポカンと驚いたエフィが呆れたように言った。
 「ひゃひゃひゃ。経費削減ってやつじゃよ、お嬢ちゃん。見ての通り、誰も載っておらんからな。そうそう、山へお客を運ぶのは、実に一週間ぶりじゃわい!」
 と、明かした経営難にも拘わらず、再びおじいさんは呑気に笑った。
 「何、心配には及ばんぞ。こいつらだってなかなかのもんだ、なあ?」
 と、おじいさんは問いかけたが、尻尾や耳を静かに振るロバ二頭は、答えなかった。
 (・・・嘘でしょう、信じらんない・・・。今にも降ってきそうなのに・・・)
 と、考えていたとしても、ちっとも不思議じゃなかった妖精の、不安げな顔つきを私は見た。事実、空は鈍色の厚い雲が低く垂れこめ、大気が変化をきたしていた。だがしかし、とはいえども、私たちは不承不承、荷車へ乗り込んだ。そして不穏な天気の下、とろとろと歩み始めた木の車の中で、何とも言えなかった私たちは、ただただゆらゆらと揺れた。



界隈はろくな店も人間もいなかった。形も厚みも均等でない上、ピッタリとはめられていないあちこちで、石畳は剥げ、そんな地面の上を、おなかの空かせた野良犬・猫がうろつきまわり、乞食たちがみすぼらしい恰好でほっつき歩いていた。日中とはいえ、頻繁に目にした酔っ払いは、そこかしこでのさばり、取っ組み合いの喧嘩を行っている者も、数少なくなかった。昼間でも薄暗い路地は細く入り組み、裏路地の荒みぶりは言うまでもなかった。行き止まりの袋小路で、一体彼らはこそこそと何をしているのだろうか。そう、後ろ暗い罪以外に何があるだろうか。目抜き通りにずらりと軒を連ねた建物は、半分が居住を占め、半分が高利貸し、売春宿、探偵所、居酒屋、賭博所、質屋(盗品が主な品物だった!)を営んでいた。ここは街の暗部であり、崇高な神の教えを説き・守る修道院は、疫病の次に頭を悩ませていた。しかしながら、ちょうど厄介者である無法者どもが、ドブネズミのように群がるこの地区こそ、種種雑多な情報を収集するには、うってつけの場所だという現実を、貴賤問わず知っている者は知っていた。故に、真実アッシュもまた、例に漏れなかったその一人であり、彼はパノプティコンの裏の顔から、欲しいもののありかを引き出そうとした。
 適当に目星を付けたアッシュは、ダリルへ声もかけず、一軒の店の中へ入った。地味な店構えは至って平凡な、何の変哲もない普通の店だったが、実際の中身は、あぶく銭を稼ごうとする男の、むさくるしく、だらしがない巣窟だった。閉ざされたほの暗い空間で、席に着く男たちのテーブルの上には、何枚もの絵札と現金、それから酒の満ちた杯が置かれ、視線をじろりとよこす者はよこし、手札を見つめる者はじっと眺め続けていた。目下のところ、賭け事をしている卓は、五、六人で構成されたテーブルだけで、その他の男たちは手を休め、ビールを飲みながら談笑していた。後者の者たちには目もくれず、ダリルを引き連れたアッシュは、一直線に店の奥まで進むと、五人が腰かけた机の手前で止まった。真っ先に、ギャンブルには参加せず、傍らの席で見物していた若い男が気づくと、それに次いで男たちも顔を続々と上げた。
 「なんだおめえは」
 指輪をはめた男が荒っぽい口を開いた。
 「可愛いお嬢ちゃん、お化粧してお出かけかい?」
 アッシュの切り傷を認めた男が、笑いながら冷やかすと、場はドッと盛り上がった。
 「この辺じゃ見かけねえ面だな。おい、誰だお前」
 目の下にほくろがあった男が言った。
 「混ぜてくれ。酒も奢ろう」
 怖気もせず、アッシュが余裕たっぷりと言ったものだから、下品な男たちは、束の間キョトンとした顔を見合わせると、即座に爆笑した。
 「ブハハハハ!こりゃいい!大した奴だ、嬉しいね!」
 カードと硬貨の散らばったテーブルをバンバン叩き、四人目の男は愉快に笑った。そして、最後にそこまで笑い飛ばしていなかった男が、素早く真顔に戻ると、アッシュに向かって偽善ぶった口を開いた。
 「あんたが誰だろうと、もちろん歓迎する。飲み物はあっちで頼みな」
 芋虫のように太い親指が、男の肩向こうを指し、離れた背後で、店主らしき男が、手持ち無沙汰にトランプを切っていた。
 「頼めるか、ダリル。これで」
 ところどころ裂けた真黒いチュニックの内側から、上等ななめし革で作られたきんちゃく袋を取り出すと、中から銀貨を一枚抜き取ったアッシュは、呆けていたダリルのたるんだ顔の前でかざした。瞬間、まるい金属に釘付けになった男は、ごくりとのどを鳴らしたが、それらしくいそいそと受け取ると、あちらへ行った。そして、破れたマントを羽織った新参者が、空いた席の一つに腰かけたとたん、札が配られた。
 「旅の人かい、あんた」
 見知らぬ魔人を誘った五人目の男が訊いた。鋭い目つきには侮蔑と偏見が滲んでおり、帽子を脱いだ毛髪はぺたりと撫でつけ、広く浅黒い富士額の上に、鉛色をした脂っぽいひと房がかかっていた。
 「そうだ」
 と、手にしたカードを見渡すアッシュが答えると、ごろつきの親玉みたいな男は、深みと重みのある声でまたしても問うた。
 「一体パノプティコンへは何をしに来たんだ?」
 「仕事を探しに来た」
 と、手札へ灰色の目線を固定したまま、平静とアッシュが言う傍ら、札を卓へ捨てる男たちは新しい絵札をとった。
 「ほう、それはまた。どんな仕事を探しに来た?」
 「何でも」
 と、カードを二枚交換しながらアッシュが答えると、後ろで眺めていた見物人が揶揄の口を挟んだ。
 「墓穴掘りなら、いくらでも空いているぜ!」
 たちまち低い不気味な笑いが、訳知り顔でにやつく男たちの間で、湧き起こったので、アッシュはチラリと銀色の目を動かした。
 「あんたさえよけりゃ、何なら俺が関わっている仕事――おっと、どんな商売かは訊いてくれるなよな――を紹介してやってもいいが、生憎坊さんとは取引がないんでな」
 引き抜いたトランプを机の上へ投げてから、五人目の男が目配せしながら言うと、もう一度男たちは、くっくっくと意味深な笑いを漏らした。
 「さあ張った張った。幾ら賭ける?男を見せろ!」
 親の合図をもとに、汚らしい指で硬貨を摘まんだ男たちは、次々とテーブルの中央へ積んだ。それに倣ったアッシュも、銅貨を三枚滑らせた。
 「勝負は恨みっこなしだ・・・。公正・・だからな」
 と、胴元だろう五人目の男が、にやりと告げたが最後、全ての手札が一挙に公開され、ほどなくしてアッシュは敗北を学んだ。運の良かった四人目の大柄な男が、ただ一人下卑た笑みを浮かべながら、鈍く光る収穫物を引き寄せていく一方、負けた男たちは、口惜しいため息をつき、残念そうな顔を振り、苛立ち紛れの酒を呷った。
 次回は、指輪をはめた一人目の男と、目の下にほくろがあった三人目の男二人で、山分けとなり、その次の勝負は、五番目の男の一人勝ちとなった。いく度も勝敗が付かない回を重ねた後、やっと二人目の男も儲けを手にでき、彼はふざけながら、連敗のアッシュへわざとらしく謝った。アッシュは気をよくした連中を見届けると、話を続けた。
 「修道僧も構わないが、俺はもっと割のいい仕事に就くつもりだ。領主に仕えるにはどうしたらいい?」
 「ふん、ドモンドの野郎か。あんたも相当物好きな奴だな・・・。いいか。あの似非えせ貴族は、取り立て屋の坊主どもと結びついて、戦争のための金ばかり巻き上げやがる」
 新しい手札から目を離すと、五番目の男が蔑むように答えた。
 「ああ、全くだぜ・・・。あの石頭の馬鹿は、どうやら突っ込むことしか分からんらしい。きっと奥方との寝室でも同じだろうよ」
 と、四番目の大柄な男が茶化すと、俗っぽい男たちはきわどい冗談に笑った。
 「奴はいっぱしの英傑を気取っているが、何、実際ただのしがない軍人で、嫁の方がよっぽどいい女さ。妻にしとくには、もったいないくらいの別嬪で、しかも憐れみ深い女のようだ」
 三番目の男が、楽しそうな目玉を、ほくろの上であっちこっちと動かした。
 「奴さん、かろうじて嫁の尻には敷かれていないようだが、甘やかした一人娘には、随分と手を焼いているらしい」
 指輪をはめた一番目の男もまた、最近仕入れた下世話を提供した。
 「美人か?」
 娘の容姿が気になるあまり、二番目の男が身を乗り出して尋ねた。
 「まあな。とびきりの美女と言うわけではないが、ドモンドの娘にしては美人な方だ」
 と、一人目の男が答えると、今まで博打を眺めていた若者が、静かに手札を吟味するアッシュの後ろで、否認の口をきっぱりと開いた。
 「女なんてくだらない生き物だぜ!」
 せせら笑う五人目の男が、なだめるように言った。
 「お前はまだ、女のいい部分・・・・を知らないんだよ」
 「え、何も俺が知らないって?いいや、ところが知ってるんだよ、俺は!汚い奴らは、ベッドの上で男を殺しちまい・・・・・やがる!」
 と、憤った若い男が、女に対する憎悪を吐き出すと、辛抱ならなかった男たちは、けたたましい爆笑の渦を巻き起こした。
 「・・・いいぞ、女は。若い女は格別だ。俺たち人類の共通共有の財産だ。ちょうど金持ちどもが、毎日のように食う子羊肉のように、あれ・・は柔らかい。ただし丸々と太った豚や、やせぎすの鶏ガラを、俺は言っているんじゃねえぞ?それはつまり、出るところが出て、引っ込んでいるところが引っ込んでいればの話だ。おおそうだ、愛嬌も忘れちゃなんねえ。なあ分かるだろう?からきし愛想のねえ、ヒステリックな女ほど嫌なものはねえ。奴さん不機嫌な面に、これ見よがしに書いてあるのさ、『どうして私は女なんかをやっているんだろう』ってな。奴らは可愛げがない。奴らは女でありながら、女を否定しているのさ。・・・しかし、可愛いあどけない顔立ちをしていながらも、そんな素晴らしい肉体を持った女ほど、俺たちにとって望ましい女が、この世の他にいるだろうか?いいや、いないね。神に誓ってもいい。それとこれが肝心で、女のおつむが悪ければ悪いほど、なおさらいいってもんさ」
少しずつ可笑しさが消えていくと、五人目の男が経験豊富に説いた。
 「女が頭もよかったら?」
 と、見物人が問うたので、かけ金を置いた男は、率直な意見を述べた。
 「まずいないだろうが、それは最も始末に負えない女だ。頭の回る女は、男の下心に気づかないふりをしやがる。そこらの間抜けな女より、何倍も質が悪い」
 何度目かの手札が晒され、負けを味わった男たち五人が、僅かな動揺を露わにする中、初めて白星をあげたアッシュは、硬貨の小山を回収した。空気に緊張がサッと走り、急に真面目な顔つきになった男たちは、黙って目と目を合わせた。まぐれか、はたまたいかさまか。男たちは戸惑いながらも勝負を続けた。めっきり口数が少なくなった卓で、不確かな彼らは、トランプと眼差しを交互に見た。五人目の男のさりげない一瞥が、彼の広い肩向こうへ注がれている現実を、抜け目ないアッシュは見逃さなかった。視線を受けた若い見物人は、新参者の手札を密かに覗くも、そこには絵も何も描かれておらず、単なる真っ白なカードを、仰天した彼は見つけるばかりだった。
 ぼろ儲けとは、まさしく今のアッシュを意味するのだろうと、店の片隅で傍観していたダリルは思ったが、おそらく納得のいかない男たちの心中では、激しい怨憎と怒りのとぐろが、おどろおどろしく巻いているだろう事実も、全く彼は理解していた。男たちの杯はとっくの昔に空いていた。すでに堪忍袋の緒も切れ、もはや導火線に火がつけられたも同然だった。すると五人目の男が、突然気分が悪いと言って立ち上がると、いきり立った彼は、許されざる不届き者を懲らしめてやろうと、いきなりアッシュへ殴りかかった。その場に居合わせたばくち打ちたちは皆、びっくりしたが、それよりも多分に血湧き、興奮した。騒ぎ立てる他人の喧嘩ほど、大変に面白い見世物があるだろうか?冷静と自制を失った男はまず、憎むべき敵の胸ぐらをつかもうと、灰白色のクラヴァットへ手を伸ばしたものの、思いきりカードを目に叩きつけられた彼は怯み、その一瞬の隙を突いたアッシュが、べたついた鉛色の頭をむんずと鷲掴むと、彼らが直前まで興じていたテーブルへ強打した。鈍く重々しい音が大きく鳴り響き、衝撃でばらばらと散らばった札とコインが、何枚も床へ落ちた。襲い掛かった男は苦し気に呻き、その後すぐに、だらりと脱力した。頭蓋が割れてしまっていたらどうしようかと、真剣な恐怖に見舞われたギャンブラーたちは、たじろいだが、顔色一つ変えなかったアッシュは、ふけと皮脂でてかった巻き毛が絡みついた手を離すと、あたかも何事もなかったかのようにふるまった。
 「どうやらお開きのようだ」
 黒いいかさま師は不敵に微笑むと、回れ右で裂けたマントを翻し、スタスタと店を出て行った。水を打ったように 静まり返った店の中、ダリルはハッと我に返ると、慌てて後を追った。



今にも泣き出しそうな頭上の雲行きは怪しく、うすら寒い風が、濃い雲がさを被ったバランウートル山脈が座す、正面の北から吹いていた。雄大な山並みは、ごつごつと岩の隆起が目立つ峰々に、純白の氷河が冷え冷えと横たわり、中腹から裾にかけて溶け残った氷雪が、黒々と生えた針葉樹林と、くっきりと対照を成している――。あのふもとのどこかで、戦意喪失した勇者が、隠居生活を送っているのだ。嫌味なくらい長ったらしい名前の村で、まったりと平穏に、彼は暮らしているのだろうか。本当に、悪い魔人を討つ志を、彼は諦めてしまったのだろうか。もうできることは何もないのだろうか。幾ら勇者といえども、お手上げなのだろうか。いやもしかしたら、大事な彼を引き留める家族がいるから、選ばれた勇者であっても、彼は再び、村を去ることができないのではないか?そうだ!たとえそうだったとしても、私たちはよく彼らに言い聞かせ、貴重な聖女を誘拐した非道な魔人の元へ、またしても勇者を向かわせねばならない。きっと家族も分かってくれるだろう。何故ならば、彼らの息子あるいは兄は、生まれついての勇者であり、窮地に立たされた女人を救ってこそ、勇気ある英雄は偉大なのだから!そんな、そのように気高く立派な青年が、憎き敵に攫われた可哀そうなネルを、ないがしろにするはずがない!ああ、おそらく事情があるのだろう。にっちもさっちもいかないような何かが。
 「ねえ、もうちょっとスピード出ないの?」
 ロバの鈍足に耐え切れなかったエフィが、運転手のジュネ爺さんにイライラと話しかけた。
 「ひゃひゃひゃ。急がずとも山は逃げやしねえよ」
 と、朗らかに笑うおじいさんは前を向いたまま、言った。
 「だって見てよこの天気!もうじき降りそうじゃない!」
 と、エルフが嘆くと、横でもたれる弟の妖精も頷いた。
 「確かになー」
 「何、少しばかりの荒れ模様じゃあねえか。風邪の一つもひけやしねえ!若いのにまだまだじゃのう!ひゃひゃひゃ!・・・それはそうと、あんたら山は初めてか。何しに行きなする」
 と、問われたので、私が答えた。
 「そうです。知り合いが住んでいるので、会いに行くんです」
 「ほう、インノケンティウス・アルアル村にか!・・・フーム、寂しい村じゃ、あすこは。冬は氷と雪にすっかり埋もれてしまうんじゃよ。おまけに、ちょくちょく山から雪男が下りてくるらしいからの!」
 「爺さんは見たことあるの、雪男?」
 好奇の瞳をチラリと配せ、両手を後ろ頭へ当てたケットが尋ねた。
 「ひゃひゃひゃ、そりゃあもちろん!といっても、すぐに逃げ出してしまったから、雪が生み出した幻だったのかもしれんのお!」
 「なあんだ」
 「お前さん、伝説の生き物に興味があるのかい」
 老いたジュネはやや振り返り、小粒の目を見せながら訊いた。
 「まあね。妖精・・とかエルフ・・・とか」
 と、何の気なしに、ケットが空とぼけて言うと、隣でエフィがじろりと睨んだ。
 「ひゃひゃひゃ!そりゃあいい!ならセイレーンはどうだ」
 もさもさの顎髭をしごきながらジュネは言った。
 「聞いたことはあるね。爺さん見たことあるんだ」
 「いんや、見たことはねえ。しかし、セイレーンにまつわるこんな昔話がある。ほれ、さっきあんたたちが待っておった、ラスブールの森の伝説じゃ」
 「いいじゃん、面白そう。話してよ、まだ先は長いんだし」
 「ひゃひゃひゃ。よし、話して進ぜよう。ロバたちも、行くだけじゃ飽きるじゃろうて・・・」
 「昔々、とある村に、ネッドという一人の若者がおった。木こりの家に生まれたネッドは、幼い時から父親を手伝い、村近くの雑木林へたびたび入っておった。そう、今で言うラスブールの森じゃ。そして木を切り倒すため、父親と出入りを繰り返すうち、自然が好きになったネッドは、季節の移ろいなんかを楽しみ、それに合わせて、植物や動物も変化していく不思議に、心奪われておった。目にも色鮮やかな草花が、森中に咲き乱れる芽吹きの春。生命の夏は、新しい命が生まれてくる感動。どんぐりが落ち、木の実が熟す栄養の秋・・・。一面の銀世界へと衣替えする冬。雑木林は、少年だったネッドの良い友達だった。彼は森を知り、森と共に成長した。水を得るにはどこへどう行けばいいか。生き物たちはどこでどのように巣をつくり、獲物を仕留めるのか。彼は完璧に分かっておった。どの時期に何が実り、またどうしてそれが枯れるのかも、ネッドは学んでおった。そうして、自然の奥深さと恵みに魅入られたネッドは、いつしか一人前の木こりになり、大人になった彼は、生まれ育った村を出て、雑木林の中で暮らすことに決めた。美しい湖のほとりに小屋を建て、わなを仕掛け、魚を採った。暗闇の夜は瞬く星を見上げ、梟の鳴き声を聴き、虫の音と一緒に眠った・・・。おお、白くうごめく霧が、鏡のような湖の上で、静かに浮かぶ幻想的な朝!そう、実のところこの湖が、ネッドの一番のお気に入りじゃった。冷たい雪解け水はいわんや、滾々と清水が湧き出る泉は、すっきりと澄み渡り、ネッドは潜って魚を捕まえることができた。もし泉の精が現れたとしても、何らおかしくはなかったくらい、湖はとても麗しかった。その点について、ネッドも認めないわけにはいかなかった。そして、明媚な湖畔の丸太小屋に住み着くようになって、しばらく経つと、どこからか流れてくる歌を、彼は耳にするようになった。今まで聴いたことのない不思議なメロディに、彼は惹かれた。綺麗な調べは、さながら泉のように透き通り、甘いささやきは、高くなったり低くなったりした。この素晴らしい歌い手を求めたネッドは、音のする湖へ赴くも、魅惑的な歌唱はプツンと途切れてしまった。水面に揺らめく波紋が、消えた歌手の唯一の痕跡じゃった。それからは来る日も来る日も、ネッドは美しい旋律を聴いた。風の日も、雨の日も。木を伐っている時も、わなを仕掛けている時も。雪の日も、晴れの日のも。薪を割っている時も、ご飯を食べている時も。雷の日も、曇りの日も。うたた寝している時も、魚を採っている時も・・・。こんな森のただなかで、一体誰が歌っているのじゃろうか。気になったネッドは謎の正体を知りたがった。そんなある日、思いついた彼は湖の茂みに隠れて、声の主を待ち伏せることにした。陽の名残りが斜めに射し込む夕方時、草むらの奥から、息を潜めた彼は歌う女を見た。彼女は小さな桟橋の上に座り、歌いながら長い髪を梳かしておった。警戒している様子は一切なく、歌う彼女は身だしなみに気をとられておった。ネッドは目を奪われた。というのも、今まで彼が目にしてきた女の中で、群を抜いて美しかったからもあったが、濡れた虹色のうろこが、女の肌の上で煌めいておったからじゃった。つま先の代わりに、魚の尾びれが輝く水をかいておった。ネッドの胸は喜びに膨らんだ。泉の精は誠におったのだと。彼はしばし、歌う人魚に見惚れた。正に光景は絵になるようで、どこもかしこもキラキラしておった。それから女は、一通り髪を梳き終えると、口ずさんでいた調べもやめ、湖の中へ潜っていった。一人残されたネッドは呆然としておった。果たして彼が見たものは夢か幻か。一般常識で考えれば、あれが現実だったとは思えない。しかし自分の目で人魚を見たのは、ネッドにとって生まれて初めてのことじゃった・・・。
 その後も人魚は歌い続けたが、決まってネッドが湖に姿を現すと、逆に女の姿が、清らかな声と共に消えるのじゃった。不思議なことに、潜っている時でさえ、人魚はどこにも見当たらない。ああ、何故人魚はネッドを避けるのじゃろうか。彼を恐れることの何があろうか。人魚は知らなければならない。気立ての良いネッドが優しく、思いやり深い男であることを。よってネッドは知恵を絞り、街へ出かけた。そこで竪琴を手に入れた彼は、湖畔の家へ帰ってくると、あの桟橋へ置いた。しばらくすると、楽器はなくなっておった。次の日、いつもの歌が彼の耳まで漂い、それと同時にネッドは、竪琴の音色も聴いた。ネッドは慎重に歩みを寄せた。そうっとそうっと、気づかれないよう抜き足差し足で、ネッドは桟橋へ向かった。お察しの通り、そこには背中を向けた人魚が腰かけ、楽器を弾きながら歌っておった。一歩、また一歩と、ゆっくりとネッドは忍び寄った。じゃが不運にも、踏んだ小枝が折れる音が出てしまうと、歌をやめた人魚は素早く振り返り、驚いた表情でネッドを認めると、急いで湖へ潜り込んだ。焦ったネッドは咄嗟に口を開いた。
 『待ってくれ、行かないでくれ!あなたが弾いていた楽器は私のものです!どうか返していただけませんか』
 チャプチャプ波立つ音と、弾けるあぶくを除き、静かな沈黙が、揺れる水面から返ってきたが、少ししてから人魚が顔を出した。やや怯えが滲んでいる顔つきで、人魚は言った。
 『・・・ごめんなさい、知らなかったの。・・・すごく素敵な道具だったから、つい・・・』
 緊張を緩めたネッドは微笑み、言った。
 『でしたら、それはあなたに差し上げます。ですがその代わりに、あなたの歌を聴かせてくれないでしょうか』
 聴かれていたのだと、気まずそうな人魚は一瞬黙り込んでから、言った。
 『誰かに聴かれていると思うと、思うように歌えないのよ』
 『そんな!あなたの歌声はとても綺麗です。あなたの歌を心待ちにしない日は、一日もありませんでした』
 『一日も?するとあなた、ずっと聴いていたのね!』
 『ああ、どうか気を悪くしないでください。私はあなたの歌に聴き惚れていたのです』
 『ただの歌よ。口ずさんでいるだけ。気晴らしにあなたも歌ったりするでしょう?』
 『あなたほど上手には歌えません。私は木こりですから』
 『わたしだってうまく歌えないわ。歌手じゃないもの』
 『しかし見事でした。あなたの歌は本当に素晴らしい』
 『あなた、わたしを褒めてどうするつもり』
 『どうってなにも!私は心から、あなたの歌声を楽しんでいたんですよ』
 『分かったわ。お世辞でも何でもいいわ。大事なのは、あなたがわたしに黙って聴いていたという事よ』
 『聴いていたんじゃない、聴こえてきたんです!』
 『あらそう。気が付かなかったわたしが、間抜けだって言いたいのね。そう、おバカなわたしが口ずさむのを、こっそりあなたは聴いていた』
 『おお、怒らないでください!決して私はやましい気持ちなど――』
 『人が気ままに歌っているところを盗み聞くのが、あなたたちの礼儀という訳?』
 『私の話を聞いてください!お願いです!』
 『そうね、聞いてあげてもいいわ。あなたがくれた竪琴のためにね!』
 『実は楽器は最初から、あなたのために手に入れたのです。この前もあなたはここで歌っていた。長い髪を梳きながら。湖で歌うあなたを一目見ようと、私は茂みに隠れていた。そう、我ながら卑怯な考えだとは思ったが、こうでもしないと、いつもあなたは私から逃げ出してしまう。綺麗な歌声もさることながら、初めて見たあなたは美しかった。全く泉の精かと私は思いました。私がいることを知らなかったあなたは、ちょうどあなたの言った通り、誰にも聴かれていなかった・・・・・・・・・・・・ために、いつもの歌を自由に口ずさんでいた。私の目、耳、それから心は、あなたとメロディに、どうしようもなく惹きつけられました。そうです、もう一度あなたに会うために、わざと私は竪琴を置いておいたのです。あなたにとっては腹立つ仕業だったかもしれないが、ようやく私はあなたに会えたのです』
 自ら秘密を明かした男を見つめた人魚は、どうしたものかと黙っておった。胸の内で、ネッドは密かに祈っておった。どうか軽蔑しないでくれと。また彼の前から姿を消したもうなと。そして、ネッドの熱心な祈りが通じたのか、人魚はちょっとだけ微笑むと、こう言った。
 『分かったわ・・・。そんなにわたしの歌が気に入ったのなら、許してあげる。・・・ええと・・・』
 『――ネッド。ネッドといいます』
 『ネッド。いい名前ね』
 『あなたは?』
 『わたしのことは好きに呼んで。何でも構わないわ』
 と、人魚は言うものの、困ったネッドは、人魚をマリアナと呼ぶことに決めた」

「人魚のマリアナは若く、美しく、健康的な女じゃった。ときたま桟橋に座っては、甘美な歌を綺麗に歌い、ネッドの贈った竪琴をつま弾いた。もちろん、しばしば長い髪も梳かしておった。そのためネッドは、雑木林で摘んだ花を持ち帰り、よく髪は可憐な花で飾られた。泳ぎが得意じゃったマリアナは、ネッドと一緒に潜り、湖水の中で競争した。当たり前じゃが、人間のネッドが勝ったことは、ただの一度もなかった。ネッドはマリアナと、取り留めのない話をした。泉から出たことのなかった彼女のために、ネッドは陸について様々な話をした。湖を囲む森は、木がいっぱい生えておって、そんな木を自分は伐って暮らし、キノコや木の実、魚、獲物の肉を食べて生きておる。物好きな自分は今、一人で森の中の丸太小屋に住んでおるが、他の人間たちは、大体村とか街に暮らしておる。自分は自然が好きだから、なるべく自然と共に生きていきたい。マリアナは、人魚の自分についてはあまり語らなかったが、ネッドのように、人間への興味が尽きないようじゃった。彼女は脚を面白がり、どうしてうろこがないのかと、尋ねたネッドをひどく困らせた。指の形、大きさも、マリアナの好奇心をくすぐった。何故親指だけが太く、他の指たちは細いのじゃろうか。人魚の彼女には分からなかった。だからこそ面白かった。そう長くはかからずに、ネッドとマリアナは親しい友となった。いつしかネッドは、マリアナを想いながら、眠りに就くようになった。そう、恋じゃよ。マリアナと過ごす泉でのひと時は愉快で、この麗しい人魚から、彼は目が一向に離せなかった。囁くような甘い調べに、彼の心は踊った。愛らしい微笑みのためなら、彼は全てを捧げても惜しくはなかった。恋の病と情熱が、ネッドをむしばんでいきおった。二人はこの先も、一緒にいられるのじゃろうか。何をどうしたら、想いを遂げられるのじゃろうか。マリアナは友の異変に感づくと、言った。
 『ああネッド。あなたは一体何を抱えているの。可哀そうなあなたを苦しめる胸の内を、教えてちょうだい』
 『何でもないんだよ、マリアナ。僕は元気だ』
 と、答えたネッドの疲れた表情に、取り繕った笑顔が浮かんだ。
 『嘘やごまかしなんて聞きたくないわ。わたしたち、いいお友達でしょう?』
 『友達、か・・・。僕が悩んでいるのは、実はそこなんだよ、マリアナ』
 『どういう事?』
 『僕は君の恋人になりたいんだよ、マリアナ・・・。しかし僕は君のことを何も知らない。この湖で知り合った以外はね。そして君が人魚で、人間の僕と違う事も』
 『・・・』
 『同じ人魚となら、君は幸せになれるのだろうか。とでしか、君は満たされないのだろうか』
 『・・・』
 『だけど僕は君を愛している!ほかのどの男よりも、いいや、どの人魚たちよりもずっと!』
 『・・・』
 『マリアナ。君のためなら、僕は命だって惜しくはない。僕は君ほど早く泳げやしないが、ずっと側にいて、君の歌声を聴いていたいんだ!君が微笑むのを見ていたいんだ・・・!そのためなら、僕は何だってする』
 『・・・ネッド・・・』
 それ以上マリアナは何も言わなかった。代わりに、彼女はメロディを口ずさみ始めた。歌うにつれ、涙が静かにこぼれ落ちた。それからマリアナは歌い終えると、しばしの間うつむいておったが、突然ネッドの方を向いてこう言った。
 『ああネッド!わたしもあなたが好きよ!たとえあなたが、わたしと同じ人魚だったとしても、必ず愛していたわ!でも確かにあなたは人間で、人間は人間と恋に落ちるべきなんだわ!』
 『だが僕は、光るうろこや尾びれを持った君がいいんだ!君でなくては駄目なんだ!』
 『こんなもの!』
 と、取り乱したマリアナは憎らしげに言うと、太ももの辺りにあったうろこを引きちぎり、泉へ乱暴に投げ捨てた。不安定になったマリアナは泣き出し、彼女を優しく包み込むネッドの胸の中で、さめざめと泣いた。そして、最後に落ち着きを取り戻すと、ネッドにもたれるマリアナは、ゆっくりと口を開いた。
 『わたしは絶対に湖から上がれやしないわ・・・。それでもわたしと一緒にいたいの、ネッド?』
 『もちろんだよ、マリアナ!ちなみにそれはどうしてなんだい?』
 『わたしたち人魚は水から離れたら、干からびて死んじゃうの・・・。おおネッド!あんなみじめな死に方、あなたに見せたくないの!』
 『大丈夫だよ、マリアナ。君は死なない。僕が付いている』
 『ああネッド!約束してちょうだい!何があっても決して離れないって!』
 『約束する。たとえ世界が滅びようとも、僕は君から決して離れない』
 『・・・お願いよ、ネッド・・・』
 『・・・マリアナ・・・』」
 「なんだ、いい話じゃん。結ばれた二人は結局、『末永く幸せに暮らしましたとさ』?」
 古い荷馬車の中で、すっかりくつろいだケットが口を挟んだ。
 「ええ、ロマンティックなお話ね・・・。人魚と人間の道ならぬ恋。もどかしいわね・・・」
 どこか満足げなエフィが感傷的に言った。
 「・・・・・・」
 私は言葉が出てこなかった。雑木林に一人で住む木こりって、・・・ベルク・・・?とは思ったものの、古ぼけたジュネ爺さんが、退屈しのぎに話してくれていた伝説は、まごうことなき昔話だったし、きっと別人だろう。ああ驚いた!古臭い物語に出てきたネッドがベルクだったら、なんて!あり得ない!そして万が一そうだったとしても、何故彼は今も生きている?それも若い姿のままで!どうして彼はあの小屋に住み続けている?ああ、あの桟橋!何から何まで、不思議と伝説と重なる違和感に、私は苛まれた。
 「ひゃひゃひゃ。ところがどっこい、ただの人魚じゃあなかったんじゃな、マリアナは。そう、末恐ろしい怪物、セイレーンだったんじゃよ・・・。マリアナは自分を生粋の人魚だと考えておったようじゃが、彼女の内で流れる魔物の血が、それを許さなかった。呪われた血のせいで、彼女はモンスターの自分を裏切ることができなかった。セイレーンは美しい。それこそ魂までもが、抜き取られてしまうほどにな。じゃが同時に大変恐ろしい。多分恐れることを知らないから、進んで奴らは、人を恐怖のどん底へと落とし込むのじゃろう。悪い奴らは、自分が楽しむためなら何でもする。渇きを満たすためなら。愉快に耽るためなら。よってマリアナは、愛しい恋人と離れることが、次第に我慢できなくなっていきおった。一時も離れたくなかった彼女は、別れ際ネッドに泣いて縋った。
 『行かないで、ネッド!わたしを一人にしないでちょうだい!』
 困り果てたネッドは月明りの下、岸辺で眠ることにした。優しい彼は、わがままなマリアナの側で眠ることに対して、満足をさえ覚えておった。そんなネッドのために、マリアナは子守唄を歌った。岸へ半分身を乗り上げた彼女は頬杖をつき、リズムをとるかのように尾びれをゆったりと振り、歌った。明るい月の光が人魚を妖しく照らし、素敵な幻想を見たネッドは、夢心地で眠りに就いていきおった・・・。おお、これを幸福と言わずに何と言おうか!純粋な幸福以外の何物であろうか!ネッドは幸せじゃった。ひんやりと冷たい指先が額に優しく触れ、濡れた長い毛先が耳をくすぐり、口ずさむ唇から吹きこぼれる息が、顔をそっと撫でた。彼は神に感謝してもし切れなかった。美しい人魚と恋に落ちるなど、まるでおとぎ話のようだとネッドは考えたが、有り余る光栄に痺れていた彼は、口が上手くきけなかった。しかし偉大な恋は盲目じゃ。恍惚としたネッドはやがて寝食も忘れ、マリアナと過ごす時間だけにうつつを抜かすようになった。雨の日も、暑い夏の日も。風の日も、色づく秋の日も。雪の日も、温かい春の日も。雷の日も、凍てつく冬の日も・・・。泳いだり潜ったりしている時間の方が長くなった。ネッドは丸太小屋から、湖へ引越ししたようなものじゃった。彼はバラ色の人生が永遠に続くと信じておった。すっかりやつれた彼は、大切な恋人を疑いもしなかった。自分はもはや生きているのか死んでいるのかさえ、弱ったネッドには分からなかった」
 「おぞましい怪物の血が騒ぐ満月の夜、ネッドと泳いでいたマリアナは、普段と様子が違っておった。優美な笑みを失った顔は青ざめ、妖しげな瞳だけがぎらぎらと輝いておった。濡れた長い髪は逆立ち、七色のうろこが爛々と光っておった。毎日のように彼女を見ているネッドはすぐに気が付いたが、マリアナは自分に起きた変化を知らないようじゃった。彼女はいつもの歌を口ずさみ、湖をすいすいと泳いだ。体力の落ちたネッドはもう、ついていけなかった。何日も飲み食いしていないんじゃ、当然じゃ。そしてそんなネッドを振り返りもせず、マリアナは潜った。おお、いつもであれば、笑った彼女は後ろを振り返り、決まって彼を急き立てたものじゃったのに。追いかけることもできず、その場で佇んでおったネッドは、揺れる水面に映り込む月としじまを得た。マリアナは中々顔を出さなかった。あまり長く潜っておるので、心配になったネッドは恋人を探し求めた。星月が浮かんだ黒い水たまりを破りながら、ネッドはあちこちと生気のない顔を向けた。どこかでしぶきが聴こえたと思い、あちらへ振り向く横顔。いや、しぶきはそちらじゃったか。一体マリアナは何を考えておるのじゃろうか。いきなり現れて脅かすつもりだろうと、ネッドは勘繰った。恐らくそれは、常日頃のふざけた遊びと何ら変わらない、他愛もない戯れじゃろう。そう、楽しい恋人たちにおける甘いじゃれ合い・・・。
 『マリアナ!どこなんだい、マリアナ!』
 ネッドは宵闇へ呼びかけた。
 『こっちよ、ネッド!こっち!』
 大分離れた向こう岸から、顔を出したマリアナが答えた。月の光を浴びながら、濡れた長い髪をかき上げた、この世のものとは思えないくらい麗しい人魚を、そのおぼろな両目に捉えたネッドは、彼女のもとへ向かった。なぜかしら今夜のマリアナは、ほとんど妖艶と言っていいほどで、ネッドはどうにも抗えない魅力に憑りつかれた。究極の美がそこにあり、手を伸ばしさえすれば、直接彼は触れることができた。彼女の頬を覆った彼の手へ、うっとりと感慨深げなマリアナは、自分の手を載せた。最高に素晴らしい夜じゃった。月明りの下、蔦のように絡み合った二人は口づけを交わし、彼らを除く外界を完全に締め出した。ネッドは幸福の渦に溺れた。今の彼のように、これほどまでに幸せだった男は、かつておったのじゃろうか。いいや、一人たりともおらんかったじゃろうて・・・。愛し合うことに夢中じゃったマリアナは、彼女の内側で叫ぶ声が聴こえなかった。身体の奥底から響いた声は、こう繰り返しておった。
 『マリアナ!あんたはあたし。セイレーン!あたしはあんた。同じ血があたしたちに流れている!彼を離しちゃだめ。絶対に。離しちゃだめ!決してあたしたちは・・・・・・彼を離さない』
 (そうよ、彼はわたしに約束してくれたもの。何があっても決して離さない・・・・って・・・)
 義理堅いネッドは、愛しい恋人を離すつもりはさらさらなかった。きつく抱き合ったまま、徐々に徐々に二人は沈んでいきおった。マリアナはネッドを連れていくつもりなぞ、露ほどもなかったが、セイレーンの血が余儀なくさせた。そして、美しくも恐ろしい魔物に心を捧げた木こりは、満月を抱いた湖面に浮かんだ、最後のあぶくと共に消えた・・・」
 「・・・おしまい?ちょっと待ってよ爺さん、なんでマリアナはネッドを連れて行ったんだよ!」
 「そこはほれ、伝説じゃからのう。ひゃひゃひゃ!」
 昔話に感動したエフィは涙を滲ませ、赤らんだ鼻をすすっていた。
 「何て切ないお話なの・・・。せっかく二人は結ばれたのに・・・」
 「・・・・・・」
 セイレーンと一緒に湖の底へ沈んでいったネッドを、私はベルクに重ね合わせた。そんな、ラスブールの森で出会った彼は、朝からマンレイ湖に潜り、ニジマスを採っていたではないか!何から何まで、ネッドと揃いすぎていやしないか?
 「ジュネさん。ラスブールの森で暮らす、ベルクという人を知っていますか?」
 ジュネはチラリと後ろを振り返り、言った。
 「・・・うーん、知らんのう・・・。わしゃ聞いたことないどころか、あすこで住むような奴がおったのかい!」
 「マンレイ湖のほとりで、丸太小屋に住んでいます」
 「いんや、分からんよ・・・。確かに昔はあったかもしれんが、今はのう・・・」
 過去を思い返すように、遠い目つきをしたジュネは、しみじみと言った。
 ベルク!暖炉の明かりに照らされた真剣な横顔を、私は覚えていた。影にくっきりと浸食された面立ちは、目には容易く見えない、彼の中の悩みと苦しみを、ぼんやりと浮かび上がらせていた。彼にまとわりつく密やかな謎に、私の心は吸い寄せられた。ああ、あの時のあなたは何を考えていたの?燃える炎の奥に何を見出していたの?あなたは誰を見つめていたの?あなたの心は誰のものだったの?どうしてあなたは一人で暮らしていたの?あなたは一体誰を待っていたの?それからふと、私は湖での彼とのやり取りを思い出した。「君にとってよっぽど大事な人」――。爽やかだったベルクは言った。不穏に騒ぐ胸の内で、分からなかった私は繰り返し問いかけた。あなたは、ベルク?あなたはよっぽど大切なマリアナを、ずっと待ち受けていたの?おお、でもあなたはもう―――。
 本当にベルクという名の木こりは存在したのか、引き返せない今となってはもう、真相はやぶの中であり、事実私の思慕もまた、影を潜めていった。
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