63 / 69
第四幕〈クラウド〉
宿主と龍の御徴 6
しおりを挟む
自然と目が覚めた。穏やかで気持ちのいい目覚めだった。
瞬いて、すぐ近くに金色の髪を見とめて、もう一度瞬いた。
ゆっくり手を伸ばし、指先でさらりと髪に触れる。浮かんだ疑問はひとまず置いて、本物だ、ということは理解した。
天蓋の複雑な寄木模様は、城下に建つ邸宅のそれだ。
クラウドは寝台から身体を起こすと、目覚めるまでの最前の記憶を順に思い返した。
突然の激しい痛みと、皮膚を突き破るおぞましい感覚、龍紋の異変。
すべてが現実に起きたことで、悪夢のたぐいでないことは肩越しに触れた背の感触が証明していた。
ただし現状としての体調は悪くない。というよりむしろ良いほうだと思う。上体を動かすと背中がぎしぎしばりばりしたが、特にどこかが痛むということもなかった。
またよく分からん龍神の仕業か、と不本意ながら納得しかけたところで、眠るレスタを見てふと考えをあらためる。
クラウドに体感的な時間の経過はほとんどなかったが、本来いるはずのないレスタがこうしてここに居るということは、それ相応の時間の経過があったはずだ。それも何というか、明らかに大ごと的な。
実際あの激痛は尋常ではなかったが、寝室に漂う空気は清浄で濃密で厳かで、なるほど龍神の仕業で間違いなさそうだが、語感的には御業、と表現したほうがしっくりくるのかもしれない。
委細はともかく、レスタを呼び寄せるほどの状況だったんだろう。
そこまでを把握して、クラウドは一旦寝台を離れた。
時間は正午を半時ほど過ぎた頃だった。
空腹は特に感じない。頬や顎に触れても肌はさっぱりしていた。
とはいえ激痛から全身に脂汗をかいたような気もするし、まずは食事より入浴を選択するべきだろう。
夜着を肩に引っかけて、裸足のままで寝室を出たクラウドは、普段どおりに声を掛けた。
「リク、沐浴する」
ばんっ、とものすごい勢いで控え間の扉が開いた。
「静かにしろ、レスタが寝てる」
「っ、…はいっ、すぐに用意させますっ」
抑えたつもりの声も、静かに、と釘を刺したクラウドには充分うるさい部類だったが、ここは寛大に流すところだ。
部屋に飛び込んできたリクはいつもの主従のやりとりを挟まず、感情を抑えるだけ抑えたようすで速やかに部屋をあとにした。
夏の午後の沐浴にふさわしく、浅めの湯舟を満たすのはぬるま湯の水だ。
準備に時間のかかる冬場と違い、夏場はすべて手軽に済ませられるので楽でいい。
もちろん湯の管理は湯守の仕事なので、側近のリクの役目ではないが、クラウドの意に添う適切な指示は大事な勤めのひとつだ。
以前は使用人が背を流すこともあったクラウドは、龍紋を宿してからはそれもなく、常にひとりで入浴する。
適温のぬるま湯でざっと身を清めると、思った以上にさっぱりした。熱めの湯に浸かったわけでもないのに、血のめぐりや意識がより明瞭になった感じだ。気のせいか背中も少し軽く感じる。
それで思いだして、軽く触って確かめた背中を壁の鏡に映してみた。
―― なるほど、気持ち悪い。
感想は端的かつ率直だった。
とはいえこの背を見るのはレスタだけだ。必要があって見せなければならない対象は何人かいるが、クラウドの許しなく見て、触れていい人物はレスタしかいない。
たとえ帝であっても、むしろ帝だからこそ、その線引きの絶対は共通の認識だろう。
そういえばレスタはこれを見ただろうか。
クラウドは湯あがり着を羽織りながら考えた。
何も纏わず寝ていたので見たとは思うが、隣で眠っていたことを鑑みるに、特に気遣う必要はない気がする。
それはそれでなかなかに剛毅だ。この背は、というより流線型に沿ってびっしり並んだ鈍色の鱗は、当のクラウドが見ても正直かなり気持ちが悪い、と思うのだが。
触りたいと言ってきたらどうするべきか。レスタのことだから言いそうな気もする。
それが容易に想像できたので、もう一度しっかり触って確かめてみた。
鱗の感触は滑らかで、硬くはあるが指を傷つける鋭利さはない。ただしふつうの皮膚を触ったきと違って、よぎる違和感がものすごい。触った側の手ではなく、触られた側の背中のほうだ。
これは何だろう、不快感だろうか。快と不快はだいたい隣り合わせの際どい感覚だと思うが、単純にそうとも言いきれない、捉えどころのない違和感だった。
それでも触られるぐらいは特に不都合もないと思う。レスタに害さえ及ばなければ、クラウドは己の背中など基本的にどうでもいいのだ。
私室に戻る途中、扉のまえでリヒトが待ち構えていた。
すでにリクの報告を受けていたようで、クラウドの姿を見ても落ち着いたようすではあるものの、それとはべつにどこか神妙な顔つきをしていた。
「…分かっててもここまで覿面だとさすがに驚くな…」
何やら万感のこもった呟きにクラウドは首を傾げる。
「なにが。…ていうか、出掛けるのか」
リヒトの装いは登城の際の略式正装だった。盛装ではなく正装、ということは上位者に謁見するための登城だが、リヒトはクラウドの問いを否定した。
「行って帰ってきたところだ。おまえこそ、体調は問題ないか」
「まぁ見てのとおり…。相手は?」
「宰相閣下に呼ばれて、おまえのことでちょっと話してきた。…それで、」
続けて話そうとしたリヒトだったが、クラウドが扉のまえに立ったまま一向に開けようとしないので、そこでふと言葉を切った。
そのあとすぐに意図を察して、
「…あ、そうか。すまん…、レスタが休んでるんだったな」
クラウドはそれに何も答えず、ただ微かな表情の変化だけでリヒトに返した。
「宰相のことはあとで聞く」
「分かった。レスタにはいつ会える?」
「そうだな、…たぶん夜までには」
リヒトはもう一度わかったと頷いて、この場は一旦引きあげていった。
どのみちレスタは眠っているのだし、クラウドの私室でなくとも場所を変えてリヒトの話を聞くことはできた。ただそれ以上にクラウドはレスタのそばにいることを優先して、リヒトもクラウドの選択を尊重した。
クラウドだけでなくリヒトにとっても、それが当然のことだったからだ。
レスタはさっきと同じ姿勢で眠っていた。
クラウドは寝台に乗りあげると、レスタの背に添うように再び横たわった。
そういえばレスタがいつ到着したのかリクにもリヒトにも訊くのを忘れた。というか、そもそもあの夜からいったい何日経っているのか。
常識を度外視すれば、龍神が人の手より早くレスタに報せを送ったと仮定して、ヴァンレイクの王都からナーガの帝都まで最短日数は十日前後だ。
レスタならこの範囲で何とかやってのけそうだが。
――つたえたよ。
声がしたのでレスタの頭の向こう側を覗いたら、枕元に小さな蛇がいた。
「……ああ、そういえば」
たしか成人を迎える前日だったか、龍神がクラウドの言葉に便乗して、レスタのもとへ眷属を遣わしたことがあった。
龍神と直接そんなやりとりを交わしたわけではなかったが、この蛇の存在はクラウドも何となく把握していた。どうやら本当にこの蛇がレスタに伝えてくれたらしい。
誇らしげに頭をもたげる金眼の蛇にちょっと笑って、クラウドは指先で小さな蛇を摘みあげた。
あまり歓迎したくない存在に変わりはないが、感謝しないわけにはいかないだろう。この小蛇のおかげでレスタの到着が早まったのなら。
手のひらに乗せて、指先で平らな頭を撫でてやった。
小蛇はなめらかにとぐろを巻いて小さな円錐を形づくると、そのまますう、とクラウドの手のなかに溶けて消えた。
「………」
呼吸ひとつ分ほどの出来事だ。あっという間だった。
確かに消えたが、べつに消滅したわけではない。何というのか、一種の収納式とでもいうべきか、必要に応じて現われたり消えたりするだけなので、レスタに教えるにしても問題などは一切ないが。
その収納先が自分の手のひらというのは。
「うん、やっぱ気持ち悪い」
一部始終を見ていたクラウドにこれ以上の感想はなかった。
さて、それにしても暇だ。
レスタを起こそうかとも思ったが、リヒトがまだレスタと会っていないのなら、朝のうちに到着していたという線は薄い。
宮殿の開門は午前十時で、それに合わせてリヒトが登城、入れ違いにレスタが到着。いまは午後二時なので、おそらく三時間くらいしか経っていない。
昨夜は昨夜でちゃんと身体を休めたとは思うが、それにしたって疲れてるだろう。
やっぱり、もう一時間なら待ってもいいか。クラウドはしぶしぶ思い直した。
身も蓋もない話だが、それ以上となるとクラウドの理性も白旗を揚げるしかない。
龍神の神気が内にも外にも満ちているせいか、普段よりレスタの気配に敏くなっている気がするのだ。だから出来うる限りの我慢はするが、それでもやっぱり触りたい。
さわって、たしかめて、かんじたい。
身体というより感情の奥深い部分で、クラウドはいつでもそう思っている。こんなに近くにいれば尚更だ。
おかげで理性も忍耐もだいぶ育った。
そろりと手を伸ばし、背後からゆるく腕をまわして、目を閉じた。
肩のあたりにレスタの頭を上手く収めて、穏やかな呼吸と体温を全身で共有した。
そうしてそのまま一時間。
最後の理性が我慢の限界を迎えたところで、クラウドは眠るレスタに悪戯を仕掛けることにした。
+ + +
疲れた。腹減った。とレスタがぐずったので、今度はふたり一緒に沐浴を済ませた。
そのあとナーガの民族衣装に着替えるというレスタを手伝ったクラウドは、身支度を終えたその姿に満足げな笑みを浮かべた。
河川を境に隣りあう二国ではあるが、その文化は服飾も言語も驚くほど似ていない。
ナーガの衣装は男女ともに立襟から右脇下に切れ込んだ前身頃が特徴で、膝丈のゆったりした織り柄の上衣(袍)に単色の帯を合わせるのが仕様だ。中着も上衣と同じ膝丈が大半だが、貴族女性に限っては裾の広いたっぷりとした薄衣を重ねることで、全体が華やかかつ豪奢になる。
ちなみに、かつてレスタが父王の見舞いの際に皮肉をこめて披露したのも、その薄衣を用いた貴族女性の民族衣装だ。
今回はもちろん男性用のしつらえだが、複雑な織り柄を描く絹の光沢は美しく、殊にレスタが身に纏えば男女の別なく華やかにも、豪奢にもなった。
衣装一式を運んできたリクの話だと、クラウドが昏睡している間にリヒトが用意していたものらしい。緻密な採寸を必要としない、ナーガのゆったり衣装が功を奏した。
身支度を終えたあとはリヒトを交えての、三人だけの会食だ。
せっかくだから城代とリクも同席してはどうか、と提案したのだが、せっかくということなら今夜はお三方で、という理由で辞退されてしまった。
確かに今夜はクラウドの目覚めと、二年半ぶりのレスタ滞在と、同じくリヒトとの再会で、三人には水入らずの話題が詰まっている。加えてクラウドにまつわる重要な話もあったので、それなら今夜は三人でということになった。
レスタを伴い私室を出たクラウドは、いつもより分かりやすく上機嫌だ。
「おまえ不思議と似合うよな、こっちの服」
「俺もそう思う」
もはや褒めるでもなくクラウドが言うので、レスタもさらっと同意しておいた。
実際レスタは自国の衣装よりナーガの民族衣装のほうが好きだ。
リヒトが選んだという爽やかな翡翠色の絹織りも銀糸の帯も、誂えたようにレスタによく似合っている。
「そういうクラウドは平気か? 背中」
一方のクラウドは漆黒の上衣と中着だけで、帯は巻かずにすとんと着ていた。
いわゆる帯無しは老人の着こなしの代表格とされているが、何しろ背中側の腰から左の腰骨にかけて、龍紋の尾の部分が帯の位置に掛かっているのだ。外出するならまだしも、自宅での会食に老人の着こなしもへったくれもない。
「痛くはないけどな、圧迫されると違和感ていうか、妙に気持ち悪い」
「過敏になってるとか」
「ならおまえが触ったときもっと気持ちよかったんじゃ?」
「………」
話題があらぬ角度に逸れたところで、階下の食堂に到着した。
にやりと笑ったクラウドに白い目を向けたレスタは、肩をすくめながら開かれた扉をくぐった。
扉の向こうでは、二年半ぶりのリヒトがレスタを待っていた。
瞬いて、すぐ近くに金色の髪を見とめて、もう一度瞬いた。
ゆっくり手を伸ばし、指先でさらりと髪に触れる。浮かんだ疑問はひとまず置いて、本物だ、ということは理解した。
天蓋の複雑な寄木模様は、城下に建つ邸宅のそれだ。
クラウドは寝台から身体を起こすと、目覚めるまでの最前の記憶を順に思い返した。
突然の激しい痛みと、皮膚を突き破るおぞましい感覚、龍紋の異変。
すべてが現実に起きたことで、悪夢のたぐいでないことは肩越しに触れた背の感触が証明していた。
ただし現状としての体調は悪くない。というよりむしろ良いほうだと思う。上体を動かすと背中がぎしぎしばりばりしたが、特にどこかが痛むということもなかった。
またよく分からん龍神の仕業か、と不本意ながら納得しかけたところで、眠るレスタを見てふと考えをあらためる。
クラウドに体感的な時間の経過はほとんどなかったが、本来いるはずのないレスタがこうしてここに居るということは、それ相応の時間の経過があったはずだ。それも何というか、明らかに大ごと的な。
実際あの激痛は尋常ではなかったが、寝室に漂う空気は清浄で濃密で厳かで、なるほど龍神の仕業で間違いなさそうだが、語感的には御業、と表現したほうがしっくりくるのかもしれない。
委細はともかく、レスタを呼び寄せるほどの状況だったんだろう。
そこまでを把握して、クラウドは一旦寝台を離れた。
時間は正午を半時ほど過ぎた頃だった。
空腹は特に感じない。頬や顎に触れても肌はさっぱりしていた。
とはいえ激痛から全身に脂汗をかいたような気もするし、まずは食事より入浴を選択するべきだろう。
夜着を肩に引っかけて、裸足のままで寝室を出たクラウドは、普段どおりに声を掛けた。
「リク、沐浴する」
ばんっ、とものすごい勢いで控え間の扉が開いた。
「静かにしろ、レスタが寝てる」
「っ、…はいっ、すぐに用意させますっ」
抑えたつもりの声も、静かに、と釘を刺したクラウドには充分うるさい部類だったが、ここは寛大に流すところだ。
部屋に飛び込んできたリクはいつもの主従のやりとりを挟まず、感情を抑えるだけ抑えたようすで速やかに部屋をあとにした。
夏の午後の沐浴にふさわしく、浅めの湯舟を満たすのはぬるま湯の水だ。
準備に時間のかかる冬場と違い、夏場はすべて手軽に済ませられるので楽でいい。
もちろん湯の管理は湯守の仕事なので、側近のリクの役目ではないが、クラウドの意に添う適切な指示は大事な勤めのひとつだ。
以前は使用人が背を流すこともあったクラウドは、龍紋を宿してからはそれもなく、常にひとりで入浴する。
適温のぬるま湯でざっと身を清めると、思った以上にさっぱりした。熱めの湯に浸かったわけでもないのに、血のめぐりや意識がより明瞭になった感じだ。気のせいか背中も少し軽く感じる。
それで思いだして、軽く触って確かめた背中を壁の鏡に映してみた。
―― なるほど、気持ち悪い。
感想は端的かつ率直だった。
とはいえこの背を見るのはレスタだけだ。必要があって見せなければならない対象は何人かいるが、クラウドの許しなく見て、触れていい人物はレスタしかいない。
たとえ帝であっても、むしろ帝だからこそ、その線引きの絶対は共通の認識だろう。
そういえばレスタはこれを見ただろうか。
クラウドは湯あがり着を羽織りながら考えた。
何も纏わず寝ていたので見たとは思うが、隣で眠っていたことを鑑みるに、特に気遣う必要はない気がする。
それはそれでなかなかに剛毅だ。この背は、というより流線型に沿ってびっしり並んだ鈍色の鱗は、当のクラウドが見ても正直かなり気持ちが悪い、と思うのだが。
触りたいと言ってきたらどうするべきか。レスタのことだから言いそうな気もする。
それが容易に想像できたので、もう一度しっかり触って確かめてみた。
鱗の感触は滑らかで、硬くはあるが指を傷つける鋭利さはない。ただしふつうの皮膚を触ったきと違って、よぎる違和感がものすごい。触った側の手ではなく、触られた側の背中のほうだ。
これは何だろう、不快感だろうか。快と不快はだいたい隣り合わせの際どい感覚だと思うが、単純にそうとも言いきれない、捉えどころのない違和感だった。
それでも触られるぐらいは特に不都合もないと思う。レスタに害さえ及ばなければ、クラウドは己の背中など基本的にどうでもいいのだ。
私室に戻る途中、扉のまえでリヒトが待ち構えていた。
すでにリクの報告を受けていたようで、クラウドの姿を見ても落ち着いたようすではあるものの、それとはべつにどこか神妙な顔つきをしていた。
「…分かっててもここまで覿面だとさすがに驚くな…」
何やら万感のこもった呟きにクラウドは首を傾げる。
「なにが。…ていうか、出掛けるのか」
リヒトの装いは登城の際の略式正装だった。盛装ではなく正装、ということは上位者に謁見するための登城だが、リヒトはクラウドの問いを否定した。
「行って帰ってきたところだ。おまえこそ、体調は問題ないか」
「まぁ見てのとおり…。相手は?」
「宰相閣下に呼ばれて、おまえのことでちょっと話してきた。…それで、」
続けて話そうとしたリヒトだったが、クラウドが扉のまえに立ったまま一向に開けようとしないので、そこでふと言葉を切った。
そのあとすぐに意図を察して、
「…あ、そうか。すまん…、レスタが休んでるんだったな」
クラウドはそれに何も答えず、ただ微かな表情の変化だけでリヒトに返した。
「宰相のことはあとで聞く」
「分かった。レスタにはいつ会える?」
「そうだな、…たぶん夜までには」
リヒトはもう一度わかったと頷いて、この場は一旦引きあげていった。
どのみちレスタは眠っているのだし、クラウドの私室でなくとも場所を変えてリヒトの話を聞くことはできた。ただそれ以上にクラウドはレスタのそばにいることを優先して、リヒトもクラウドの選択を尊重した。
クラウドだけでなくリヒトにとっても、それが当然のことだったからだ。
レスタはさっきと同じ姿勢で眠っていた。
クラウドは寝台に乗りあげると、レスタの背に添うように再び横たわった。
そういえばレスタがいつ到着したのかリクにもリヒトにも訊くのを忘れた。というか、そもそもあの夜からいったい何日経っているのか。
常識を度外視すれば、龍神が人の手より早くレスタに報せを送ったと仮定して、ヴァンレイクの王都からナーガの帝都まで最短日数は十日前後だ。
レスタならこの範囲で何とかやってのけそうだが。
――つたえたよ。
声がしたのでレスタの頭の向こう側を覗いたら、枕元に小さな蛇がいた。
「……ああ、そういえば」
たしか成人を迎える前日だったか、龍神がクラウドの言葉に便乗して、レスタのもとへ眷属を遣わしたことがあった。
龍神と直接そんなやりとりを交わしたわけではなかったが、この蛇の存在はクラウドも何となく把握していた。どうやら本当にこの蛇がレスタに伝えてくれたらしい。
誇らしげに頭をもたげる金眼の蛇にちょっと笑って、クラウドは指先で小さな蛇を摘みあげた。
あまり歓迎したくない存在に変わりはないが、感謝しないわけにはいかないだろう。この小蛇のおかげでレスタの到着が早まったのなら。
手のひらに乗せて、指先で平らな頭を撫でてやった。
小蛇はなめらかにとぐろを巻いて小さな円錐を形づくると、そのまますう、とクラウドの手のなかに溶けて消えた。
「………」
呼吸ひとつ分ほどの出来事だ。あっという間だった。
確かに消えたが、べつに消滅したわけではない。何というのか、一種の収納式とでもいうべきか、必要に応じて現われたり消えたりするだけなので、レスタに教えるにしても問題などは一切ないが。
その収納先が自分の手のひらというのは。
「うん、やっぱ気持ち悪い」
一部始終を見ていたクラウドにこれ以上の感想はなかった。
さて、それにしても暇だ。
レスタを起こそうかとも思ったが、リヒトがまだレスタと会っていないのなら、朝のうちに到着していたという線は薄い。
宮殿の開門は午前十時で、それに合わせてリヒトが登城、入れ違いにレスタが到着。いまは午後二時なので、おそらく三時間くらいしか経っていない。
昨夜は昨夜でちゃんと身体を休めたとは思うが、それにしたって疲れてるだろう。
やっぱり、もう一時間なら待ってもいいか。クラウドはしぶしぶ思い直した。
身も蓋もない話だが、それ以上となるとクラウドの理性も白旗を揚げるしかない。
龍神の神気が内にも外にも満ちているせいか、普段よりレスタの気配に敏くなっている気がするのだ。だから出来うる限りの我慢はするが、それでもやっぱり触りたい。
さわって、たしかめて、かんじたい。
身体というより感情の奥深い部分で、クラウドはいつでもそう思っている。こんなに近くにいれば尚更だ。
おかげで理性も忍耐もだいぶ育った。
そろりと手を伸ばし、背後からゆるく腕をまわして、目を閉じた。
肩のあたりにレスタの頭を上手く収めて、穏やかな呼吸と体温を全身で共有した。
そうしてそのまま一時間。
最後の理性が我慢の限界を迎えたところで、クラウドは眠るレスタに悪戯を仕掛けることにした。
+ + +
疲れた。腹減った。とレスタがぐずったので、今度はふたり一緒に沐浴を済ませた。
そのあとナーガの民族衣装に着替えるというレスタを手伝ったクラウドは、身支度を終えたその姿に満足げな笑みを浮かべた。
河川を境に隣りあう二国ではあるが、その文化は服飾も言語も驚くほど似ていない。
ナーガの衣装は男女ともに立襟から右脇下に切れ込んだ前身頃が特徴で、膝丈のゆったりした織り柄の上衣(袍)に単色の帯を合わせるのが仕様だ。中着も上衣と同じ膝丈が大半だが、貴族女性に限っては裾の広いたっぷりとした薄衣を重ねることで、全体が華やかかつ豪奢になる。
ちなみに、かつてレスタが父王の見舞いの際に皮肉をこめて披露したのも、その薄衣を用いた貴族女性の民族衣装だ。
今回はもちろん男性用のしつらえだが、複雑な織り柄を描く絹の光沢は美しく、殊にレスタが身に纏えば男女の別なく華やかにも、豪奢にもなった。
衣装一式を運んできたリクの話だと、クラウドが昏睡している間にリヒトが用意していたものらしい。緻密な採寸を必要としない、ナーガのゆったり衣装が功を奏した。
身支度を終えたあとはリヒトを交えての、三人だけの会食だ。
せっかくだから城代とリクも同席してはどうか、と提案したのだが、せっかくということなら今夜はお三方で、という理由で辞退されてしまった。
確かに今夜はクラウドの目覚めと、二年半ぶりのレスタ滞在と、同じくリヒトとの再会で、三人には水入らずの話題が詰まっている。加えてクラウドにまつわる重要な話もあったので、それなら今夜は三人でということになった。
レスタを伴い私室を出たクラウドは、いつもより分かりやすく上機嫌だ。
「おまえ不思議と似合うよな、こっちの服」
「俺もそう思う」
もはや褒めるでもなくクラウドが言うので、レスタもさらっと同意しておいた。
実際レスタは自国の衣装よりナーガの民族衣装のほうが好きだ。
リヒトが選んだという爽やかな翡翠色の絹織りも銀糸の帯も、誂えたようにレスタによく似合っている。
「そういうクラウドは平気か? 背中」
一方のクラウドは漆黒の上衣と中着だけで、帯は巻かずにすとんと着ていた。
いわゆる帯無しは老人の着こなしの代表格とされているが、何しろ背中側の腰から左の腰骨にかけて、龍紋の尾の部分が帯の位置に掛かっているのだ。外出するならまだしも、自宅での会食に老人の着こなしもへったくれもない。
「痛くはないけどな、圧迫されると違和感ていうか、妙に気持ち悪い」
「過敏になってるとか」
「ならおまえが触ったときもっと気持ちよかったんじゃ?」
「………」
話題があらぬ角度に逸れたところで、階下の食堂に到着した。
にやりと笑ったクラウドに白い目を向けたレスタは、肩をすくめながら開かれた扉をくぐった。
扉の向こうでは、二年半ぶりのリヒトがレスタを待っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる