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甘い誘惑

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 何で、よりによって土曜日なんだ。

 2月13日の金曜日、俺は複雑な気分で学校にいた。
 バレンタインは明日、誘う口実は思いついたけれど、ちょっと気が引ける。
(かーちゃん、ごめん)
「ヒナコ、帰ろう」
 放課後を待って呼びに行くと、ヒナコはにこりと笑って立ち上がる。
「……ヒロト、モテモテだね」
 前日にも関わらず何人かの女子に貰ったチョコレートを目ざとく見つけて、ヒナコはからかうように笑う。
「……こんなん、義理だろ」
「そうかなぁ? 案外本命も混ざってるかもよ?」
 にやにやと笑う。親父か、お前は。
 畜生、少しはヤキモチやきやがれ。
「あのさぁ……ヒナコ、明日、空いてる?」
 決死の覚悟で言ったのに、ヒナコはきょとんとして、それから訝しげに問い返した。
「えっと、チョコレート、催促されてる?」
「ばっ…! ちっげーよ、そうじゃなくて!」
 瞬間的に言い返して、後悔したけどもう遅い。でも、気を取り直して言葉を続ける。目的はそこじゃない。
「……かーちゃんの、見舞いに行こうと思って」
「……ああ」
 そっか、と表情を変えて、今度は少し寂しい笑顔を見せた。

 俺とヒナコは幼なじみというか、家は近くないけど母親同士が大親友で、小さい頃からお互いの家を行ったり来たりして育った。小中と校区が違ってたから何となく暗黙の了解のように同じ高校を選んだくらいには、仲がいい。だけどカノジョかと訊かれれば、答えはNOだ。
「明日、バレンタインだからチョコちゃんに逢うの、丁度いいね。チョコちゃん、チョコレートは食べれるかなぁ」
「おま、それって、すげーオヤジギャグ。いや、それ以下じゃね?」
 呆れて突っ込んだのに、何故か照れたようにヒナコは笑う。
「てへへ」
 こいつは、どっかズレてる。まぁ、そういうとこも可愛いんだけど。
 ちなみにチョコちゃんというのは俺のかーちゃんだ。千代子が詰まってチョコちゃんになった。大親友の母親たちは、決して子供たちに〈おばちゃん〉とは呼ばせなかった。小さい頃から名前で呼ぶことを強制された結果、かーちゃんはチョコちゃんになった。ヒナコの母親美優さんは、ミューちゃんって呼んでほしいとしつこく言っていたが、思春期の少年には到底無理な注文で、美優さんで落ち着いた。
 チョコちゃんことかーちゃんが、くも膜下出血で倒れたのが2ヵ月前。かろうじて一命は取りとめたものの、言語障害が残るのは否めないし、切り盛りしていたケーキ屋を再開するのは、おそらく不可能だろう。
 そして俺は、情けないことに、かーちゃんの病気が受け入れられず、一人で病院に行くことができなくなった。だからいつも、ヒナコに付き添ってもらっている。
(頭では、わかってるんだけどな)
「ヒロトさぁ、進路結局どうすんの? ハルカちゃん心配してたよ」
「ええ? あいつそんなことまで家で言ってんのかよ」
「そりゃそうだよ、大事な弟じゃん」
「すげーウゼー。……つか、悪ぃな、ハルカ姉、しょっちゅう病院の付き添い入ってもらって。それ言ってたら美優さんもだけど」
「何言ってんだ、それこそ当たり前。チョコちゃんはハルカちゃんのお母さんであり、ミューちゃんの大親友なんだから」
 ハルカは、俺の姉貴だ。俺たち同様仲良く育った結果、ハルカはヒナコの兄貴であるヒカルくんの嫁になった。母親同士が大喜びしたのは言うまでもない。そして俺もまんまとヒナコに惚れてしまった。問題なのは、ヒナコ本人の気持ちが全くわからないことだ。
「じゃあ、明日ね」
 駅で別れて、家路に向かう。ヒナコの後ろ姿を見送りながら、ずっと言えずにいる言葉を呟いてみる。
 でも一つ、答えを見つけたんだ。

 翌日、待ち合わせて病院に向かうと、検査中でかーちゃんはいなかった。しばらく時間がかかりそうだというので、駐車場の隣にある公園で時間を潰すことにした。飲み物を買って、ベンチに座る。
「あ、そだヒロト。はい、チョコ」
 そういってバッグの中から可愛い包みを取り出す。
「……催促してねぇよ」
「ん? いらないの?」
 脅迫めいた笑顔に怯む。
「いります、いただきます」
「よろしい」
 昔からずっと、こんな感じで。この関係を変えるにはどうしたらいいんだろう。
「ありがと……って、お前、これ、叔父貴んとこのチョコじゃねーかよ!」
「駄目だった? だってこの辺で一番美味しいんだよ」
 かーちゃんの弟である叔父貴は、うちの庶民的なケーキ屋とは全然違うお洒落なスウィーツショップを経営している。叔父とはいっても、かーちゃんより10歳も歳下で独身。イケメンカリスマパティシエ、なんてテレビや雑誌でも紹介されているのだ。
 そしてヒナコが、叔父貴にほのかな憧れを抱いていることも知っている。
 ある意味、ライバルだ。今はまだ、足元にも及ばないとしても。
「……俺も、やるよコレ」
 俺は家からずっと持ってた箱をヒナコの顔の前に突き出す。
「……何これ? チョコちゃんのお見舞いじゃなかったの?」
「違う……お前に、やる」
 ヒナコは、しばらく俺と箱を交互に見つめて、それからおもむろに箱を開けた。
「……チョコレート」
「今は逆チョコとか、友チョコとか、何でもありだし、いんじゃね?」
 って、自分で友チョコとか言ってどうすんだ。
「ヒロト、これ……自分で作ったの?」
「……かーちゃんのレシピ見て、あとは見よう見真似だけど」
 ヒナコはすごいね、と誰に言うでもなく呟いて、一粒口に入れる。
「美味しい! ……チョコちゃんの味がする」
「何だソレ」
 ぶっきらぼうに突っ込んだけど、かーちゃんの味がするっていうのは、一番嬉しい言葉かもしれなかった。ちょっと泣きそうになって、唇を噛む。
「……俺さ、パティシエになろうと思う。そんで、かーちゃんの店を再開するんだ」
「うん、うん、チョコちゃん喜ぶよ。絶対喜ぶよ」
 そう言うヒナコが嬉しそうだ。
 まだ寒い風が吹き抜けて、それでも俺の心に何か暖かいものがこみ上げてくる。
 不意に、俺たちが座ってるベンチの前を、5歳ぐらいの子供が二人、はしゃぎながら走っていく。男の子と女の子。二人とも片手にチョコレートらしき物を持っている。
「あは、可愛いね」
 ヒナコがそれを目で追って微笑んで、そこで、俺ははたと気づく。
 すごくいい雰囲気だったのに、大事なことが伝わってない気がした。
 俺の将来の決意とか、そういうことよりも先に、チョコレートで伝えたいことはもっと別のことだった筈だ。
 俺の気持ちは。
 今ならまだ間に合う、とヒナコの方を向いて、必死で言葉を探していると。
「ねぇねぇ、チューしてるよ、あの子たち」
 俺の服の袖を引っ張るヒナコの言葉に、思わず飲んでたコーヒーを吹き出しそうになる。
 目をやると、さっきの子供たちが、お互いの口に小さなチョコレートを放り込んで、それから小さな唇を合わせてはしゃいでいる。
「可愛いー」
 おいおい、いくら子供でも、見てるこっちが恥ずかしくなるだろ。俺だけか?
「チョコ食べてキスしたら、チョコの味がすんのかな?」
 思わず、そんな子供みたいな言葉でごまかそうとしてしまった。
 何か適当な受け答え、もしくは突っ込みを期待していたのに。
ヒナコは、俺の作ったチョコをもう一個、口に入れて、
「試してみる?」
 と、上目遣いに微笑んだ。
 



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