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鬼神の章
其ノ三
しおりを挟む市中は数日後に控えた鎮守の祭りでどこもかしこも清浄だ。
このときばかりは町にも村にも人外のたぐいは姿を見せない。
うぶすなの浄化の力が最も強まるという期間の前後は、悪霊程度なら時が充ちるまえにとっくに浄化され天の門へと送られる。
力を奪われるあやかしたちも時が過ぎるまでは鳴りをひそめてやり過ごすのが常だ。
たとえどれほど雑多な町なかでも、邪も悪も飛び交うような恣意の群の中であってさえ、悪霊や魍魎、あやかしどもがひとに紛れられるはずはなかった。
ましてや暁日に気づかれることなく接触を果たせる魍魎など。
第一あれは間違いなく実体だった。
(…そのくせ人間じゃなかった。…と思う)
ではなんだ? 考えても辿りつく答えは突拍子もないものばかりだ。
たとえば鬼というのは本来は魂、目には見えない隠り身を指す。
善であり悪であり、人間よりはるかに高次な神をあらわす名でもある。
(速疾鬼ぽかったけどな…、さすがにそんなわけないしな)
連想としてはいい線だと思うが、まさか本物の鬼神が人違いをするとも思えない。
それならあれはいったい何だ。―― 男が呼んだ沙那という名も。
呼称らしいそれは、暁日の意識にはっきり「沙那」と伝わってきた。
声にして呼ばれたのは一度きり。二度目に聞いた去り際のあれは、暁日にそういった知覚が備わっていたことでたまたま拾いあげた思念に過ぎない。
こちらに呼び掛けるというよりは、無意識が呼んでいたような響きだった。
僅かな苛立ちを含んだような。あるいはどこか切ないような。
触れた唇からじかに伝わってきた感情の熱。
あれがあの男の無意識だとするなら、捜していたというのは本当だろう。
最初の安堵も、そのあとのかすかな落胆も。
(沙那。…しゃな。しゃ、な、……記憶の隅っこにも引っ掛かっちゃこねえよな…)
七つが過ぎてからこの町にやってきた暁日だが、もちろんそれ以前の記憶もある。
あの頃はよく夢をみて泣いていた。そのくせ魍魎相手には強いだけでなく、たぶん好かれたり懐かれたりもしていた。
昔から、童七つは神の手の内というように、子供の頃のほうがいまよりもっと霊感も感受性も強かったのかもしれない。
それでもあの男に繋がる記憶はどこにもなかった。
聞いたこともない呼び名と、見たことも会ったこともない男。覚えのない記憶。
仮にこれが人違いでないのなら、あの男との間に横たわるこの齟齬は何だ。
(…忘れてる…? あんな男のことをか…?)
葛城の屋敷に戻ってからも、暁日はしばらく路地での一件を考え続けた。
それでも何ひとつ思いだすことはなかったが。
ところが思いもかけず、異変に気づいたのはその翌日のことだった。
明け方早くに、同じ町内の老人が身罷った。
それ自体は安らかな大往生であり、鎮守祭も近いことで悪意の余地などあろうはずもなかったが、通夜の席に臨んだ暁日はそこで奇妙な思念を感じとった。
元来、通夜の席には死者の魂はまだそこにある。
これは鎮守祭が近かろうと同じことだ。祓われるべき悪霊でもない限り、通夜も終えない死者の魂に浄化が行われることはない。
そのはずが、故人の魂はすでにこの世のどこにもなかった。
かろうじて残っていた死者の念には、まるで何かを畏れるような脅えが感じられた。恐怖というより畏怖に近い。
「仁、俺ちょっと席外す」
参列していた幼馴染みをその場に残し、暁日は急いでおもてに出た。
姿が見えないのは悪意を蓄えた死霊や物の怪たちだけか? それ以外の、野性に頼る生き物たちは?
「……そういや近所の野良はおとといから見てないか…」
塀の上の猫も、近くの土手を住処にした犬も。こうして考えてみれば明け方の鶏や雀のさえずりも今朝は聞かなかったかもしれない。
油断した。何故だか不意にそう思った。
日没近い夕空を見あげ、暁日は昨日の商店通りへと駆けだした。
くだんの路地へ踏み込むなり、耳許で男の声を聞いた。
「まだ思い出さないか?」
そのときまで気配を感じるどころか、視界の端に影を捉えることさえ出来なかった。
暁日が振り向いたときにはもう、彼我の距離に拳ひとつほどの隙間すらなく、男はひたりと暁日の背後に立っていた。
総毛立つような怖気に全身が凍った。
男の声には昨日とは違う苛立ちの棘がひそんでいた。
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