二十四節気の彼方へ

tosa

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霜降、立冬前日

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 立冬までの日々は足早に過ぎていった。今日は十一月六日。暦の上では霜降だ。寒い北の地域や山に霜が降りる頃。

 確かに十一月に入ってから急に気温が低い日が続いている気がする。そして今日は立冬前日でもあった。

 波照間隼人との決闘を明日に控え、僕は堂々と学校をずる休みした。明日の正午に僕は死ぬんだ。今日ぐらいは好きに過ごしたい。

 僕は仕事に出掛ける母親にお弁当を作って渡した。そんな事は初めての事だったので母親は目を丸くしていた。

 妹の希には、女子中高生に人気のダンスグループのDVDをプレゼントした。希は最初気味悪がっていたが、DVDには罪は無いと言わんばかりに喜んでいた。

 僕は母と妹に心ばかりの感謝を込め、最低限の礼儀を果たした。その時、僕は部屋の時計を見て慌てた。

 急がないと待ち合わせの時間に遅れそうだ。遅れようものなら、鬼コーチの鉄槌が下ってしまう!

 僕は急いで着替え家を出た。近所の公園を横切る時、目の前に紺のブレザーの制服を着た美女が立っていた。

「稲田君。もうお昼近くよ? 今日はサボるつもり?」

 郡山楓が優等生の笑顔で僕に歩み寄る。今日学校を休んだのは、郡山と顔を会わせない為でもあった。

「······明日は大事な日だからね。今日はゆっくり休むんだ」

「そうなんだ。なら稲田君。私とこれから遊びに行かない?」

 郡山が何も知らない顔をして僕を誘う。明日立冬の日。波照間隼人と決闘をする事を協力者の郡山が知らない筈がない。

「生憎先約があってね。郡山とは行けないよ」

 ······こんな美女の誘いを断る日が、僕みたいな人間に訪れるとは思いもよらなかった。僕の言葉に、郡山から笑みが消えた。

「······私があんな女。いえ。私が出雲彼方さんより魅力が無いって事かしら?」

「······郡山は魅力の塊みたいな人だよ。誰もがそう思っている。でも、僕にはもっと魅力を感じる人がいるんだ」

 郡山は無言で僕に近づく。その距離は、互いの顔が触れるかと思う程近かった。

「······これが最後よ。稲田君。私達の仲間になって。あなたには素晴らしい力と魅力があるわ」

 間近に迫った郡山の両目は、恐ろしい程冷たく見えた。そして感じた。この郡山の瞳から感じるこのイメージは······。

 深い悲しみ、絶望、そして、やり場のない大きな怒り······。

「やめてっ!!」

 郡山の両手が僕の胸を押し退けた。郡山は呼吸が乱れ、その表情にはいつもの余裕が無かった。

「······私の心を覗かないで」

「······郡山。君は一体」

 郡山は踵を返し、歩き始めた。

「······稲田君。残念だわ」

 前を向いたまま、郡山は一言だけ言い残し僕の前から去って行った。郡山は何か理由があって波照間隼人に協力しているのだろうか?

 僕は腕時計を見て凍りついた。約束の時間に完全に遅刻だ!! 僕は駅まで全力疾走した。

「······彼方?」

 駅の改札口で僕の目の前に立っていたのは、純白のセーラー服を着た少女ではなかった。

 白いブラウスの上に白のカーディガン。そして、黒のタイトスカート姿の彼方だった。よく見ると髪も後ろで結んである。

 量販店の黒のシャツとジーパン姿の僕は、しばらく彼方に見惚れていた。僕に気づいた彼方は、小走りに駆け寄って来た。

「ちょっと稲田祐。遅れた上に、何を呆けているのよ」

 彼方の声で僕は我に返った。

「え、お、遅れてごめんね。彼方の私服姿、初めて見たから。その」

「べ、別にあんたの為じゃないわよ!」

 彼方は頬を赤らめ強く否定した。僕の心の中は、大玉の花火が打ち上がったような気分だった。

「で、決闘前日にどこに行くの?」

「······彼方の大事な人の、思い出の場所」

「え?」

 怪訝な表情の彼方の手を引き、僕らは電車に乗り込んだ。

 平日の明るいこの時間帯。電車は空いていた。僕らは並んで座席に座る。心地よく揺れる電車は、僕達をゆっくりと目的地まで運んで行く。

 十四駅目で僕達は下車し、小さな駅の改札を出た。そして十五分程歩く。

「······ここって学校よね」

 彼方が高校の校門の前で校舎を見上げた。ちょうど鐘が鳴り響き、校内からは学生の声が微かに聞こえてきた。

「ここは、彼方のお母さんが通っていた学校
だよ」

「え? お母さんの?」

 僕は以前、カピバラと言霊権を行使し交渉した時、併せて彼方の母親の個人情報を教えてもらった。

 今目の前にしている校舎内に、十八歳の彼方のお母さんが生徒として授業を受けている。

 残念ながら、母親本人に会うことは許されないが、せめて母親の思い出の地を彼方に見せたかった。

 彼方は黙って校舎を見上げていた。

 僕らはその後クレープ屋に立ち寄った。

「ここの苺と生クリームのクレープ。彼方のお母さんのお気に入りだったらしいよ」

 彼方は母親のお気に入りと同じクレープを注文し、夢中で食べていた。

 よく通った図書館。土いじりが趣味で、市が貸し出していた区画で野菜を育てていた畑。

 写真でしか見た事がない実の母親。その母の思い出の場所を、彼方は目を輝かせて見ていた。僕らはこの小さい街にあるショッピングモールに着いた。

「······ここは? お母さんとどういう関係があるの? 稲田祐」

「ここは彼方のお母さんが、初めてのデートで来た場所だよ」

「······お母さんの初デート」

 彼方はまたしばらく立ち尽くしていた。僕は黙っでこの時間を待つ。この時間を邪魔してはいけない。

 きっと、彼方は心の中で母親と対話している。初デートはどんな相手だったか? 母から誘ったのか? 彼から誘われたのか?

 そのデートは楽しかったのか? 二回目のデートはあったのか? その彼と付き合ったのか? その彼と一緒にいて幸福だったのか?

 母親と思い出がない彼方は、母親の思い出をなぞりそれを共有しようとしている。

 僕らはショッピングモール内のフードコートでご飯を食べた。彼方は母親が食べたハンバーガーを頼み、綺麗に完食した。

 陽が傾き始めた頃、僕らは見晴らしのいい高台にいた。手すりの眼下には、この小さな街が一望出来た。

「······彼方。ここは、その。彼方のお母さんがプロポーズを受けた場所なんだ」

「······プロポーズ。お母さんが」

 つまり、それは未来の僕がプロポーズした場所だ。ここに連れて来る事は迷ったが、僕は来る事を選んだ。

 恨み言でも罵声でもいい。彼方にはスッキリして欲しかった。いや、こんな事で僕への怒りが無くなる筈もない。

 だけど。それでも。彼方の母親の思い出の場所はやっぱり彼方に見せるべきだと思った。

「······今日はありがとう。稲田祐」

 彼方の口から呟かれたのは、僕を罵るものでは無く感謝の言葉だった。

 僕は戸惑った。僕はお礼を言われるような人間では無い。僕は身重の妻と子を捨てて、姿を消した最低な男だ。

「いいんだ彼方。僕を責めてくれて構わない。未来の僕は、彼方と彼方のお母さんにそれだけの事をしたんだ」

 手すりに手をかけたまま彼方は沈黙していた。その彼方を照らし出すかのように、夕日の残光が射し込んでくる。

「······春にあんたと出会って、今日まであんたを見てきたわ」

 彼方が静かに口を開く。その表情は、声色と同じく落ち着いていた。

「どうしても重ならないの。私とお母さんを捨てた未来のあんたと、今目の前にいるあんたとが······」

 彼方は俯き、両手で手すりを握りしめる。

「あんたがそんな事をするとは、どうしても思えないの。もしかしたら、何かやむ終えない理由があったのかもしれない」

 ······理由? 妻と子を置いて姿を消す理由が僕にあったと言うのか? 

 ······違う。どんな理由があったにしても、僕は決して許されない事をした。未来の僕は!!

「未来のあんたよ」

 彼方の言葉に、僕は思考が一瞬停止した。

「私とお母さんを捨てたのは、十三年後の未来のあんた。今のあんたじゃない」

 ······僕は、瞼の裏の温度が急に上がって行く事を感じていた。

「だからもう苦しまないで。稲田祐。今のあんたは何も悪くないわ」

 僕の脆弱な涙腺は熱によって溶かされ、洪水のような流れる涙を止める事は出来なかった。

「······なんであんたが泣くのよ」

 苦笑した彼方が両手を伸ばし、僕の頭を優しく引き寄せた。

 彼方に抱きしめられた僕は、嗚咽を漏らし泣き続けた。これじゃあどっちが親か分からなかった。

 駆け足で沈んでいく夕日が消えるまで、僕の涙腺は回復しなかった。

 夕日の代わりに、月が帰り道を照らしていた。僕と彼方は明日の決闘へ気持ちを切り替えようとしていた。

「あの波照間島にだけは負けないでよ! 稲田祐」

「か、彼方。だから波照間島じゃなくて、波照間だって。人が住む日本最南端の島じゃないから」

 彼方に言いながら、僕の頭の中に島という文字が浮かび上がった。

「······そうだ。島だ! 石垣島!」

 僕の突然の大声に彼方は驚いた様子だった。石垣島。僕が住む街から二千キロ離れた場所に浮かぶ島。

 彼方と出会う前の年。母親が職場で勤続二十年のお祝いに旅行券を貰った。行き先は石垣島。母と僕と妹の初めてと言っていい位の旅行だった。

「すごくいい島なんだ! 気候は秋でも暑いくらいで市街地から離れると全く信号機がないんだ! 沖縄料理も美味しくて特に魚! お寿司がめちゃくちゃ美味しいんだ」

 僕のまくし立てる言葉に、彼方は目を丸くして聞いていた。

「海が澄んだビーチも沢山あって、ただそこでのんびり過ごすだけで、気持ちまで澄んでいく気分になるんだ!」

 僕はどうしてしまったのか? 自分でも抑制が効かなかった。

「夜は空が広くて星がとっても奇麗なんだ。彼方も絶対感動するよ! 彼方にも見て欲しい!」

 僕の妙な演説は、彼方の苦笑いで終了した。

「稲田祐。私は明日の正午に死ぬの。残念だけど、その星空は見れないわ」

 明日の正午。それは彼方の誕生日であり、彼方の生まれた時刻らしい。

 ······僕は彼方が明日も明後日も、その後もずっと生きている事を前提に話してしまった。彼方、明日死ぬのは僕なんだ。君じゃない。

「······分からないよ彼方。もしかしたら明日、奇跡が起きて彼方は死なないかもしれない」

「何を言ってんの。生憎奇跡なんて、見た事も聞いた事もないわ」

 彼方は呆れた様子で取り合ってくれない。

「······起きるよ。きっと奇跡が······」

「······稲田祐?」

「だって、こんな元気な鬼コーチが明日死にますって、誰も信じられないよ」

 僕は憎まれ口を叩き走り出した。

「ちょっ、誰が鬼コーチよ稲田祐! 待ちなさい!」

 彼方がいつもの元気な声で追いかけてきた。

 ······僕がついたこの嘘を、彼方は絶対に許してくれないだろう。明日僕が死んだ後に、どんな事を言われるのだろうか。

 想像しただけでまた涙腺が決壊しそうになった。それでも僕は嘘をつき続ける。これは、僕の人生で最後の嘘だ。

 この下手な一世一代の演技を、明日の正午まで僕は演じ続ける。必ず。どんな事があっても。

 駅が近づいたのか、電車が走る音が聞こえてきた。空から照らされた月夜の道を、僕と彼方は笑いながらいつまでも駆けていった。
 
 それはまるで、今日と言う日の終わりを惜しむかのようだった。


 




 


 
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