龍神は月を乞う

なつあきみか

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第二幕〈再会〉

恋能くして千里を駆ける

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 辺境から戻って以降、あまり調子のよくないクラウドにリヒトは少々困惑していた。 
 周囲に対して機嫌が悪いだとか、態度が悪いだとか、そういった普段のようすとは些か異なり、文字どおり何となく調子が悪い。
 できるだけ長く辺境に滞在できるようにと、歳事まえのクラウドの予定を直前の五日間にぎっちり詰め込んだのはリヒトだが、旅路を終えた翌日からのこの日程はさすがに無茶だっただろうか。
 弟の体力を勝手に底なしだと思っていたリヒトは己の浅慮を悔いるしかない。

 五月といえばカムリの双子は月末に歳事をひとつ控えている。
 それ自体は単なる年中行事に過ぎないが、ナーガの貴族諸侯にとってこの歳事はどちらかというと苦行の一種だ。 
 そういった月末を明日に控えて、リヒトは伺うようにクラウドに言った。 
「…本当に大丈夫なのか」 
「たかが一日なんだから問題ねえよ」 
 体調を気遣う兄の言葉に、普段そんな心配とは無縁の弟は素っ気なく答えた。 
「べつに具合が悪いわけじゃねえし。…強いてたとえるなら背中が鬱陶しいだけだ」 
「……背中…?」 
 リヒトは神妙に呟いた。 
 クラウドの背中といえば、それはすなわちこの国の神居だ。 
 確かに執務に差し支えるほどクラウドの身を苛んでいるわけでも、ましてや苦しめているわけでもない(と思われる)微妙な不調は、その背中に原因があるというのか。 
「…本当に問題はないのか? おまえの背中のことを俺が心配してもどうにもならんが…、その…」 
 このときリヒトの脳裏に浮かんでいたのは、神事に通じた宮司たちでも、朝廷の古い顔ぶれでもなく、遠い異国のレスタだった。 
 自分のことは兄にもあまり話さないこのクラウドが、もとより秘密そのもののような龍神の顕現についてそれとなく明かしてくれたのが、レスタに対する龍神の情動、だったからだ。 
 神威たる天上の存在に情動などと呼ばわるものが備わっているのかリヒトには想像も及ばないが、宿主であるクラウドがそう言うのなら、もはや是非もない。 
 ただ、だからこそ続く言葉を濁したリヒトに、クラウドは短く息を吐くように笑った。 
「レスタは関係ねーよ。べつにあいつに反応してどうこうってことでもねーし」 
「…そう、なのか」 
 言われてみればそれもそうだ。 
 これがレスタと関わりのある不調なら、そもそもクラウドが素直にそれを甘受しているはずがない。 
「ともかく気にすんな。そのうち消える」 
 クラウドは執務室の椅子にふんぞり返るように凭れかかると、扉のほうを指差していいから出ていけ、とでも言うように軽くリヒトを追い払った。 


 総領としての書類仕事は昼までに終わらせていたし、立太子礼がらみの今日の予定は夜からだ。
 いまはまだ昼下がりで空き時間があるといえば少しあるが、気分転換にしろなんにしろここで外出するという選択肢はさすがにない。というより背中がうるさい。 
 恋しがっているのが分かるだけに、べつの意味で本気でうるさいとクラウドは思った。 
「……ざけんな。テメェのもんじゃねえつってんだろが…」 
 去年はなかったことだ。とはいえその違いなど考えてみるまでもない。 
 霊獣の分際でサカリでもついてんのかよ、と龍神相手に冒涜さながらの嫌味をとばしつつ、それでもこの騒がしさ(誰にも聞こえない喧噪だ)の半分ぐらいは、背中の居候が己を代弁していることをクラウドもとっくに分かってはいる。 
 おかげで帝都に戻ってからこっち、詰め込まれた行事日程がクラウドを疲弊させることなど当然なかったが、それでもちょっとした夜遊びにすらまったく出掛けていない。 
 この五日間は総領の仕事と、成人まえの行事と、立太子礼を控えた朝廷の行事。すべてきっちりこなして予定外の外出もない。クラウドにあるまじき実に清廉な過ごしぶりだった。
 どのみち明日は歳事の日だ。 
 市井であれば誕生日と呼ばれる日の前夜から、まる一日の不眠と断食、それが明けたあとは神殿の御瀑を頂き、そうすることで己を律し再生を果たすという毎年の儀式が控えている。 
 いわゆる清めの儀式でもあるそれを、どういうわけだかクラウドは昔から一度も嫌ったことはなかった。 
 瞑想が生むある種の空白というのは、浮遊感を伴って心地いい。だからかもしれない。 
 むろん、天空を駆るような浮遊感にまで辿りつくのは、神威を宿すこの男だからこそかもしれなかったが。 

 大地を空を超え、かれに会いたいと龍が乞う。 
「…そんな会いたきゃ会いに行けよ」 
 クラウドはぽつりと呟いた。 
 遠い彼の地まで、それこそ遙か千里を駆けて。 





 小さな音が背後で響いて、つられたようにレスタは窓辺をふりむいた。 
 ほんの今しがたまでそこで外を眺めていたところだ。特に意味も目的もなく、カーテンをひき開けた動作のまま、何となく硝子越しの中庭を眺めて、そして離れた。 
 風もない静かな朝に、窓を揺らす音など当然聞こえてはこない。 
 というよりも、いまのは出窓の広い枠板から聞こえたものだった。屋外ではなく、室内のこちら側から響いた音だ。 
 たとえる擬音も浮かばないほどの、何かとても小さなものが落ちたか、軽いものが弾んだような。 
「………」 
 視線をさまよわせて探す必要はなかった。レスタは黙ってそれを眺めた。 
 不意に窓枠に落ちてきた(としか言いようのない)それは、身の丈が一尺にも満たない黒い蛇だった。 
「……化身?」 
 呑気に呟いたレスタは窓辺のそれに手を伸ばした。指の先ほどの小さな頭を摘みあげてやると、小蛇は尾のほうをくるりと手首に巻きつけてきた。 
 生きた蛇をじかに触ったのはたぶんこれが初めてだ。この蛇が実際に生身の蛇かどうかはともかく、鱗のつるりとした感触が何とも心地いい。 
 目線の高さまで持ちあげて、目を合わすようにレスタは見つめた。 
 鋼のような鱗の鈍光りが美しい、つぶらな金眼の蛇だった。 
「……遠いとこご苦労さん」 
 はたして実際に物理的な距離を経てこの蛇がいまここにいるのかはレスタの知るところではないが、仮にどんな経緯だったとしても、この蛇が神懸かりであることだけは間違いない。 
 摘んでいた頭を解放してやると、小蛇は全身を使って元気に動きだし、レスタの手のひらでしばらく遊んだ。 


 今日でなければ少しは疑ったかもしれない。たとえそれが金眼の黒い蛇であったとしても。 
 離宮から戻って間もない月終わりの朝、レスタが眺めていたのは西の空だ。 
 それは遡ること十八年前。 
 神威を宿した未来の龍王が、この世に生を受けた日だった。 
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