天網の果て

なつあきみか

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鬼神の章

其ノ一

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 鎮守の祭りを間近に控える町なかは、露店も大道芸もよりどりみどりの賑わいだ。 
 顔見知りの露店から焼き鳥を一本失敬した暁日は、背に掛かる怒声を後目に串を持つ手をひらりと振った。 
「こら! カネ払ってけ!」 
「持ってねえよ」 
 またなと肩越しにひと声かけて、悪びれもせず賑わう人混みを歩いていく。 
 単なる顔見知りならすぐさま追いかけて捕まえるところだが、あいにく暁日はこのあたり一帯を取り仕切る仲介屋の居候だ。 
 むろん単なる仲介屋ではない。 
 表にも裏にも精通した口入れを担うこの仲介屋は、まがりなりにも一帯を取り仕切るというだけの広義でもって、道端を陣取る露店の場所取りにも当然一枚噛んでいる。 
 ようはこの仲介屋、屋号は葛城というのだが、中身は実質的な荘園の統領だ。 
 そんなところの居候を相手に、たかが鳥串一本で難癖つける馬鹿はいない。―― ということではなく、支払いはいつでも遅れてやってくる。 
 露店の主人は串に鳥肉を刺しながら、だいぶ離れた先に見知った男の姿を見つけた。 
 距離はそこそこあるが見紛うことはない。
 いつもの藍の着流しに、帯の鮮やかな浅黄色。何故いつも遅れて走ってくるのかは知れないが、つまりそれだけあの居候に振りまわされているのだろう。というのが町の者たちの大かたの共通認識だ。
 
「暁日さん行っちまいましたよ」 
 駆けつけた男に店主は肩をすくめてみせながら、今日は一本でしたと呑気に続けた。 
 どこかで脇道にでも逸れたのか、商店通りの賑わいに暁日の後ろ姿はもう見あたらない。 
「あーくそ! たかが鳥串一本買うカネぐらい持ち歩けっつんだよあいつはよ!」 
 忌々しげな舌打ちのあと、着流しの男は手にした巾着から小銭を一枚取りだした。代金を払うなり今度ははーっと盛大な溜息をつく。 
「仁さんも毎度のことながら…」 
「言うな。分かってる」 
 振りまわされているのは自覚済みらしい。それもこれもある種の弱みのせいだ。 
 ジンと呼ばれたこの男、何を隠そうくだんの仲介屋の倅だというのに、昔からあの居候には頭があがらない。 

 暁日は子供の頃にこの町へやってきた。 
 事情は仁も暁日当人も知らないが、連れてきたのは葛城が荘園の鎮守を奉るいわゆる産土神(うぶすなのかみ、またはうぶかみともいう)の社の僧で、くれぐれも大事に育てるようにと重ねて言いつけて去ったのだという。 
 もっとも仁はその言いつけゆえに暁日に対して強く出られないのではない。
 理由はただ単に、暁日のほうが仁より何倍も強いからだ。腕っぷし以外の何もかもが。 

 暁日は昔から、ひとならざる魍魎や彷徨う死霊をたやすく見分けた。それだけで仁が負ける理由には充分すぎるほどだった。 
 何しろ仁は幽霊が怖い。それをつつかれて何度暁日に泣かされたか知れない。 

 死霊も魍魎も鎮め調伏する暁日は、うぶすなの神に護られているのだと皆はいう。 
 人種も民族も雑多に入り交じるこの国では、暁日が生まれ持つ琥珀色の髪も眸も、殊更めずらしいという認識は少ない。 
 見目よく整った顔立ちも同様に、言ってみればこの国にごまんといる佳人の中のひとりに過ぎない。 
 それでも暁日は何かが違った。 
 正と邪の入り交じる俗世のただ中にあってさえ。 



 小さな路地に差し掛かったとき、何かの近づく気配に暁日はふと足を止めた。 
 同時に掴み取られた手首を引かれるまま、勢いよく路地の物陰まで引きずり込まれた。 
「…っ!」 
 肩がぶつかったのは柔らかな布地の感触だった。 
 粗い土壁に身体を叩きつけられなかったのはまだ良いが、突然こんな場所に引きずり込まれて、よかったも何もあったものじゃない。 
 しかも、傾いだ身体を支えているのは明らかに頑強な男の腕と胸板で、―― もしやこの体勢は抱きしめられているというのではないか。 
「…捜した」 
「………」 
 いったい何ごとだ。
 近ごろは鎮守の祭りをじきに控えて死霊も魍魎もとんと静かだ。ましてやこの町の人間が葛城の居候を拐かすとも考えにくい。 
 見あげた先には深笠で隠した男の顔があった。 
 笠の影と路地の暗がりが邪魔をして、男の顔の上半分は確認できなかったが、肩を越す長い黒髪が男の肩へと幾すじもざらりと流れている。 
 見えないはずの表情から垣間見えるのは、―― これは、安堵か? 
 記憶を念入りに探ってみたが、間違いなく知らない男だった。 

「…誰だ」 
 だから暁日はひとまず冷静に訊いた。―― その刹那、男の気配がわずかに揺れた。 
「…分からないか?」 
「だから誰だって訊いてんだよ」 
「………」

 そう、この気配だ。 
 先刻この男が滲ませたのは確かに安堵だった。それが今度は少しだけ揺れて、そして沈んだ。 
 なんだろう、この気配は落ち着かない、ひどく居心地が悪い。
「……、」
「……まだ寝てるか…」 

 いまだ懐に暁日を閉じ込めたまま。
 男はゆるりと傾いで琥珀色の髪に唇を寄せた。びくりと跳ねた暁日の薄い背中を腕に抱き、その耳許にささやいた。 

 ―― 目を覚ませ、沙那。 




 荷車や木桶の置かれた狭い路地は、おもての賑わいとはまったく違った。 
 ここだけ切り離されて別世界の領域にでも紛れたような、不思議な静けさをただよわせていた。 
 暁日はゆっくりと瞬いて、顔も分からぬ男に答えた。 

「人違いだ。…俺はそんな名前じゃねえよ」




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