この手を、握り返したら

tosa

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文月④

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 七月三週目の金曜日。全国の学生達が待ちわびていた夏休みがついに明日から始まる。予定のある者も。無い者も。等しく四十日弱の休みが与えられる。
 
 しかし天気には恵まれなかった。数日前から発生した台風がその勢力を増し、今夜関東を通過するからだ。

 終業式の今日も午後から風が強くなり、連日我が物顔で空を占拠していた太陽も、薄暗い雲に覆われていた。
 
 この半日の終業式は、長い夏休みを始める為の儀式でもあった。終業式が刻一刻と終わりに近づく度に、生徒達はこれから始まる夏休暇に思いを馳せていく。

 ところが台風の為に終業式も早めに切り上げられ、生徒達は早々と帰宅させられた。

 予定より学校から帰宅出来る。普段なら大歓迎だか、今日ぐらいはもう少し儀式の余韻に浸っていたかった。多くの生徒はそう感じていた。
 
 夜の帳が下りると雨、風共に強まっていった。丘の上はるは窓を揺らす音に不安になりつつも、夜中のうちに台風が通過するという予報が当たる事を祈った。

 明日の夏休み初日。予定を入れている人は沢山いるんだろうか。夢も見る事なく、はるはそんな事を考えながら眠りに落ちて行った。
  
 夏休みの初日。予定をしっかり入れていた茶髪とピアスの少年は、横浜元町中華街にいた。予報通り台風は朝方関東を通り抜け、空は台風一過の青空だった。

 数日出番が無かった太陽は、その役目を挽回するかのようにその姿を人間達に見せる。

 中津川守は朝からテンション低目だった。今日はかねてより念願だったデートの日だった。

 少年は天気が回復し予定が流れなかった事を、本来なら狂喜乱舞する筈だった。
 
「あ。晴れたから出掛けねーとな」
 
 中津川守は覇気が欠けた口調で呟く。それはまるで、仕方無く仕事に向かうサラリーマンのような無気力さだった。
 
 男女六人は見事に装飾された東門を抜け、中華街大通りと呼ばれる道を歩いていた。通りの左右には、中華風の建物が隙間なく軒を連ねている。

 至る所で店の従業員がメニューを片手にお客を呼び込んだり、栗の味見を進めていた。
 
 天気の回復と夏休み初日とあってか、中華街は多くの人で賑わっていた。男女六人は大通りにあるチャーハンが有名な店に入って行く。この店は守が下調べし、予約していた店だった。
 
 席に案内される途中、守の前を松高慶子が歩いていた。この学年一の美人とのデートを楽しみしていた筈だったの、守の気分は一行に高揚しなかった。

 慶子の後ろ姿から守が連想するのは、手と頬に血をつけ、窓の前に立っていた丘ノ上はるの背中だった。
 
 六人が席に座り。賑やかなランチが始まった。守の意識は半分ここに無かった。松高慶子が守に何か話しかけている。

 彼女はマスカラを付けていた。それを見た時守は、はるの長いまつ毛と奥二重を思い出した。
 
 当初守は目論んでいた。今日はまず慶子の服装をさり気なく褒め称え、得意の話題で終始楽しませるつもりだった。

 しかし何故か彼女の服装も話も、全く頭に入ってこなかった。頭に浮かぶのは、あの日のはるの姿だった。一体自分はどうしてしまったのか。守は答えの出ない自問自答に苛立ちすら感じていた。

 普段ろくに予定の無い者にも、時には予定が入る時がある。夏休みの初日、はるは昼食後出かける支度をしていた。
 
「は、はる。もしかしてデートか?」
 
 丘の上はるの父の心太が、襖から頭を半分出しながら悲痛の声で話しかけてきた。
 
「昼間からセクハラ発言止めてくれる?」
 
 珍しくワンピースに着替えたはるが、目を細めて答える。普段お洒落と無縁の娘がワンピースを着るなどただ事では無いと父は動揺する。
 
「い、いいかはる。デートの定義はだな。男女が意図的に二人で会い一緒に行動する。だ」
 
 はるはしばらく考え込み、何か得心がいったように一人頷く。
 
「や、やっぱりそうなのか!」
 
 心太が襖から顔全部を出し叫ぶ。

「うるさいなあ。はるだって年頃なんだから、色々あるのよ」
 
 母の幸恵が心太の首根っこを掴み、はるから引き離す。 
 
「父さんも一緒に行っていいか」

「良い訳ないでしょ!」
 
 はると幸恵が、ほぼ同時に叫んだ。
 
 水色のワンピースに薄手のカーディガン。帽子はいつものにしようとしたが、母から麦わら帽子を強く勧められ従った。
 
 左手の手提袋には、先程花屋で買った向日葵が三本入っていた。待ち合わせの場所は駅の改札口だった。
 
 高坂徹は約束の時間より十五分早く着いていた。同い年の女の子と待ち合わせするなんて徹には初めての事だった。

 白いポロシャツとジーンズ姿の徹は、自分の服装が変に見えないか、朝から心配ばかりしていた。
 
 少し前迄ならこんなに緊張はしなかった筈だったが今は違った。クラスで流血騒ぎがあったあの日から、丘ノ上はるの事が頭から離れなかった。

 冷静に考えるには、かなりの努力が必要だったが、徹はこの緊張の理由の答えをもう出していた。
 
「高坂。ごめんね。待った?」
 
 思案中だった徹は、突然現実の世界に引き戻された。声の方向に目をやると、さっきまで自分の頭を占拠していた顔がそこにあった。
 
「ぜ、全然。丘ノ上だって約束の時間より五分早いよ」
 
 はるのワンピース姿に、徹はしばらく見惚れてしまった。麦わら帽子もよく似合っていた。こう言う時、女の子の服装を褒めるべきなのだろうか。徹は迷った。
 
「そっか。じゃあ行こうか」

 二人は改札口から歩き始めた。こうして並んで見ると、はるは結構身長がある方かと思われた。
 
「丘ノ上って。身長高いほうだよね」
 
「そうかな。百六十ニってある方かな。うちのお母さんと全く同じ身長なの」
 
 この前の一件で、はるはスタイルがいいという事が徹の脳裏に深く刻まれていた。
 
「一学期の通知表。もう親に見せた?」

 徹がはるの横顔を見ながら話しかける。
 
「まだだよ。うちの両親って昔から娘の成績に興味がないの。一度だってテストの答案用紙や通知表、見せろって言われた事ないんだ」
 
 手提袋から顔を揺らしている向日葵を、優しく撫でながらはるは言った。
 
「それって逆にすごいね。親って子供の成績しか興味ないと思ってた」
 
 徹はそう言って、歩道に出た所で車道側に移った。
 
 昔からはるの両親はそうだった。母の幸恵は多少気になるようだったが、父の心太に関しては勉強する時間があったら、外で遊びなさいと言うくらいの変わり者だった。
 
 父が学生時代、親が放任主義だったらしく、本人もそれが楽だったらしい。だから娘にも。という所だろう。

 たまに成績表を見せに行くと、十分。十分と頷くだけだった。体育の成績がいいと嬉しそうに娘を褒めた。
 
「字は読み書きが出来ばれいい。足し算。引き算。割り算。掛け算が出来れば社会に出ても困らない」
 
 それが父のよく言う言葉だった。
 
 交差点の信号待ちしている時、携帯電話の着信音が鳴った。はると徹の隣にいたスーツ姿の男性が電話に出る。はるはこの時、徹の顔が強張ったのを見逃さなかった。
 
 以前も似たような事があった。あの時は熊本元康の携帯電話が鳴った時だ。徹は携帯電話の着信音が苦手なのだろうか。

 だから今時の学生には珍しく、携帯電話を持っていないのか。

 だが、はるには徹の表情はまるで何かに怯えているように見えた。信号が青に変わり、はるの思考は中断された。   
 
 二人は長い坂を登り切り、丘登園総合病院に着いた。
 
 はるは百合子を見舞いたかったが、先日の件で顔を見せづらかった。そこで息子の徹に橋渡し役をお願いしたのだ。
 
 携帯電話を持っていない二人は、前日に時間と待ち合わせ場所を決め、落ち合ったのだった。
 
 直接病院で待ち合わせたらと徹は提案したが、以前のように百合子が散歩で外にいる可能性もあったので、はるは病院以外の場所にしてもらった。
 
 幸い。と言うべきだろうか。百合子は初めて会った時のように、庭の木製ベンチに腰を降ろしていた。
 
「あら。はるちゃん。よく来てくれたわね。余計な人も付いているけど」

 百合子ははるに微笑み、息子の来訪を手痛く歓迎した。
 
「余計で悪かったね」
 
 息子は苦笑する。徹は母に見舞いに来るのは週に三回までと言われていた。今週はこれで四回目だった。
 
「あの。百合子さん。この前は本当にすいませんでした」
 
 はるは深く頭を下げた。その弾みで麦わら帽子が芝生に落ちる。
 
「はるちゃんのせいじゃないわ。ビックリしたでしょう。ごめんなさいね」
  
 百合子は、はるの帽子を拾いながら微笑む。百合子は以前よりさらに痩せて見えた。その姿に、はるはまた胸が痛むような感覚に襲われた。
 
「徹から聞いたわ。はるちゃん。文化祭で息子と一緒に演奏するんですって?」
 
 今日の百合子は、点滴を下げたカートが側に無かった。それが何故か、はるにとって救いだった。
 
「はい。今、高坂君達と練習しています。本番は映像を記録するので、是非見てください」
 
 百合子はやせ細った手で、痩けた頬を撫でた。
 
「まあ、それは楽しみね。それにしても、まさかはるちゃんが徹とクラスメイトなんてね。驚いたわ」
 
 百合子の側にいると、和やかな空気に包まれる。時間も穏やかに過ぎるようだった。
 
 理由は分からなかった。確信がある訳でもない。ただ、はるの中で何かが自分を急かしていた。急がなくてはならないと。
 
 見舞の為に持ってきた向日葵が、頼りなく風に揺れていた。
 
 
 
 夏休みに入っても学校は無人にならなかった。仕事で出勤している教師。部活で登校している生徒。それでも人が少ないせいか、校内は内外問わず声がよく響いていた。
 
 よく声が大きくてうるさいと家族から苦情を寄せられる茶髪とピアスの少年は、相変わらず頭の中が悶々としていた。
 
『おかしい。絶対におかしい。なんでランキング十位のヤツの事ばかり考えてしまうんだ』

 この時中津川守は、はるの順位を一つ上げている事に気づいていなかった。丘ノ上はるは、中
津川守ランキングで初のベスト十に入って来た。
 
 音楽教室の扉を開けると、守の耳にはるの笑い声が聞こえてきた。
 
「い、一体そのTシャツ何枚持ってんの? 今日は男の嫉妬って。あははは。面白い」
 
 はるはお腹を抱えて笑っている。熊本元康のいつものTシャツを見ながら。
 
 今日の元康のシャツには〔男の嫉妬は見苦しい。そうだろう?〕と書かれていた。
 
 はるは以前から、元康のシャツの文字が自分の笑いのツボをくすぐっていた。それが今日ついに完全にツボにハマってしまった。
 
『な、なんだアイツ。あんな笑顔見た事ないぞ。初めてじゃないか?』

 はるの笑顔に中津川守は動揺していた。しかもその笑顔は熊本元康に向けられていた。
 
 元康も調子に乗り、おどけた表情でシャツの裾を両手で広げ、これみよがしにシャツの文字をはるに見せる。
 
 笑いのツボが決壊したはるは、目に涙を浮かべさらに爆笑した。
 
『くそ。ランキング八位の笑顔に、何テンパってんだ俺は! 熊本のヤツも小ネタで気を引きやがって。ん? ひょっとして狙ってる? アイツ。丘ノ上の事狙ってんのか!?』
 
 ランキング主が混乱する中、はるの順位は、十位から一気に八位になった。余談ではあるが、中津川守ランキングに置いて順位を一度にニつ上げるのは史上初の出来事だった。
 
 中津川守に気づいたはるは、鞄から何やら取り出していた。笑いが収まらず、その笑顔のままで守に近づいて来た。
 
「中津川。これ前に借りたシャツ。洗濯してボタン付けといたから」
 
 はるの笑顔と、シャツのボタンを付けるという女の子らしい技に、守は足がふらつきそうになった。
 
 『ご、五位だ。五位のヤツに動揺すんな。俺!』

 またしても無意識のうちに、はるの順位を上げてしまった。ランキング主は混乱から混迷の沼に足を踏み入れていた。
 
 中津川守ランキングに於いて、丘ノ上はるは破竹の勢いでその順位を上げていった。その勢いは留まる事を知らず。それは正に飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
 
「ありがとね」
 
 はるはそう言って微笑む。それは先程まで引きずっていた笑顔では無かった。シャツの感謝の為、守に向けられた笑顔だった。
   
『な、なんだこれ? ツンデレってヤツか? ほぼ九割ツンの奴がたまにデレ見せるとこうなるのか?いや待て俺。コイツは十割ツンだったよな。ゴギブリを足で潰すわ。人を殺意こもった目で睨むわで』

 中津川守の脳内は混乱を極める。
 
『駄目だろこれ。反則だろこれ。この街の市長は何やってんだ? ツンデレ禁止条例作んないと駄目だろ! 仕事しろよ市長!』
 
 罪の無い市長を非難し、混迷の沼で溺れ始めた守の理性と平常心はもはや崩壊寸前だった。
 
 この日の練習が終わった時。守のランキング内ではるの順位は三位になっていた。
 
 
 
 
 
 
  
 
 

 


 
 

 
 
 

 

 
 
 
 


 

 

 

 
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