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【コミカライズ記念】国王陛下は逃亡中
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テーブルの向こうのアユルが、不思議そうに言った。
「昨夜は、こんな場所でお休みになったんですか? 珍しいですね、陛下」
余とアユルがいるのは、魔法庁の建物の一室である。
昨夜、余はこの部屋に泊まり、今日はここで執務を行っている。ちょうどアユルが今日、ダナンディルスから我が国ハーヴェステスに一時帰国し、挨拶に来たところだ。
余はため息をついた。
「……余がここにいると、魔法庁の者たちは気を使うだろう。済まないな」
「気を使うというか、みんな心配しています。魔法庁に用事がおありのご様子でもないのに、陛下がどういうわけか城を出てこちらにいらっしゃるので」
アユルは素直に言う。
余と余の家族は城の奥まった一角に住んでいるので、城が住まいであり執務をとる場所でもあった。一方、魔法庁は聖堂とつながった建物で、建物としても組織系統としても、王城からは完全に独立している。国王の余がここで執務をとるのは、非常に珍しいことと言えた。
まっすぐに余を見て、アユルは尋ねてくる。
「城で、何かあったんですか?」
「…………」
余が黙っていると、さらにアユルはスパッと口にした。
「シーゼ様に関することでは?」
「…………なぜ、わかった」
「陛下は国王でいらっしゃいます。もし、城の人間関係で何かあったとしても、陛下は誰に遠慮なさることもありません。相手の方が登城を遠慮するならわかりますが。……陛下が遠慮なさるお相手としてレレイザ様が思い浮かびますが、レレイザ様は白陽宮にお住まいですし……あとはシーゼ様しかいらっしゃらないかと」
淡々と言うアユルに、余は苦笑する。
「そなたは相変わらず聡いな。……早い話が、余はシーゼと喧嘩をしたのだ」
「喧嘩!? お二人が喧嘩!?」
目を丸くするアユル。余は続けた。
「そなたはシーゼと仲が良い、さぞシーゼが心配であろうな」
「いえ……」
アユルは苦笑して肩をすくめる。
「シーゼ様はたまにめちゃくちゃをなさるので、正直に申し上げて、何かおやらかしになられたんだろうなと、そう思っています。でも、陛下がシーゼ様とお顔を合わせたくないほどお怒りになるなんて、一体」
「いや……違うのだ」
余は首を横に振る。
「喧嘩をしたのは本当だが、シーゼの顔を見たくなくて城を出たのではない。彼女が落ち着いた頃を見計らって、帰る」
「それはつまり、シーゼ様の方が怒り心頭で、陛下を追い出したということですか?」
「それも違う。城を出たのは余の意志だ」
アユルは不思議そうに首を傾げる。
「どういうことでしょう……?」
余は言葉を選びながら、言った。
「つまり……シーゼには、城を飛び出してほしくなかったのだ」
「あ」
はっ、とアユルが息を呑む。余は窓の外に視線を投げた。
「お互いに怒ってはいたが、どちらかというと感情的になるのはいつもシーゼの方だと思う。その勢いで城を出てしまうのが、余は嫌だったのだ。……彼女には、戻るべき実家もない。城が、彼女の居場所だ。城にいて欲しかった。だから先手を打って牽制する意味で、余が城を出た」
「陛下……」
「まあ、そんな風に余が淡々と行動してしまったせいで、もしかしたらシーゼはもっと怒っているかもしれないがな」
余は肘掛け椅子に深くもたれ、再びため息をつく。もう少しやりようがなかったかと、反省していたところだったのだ。
アユルが、伺うようにそっと言った。
「あの……お聞きしていいものかどうか……そもそもの、喧嘩の原因は何だったんです?」
「……魔法庁で開発中の、ミシスを遮断する方法があるだろう」
「ああ、はい」
アユルはうなずく。
ミシスとは、この世界を水のように循環している力だ。天から降り注いだミシスを、生きとし生ける者たちは享受して糧とし、感謝の祈りを捧げることで天に返す。
つまり、生きるもの全てにミシスは宿っており、自然の流れとして天に向かっている。それを一時、地上に留めるのが聖樹であり、聖樹の力を借りて魔法官たちが魔法を行使するのだ。
かつて魔法官見習いで、現在はダナンディルスで魔法の研究をしているアユルにとっては、ミシスの話は専門分野である。彼は姿勢を正した。
「万が一、悪意のある何者かが魔法庁の機能を奪った場合、その人物は聖樹を使ってミシスの流れを追うことで、聖樹と深く関わりのある人物の居場所を調べることができてしまう。それを避ける方法が考案されたという話は、聞いていました」
「そう、それのことだ」
余はうなずく。
正確にはミシスを「遮断」するのではなく、人間の発するミシスが流されないようにする魔法が考案されていた。その魔法をかけた部屋や、布地など大きなもので対象の人物を囲うようにすると、ミシスは天に帰ることなく周囲にとどまる。
「シーゼやウィンガリオンは聖樹と関わりが深い。悪しき者が聖樹を使って二人のミシスを追えないよう、いざという時に備えておこうという、そのために考案された方法だ。……その魔法がかかった、試作品のマントを、シーゼが欲しいと言ったのだ」
余は説明し、またため息をついた。アユルが微妙な表情になる。
「あー……。それはつまり、跡を追われることなく姿をくらましたいというシーゼ様の悪癖が、また」
「アユルもそう思うだろう?」
思わず身を乗り出してしまい、ハッとなって椅子の背に身体を戻す。
「まあ、余もそう思ったのだ。彼女はこの城にすっかり馴染んだと、そう思っていたのに、まだ逃げたいのかと……カッとなってしまった」
それは、昨日の午後のことだった。
「今日試したあのマント、欲しいな。早く手元に置けたらいいのに」
茶を飲みながらのシーゼの言葉に、余はふと苛立ちを覚えた。自分のカップを置く。
「王族の命を守るために魔法官たちが考案したものを、そなたの個人的な理由で軽々しく欲しいなどと言うものではない」
「それは、そうだけど」
一瞬シーゼはひるんだが、ふと眉根にしわを寄せた。
「ちょっと待ってよ。個人的な理由って何のこと?」
「余の妻として、ウィンガリオンの父として、そしてハーヴの王妃としてここに馴染んだと、そう思っていたが、違ったのか? 侍女たちとお忍びで出かけることがあるのに、まだ何か不満なのか?」
「逃げたいから欲しいって言ったんじゃないって!」
「逃げたい気持ちが残っているからこそ、欲しいなどと思ったのだろう? そなたの考えていることなどお見通しだ。いい加減にしなさい」
ガタン、と音を立ててシーゼは立ち上がり、強い口調で言った。
「勝手にわかった気にならないでよ、フェザーのバカ!」
立ち上がった彼女を見た瞬間、余の頭の中は真っ白になった。
行ってしまうーー今すぐに何とかしないと、彼女はこの部屋から走り出てどこかへ行ってしまう。
余は素早く立ち上がると、
「お互いに少し、頭を冷やそう」
と早口に言って、シーゼよりも先に立ち去った。二人で過ごしていた居間の、外へ。
しかし、シーゼにもこの後、公務が控えている。城の中にいれば顔を合わせることもあるだろう。その時、なんと声をかければいいのか。
混乱した余は歩みを止めることができず、そのまま――
「――城を出てこちらに? うーん……」
アユルは顎に手を当てる。
「僕もてっきり、今の陛下のお話を伺って、シーゼ様がマントを欲しがったのは逃亡癖が原因だと思ってしまいました。でも、違うと……?」
「それはわからないが……」
余は、もう何度目になるかわからないため息をつく。
「シーゼの怒りは、何かをごまかす風でなく、本当に怒っているようだったから……違うのかもしれない。しかし、他にどんな理由で、追われないようにするマントが欲しいというのだろう」
その時、ふとアユルが扉の方を気にするそぶりを見せた。
「陛下、どなたかいらっしゃいました。僕は失礼した方がよさそうです」
「ああ。余の愚痴ばかり聞かせて済まなかったな」
「とんでもない」
アユルは微笑み、そして首を傾げた。
「……陛下の、シーゼ様へのお気持ちは変わりないのですよね」
余はすぐにうなずく。
「もちろんだ。彼女への愛は変わらない」
「良かった。早く仲直りできるよう、お祈りしています」
アユルはにっこり笑うと、踵を返して扉を開け、出て行った。
入れ違いに、入ってきた人物がいる。
余はハッとして、立ち上がった。
「シーゼ」
「…………」
両手の指を絡め合わせ、黙ったままうつむき加減に入ってきたのは、シーゼだった。
シーゼはうつむいたまま、上目遣いで余を見る。
「あの……」
「ああ……」
言葉を見つける時間を稼ぐように、余は執務机をゆっくりと回り込み、シーゼと机の前で向かい合う。
シーゼも、何か言おうとして言えない様子だった。視線を泳がせて黙りこくった末――
不意に唇をかんだと思うと、涙をこぼした。
余は息を呑み、シーゼに一歩近づく。
「シーゼ」
シーゼは一度、片手で口元を覆ったものの、すぐに顔を上げて余を見つめた。
「誤解されても、仕方ないけど……本当に、逃げたい気持ちはもう、ないの。信じて」
震える声がいじらしく、余は思わず腕を伸ばしてシーゼを抱きしめた。彼女の香りが、余を一瞬で虜にする。
「いや、謝るのは余の方だ。そなたの生い立ちを考えれば、そう簡単に心の傷が癒えることはないだろうに……逃げたい気持ちが残っているのを、認めることができなかった」
「だ、だから、違うんだって」
シーゼは腕を軽く突っ張り、身体を離して余を見つめる。
「そのう、ある意味では、個人的な理由かもしれない。マントが欲しいって言ったのは……」
「言ったのは?」
「…………」
いっときためらってから、彼女は一気に言った。
「マントがあれば、フェザーと二人っきりになれると思ったの!」
余は、一瞬、惚けてしまった。
「二人……」
「だ、だって、いつも誰かがそばにいるでしょ? 寝室も、部屋の外に騎士がいるし。本当の意味で二人っきりになったこと、ないじゃない。誰も知らない場所で夫婦二人だけ、っていうシチュエーションに、ちょっと夢見ちゃったの」
シーゼは肩を落とす。
「……命を守るためのものをせっかく作ってもらったのに、そんな風に考えちゃったことに関しては、王族として自覚が足りなかったと思うわ。ごめんなさい。もう言わないから」
「……そう、だったのか」
彼女は一人で逃げたいと思ったのではなく、二人だけで過ごしたいと思っただけだったのだ。一人ではなく夫婦、すでにそういう意識が自然になっている。
シーゼは再び涙をこぼし、指先で涙を拭く。
「まさか、フェザーの方が逃げちゃうなんて思わなかった。置いていかれるのが、こんなに辛いなんて。私、甘えすぎてたのかな」
「違うのだ。怒ったそなたが城を飛び出すのが怖かった。余が先に城を出れば、そなたは残ると思ってそうしたに過ぎない」
「そうなの……?」
シーゼの涙は止まったようだったが、まだ余と視線を合わせない。
「でも、フェザーがそう思ったのも結局、私のせいだよね」
「逃亡癖はそなたのせいではない。そうだろう? 余の包容力が足りなかった」
「そんなことない、フェザーはいつも優しいよ」
「いや、今回は明らかに余が先走って」
――言葉が被さり、途切れ。
余とシーゼは、表情を緩めた。
もう一度、今度は互いに抱きしめあう。ここは魔法庁ではあったが、シーゼがそばにいれば、どこにいようが不思議と違和感はなかった。
それからしばらく経って、余とシーゼは休暇を取り、王領にある小さな離宮に出かけた。
到着したその日だけは、離宮の中に、余とシーゼだけ。護衛の騎士たちは離宮の外で警備に当たり、侍女や侍従は連れていない。
二人で厨房に行き、二人で簡単な料理を苦労しながら作り、誰の姿も見えない庭園を寄り添って散歩。夜は二人でともに湯を使い、愛し合って眠る。
そんな休暇の後で城に戻り、大勢の人々に囲まれ、ウィンガリオンの笑顔に癒されるのは、また格別だった。
余とシーゼの居間を訪ねてきたアユルが、満面の笑顔で言う。
「良かったです! これで心おきなくダナンに戻れます。でもやっぱり、お二人は二人きりの時間は過ごせたものの、『誰も知らない場所で』というのは無理だったんですね」
シーゼが機嫌良く、首を横に振る。
「ううん、いいの。これで十分。何だか新鮮で、夜のアレコレも素敵だったし!」
「あはは、相変わらずシーゼ様は赤裸々ですねー」
仲むつまじく会話する二人にガックリ来ながらも、余はシーゼの笑顔に癒されるのだった。
【おしまい】
「昨夜は、こんな場所でお休みになったんですか? 珍しいですね、陛下」
余とアユルがいるのは、魔法庁の建物の一室である。
昨夜、余はこの部屋に泊まり、今日はここで執務を行っている。ちょうどアユルが今日、ダナンディルスから我が国ハーヴェステスに一時帰国し、挨拶に来たところだ。
余はため息をついた。
「……余がここにいると、魔法庁の者たちは気を使うだろう。済まないな」
「気を使うというか、みんな心配しています。魔法庁に用事がおありのご様子でもないのに、陛下がどういうわけか城を出てこちらにいらっしゃるので」
アユルは素直に言う。
余と余の家族は城の奥まった一角に住んでいるので、城が住まいであり執務をとる場所でもあった。一方、魔法庁は聖堂とつながった建物で、建物としても組織系統としても、王城からは完全に独立している。国王の余がここで執務をとるのは、非常に珍しいことと言えた。
まっすぐに余を見て、アユルは尋ねてくる。
「城で、何かあったんですか?」
「…………」
余が黙っていると、さらにアユルはスパッと口にした。
「シーゼ様に関することでは?」
「…………なぜ、わかった」
「陛下は国王でいらっしゃいます。もし、城の人間関係で何かあったとしても、陛下は誰に遠慮なさることもありません。相手の方が登城を遠慮するならわかりますが。……陛下が遠慮なさるお相手としてレレイザ様が思い浮かびますが、レレイザ様は白陽宮にお住まいですし……あとはシーゼ様しかいらっしゃらないかと」
淡々と言うアユルに、余は苦笑する。
「そなたは相変わらず聡いな。……早い話が、余はシーゼと喧嘩をしたのだ」
「喧嘩!? お二人が喧嘩!?」
目を丸くするアユル。余は続けた。
「そなたはシーゼと仲が良い、さぞシーゼが心配であろうな」
「いえ……」
アユルは苦笑して肩をすくめる。
「シーゼ様はたまにめちゃくちゃをなさるので、正直に申し上げて、何かおやらかしになられたんだろうなと、そう思っています。でも、陛下がシーゼ様とお顔を合わせたくないほどお怒りになるなんて、一体」
「いや……違うのだ」
余は首を横に振る。
「喧嘩をしたのは本当だが、シーゼの顔を見たくなくて城を出たのではない。彼女が落ち着いた頃を見計らって、帰る」
「それはつまり、シーゼ様の方が怒り心頭で、陛下を追い出したということですか?」
「それも違う。城を出たのは余の意志だ」
アユルは不思議そうに首を傾げる。
「どういうことでしょう……?」
余は言葉を選びながら、言った。
「つまり……シーゼには、城を飛び出してほしくなかったのだ」
「あ」
はっ、とアユルが息を呑む。余は窓の外に視線を投げた。
「お互いに怒ってはいたが、どちらかというと感情的になるのはいつもシーゼの方だと思う。その勢いで城を出てしまうのが、余は嫌だったのだ。……彼女には、戻るべき実家もない。城が、彼女の居場所だ。城にいて欲しかった。だから先手を打って牽制する意味で、余が城を出た」
「陛下……」
「まあ、そんな風に余が淡々と行動してしまったせいで、もしかしたらシーゼはもっと怒っているかもしれないがな」
余は肘掛け椅子に深くもたれ、再びため息をつく。もう少しやりようがなかったかと、反省していたところだったのだ。
アユルが、伺うようにそっと言った。
「あの……お聞きしていいものかどうか……そもそもの、喧嘩の原因は何だったんです?」
「……魔法庁で開発中の、ミシスを遮断する方法があるだろう」
「ああ、はい」
アユルはうなずく。
ミシスとは、この世界を水のように循環している力だ。天から降り注いだミシスを、生きとし生ける者たちは享受して糧とし、感謝の祈りを捧げることで天に返す。
つまり、生きるもの全てにミシスは宿っており、自然の流れとして天に向かっている。それを一時、地上に留めるのが聖樹であり、聖樹の力を借りて魔法官たちが魔法を行使するのだ。
かつて魔法官見習いで、現在はダナンディルスで魔法の研究をしているアユルにとっては、ミシスの話は専門分野である。彼は姿勢を正した。
「万が一、悪意のある何者かが魔法庁の機能を奪った場合、その人物は聖樹を使ってミシスの流れを追うことで、聖樹と深く関わりのある人物の居場所を調べることができてしまう。それを避ける方法が考案されたという話は、聞いていました」
「そう、それのことだ」
余はうなずく。
正確にはミシスを「遮断」するのではなく、人間の発するミシスが流されないようにする魔法が考案されていた。その魔法をかけた部屋や、布地など大きなもので対象の人物を囲うようにすると、ミシスは天に帰ることなく周囲にとどまる。
「シーゼやウィンガリオンは聖樹と関わりが深い。悪しき者が聖樹を使って二人のミシスを追えないよう、いざという時に備えておこうという、そのために考案された方法だ。……その魔法がかかった、試作品のマントを、シーゼが欲しいと言ったのだ」
余は説明し、またため息をついた。アユルが微妙な表情になる。
「あー……。それはつまり、跡を追われることなく姿をくらましたいというシーゼ様の悪癖が、また」
「アユルもそう思うだろう?」
思わず身を乗り出してしまい、ハッとなって椅子の背に身体を戻す。
「まあ、余もそう思ったのだ。彼女はこの城にすっかり馴染んだと、そう思っていたのに、まだ逃げたいのかと……カッとなってしまった」
それは、昨日の午後のことだった。
「今日試したあのマント、欲しいな。早く手元に置けたらいいのに」
茶を飲みながらのシーゼの言葉に、余はふと苛立ちを覚えた。自分のカップを置く。
「王族の命を守るために魔法官たちが考案したものを、そなたの個人的な理由で軽々しく欲しいなどと言うものではない」
「それは、そうだけど」
一瞬シーゼはひるんだが、ふと眉根にしわを寄せた。
「ちょっと待ってよ。個人的な理由って何のこと?」
「余の妻として、ウィンガリオンの父として、そしてハーヴの王妃としてここに馴染んだと、そう思っていたが、違ったのか? 侍女たちとお忍びで出かけることがあるのに、まだ何か不満なのか?」
「逃げたいから欲しいって言ったんじゃないって!」
「逃げたい気持ちが残っているからこそ、欲しいなどと思ったのだろう? そなたの考えていることなどお見通しだ。いい加減にしなさい」
ガタン、と音を立ててシーゼは立ち上がり、強い口調で言った。
「勝手にわかった気にならないでよ、フェザーのバカ!」
立ち上がった彼女を見た瞬間、余の頭の中は真っ白になった。
行ってしまうーー今すぐに何とかしないと、彼女はこの部屋から走り出てどこかへ行ってしまう。
余は素早く立ち上がると、
「お互いに少し、頭を冷やそう」
と早口に言って、シーゼよりも先に立ち去った。二人で過ごしていた居間の、外へ。
しかし、シーゼにもこの後、公務が控えている。城の中にいれば顔を合わせることもあるだろう。その時、なんと声をかければいいのか。
混乱した余は歩みを止めることができず、そのまま――
「――城を出てこちらに? うーん……」
アユルは顎に手を当てる。
「僕もてっきり、今の陛下のお話を伺って、シーゼ様がマントを欲しがったのは逃亡癖が原因だと思ってしまいました。でも、違うと……?」
「それはわからないが……」
余は、もう何度目になるかわからないため息をつく。
「シーゼの怒りは、何かをごまかす風でなく、本当に怒っているようだったから……違うのかもしれない。しかし、他にどんな理由で、追われないようにするマントが欲しいというのだろう」
その時、ふとアユルが扉の方を気にするそぶりを見せた。
「陛下、どなたかいらっしゃいました。僕は失礼した方がよさそうです」
「ああ。余の愚痴ばかり聞かせて済まなかったな」
「とんでもない」
アユルは微笑み、そして首を傾げた。
「……陛下の、シーゼ様へのお気持ちは変わりないのですよね」
余はすぐにうなずく。
「もちろんだ。彼女への愛は変わらない」
「良かった。早く仲直りできるよう、お祈りしています」
アユルはにっこり笑うと、踵を返して扉を開け、出て行った。
入れ違いに、入ってきた人物がいる。
余はハッとして、立ち上がった。
「シーゼ」
「…………」
両手の指を絡め合わせ、黙ったままうつむき加減に入ってきたのは、シーゼだった。
シーゼはうつむいたまま、上目遣いで余を見る。
「あの……」
「ああ……」
言葉を見つける時間を稼ぐように、余は執務机をゆっくりと回り込み、シーゼと机の前で向かい合う。
シーゼも、何か言おうとして言えない様子だった。視線を泳がせて黙りこくった末――
不意に唇をかんだと思うと、涙をこぼした。
余は息を呑み、シーゼに一歩近づく。
「シーゼ」
シーゼは一度、片手で口元を覆ったものの、すぐに顔を上げて余を見つめた。
「誤解されても、仕方ないけど……本当に、逃げたい気持ちはもう、ないの。信じて」
震える声がいじらしく、余は思わず腕を伸ばしてシーゼを抱きしめた。彼女の香りが、余を一瞬で虜にする。
「いや、謝るのは余の方だ。そなたの生い立ちを考えれば、そう簡単に心の傷が癒えることはないだろうに……逃げたい気持ちが残っているのを、認めることができなかった」
「だ、だから、違うんだって」
シーゼは腕を軽く突っ張り、身体を離して余を見つめる。
「そのう、ある意味では、個人的な理由かもしれない。マントが欲しいって言ったのは……」
「言ったのは?」
「…………」
いっときためらってから、彼女は一気に言った。
「マントがあれば、フェザーと二人っきりになれると思ったの!」
余は、一瞬、惚けてしまった。
「二人……」
「だ、だって、いつも誰かがそばにいるでしょ? 寝室も、部屋の外に騎士がいるし。本当の意味で二人っきりになったこと、ないじゃない。誰も知らない場所で夫婦二人だけ、っていうシチュエーションに、ちょっと夢見ちゃったの」
シーゼは肩を落とす。
「……命を守るためのものをせっかく作ってもらったのに、そんな風に考えちゃったことに関しては、王族として自覚が足りなかったと思うわ。ごめんなさい。もう言わないから」
「……そう、だったのか」
彼女は一人で逃げたいと思ったのではなく、二人だけで過ごしたいと思っただけだったのだ。一人ではなく夫婦、すでにそういう意識が自然になっている。
シーゼは再び涙をこぼし、指先で涙を拭く。
「まさか、フェザーの方が逃げちゃうなんて思わなかった。置いていかれるのが、こんなに辛いなんて。私、甘えすぎてたのかな」
「違うのだ。怒ったそなたが城を飛び出すのが怖かった。余が先に城を出れば、そなたは残ると思ってそうしたに過ぎない」
「そうなの……?」
シーゼの涙は止まったようだったが、まだ余と視線を合わせない。
「でも、フェザーがそう思ったのも結局、私のせいだよね」
「逃亡癖はそなたのせいではない。そうだろう? 余の包容力が足りなかった」
「そんなことない、フェザーはいつも優しいよ」
「いや、今回は明らかに余が先走って」
――言葉が被さり、途切れ。
余とシーゼは、表情を緩めた。
もう一度、今度は互いに抱きしめあう。ここは魔法庁ではあったが、シーゼがそばにいれば、どこにいようが不思議と違和感はなかった。
それからしばらく経って、余とシーゼは休暇を取り、王領にある小さな離宮に出かけた。
到着したその日だけは、離宮の中に、余とシーゼだけ。護衛の騎士たちは離宮の外で警備に当たり、侍女や侍従は連れていない。
二人で厨房に行き、二人で簡単な料理を苦労しながら作り、誰の姿も見えない庭園を寄り添って散歩。夜は二人でともに湯を使い、愛し合って眠る。
そんな休暇の後で城に戻り、大勢の人々に囲まれ、ウィンガリオンの笑顔に癒されるのは、また格別だった。
余とシーゼの居間を訪ねてきたアユルが、満面の笑顔で言う。
「良かったです! これで心おきなくダナンに戻れます。でもやっぱり、お二人は二人きりの時間は過ごせたものの、『誰も知らない場所で』というのは無理だったんですね」
シーゼが機嫌良く、首を横に振る。
「ううん、いいの。これで十分。何だか新鮮で、夜のアレコレも素敵だったし!」
「あはは、相変わらずシーゼ様は赤裸々ですねー」
仲むつまじく会話する二人にガックリ来ながらも、余はシーゼの笑顔に癒されるのだった。
【おしまい】
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レジーナ文庫で「王妃様は逃亡中」を持っています?
国王陛下は逃亡中を読んで久しぶりに読み返したくなりました( *´艸`)
>笹丸 さま
おお、文庫をお持ちですか~
ありがとうございます!
コミカライズ作業で読み返したのですが、
シーゼのはっちゃけ振りはやはり
ひどいです(←ある意味自画自賛)