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第四幕〈クラウド〉
宿主と龍の御徴 6
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自然と目が覚めた。穏やかで気持ちのいい目覚めだった。
瞬いて、すぐ近くに金色の髪を見とめて、もう一度瞬いた。
ゆっくり手を伸ばし、指先でさらりと髪に触れる。浮かんだ疑問はひとまず置いて、本物だ、ということは理解した。
天蓋の複雑な寄木模様は、城下に建つ邸宅のそれだ。
クラウドは寝台から身体を起こすと、目覚めるまでの最前の記憶を順に思い返した。
突然の激しい痛みと、皮膚を突き破るおぞましい感覚、龍紋の異変。
すべてが現実に起きたことで、悪夢のたぐいでないことは肩越しに触れた背の感触が証明していた。
ただし現状としての体調は悪くない。というよりむしろ良いほうだと思う。上体を動かすと背中がぎしぎしばりばりしたが、特にどこかが痛むということもなかった。
またよく分からん龍神の仕業か、と不本意ながら納得しかけたところで、眠るレスタを見てふと考えをあらためる。
クラウドに体感的な時間の経過はほとんどなかったが、本来いるはずのないレスタがこうしてここに居るということは、それ相応の時間の経過があったはずだ。それも何というか、明らかに大ごと的な。
実際あの激痛は尋常ではなかったが、寝室に漂う空気は清浄で濃密で厳かで、なるほど龍神の仕業で間違いなさそうだが、語感的には御業、と表現したほうがしっくりくるのかもしれない。
委細はともかく、レスタを呼び寄せるほどの状況だったんだろう。
そこまでを把握して、クラウドは一旦寝台を離れた。
時間は正午を半時ほど過ぎた頃だった。
空腹は特に感じない。頬や顎に触れても肌はさっぱりしていた。
とはいえ激痛から全身に脂汗をかいたような気もするし、まずは食事より入浴を選択するべきだろう。
夜着を肩に引っかけて、裸足のままで寝室を出たクラウドは、普段どおりに声を掛けた。
「リク、沐浴する」
ばんっ、とものすごい勢いで控え間の扉が開いた。
「静かにしろ、レスタが寝てる」
「っ、…はいっ、すぐに用意させますっ」
抑えたつもりの声も、静かに、と釘を刺したクラウドには充分うるさい部類だったが、ここは寛大に流すところだ。
部屋に飛び込んできたリクはいつもの主従のやりとりを挟まず、感情を抑えるだけ抑えたようすで速やかに部屋をあとにした。
夏の午後の沐浴にふさわしく、浅めの湯舟を満たすのはぬるま湯の水だ。
準備に時間のかかる冬場と違い、夏場はすべて手軽に済ませられるので楽でいい。
もちろん湯の管理は湯守の仕事なので、側近のリクの役目ではないが、クラウドの意に添う適切な指示は大事な勤めのひとつだ。
以前は使用人が背を流すこともあったクラウドは、龍紋を宿してからはそれもなく、常にひとりで入浴する。
適温のぬるま湯でざっと身を清めると、思った以上にさっぱりした。熱めの湯に浸かったわけでもないのに、血のめぐりや意識がより明瞭になった感じだ。気のせいか背中も少し軽く感じる。
それで思いだして、軽く触って確かめた背中を壁の鏡に映してみた。
―― なるほど、気持ち悪い。
感想は端的かつ率直だった。
とはいえこの背を見るのはレスタだけだ。必要があって見せなければならない対象は何人かいるが、クラウドの許しなく見て、触れていい人物はレスタしかいない。
たとえ帝であっても、むしろ帝だからこそ、その線引きの絶対は共通の認識だろう。
そういえばレスタはこれを見ただろうか。
クラウドは湯あがり着を羽織りながら考えた。
何も纏わず寝ていたので見たとは思うが、隣で眠っていたことを鑑みるに、特に気遣う必要はない気がする。
それはそれでなかなかに剛毅だ。この背は、というより流線型に沿ってびっしり並んだ鈍色の鱗は、当のクラウドが見ても正直かなり気持ちが悪い、と思うのだが。
触りたいと言ってきたらどうするべきか。レスタのことだから言いそうな気もする。
それが容易に想像できたので、もう一度しっかり触って確かめてみた。
鱗の感触は滑らかで、硬くはあるが指を傷つける鋭利さはない。ただしふつうの皮膚を触ったきと違って、よぎる違和感がものすごい。触った側の手ではなく、触られた側の背中のほうだ。
これは何だろう、不快感だろうか。快と不快はだいたい隣り合わせの際どい感覚だと思うが、単純にそうとも言いきれない、捉えどころのない違和感だった。
それでも触られるぐらいは特に不都合もないと思う。レスタに害さえ及ばなければ、クラウドは己の背中など基本的にどうでもいいのだ。
私室に戻る途中、扉のまえでリヒトが待ち構えていた。
すでにリクの報告を受けていたようで、クラウドの姿を見ても落ち着いたようすではあるものの、それとはべつにどこか神妙な顔つきをしていた。
「…分かっててもここまで覿面だとさすがに驚くな…」
何やら万感のこもった呟きにクラウドは首を傾げる。
「なにが。…ていうか、出掛けるのか」
リヒトの装いは登城の際の略式正装だった。盛装ではなく正装、ということは上位者に謁見するための登城だが、リヒトはクラウドの問いを否定した。
「行って帰ってきたところだ。おまえこそ、体調は問題ないか」
「まぁ見てのとおり…。相手は?」
「宰相閣下に呼ばれて、おまえのことでちょっと話してきた。…それで、」
続けて話そうとしたリヒトだったが、クラウドが扉のまえに立ったまま一向に開けようとしないので、そこでふと言葉を切った。
そのあとすぐに意図を察して、
「…あ、そうか。すまん…、レスタが休んでるんだったな」
クラウドはそれに何も答えず、ただ微かな表情の変化だけでリヒトに返した。
「宰相のことはあとで聞く」
「分かった。レスタにはいつ会える?」
「そうだな、…たぶん夜までには」
リヒトはもう一度わかったと頷いて、この場は一旦引きあげていった。
どのみちレスタは眠っているのだし、クラウドの私室でなくとも場所を変えてリヒトの話を聞くことはできた。ただそれ以上にクラウドはレスタのそばにいることを優先して、リヒトもクラウドの選択を尊重した。
クラウドだけでなくリヒトにとっても、それが当然のことだったからだ。
レスタはさっきと同じ姿勢で眠っていた。
クラウドは寝台に乗りあげると、レスタの背に添うように再び横たわった。
そういえばレスタがいつ到着したのかリクにもリヒトにも訊くのを忘れた。というか、そもそもあの夜からいったい何日経っているのか。
常識を度外視すれば、龍神が人の手より早くレスタに報せを送ったと仮定して、ヴァンレイクの王都からナーガの帝都まで最短日数は十日前後だ。
レスタならこの範囲で何とかやってのけそうだが。
――つたえたよ。
声がしたのでレスタの頭の向こう側を覗いたら、枕元に小さな蛇がいた。
「……ああ、そういえば」
たしか成人を迎える前日だったか、龍神がクラウドの言葉に便乗して、レスタのもとへ眷属を遣わしたことがあった。
龍神と直接そんなやりとりを交わしたわけではなかったが、この蛇の存在はクラウドも何となく把握していた。どうやら本当にこの蛇がレスタに伝えてくれたらしい。
誇らしげに頭をもたげる金眼の蛇にちょっと笑って、クラウドは指先で小さな蛇を摘みあげた。
あまり歓迎したくない存在に変わりはないが、感謝しないわけにはいかないだろう。この小蛇のおかげでレスタの到着が早まったのなら。
手のひらに乗せて、指先で平らな頭を撫でてやった。
小蛇はなめらかにとぐろを巻いて小さな円錐を形づくると、そのまますう、とクラウドの手のなかに溶けて消えた。
「………」
呼吸ひとつ分ほどの出来事だ。あっという間だった。
確かに消えたが、べつに消滅したわけではない。何というのか、一種の収納式とでもいうべきか、必要に応じて現われたり消えたりするだけなので、レスタに教えるにしても問題などは一切ないが。
その収納先が自分の手のひらというのは。
「うん、やっぱ気持ち悪い」
一部始終を見ていたクラウドにこれ以上の感想はなかった。
さて、それにしても暇だ。
レスタを起こそうかとも思ったが、リヒトがまだレスタと会っていないのなら、朝のうちに到着していたという線は薄い。
宮殿の開門は午前十時で、それに合わせてリヒトが登城、入れ違いにレスタが到着。いまは午後二時なので、おそらく三時間くらいしか経っていない。
昨夜は昨夜でちゃんと身体を休めたとは思うが、それにしたって疲れてるだろう。
やっぱり、もう一時間なら待ってもいいか。クラウドはしぶしぶ思い直した。
身も蓋もない話だが、それ以上となるとクラウドの理性も白旗を揚げるしかない。
龍神の神気が内にも外にも満ちているせいか、普段よりレスタの気配に敏くなっている気がするのだ。だから出来うる限りの我慢はするが、それでもやっぱり触りたい。
さわって、たしかめて、かんじたい。
身体というより感情の奥深い部分で、クラウドはいつでもそう思っている。こんなに近くにいれば尚更だ。
おかげで理性も忍耐もだいぶ育った。
そろりと手を伸ばし、背後からゆるく腕をまわして、目を閉じた。
肩のあたりにレスタの頭を上手く収めて、穏やかな呼吸と体温を全身で共有した。
そうしてそのまま一時間。
最後の理性が我慢の限界を迎えたところで、クラウドは眠るレスタに悪戯を仕掛けることにした。
+ + +
疲れた。腹減った。とレスタがぐずったので、今度はふたり一緒に沐浴を済ませた。
そのあとナーガの民族衣装に着替えるというレスタを手伝ったクラウドは、身支度を終えたその姿に満足げな笑みを浮かべた。
河川を境に隣りあう二国ではあるが、その文化は服飾も言語も驚くほど似ていない。
ナーガの衣装は男女ともに立襟から右脇下に切れ込んだ前身頃が特徴で、膝丈のゆったりした織り柄の上衣(袍)に単色の帯を合わせるのが仕様だ。中着も上衣と同じ膝丈が大半だが、貴族女性に限っては裾の広いたっぷりとした薄衣を重ねることで、全体が華やかかつ豪奢になる。
ちなみに、かつてレスタが父王の見舞いの際に皮肉をこめて披露したのも、その薄衣を用いた貴族女性の民族衣装だ。
今回はもちろん男性用のしつらえだが、複雑な織り柄を描く絹の光沢は美しく、殊にレスタが身に纏えば男女の別なく華やかにも、豪奢にもなった。
衣装一式を運んできたリクの話だと、クラウドが昏睡している間にリヒトが用意していたものらしい。緻密な採寸を必要としない、ナーガのゆったり衣装が功を奏した。
身支度を終えたあとはリヒトを交えての、三人だけの会食だ。
せっかくだから城代とリクも同席してはどうか、と提案したのだが、せっかくということなら今夜はお三方で、という理由で辞退されてしまった。
確かに今夜はクラウドの目覚めと、二年半ぶりのレスタ滞在と、同じくリヒトとの再会で、三人には水入らずの話題が詰まっている。加えてクラウドにまつわる重要な話もあったので、それなら今夜は三人でということになった。
レスタを伴い私室を出たクラウドは、いつもより分かりやすく上機嫌だ。
「おまえ不思議と似合うよな、こっちの服」
「俺もそう思う」
もはや褒めるでもなくクラウドが言うので、レスタもさらっと同意しておいた。
実際レスタは自国の衣装よりナーガの民族衣装のほうが好きだ。
リヒトが選んだという爽やかな翡翠色の絹織りも銀糸の帯も、誂えたようにレスタによく似合っている。
「そういうクラウドは平気か? 背中」
一方のクラウドは漆黒の上衣と中着だけで、帯は巻かずにすとんと着ていた。
いわゆる帯無しは老人の着こなしの代表格とされているが、何しろ背中側の腰から左の腰骨にかけて、龍紋の尾の部分が帯の位置に掛かっているのだ。外出するならまだしも、自宅での会食に老人の着こなしもへったくれもない。
「痛くはないけどな、圧迫されると違和感ていうか、妙に気持ち悪い」
「過敏になってるとか」
「ならおまえが触ったときもっと気持ちよかったんじゃ?」
「………」
話題があらぬ角度に逸れたところで、階下の食堂に到着した。
にやりと笑ったクラウドに白い目を向けたレスタは、肩をすくめながら開かれた扉をくぐった。
扉の向こうでは、二年半ぶりのリヒトがレスタを待っていた。
瞬いて、すぐ近くに金色の髪を見とめて、もう一度瞬いた。
ゆっくり手を伸ばし、指先でさらりと髪に触れる。浮かんだ疑問はひとまず置いて、本物だ、ということは理解した。
天蓋の複雑な寄木模様は、城下に建つ邸宅のそれだ。
クラウドは寝台から身体を起こすと、目覚めるまでの最前の記憶を順に思い返した。
突然の激しい痛みと、皮膚を突き破るおぞましい感覚、龍紋の異変。
すべてが現実に起きたことで、悪夢のたぐいでないことは肩越しに触れた背の感触が証明していた。
ただし現状としての体調は悪くない。というよりむしろ良いほうだと思う。上体を動かすと背中がぎしぎしばりばりしたが、特にどこかが痛むということもなかった。
またよく分からん龍神の仕業か、と不本意ながら納得しかけたところで、眠るレスタを見てふと考えをあらためる。
クラウドに体感的な時間の経過はほとんどなかったが、本来いるはずのないレスタがこうしてここに居るということは、それ相応の時間の経過があったはずだ。それも何というか、明らかに大ごと的な。
実際あの激痛は尋常ではなかったが、寝室に漂う空気は清浄で濃密で厳かで、なるほど龍神の仕業で間違いなさそうだが、語感的には御業、と表現したほうがしっくりくるのかもしれない。
委細はともかく、レスタを呼び寄せるほどの状況だったんだろう。
そこまでを把握して、クラウドは一旦寝台を離れた。
時間は正午を半時ほど過ぎた頃だった。
空腹は特に感じない。頬や顎に触れても肌はさっぱりしていた。
とはいえ激痛から全身に脂汗をかいたような気もするし、まずは食事より入浴を選択するべきだろう。
夜着を肩に引っかけて、裸足のままで寝室を出たクラウドは、普段どおりに声を掛けた。
「リク、沐浴する」
ばんっ、とものすごい勢いで控え間の扉が開いた。
「静かにしろ、レスタが寝てる」
「っ、…はいっ、すぐに用意させますっ」
抑えたつもりの声も、静かに、と釘を刺したクラウドには充分うるさい部類だったが、ここは寛大に流すところだ。
部屋に飛び込んできたリクはいつもの主従のやりとりを挟まず、感情を抑えるだけ抑えたようすで速やかに部屋をあとにした。
夏の午後の沐浴にふさわしく、浅めの湯舟を満たすのはぬるま湯の水だ。
準備に時間のかかる冬場と違い、夏場はすべて手軽に済ませられるので楽でいい。
もちろん湯の管理は湯守の仕事なので、側近のリクの役目ではないが、クラウドの意に添う適切な指示は大事な勤めのひとつだ。
以前は使用人が背を流すこともあったクラウドは、龍紋を宿してからはそれもなく、常にひとりで入浴する。
適温のぬるま湯でざっと身を清めると、思った以上にさっぱりした。熱めの湯に浸かったわけでもないのに、血のめぐりや意識がより明瞭になった感じだ。気のせいか背中も少し軽く感じる。
それで思いだして、軽く触って確かめた背中を壁の鏡に映してみた。
―― なるほど、気持ち悪い。
感想は端的かつ率直だった。
とはいえこの背を見るのはレスタだけだ。必要があって見せなければならない対象は何人かいるが、クラウドの許しなく見て、触れていい人物はレスタしかいない。
たとえ帝であっても、むしろ帝だからこそ、その線引きの絶対は共通の認識だろう。
そういえばレスタはこれを見ただろうか。
クラウドは湯あがり着を羽織りながら考えた。
何も纏わず寝ていたので見たとは思うが、隣で眠っていたことを鑑みるに、特に気遣う必要はない気がする。
それはそれでなかなかに剛毅だ。この背は、というより流線型に沿ってびっしり並んだ鈍色の鱗は、当のクラウドが見ても正直かなり気持ちが悪い、と思うのだが。
触りたいと言ってきたらどうするべきか。レスタのことだから言いそうな気もする。
それが容易に想像できたので、もう一度しっかり触って確かめてみた。
鱗の感触は滑らかで、硬くはあるが指を傷つける鋭利さはない。ただしふつうの皮膚を触ったきと違って、よぎる違和感がものすごい。触った側の手ではなく、触られた側の背中のほうだ。
これは何だろう、不快感だろうか。快と不快はだいたい隣り合わせの際どい感覚だと思うが、単純にそうとも言いきれない、捉えどころのない違和感だった。
それでも触られるぐらいは特に不都合もないと思う。レスタに害さえ及ばなければ、クラウドは己の背中など基本的にどうでもいいのだ。
私室に戻る途中、扉のまえでリヒトが待ち構えていた。
すでにリクの報告を受けていたようで、クラウドの姿を見ても落ち着いたようすではあるものの、それとはべつにどこか神妙な顔つきをしていた。
「…分かっててもここまで覿面だとさすがに驚くな…」
何やら万感のこもった呟きにクラウドは首を傾げる。
「なにが。…ていうか、出掛けるのか」
リヒトの装いは登城の際の略式正装だった。盛装ではなく正装、ということは上位者に謁見するための登城だが、リヒトはクラウドの問いを否定した。
「行って帰ってきたところだ。おまえこそ、体調は問題ないか」
「まぁ見てのとおり…。相手は?」
「宰相閣下に呼ばれて、おまえのことでちょっと話してきた。…それで、」
続けて話そうとしたリヒトだったが、クラウドが扉のまえに立ったまま一向に開けようとしないので、そこでふと言葉を切った。
そのあとすぐに意図を察して、
「…あ、そうか。すまん…、レスタが休んでるんだったな」
クラウドはそれに何も答えず、ただ微かな表情の変化だけでリヒトに返した。
「宰相のことはあとで聞く」
「分かった。レスタにはいつ会える?」
「そうだな、…たぶん夜までには」
リヒトはもう一度わかったと頷いて、この場は一旦引きあげていった。
どのみちレスタは眠っているのだし、クラウドの私室でなくとも場所を変えてリヒトの話を聞くことはできた。ただそれ以上にクラウドはレスタのそばにいることを優先して、リヒトもクラウドの選択を尊重した。
クラウドだけでなくリヒトにとっても、それが当然のことだったからだ。
レスタはさっきと同じ姿勢で眠っていた。
クラウドは寝台に乗りあげると、レスタの背に添うように再び横たわった。
そういえばレスタがいつ到着したのかリクにもリヒトにも訊くのを忘れた。というか、そもそもあの夜からいったい何日経っているのか。
常識を度外視すれば、龍神が人の手より早くレスタに報せを送ったと仮定して、ヴァンレイクの王都からナーガの帝都まで最短日数は十日前後だ。
レスタならこの範囲で何とかやってのけそうだが。
――つたえたよ。
声がしたのでレスタの頭の向こう側を覗いたら、枕元に小さな蛇がいた。
「……ああ、そういえば」
たしか成人を迎える前日だったか、龍神がクラウドの言葉に便乗して、レスタのもとへ眷属を遣わしたことがあった。
龍神と直接そんなやりとりを交わしたわけではなかったが、この蛇の存在はクラウドも何となく把握していた。どうやら本当にこの蛇がレスタに伝えてくれたらしい。
誇らしげに頭をもたげる金眼の蛇にちょっと笑って、クラウドは指先で小さな蛇を摘みあげた。
あまり歓迎したくない存在に変わりはないが、感謝しないわけにはいかないだろう。この小蛇のおかげでレスタの到着が早まったのなら。
手のひらに乗せて、指先で平らな頭を撫でてやった。
小蛇はなめらかにとぐろを巻いて小さな円錐を形づくると、そのまますう、とクラウドの手のなかに溶けて消えた。
「………」
呼吸ひとつ分ほどの出来事だ。あっという間だった。
確かに消えたが、べつに消滅したわけではない。何というのか、一種の収納式とでもいうべきか、必要に応じて現われたり消えたりするだけなので、レスタに教えるにしても問題などは一切ないが。
その収納先が自分の手のひらというのは。
「うん、やっぱ気持ち悪い」
一部始終を見ていたクラウドにこれ以上の感想はなかった。
さて、それにしても暇だ。
レスタを起こそうかとも思ったが、リヒトがまだレスタと会っていないのなら、朝のうちに到着していたという線は薄い。
宮殿の開門は午前十時で、それに合わせてリヒトが登城、入れ違いにレスタが到着。いまは午後二時なので、おそらく三時間くらいしか経っていない。
昨夜は昨夜でちゃんと身体を休めたとは思うが、それにしたって疲れてるだろう。
やっぱり、もう一時間なら待ってもいいか。クラウドはしぶしぶ思い直した。
身も蓋もない話だが、それ以上となるとクラウドの理性も白旗を揚げるしかない。
龍神の神気が内にも外にも満ちているせいか、普段よりレスタの気配に敏くなっている気がするのだ。だから出来うる限りの我慢はするが、それでもやっぱり触りたい。
さわって、たしかめて、かんじたい。
身体というより感情の奥深い部分で、クラウドはいつでもそう思っている。こんなに近くにいれば尚更だ。
おかげで理性も忍耐もだいぶ育った。
そろりと手を伸ばし、背後からゆるく腕をまわして、目を閉じた。
肩のあたりにレスタの頭を上手く収めて、穏やかな呼吸と体温を全身で共有した。
そうしてそのまま一時間。
最後の理性が我慢の限界を迎えたところで、クラウドは眠るレスタに悪戯を仕掛けることにした。
+ + +
疲れた。腹減った。とレスタがぐずったので、今度はふたり一緒に沐浴を済ませた。
そのあとナーガの民族衣装に着替えるというレスタを手伝ったクラウドは、身支度を終えたその姿に満足げな笑みを浮かべた。
河川を境に隣りあう二国ではあるが、その文化は服飾も言語も驚くほど似ていない。
ナーガの衣装は男女ともに立襟から右脇下に切れ込んだ前身頃が特徴で、膝丈のゆったりした織り柄の上衣(袍)に単色の帯を合わせるのが仕様だ。中着も上衣と同じ膝丈が大半だが、貴族女性に限っては裾の広いたっぷりとした薄衣を重ねることで、全体が華やかかつ豪奢になる。
ちなみに、かつてレスタが父王の見舞いの際に皮肉をこめて披露したのも、その薄衣を用いた貴族女性の民族衣装だ。
今回はもちろん男性用のしつらえだが、複雑な織り柄を描く絹の光沢は美しく、殊にレスタが身に纏えば男女の別なく華やかにも、豪奢にもなった。
衣装一式を運んできたリクの話だと、クラウドが昏睡している間にリヒトが用意していたものらしい。緻密な採寸を必要としない、ナーガのゆったり衣装が功を奏した。
身支度を終えたあとはリヒトを交えての、三人だけの会食だ。
せっかくだから城代とリクも同席してはどうか、と提案したのだが、せっかくということなら今夜はお三方で、という理由で辞退されてしまった。
確かに今夜はクラウドの目覚めと、二年半ぶりのレスタ滞在と、同じくリヒトとの再会で、三人には水入らずの話題が詰まっている。加えてクラウドにまつわる重要な話もあったので、それなら今夜は三人でということになった。
レスタを伴い私室を出たクラウドは、いつもより分かりやすく上機嫌だ。
「おまえ不思議と似合うよな、こっちの服」
「俺もそう思う」
もはや褒めるでもなくクラウドが言うので、レスタもさらっと同意しておいた。
実際レスタは自国の衣装よりナーガの民族衣装のほうが好きだ。
リヒトが選んだという爽やかな翡翠色の絹織りも銀糸の帯も、誂えたようにレスタによく似合っている。
「そういうクラウドは平気か? 背中」
一方のクラウドは漆黒の上衣と中着だけで、帯は巻かずにすとんと着ていた。
いわゆる帯無しは老人の着こなしの代表格とされているが、何しろ背中側の腰から左の腰骨にかけて、龍紋の尾の部分が帯の位置に掛かっているのだ。外出するならまだしも、自宅での会食に老人の着こなしもへったくれもない。
「痛くはないけどな、圧迫されると違和感ていうか、妙に気持ち悪い」
「過敏になってるとか」
「ならおまえが触ったときもっと気持ちよかったんじゃ?」
「………」
話題があらぬ角度に逸れたところで、階下の食堂に到着した。
にやりと笑ったクラウドに白い目を向けたレスタは、肩をすくめながら開かれた扉をくぐった。
扉の向こうでは、二年半ぶりのリヒトがレスタを待っていた。
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