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第四幕〈クラウド〉
宿主と龍の御徴 4
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今回の伝達不備は全面的にリヒトの失態だった。
日頃から思慮深く穏やかなリヒトだが、クラウドの異変を目の当たりにしたときの狼狽は激しく、正直なところ後日の使者とのやりとりも何をどう伝えたのか、当の本人がよく覚えていない。
クラウドは成人以降、歳の近い皇族方との会談などで忙しくしていた。
当主の実務はすでにリヒトが代行していたとはいえ、いまの時点で宮殿に居を移すことをクラウド自身が嫌がっていたため、最近は二人そろって宮殿に近い城下の邸宅で過ごしていた。少なくとも顔だけは毎日合わせていたはずなのに。
こうなるまで前兆に気づかなかった。
一度、クラウドがやたらと目をしばたたくのを見て、リヒトは大丈夫かと問うたことがある。
書類仕事の合間だったので、疲れ目でなければゴミか何かだろうという型どおりのやりとりのはずが、クラウドは視力が上がった気がする、と答えた。
いまにして思えばあれは前兆だ。
クラウドの身に起こる変化は、特にこの時期のそれらは、外から見えるものも見えないものも、すべて然るべき理由があり、そして先の予測がつかない。
そういう認識でいるべきだったのに、リクからの報せでクラウドの私室に駆けつけたリヒトは、その姿に言葉をなくした。
医師を、いや神殿に連絡を、と狼狽えるリヒトに対して、リクのほうがよほど冷静だった。
リヒトが到着するまでに使用人らの人払いを済ませ、リヒトの意を汲んで神殿と宮殿に急使を送り、駆けつけたそれぞれの使者を侍従長らとともに適切に遇した。
リヒトもリクも、クラウドの背の龍紋を直接拝したことはなかったが、その身が龍神の依り代だということは聞き及んでいた。
それがどれほど畏れ多いことであるかも、どちらも正しく理解していた。
ただ彼らの間で決定的に違ったのは、リクがクラウドに仕える従者であるのに対し、リヒトはクラウドの唯一の肉親だったことだ。
これを役目に当てはめて考えたとしたら、速やかなリクの行動も、いつにないリヒトの動揺も、どちらも非常に納得がいく。
むろん、リクや侍従長がいたからリヒトも気が済むまで動揺していられたわけだが、そうでなければいち早く冷静に立ち返り、適切に動いていたはずだ。
そして今回の手違いもきっと起こらなかった。
神殿の使者も帝の勅使も、過去の文献に類似の事象があるにはあるが、ここまでの状態は例がないという。
二日経ち、四日が過ぎてもクラウドの変容に収束の兆しはなく、その姿の異形は筆舌に尽くしがたい。
そして六日を過ぎた頃、一見落ち着いたようでいて半分以上が思考停止のままだったリヒトは、何気なく呟いたリクの言葉に反応した。
「レスタさま、いまどのへんかな…」
―― そうだ、レスタだ。
もちろん急使は異変初日にすぐさま手配した。それすら気が動転していたので朝どころか午後からの通達だったが、急使なら五、六日で国境を越えられるはずで、―― いや、今日はまだ六日目だ。カムリの急使がレスタのもとへ到着するまでに、まだヴァンレイク内の移動に最短四日はかかる。
「どういうことだ。急使の到着はまだ先だろう」
「そうですけど…、でもレスタ様にはもう伝わってるんじゃないですかね…」
ひとの手など借りずとも、レスタなら龍神の御業でもって、すでに。
「………」
「…そう思いませんか? なんていうか……、レスタさまだし…」
まったくもって根拠は無いも同然だったが、リヒトはすとんと腑に落ちた。
いろんな意味で、腑に落ちたのだ。
それは旅路のレスタが得た正鵠と、同じ種類のものだった。
「ということは…、」
たとえそれがほんの数日の違いでも、レスタはすでに行動を起こし、こちらに駆けつけているはずだ。
最短の日程を九日と仮定して、レスタにそこまでの厳しい旅路は無理だとしても、単騎の先触れなら可能だ。つまり早ければ三日以内にレスタの先触れが到着する。
その目算どおり、九日目の夕刻にバルトの白装束がカムリ邸に到着した。
はっきりと、何日に出発し、何日に到着する、という一文はなかったが。
それでもレスタの手跡というだけで、この先触れがどれほどリヒトを安堵させてくれたかしれない。
だからつい気が逸り、リヒトは連日こちらに詰めていた内宮の使者をつかまえて、慌ただしく指示を伝えた。
近日中にレスタ・セレンという人物が帝都に入る。東の街道すじと周辺の宿場町に通達を出して、見つけ次第こちらの邸宅まで報せてほしい。警邏と、できれば手空きの騎士にも協力を頼む、と。
その顔と声は停滞した現状の打破に希望が見えたことで、かえって焦燥に拍手か掛かっていた。
勢いに圧された使者からその者の外見は、と問われたので、「金髪の美形だ!」と答えてクラウドの私室に引き返したのは、常に折目正しいリヒトらしからぬ、それでいて非常に人情味のある、ある意味納得のひと幕だったわけだが。
リヒトにとって誰より好感度の高いレスタは、いつからかその人柄も容姿も在りようさえも、誰もが知っていて然るべき、ぐらいの位置づけになっていたのかもしれない。
気持ちは分かるが暴論である。
そうして出された目的の分からない唐突な指示(という名の協力依頼)は、人手を確保するために騎士にも手伝ってもらったことで、何やら曰くつきの捜索らしい、という少々穿った解釈に軌道が逸れた。―― 結果、ああなったらしい。
疲労困憊のレスタは一瞬あっけにとられて、やがてじわじわと怒りが湧いてくるのを感じた。
それがあっという間に霧散したのは、周囲の近衛たちがレスタより早く殺気立った気配を撒き散らしたからだ。
(……いや、ちょっともう勘弁してほしい。もうほんと疲れてる。…疲れた)
結局レスタの最終的な心境はそこに着地した。
同時に身体の軸から力が抜けて、近くの椅子を支えにへなへなとその場に蹲った。
「レスタ…!」
焦ったような城代の声が聞こえたが、―― うん大丈夫だから、今だけ、ここだけ、全部丸投げするのはダメだろうか。
もう気絶したい。そんな思考をどうにかこうにか追い払い、レスタは城代の手を取ってゆっくりと姿勢を立て直した。
ここでよけいな悶着を起こして時間を無駄している場合じゃないのだ。
同行を請われたが、行き先さえこちらの意に適うならむしろ願ったりだとも言える。そもそもナーガの騎士がレスタの名を知っているということは、その情報の出どころも自ずと知れるというものだから。
「…カムリ家からの指示か」
「いかにも。お急ぎらしいと聞き及んでいる」
ああリヒトも焦ってたんだな。そんなことを溜息とともに思ったときだった。
おもての通りから慌ただしい馬蹄の音が近づいてきて、やがてレスタのよく知る人物がひとり、まだ客入りまえの宿に入ってきた。
「レスタさま、お迎えにあがりました」
リクは漂う微妙な空気などものともせず、さあ行きましょう、とレスタに告げた。
「リヒトさまがお待ちです。クラウドさまも」
+ + +
残りの道程は馬車になった。
「騎士たちと同行しなくてよかったですよ。確実に行き違いになるところでした」
リクの話だと、リヒトはレスタを迎えるため街道沿いの宿に情報提供を呼びかけていたらしい。
わずかな時間も惜しみ、レスタがカムリの帝都本邸に立ち寄らなくても済むように、先に出迎えて城下の邸宅へ案内するつもりだったようだ。
「リヒトさまは見つけたら連絡してくれって頼んでたはずなんですけど」
「…つまり気を利かして、カムリ邸まで連れて行こうとしてたと」
「おそらく。何だか曰くつきだと思われてたみたいで…。さすがにリヒトさまも気が急いてましたから、きっとかなり言葉が足りなかったんじゃないかと思います」
無理もないですよ、とリクは力なく笑ってみせた。
確かにその気持ちはレスタも分かる。動揺も、狼狽も、焦燥も。
「―― それで、クラウドは」
「…はい、」
箱馬車で向かい合ったリクは、レスタの問いにきゅっと表情を引き締めた。
最初は体調を心配していた。
けれどリクのこのようすだと、病気や怪我ではないように思える。それともあの朝から十日以上が過ぎて、いまは快方に向かっているんだろうか。
「俺はよく見ていないので詳細は分かりません。…ただ、リヒトさまは、」
リクはそこで言葉を切った。何かを言い淀んでいるのか、単に適切な表現が見つからないのか、レスタにはよく分からなかったが。
ただ、側近であるリクが「よく見ていない」ということは、事態は龍神に係わる何かというより、クラウドの龍紋に係わる何か、ということだろう。
一方でリヒトはそれを見た。―― 何を? 龍紋を? クラウドの背中を?
「…リヒトさまは、言葉にならないほど衝撃を受けていたようでした」
「………」
婉曲な物言いに苛立ちを覚えるが、リクが慎重になるのも無理はない。
「…すみません。俺からはうまく説明できません」
「いや、いい。…見れば分かるんだろ」
「…はい。レスタさまなら」
「――上等だ」
いいかげん焦らされすぎて、ここまできたらもう何でも来いという気分だった。
もともと図太いのがレスタだ。見て分かるというなら見るまでだ。
城下の邸宅に到着したのは正午になる少しまえだった。
リヒトの出迎えがあるかと思ったが、朝廷からの招聘にやむなく出掛けたとのことだった。
レスタは初めて訪れた邸宅の廊下を進んだ。
小さな館に滞在している理由はすでに聞いたが、それにしても使用人の数も侍従の数も少なく感じる。確かに都市型の邸宅は敷地も狭いし部屋数も少ないが、ここはそれ以前の話というか、おそらく最小限の人数で動かしている。
それに空気が重い。いや、密度が濃い。
(けど淀んではいないな…。むしろ清浄だし、……たぶん龍神の気配がある…)
レスタはそれとなく周囲を見やり、目に見える内装や装飾品ではなく、風のようにそよぐ見えない気配を視線で追った。
「こちらです」
先を歩いていたリクが立ち止まり、最奥の精緻な彫刻が施された中折れ扉をレスタに示す。
レスタは廊下にリクを残し、居室の先の寝室へと進んだ。
寝台に横たわる男の背は、誰が見ても人間のそれではない。
ひと言で表わすならまさに「異形」だ。リヒトが言葉をなくしたというのも頷ける。
近づいてみると横臥した身体はゆっくりと呼吸しており、幸いそこに苦しげな気配はなかった。
「…クラウド、」
呼びかけにも、肩に触れた手にも返る反応はなかった。
夏用の掛布で下肢だけを覆ったクラウドは、一見すると無防備な、素肌を晒した姿で眠っていた。聞こえてくる穏やかな寝息にほっと身体の力が抜けた。
けれどその背を覆うのは、びっしりと生えそろった鈍色の鱗だ。
レスタの記憶にある黒龍と同じ、躍るような弧を描いていた龍紋の姿そのままに。
硬い、本物の鱗の、若い黒龍の姿がそこにはあった。
「…ほんっと厄介だよな、おまえの背中」
それをこんな感想で済ませてしまうレスタは、やはりどこまでも神経が図太いのかもしれない。もしくは剛毅か。
どちらにしてもこの男はクラウドだ。
これが見ず知らずの男なら本能的な恐怖を感じたかもしれないが、どんな姿であれクラウドなら問題ない。
さっき空気の密度が濃いと思ったように、おそらくこれは「溢れた」せいだ。
黒龍もクラウドも互いに制御が効かなくて、神気が正しく循環しきれなかった。
その原因がレスタだ。
では、ここから正常な状態へ戻すにはどうすればいいのか。
巫者の不在が引き起こしてしまった事態なら、とりあえずレスタが近くにいればいいんだろうか。
おそらくだが、過去に前例がなかったからこそリヒトたちも慌てたわけで、そうなると儀式的な決め事も特にないということになるが。
(ためしにキスでもしてみるか…?)
おとぎ話よろしく眠っていることだし。
レスタは寝台に乗り上げるとクラウドの寝顔を覗き込んだ。
ためすまでもなく横向きだと体勢的に難があったので、ひとまずキスは後にとっておくことにして、外した腰の巾着袋からそっと小蛇を取りだした。
こちらも動き出す気配はないが、クラウドのそばに置いておけば大丈夫だろう。
となると、さしあたって今はすることがない。
「…じゃあ、」
レスタは素早く立ち上がり、旅装を解いて身軽な格好になった。
最後は馬車を使ったとはいえ、十日を超える連日の早駆けで体力はもう限界まできている。適度な乗馬は確かにいい運動だが、何でも過ぎれば毒にしかならない。
問題はクラウドがほぼ全裸だということだが、――眠っているし、この際だから良しとしよう。そんなことより疲れた。
「…寝る。おやすみ」
これで解決したかといえば決してそうではなかったが。
とにもかくにもクラウドの現状を見て、知って、理解したレスタは、いまは全部ぶんなげてクラウドの隣で眠ることにした。
日頃から思慮深く穏やかなリヒトだが、クラウドの異変を目の当たりにしたときの狼狽は激しく、正直なところ後日の使者とのやりとりも何をどう伝えたのか、当の本人がよく覚えていない。
クラウドは成人以降、歳の近い皇族方との会談などで忙しくしていた。
当主の実務はすでにリヒトが代行していたとはいえ、いまの時点で宮殿に居を移すことをクラウド自身が嫌がっていたため、最近は二人そろって宮殿に近い城下の邸宅で過ごしていた。少なくとも顔だけは毎日合わせていたはずなのに。
こうなるまで前兆に気づかなかった。
一度、クラウドがやたらと目をしばたたくのを見て、リヒトは大丈夫かと問うたことがある。
書類仕事の合間だったので、疲れ目でなければゴミか何かだろうという型どおりのやりとりのはずが、クラウドは視力が上がった気がする、と答えた。
いまにして思えばあれは前兆だ。
クラウドの身に起こる変化は、特にこの時期のそれらは、外から見えるものも見えないものも、すべて然るべき理由があり、そして先の予測がつかない。
そういう認識でいるべきだったのに、リクからの報せでクラウドの私室に駆けつけたリヒトは、その姿に言葉をなくした。
医師を、いや神殿に連絡を、と狼狽えるリヒトに対して、リクのほうがよほど冷静だった。
リヒトが到着するまでに使用人らの人払いを済ませ、リヒトの意を汲んで神殿と宮殿に急使を送り、駆けつけたそれぞれの使者を侍従長らとともに適切に遇した。
リヒトもリクも、クラウドの背の龍紋を直接拝したことはなかったが、その身が龍神の依り代だということは聞き及んでいた。
それがどれほど畏れ多いことであるかも、どちらも正しく理解していた。
ただ彼らの間で決定的に違ったのは、リクがクラウドに仕える従者であるのに対し、リヒトはクラウドの唯一の肉親だったことだ。
これを役目に当てはめて考えたとしたら、速やかなリクの行動も、いつにないリヒトの動揺も、どちらも非常に納得がいく。
むろん、リクや侍従長がいたからリヒトも気が済むまで動揺していられたわけだが、そうでなければいち早く冷静に立ち返り、適切に動いていたはずだ。
そして今回の手違いもきっと起こらなかった。
神殿の使者も帝の勅使も、過去の文献に類似の事象があるにはあるが、ここまでの状態は例がないという。
二日経ち、四日が過ぎてもクラウドの変容に収束の兆しはなく、その姿の異形は筆舌に尽くしがたい。
そして六日を過ぎた頃、一見落ち着いたようでいて半分以上が思考停止のままだったリヒトは、何気なく呟いたリクの言葉に反応した。
「レスタさま、いまどのへんかな…」
―― そうだ、レスタだ。
もちろん急使は異変初日にすぐさま手配した。それすら気が動転していたので朝どころか午後からの通達だったが、急使なら五、六日で国境を越えられるはずで、―― いや、今日はまだ六日目だ。カムリの急使がレスタのもとへ到着するまでに、まだヴァンレイク内の移動に最短四日はかかる。
「どういうことだ。急使の到着はまだ先だろう」
「そうですけど…、でもレスタ様にはもう伝わってるんじゃないですかね…」
ひとの手など借りずとも、レスタなら龍神の御業でもって、すでに。
「………」
「…そう思いませんか? なんていうか……、レスタさまだし…」
まったくもって根拠は無いも同然だったが、リヒトはすとんと腑に落ちた。
いろんな意味で、腑に落ちたのだ。
それは旅路のレスタが得た正鵠と、同じ種類のものだった。
「ということは…、」
たとえそれがほんの数日の違いでも、レスタはすでに行動を起こし、こちらに駆けつけているはずだ。
最短の日程を九日と仮定して、レスタにそこまでの厳しい旅路は無理だとしても、単騎の先触れなら可能だ。つまり早ければ三日以内にレスタの先触れが到着する。
その目算どおり、九日目の夕刻にバルトの白装束がカムリ邸に到着した。
はっきりと、何日に出発し、何日に到着する、という一文はなかったが。
それでもレスタの手跡というだけで、この先触れがどれほどリヒトを安堵させてくれたかしれない。
だからつい気が逸り、リヒトは連日こちらに詰めていた内宮の使者をつかまえて、慌ただしく指示を伝えた。
近日中にレスタ・セレンという人物が帝都に入る。東の街道すじと周辺の宿場町に通達を出して、見つけ次第こちらの邸宅まで報せてほしい。警邏と、できれば手空きの騎士にも協力を頼む、と。
その顔と声は停滞した現状の打破に希望が見えたことで、かえって焦燥に拍手か掛かっていた。
勢いに圧された使者からその者の外見は、と問われたので、「金髪の美形だ!」と答えてクラウドの私室に引き返したのは、常に折目正しいリヒトらしからぬ、それでいて非常に人情味のある、ある意味納得のひと幕だったわけだが。
リヒトにとって誰より好感度の高いレスタは、いつからかその人柄も容姿も在りようさえも、誰もが知っていて然るべき、ぐらいの位置づけになっていたのかもしれない。
気持ちは分かるが暴論である。
そうして出された目的の分からない唐突な指示(という名の協力依頼)は、人手を確保するために騎士にも手伝ってもらったことで、何やら曰くつきの捜索らしい、という少々穿った解釈に軌道が逸れた。―― 結果、ああなったらしい。
疲労困憊のレスタは一瞬あっけにとられて、やがてじわじわと怒りが湧いてくるのを感じた。
それがあっという間に霧散したのは、周囲の近衛たちがレスタより早く殺気立った気配を撒き散らしたからだ。
(……いや、ちょっともう勘弁してほしい。もうほんと疲れてる。…疲れた)
結局レスタの最終的な心境はそこに着地した。
同時に身体の軸から力が抜けて、近くの椅子を支えにへなへなとその場に蹲った。
「レスタ…!」
焦ったような城代の声が聞こえたが、―― うん大丈夫だから、今だけ、ここだけ、全部丸投げするのはダメだろうか。
もう気絶したい。そんな思考をどうにかこうにか追い払い、レスタは城代の手を取ってゆっくりと姿勢を立て直した。
ここでよけいな悶着を起こして時間を無駄している場合じゃないのだ。
同行を請われたが、行き先さえこちらの意に適うならむしろ願ったりだとも言える。そもそもナーガの騎士がレスタの名を知っているということは、その情報の出どころも自ずと知れるというものだから。
「…カムリ家からの指示か」
「いかにも。お急ぎらしいと聞き及んでいる」
ああリヒトも焦ってたんだな。そんなことを溜息とともに思ったときだった。
おもての通りから慌ただしい馬蹄の音が近づいてきて、やがてレスタのよく知る人物がひとり、まだ客入りまえの宿に入ってきた。
「レスタさま、お迎えにあがりました」
リクは漂う微妙な空気などものともせず、さあ行きましょう、とレスタに告げた。
「リヒトさまがお待ちです。クラウドさまも」
+ + +
残りの道程は馬車になった。
「騎士たちと同行しなくてよかったですよ。確実に行き違いになるところでした」
リクの話だと、リヒトはレスタを迎えるため街道沿いの宿に情報提供を呼びかけていたらしい。
わずかな時間も惜しみ、レスタがカムリの帝都本邸に立ち寄らなくても済むように、先に出迎えて城下の邸宅へ案内するつもりだったようだ。
「リヒトさまは見つけたら連絡してくれって頼んでたはずなんですけど」
「…つまり気を利かして、カムリ邸まで連れて行こうとしてたと」
「おそらく。何だか曰くつきだと思われてたみたいで…。さすがにリヒトさまも気が急いてましたから、きっとかなり言葉が足りなかったんじゃないかと思います」
無理もないですよ、とリクは力なく笑ってみせた。
確かにその気持ちはレスタも分かる。動揺も、狼狽も、焦燥も。
「―― それで、クラウドは」
「…はい、」
箱馬車で向かい合ったリクは、レスタの問いにきゅっと表情を引き締めた。
最初は体調を心配していた。
けれどリクのこのようすだと、病気や怪我ではないように思える。それともあの朝から十日以上が過ぎて、いまは快方に向かっているんだろうか。
「俺はよく見ていないので詳細は分かりません。…ただ、リヒトさまは、」
リクはそこで言葉を切った。何かを言い淀んでいるのか、単に適切な表現が見つからないのか、レスタにはよく分からなかったが。
ただ、側近であるリクが「よく見ていない」ということは、事態は龍神に係わる何かというより、クラウドの龍紋に係わる何か、ということだろう。
一方でリヒトはそれを見た。―― 何を? 龍紋を? クラウドの背中を?
「…リヒトさまは、言葉にならないほど衝撃を受けていたようでした」
「………」
婉曲な物言いに苛立ちを覚えるが、リクが慎重になるのも無理はない。
「…すみません。俺からはうまく説明できません」
「いや、いい。…見れば分かるんだろ」
「…はい。レスタさまなら」
「――上等だ」
いいかげん焦らされすぎて、ここまできたらもう何でも来いという気分だった。
もともと図太いのがレスタだ。見て分かるというなら見るまでだ。
城下の邸宅に到着したのは正午になる少しまえだった。
リヒトの出迎えがあるかと思ったが、朝廷からの招聘にやむなく出掛けたとのことだった。
レスタは初めて訪れた邸宅の廊下を進んだ。
小さな館に滞在している理由はすでに聞いたが、それにしても使用人の数も侍従の数も少なく感じる。確かに都市型の邸宅は敷地も狭いし部屋数も少ないが、ここはそれ以前の話というか、おそらく最小限の人数で動かしている。
それに空気が重い。いや、密度が濃い。
(けど淀んではいないな…。むしろ清浄だし、……たぶん龍神の気配がある…)
レスタはそれとなく周囲を見やり、目に見える内装や装飾品ではなく、風のようにそよぐ見えない気配を視線で追った。
「こちらです」
先を歩いていたリクが立ち止まり、最奥の精緻な彫刻が施された中折れ扉をレスタに示す。
レスタは廊下にリクを残し、居室の先の寝室へと進んだ。
寝台に横たわる男の背は、誰が見ても人間のそれではない。
ひと言で表わすならまさに「異形」だ。リヒトが言葉をなくしたというのも頷ける。
近づいてみると横臥した身体はゆっくりと呼吸しており、幸いそこに苦しげな気配はなかった。
「…クラウド、」
呼びかけにも、肩に触れた手にも返る反応はなかった。
夏用の掛布で下肢だけを覆ったクラウドは、一見すると無防備な、素肌を晒した姿で眠っていた。聞こえてくる穏やかな寝息にほっと身体の力が抜けた。
けれどその背を覆うのは、びっしりと生えそろった鈍色の鱗だ。
レスタの記憶にある黒龍と同じ、躍るような弧を描いていた龍紋の姿そのままに。
硬い、本物の鱗の、若い黒龍の姿がそこにはあった。
「…ほんっと厄介だよな、おまえの背中」
それをこんな感想で済ませてしまうレスタは、やはりどこまでも神経が図太いのかもしれない。もしくは剛毅か。
どちらにしてもこの男はクラウドだ。
これが見ず知らずの男なら本能的な恐怖を感じたかもしれないが、どんな姿であれクラウドなら問題ない。
さっき空気の密度が濃いと思ったように、おそらくこれは「溢れた」せいだ。
黒龍もクラウドも互いに制御が効かなくて、神気が正しく循環しきれなかった。
その原因がレスタだ。
では、ここから正常な状態へ戻すにはどうすればいいのか。
巫者の不在が引き起こしてしまった事態なら、とりあえずレスタが近くにいればいいんだろうか。
おそらくだが、過去に前例がなかったからこそリヒトたちも慌てたわけで、そうなると儀式的な決め事も特にないということになるが。
(ためしにキスでもしてみるか…?)
おとぎ話よろしく眠っていることだし。
レスタは寝台に乗り上げるとクラウドの寝顔を覗き込んだ。
ためすまでもなく横向きだと体勢的に難があったので、ひとまずキスは後にとっておくことにして、外した腰の巾着袋からそっと小蛇を取りだした。
こちらも動き出す気配はないが、クラウドのそばに置いておけば大丈夫だろう。
となると、さしあたって今はすることがない。
「…じゃあ、」
レスタは素早く立ち上がり、旅装を解いて身軽な格好になった。
最後は馬車を使ったとはいえ、十日を超える連日の早駆けで体力はもう限界まできている。適度な乗馬は確かにいい運動だが、何でも過ぎれば毒にしかならない。
問題はクラウドがほぼ全裸だということだが、――眠っているし、この際だから良しとしよう。そんなことより疲れた。
「…寝る。おやすみ」
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気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
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目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
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✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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番解除した僕等の末路【完結済・短編】
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都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
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