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2周目(後日談・番外編・その他)
ヤジナの町 ~『エミンの輪』と宿屋(ザファル視点)
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いったん砦に戻り、昼食を取ってからヤジナに向かうことになった。
トゥルガンに副隊長の遺品を見せると、彼もしばし絶句していたが、やがて言った。
「これからヤジナに行くんだろ、軍に届けて。遺族がいるはずだから」
「そうだな、わかった」
俺はそれを荷物にしまい込んだ。墓には骨もなかったはずだ、これだけでも遺族に届くといいが。発見した状況などを手紙に書いて、一緒に持って行くことにしよう。
ふと気づくと、荷物をしまう俺の手元をチヤがじっと見つめていた。
馬に乗り、チヤに手を貸して前に乗せると、俺たちはヤジナに向かって出発した。
「こうやってチヤを乗せるのも久しぶりだなぁ。バルラス卿のところで、乗馬の練習はしたのか?」
「してないです……勉強ばっかりで。乗馬、おぼえないと」
チヤはますます小さくなる。
「少しずつ教えてやる。まあ、ヤジナに行くときは誰かと一緒の方がいいから、俺が行くときは俺と乗ればいい」
「はい、ありがとう。……隊長」
「ん?」
「がっかり、した? 私、人間になっちゃって」
前を見たまま、チヤはそんなことを言った。
「ああ? 何だよ、資料室がどれだけ悲惨だったかお前も知ってるだろ。今は本当に助かってるぞ」
「でも、新しいムシュク・ドストラー、来ない。北側の探索、まだまだ進んでないなぁって、今日ダラに降りてもう一度思った。もっと、探すもの、たくさんあるはずです」
俺はその言葉を聞きながら、考える。
十三年ぶりに副隊長の遺品を見つけてから、チヤは妙に無口だった。彼女のことだ、自分がもっとダラに降りられれば、発見を待っている大事なものを早く見つけられるのに……などと思っているのだろう。
「チヤ」
俺は身を屈めて、顎を軽くチヤの頭に載せた。
「ありがとうな。ここの生まれじゃないお前も一緒に、ダラで起こった出来事を背負ってくれようとしてるんだな」
「そ、そんなすごいことと違うますっ!」
チヤは逆に困ったようで、口調を変えた。
「あー、可愛いムシュク・ドストラー、はやく来ないかな!」
「可愛いのがいいのか」
「かっこいい、でもいいです。砦にいたら、それだけで皆うれしい、きっと。もちべーしょん上がる。可愛いは正義! かっこいいも正義!」
「ふ、ふーん……」
「故郷で、どうぶつの姿になってた男の人のお話があります。お話の最後、美女に愛されて人間に戻るけど、あれも私はどうぶつのままの方がかっこ良かったー」
『ビジョトヤジュ』って言うお話、とチヤはつぶやく。
何だかよくわからんが、小さなドストラーが可愛い、というのはわかる。チヤがドストラーとして来たとき、ナフィーサなんか可愛がり方が尋常じゃなかったもんな。まあ、人のことは言えないかもしれないが。しかし……
「チヤが大人の女性になって現れた時も、何だかいい雰囲気になったと思うけどな。皆がお前を好きだったからな」
俺が言うと、チヤは「ええ?」とびっくりしたように身体をひねって俺を見た。
そして、少し赤くなってまた前を向いた。
可愛い、と思ったのは、チヤが今ムシュクだからなのか、それとも……
夕方にヤジナに入った俺たちは、宿を決めて馬を預けた。
「なあチヤ、部屋のことなんだが」
「はい」
「眠ったら、人間に戻るんだろ。でも、眠るまでは子供のドストラーだ。やっぱり心配だし、子供一人で部屋を取るのは宿の人間もいい顔はしない。悪いが、同部屋にするぞ」
「あ、はい、わかりました」
チヤはうなずいた。子どもの姿の時とはいえ、今までにも何度か俺と夜を過ごす羽目になっているので、特に抵抗はないのだろう。
しかし、目や声の調子が、納得と、諦めと、少しの照れと……色々なものを含んだ表情を持っていて、ああ、自分は以前からこういうところに「大人のチヤ」を感じ取っていたのかもしれないな、と思う。
チヤはそれから少し考えて、笑った。
「入ったときと、出るとき、私、違うひと……ヘン」
「宿代は前払いだから、裏口から出りゃいい」
俺も笑ってそう言った。
部屋に荷物を置き、いったん軍本部に向かう。副隊長の遺品を預け、遺族に届くように手続きをした。
それから、俺たちは南の路地にある『エミンの輪』に向かった。
「うわあ、チヤ久しぶりだねー!」
相変わらず愛想のいいジャンが迎えてくれ、すぐにクオラを呼ぶ。クオラも大喜びで奥から飛び出してきた。
「チヤ! ようこそ! なんで来ない!?」
「ごめん、とっても忙しかった。クオラ元気?」
二人のムシュク・ドストラーが楽しそうにしているところは、とても愛らしい。他の客まで笑顔で眺めている。ヤジナならではの雰囲気ではあるが、『可愛いは正義』、なるほどな。
料理の注文を厨房に通してから飲み物を持ってきたクオラを、チヤは引き留めた。
「あのねクオラ……私、違う仕事、することになった」
「違う仕事?」
クオラの顔が、何か予感したように不安そうになる。
「どんな? どこで?」
「軍の、違う場所の仕事。お、王都のほう。だから……ここ、来れなくなる。ごめんね」
「チヤ……」
可哀想に、クオラは尻尾を垂らし背中を丸め、見るからにしょんぼりしてしまった。チヤも全く同じ様子で、
「私もさびしい」
とうつむく。
「クオラは、文字は書けるか?」
俺は聞いた。
「少し……」
「俺に預ければ、軍を通じて手紙をチヤに届くようにしてやれるぞ」
「わ、私も書く。ね」
チヤが言うと、クオラはチヤの顔を見てようやくうなずいた。
「うん……しょうがない……がんばって、チヤ」
「クオラもね。ここの料理はとっても美味しい、大好き」
「今日もいっぱい食っていきな」
横からジャンが一品目を差し出し、チヤは笑顔で答えた。
「うん。周りのひとにもいっぱい、ここのこと教えるね」
グラスを傾けながら、俺はその様子を見ていた。
次に来るときは、事務官の彼女の姿で、かな。偶然にもチヤと同じ名前で、チヤからここのことを聞いた、と。
彼らとすぐに仲良くなったチヤだ、人間のチヤとしてもすぐに仲良くなれるだろう。
夜も更けて、チヤが少しぼうっとした様子を見せた。久しぶりにダラで活動してからヤジナに来たからか、それとも呪い札で合体した影響か……とにかく疲れているようだ。
俺たちは店を辞した。ジャンもクオラも表まで送ってくれ、チヤと軽く抱き合って別れた。
宿に戻り、湯をもらって顔や手を洗うと、チヤは衝立の陰で大きめの寝間着に着替えた。そして、
「隊長、おやすみなさい……」
と寝台にもぐり込むと、あっという間に寝息をたてだした。
ランプの灯りを小さくし、こっそり観察していると、やがてムシュクの耳がすーっと引っ込んだ。三色だった髪の毛が黒一色になり、毛布の中で身体が少し大きくなる。枕の横に出ていた手が、すらりとした女性の手になる。
たちまちこの部屋は、大人の男女の滞在する部屋になった。
あ、いや、もう一人……もう一匹。毛布の裾から、ひょっこりとチャコが顔を出した。そして、チヤの足下で丸くなる。
「……寝るか」
俺はランプの灯りを消すと、自分の寝台に潜り込んだ。
崖の上で、短刀を持って構えているドストラーがいる。
茶色の耳にふさふさとした尾、黒の軍服。壮年のドストラー。
懐かしい、副隊長だ。
崖の下から、黒い影が飛び出す。巨大なイノシシが二頭、その鋭い牙と爪で副隊長を襲う。副隊長は短刀を振り回して応戦するが、赤いものが飛び散った。
副隊長、と叫び、俺はイートの姿に変身して飛び出そうとした。が、身体が動かない。見上げると、蜘蛛の黄色い腹が見えた。いつの間にか俺の身体はこいつの糸にからめ取られている。
身体をよじって抜け出そうとしながら見回すと、俺の周りに何人もの人間が倒れている。同期の軍人たち、呪術師たち、そして子供たち……ああ、その向こうではトゥルガンまでが巨大なヨーボイに襲われて……
叫び声が聞こえた。はっ、と視線を戻すと、崖から副隊長が落ちていく。下で待ちかまえていたアソシーが、大きな口を開いた。
やめろ!
「隊長!」
はっ、と目を見開くと、心配そうな顔が見えた。
真っ暗な、宿屋の部屋。チヤが膝をついて俺の身体を揺さぶっていた。
「隊長、大丈夫?」
「あ、ああ」
声を出したとたん、自分がイートの姿になっているのに気づく。何てこった、うなされて変身するなんて。
「すまん。……チヤ、大丈夫か」
暴れて彼女に怪我をさせてはいないかと、急いで身体を起こして鼻を近づける。血のにおいはしない。
「私、平気。隊長、悪いゆめ?」
「インギロージャの夢を見た」
言うと、チヤは俺の背中の毛を撫でながら辛そうな顔をする。もしかしたら副隊長の名を口走ったかもしれないから、彼女も察しているのだろう。昼間の出来事が、きっかけになったのではないかと。
「悪いゆめ、よくみますか?」
「いや……そういえば、久しぶりだ。このところずっと見ていなかった」
俺は苦笑する。
「川に落ちたお前と二人で、ダラの底で眠った時でさえ、見なかったんだけどな」
「あのときは、隊長、私を守ってくれてたから。そのきもちが、きっと……」
うまく言葉が出ないのかチヤは黙ってしまったが、微笑んだ。
動悸が落ち着いて来る。俺はうなずき、伏せた状態から軽く身体を倒して腹をチヤに向けた。
「床は冷える、ここ座れ」
本当は、自分の寝台に戻れと言うべきだったのかもしれない。しかし、今はチヤをそばに置きたいと思ったら、自然とそう言ってしまっていた。
おとなしく俺のそばに座ったチヤは、引き続き背中の毛を撫でている。俺は尻尾を持ち上げて、彼女の腰を抱くようにした。ダラの底で、二人で眠ったときのように。
「……インギロージャから長い時間が経ったが、ずっと何も解決しないままだった。俺やトゥルガン、他にも関わった者たちの中じゃ、何も終わってなんかいなかった」
前足に頭をもたせかけながら、俺はチヤに話して聞かせる。
「でも、原因がわかって一段落したことで、区切りだけはついたってことかな。正体不明だった恐怖が、正体のある恐怖だとわかったわけだ。だから、夢を見ることも減ったんだろう。忘れることはなくても」
チヤは黙ってうなずく。
心地よい沈黙。
やがて、俺の脇腹に温かなものが寄り添った。疲れているチヤも、眠くなったのだろう。軽く俺にもたれ、撫でる手もゆっくりになっている。俺はその感覚を、黙って味わった。
チヤの手が止まり、柔らかな重みが寄りかかってきた。
顔をのぞき込むと、彼女は穏やかな表情で眠っている。長いまつげ、わずかに開いた唇、綺麗な顎の線。
ふと、思った。
――こんなのおかしいだろ、出来すぎだ。
ニルファルの術によって、無理矢理こちらに連れてこられたチヤ。人間なのにドストラーの姿になり、それでもまっすぐ生きてきた。
ダラの謎を解く手助けをしてくれ、その直後に今度は人間に。俺たちが必要としていた事務官になって部隊を再び助け、しかも今、こうして俺に寄り添ってくれている。悪夢を追い払おうとしてくれている。
あまりに俺だけに、都合が良すぎる。
神はチヤを、俺のためにこの世界に寄越したんじゃないか……そんな風に、勘違いしてしまいそうになる。
俺は、鼻面をチヤの顔に近づけた。ぺろり、と、彼女の額を舐める。「ん……」とチヤは声を漏らし、俺の毛皮に顔をすり寄せた。
どうしようもなく、愛おしい気持ちが沸き上がった。チヤが俺を、ただのおっさん上司だと思っていたとしても、俺の方はもしかしたら……
眠る彼女の顔を、飽きずに眺める。
「やばいな。こいつの言うこと、何でも聞いちまいそうだ」
こっそり、つぶやいた。
翌朝、目を覚ましたチヤは、自分が俺の寝台に一人で寝ているのに気づいて仰天したらしい。
「た、隊長っ、私何か……ご、ごめんなさい!?」
「いやすまん、寝ちまったお前をお前の寝台に戻してやりたかったんだが、イートの姿だと無理でな。俺の方が寝台を移った」
「あああああ、それもごめんなさい……!」
ひたすら恐縮するチヤを見て、罪悪感を覚える。
本当は、俺は人間になるまで起きていたのだ。そして、チヤに寄り添ったまま、腕を回して髪を梳いて――
――そこで、クドラトの言葉が脳裏をかすめた。
『砦は職場なんですから、こじれないで下さいよ』
そう、チヤが俺を何とも思っていなかったら、俺が不用意に距離を詰めるのはまずい。俺は隊長だから、砦に居づらくなったらチヤが出て行ってしまう。
「やばい」と思って、とっさに離れて寝台を移った。それが真相だ。
「まあ、あれだ。俺はチヤが幸せなら、それでいいんだ」
ははっ、と笑う俺を、「はあ?」とチヤは不思議そうに見ていたのだった。
トゥルガンに副隊長の遺品を見せると、彼もしばし絶句していたが、やがて言った。
「これからヤジナに行くんだろ、軍に届けて。遺族がいるはずだから」
「そうだな、わかった」
俺はそれを荷物にしまい込んだ。墓には骨もなかったはずだ、これだけでも遺族に届くといいが。発見した状況などを手紙に書いて、一緒に持って行くことにしよう。
ふと気づくと、荷物をしまう俺の手元をチヤがじっと見つめていた。
馬に乗り、チヤに手を貸して前に乗せると、俺たちはヤジナに向かって出発した。
「こうやってチヤを乗せるのも久しぶりだなぁ。バルラス卿のところで、乗馬の練習はしたのか?」
「してないです……勉強ばっかりで。乗馬、おぼえないと」
チヤはますます小さくなる。
「少しずつ教えてやる。まあ、ヤジナに行くときは誰かと一緒の方がいいから、俺が行くときは俺と乗ればいい」
「はい、ありがとう。……隊長」
「ん?」
「がっかり、した? 私、人間になっちゃって」
前を見たまま、チヤはそんなことを言った。
「ああ? 何だよ、資料室がどれだけ悲惨だったかお前も知ってるだろ。今は本当に助かってるぞ」
「でも、新しいムシュク・ドストラー、来ない。北側の探索、まだまだ進んでないなぁって、今日ダラに降りてもう一度思った。もっと、探すもの、たくさんあるはずです」
俺はその言葉を聞きながら、考える。
十三年ぶりに副隊長の遺品を見つけてから、チヤは妙に無口だった。彼女のことだ、自分がもっとダラに降りられれば、発見を待っている大事なものを早く見つけられるのに……などと思っているのだろう。
「チヤ」
俺は身を屈めて、顎を軽くチヤの頭に載せた。
「ありがとうな。ここの生まれじゃないお前も一緒に、ダラで起こった出来事を背負ってくれようとしてるんだな」
「そ、そんなすごいことと違うますっ!」
チヤは逆に困ったようで、口調を変えた。
「あー、可愛いムシュク・ドストラー、はやく来ないかな!」
「可愛いのがいいのか」
「かっこいい、でもいいです。砦にいたら、それだけで皆うれしい、きっと。もちべーしょん上がる。可愛いは正義! かっこいいも正義!」
「ふ、ふーん……」
「故郷で、どうぶつの姿になってた男の人のお話があります。お話の最後、美女に愛されて人間に戻るけど、あれも私はどうぶつのままの方がかっこ良かったー」
『ビジョトヤジュ』って言うお話、とチヤはつぶやく。
何だかよくわからんが、小さなドストラーが可愛い、というのはわかる。チヤがドストラーとして来たとき、ナフィーサなんか可愛がり方が尋常じゃなかったもんな。まあ、人のことは言えないかもしれないが。しかし……
「チヤが大人の女性になって現れた時も、何だかいい雰囲気になったと思うけどな。皆がお前を好きだったからな」
俺が言うと、チヤは「ええ?」とびっくりしたように身体をひねって俺を見た。
そして、少し赤くなってまた前を向いた。
可愛い、と思ったのは、チヤが今ムシュクだからなのか、それとも……
夕方にヤジナに入った俺たちは、宿を決めて馬を預けた。
「なあチヤ、部屋のことなんだが」
「はい」
「眠ったら、人間に戻るんだろ。でも、眠るまでは子供のドストラーだ。やっぱり心配だし、子供一人で部屋を取るのは宿の人間もいい顔はしない。悪いが、同部屋にするぞ」
「あ、はい、わかりました」
チヤはうなずいた。子どもの姿の時とはいえ、今までにも何度か俺と夜を過ごす羽目になっているので、特に抵抗はないのだろう。
しかし、目や声の調子が、納得と、諦めと、少しの照れと……色々なものを含んだ表情を持っていて、ああ、自分は以前からこういうところに「大人のチヤ」を感じ取っていたのかもしれないな、と思う。
チヤはそれから少し考えて、笑った。
「入ったときと、出るとき、私、違うひと……ヘン」
「宿代は前払いだから、裏口から出りゃいい」
俺も笑ってそう言った。
部屋に荷物を置き、いったん軍本部に向かう。副隊長の遺品を預け、遺族に届くように手続きをした。
それから、俺たちは南の路地にある『エミンの輪』に向かった。
「うわあ、チヤ久しぶりだねー!」
相変わらず愛想のいいジャンが迎えてくれ、すぐにクオラを呼ぶ。クオラも大喜びで奥から飛び出してきた。
「チヤ! ようこそ! なんで来ない!?」
「ごめん、とっても忙しかった。クオラ元気?」
二人のムシュク・ドストラーが楽しそうにしているところは、とても愛らしい。他の客まで笑顔で眺めている。ヤジナならではの雰囲気ではあるが、『可愛いは正義』、なるほどな。
料理の注文を厨房に通してから飲み物を持ってきたクオラを、チヤは引き留めた。
「あのねクオラ……私、違う仕事、することになった」
「違う仕事?」
クオラの顔が、何か予感したように不安そうになる。
「どんな? どこで?」
「軍の、違う場所の仕事。お、王都のほう。だから……ここ、来れなくなる。ごめんね」
「チヤ……」
可哀想に、クオラは尻尾を垂らし背中を丸め、見るからにしょんぼりしてしまった。チヤも全く同じ様子で、
「私もさびしい」
とうつむく。
「クオラは、文字は書けるか?」
俺は聞いた。
「少し……」
「俺に預ければ、軍を通じて手紙をチヤに届くようにしてやれるぞ」
「わ、私も書く。ね」
チヤが言うと、クオラはチヤの顔を見てようやくうなずいた。
「うん……しょうがない……がんばって、チヤ」
「クオラもね。ここの料理はとっても美味しい、大好き」
「今日もいっぱい食っていきな」
横からジャンが一品目を差し出し、チヤは笑顔で答えた。
「うん。周りのひとにもいっぱい、ここのこと教えるね」
グラスを傾けながら、俺はその様子を見ていた。
次に来るときは、事務官の彼女の姿で、かな。偶然にもチヤと同じ名前で、チヤからここのことを聞いた、と。
彼らとすぐに仲良くなったチヤだ、人間のチヤとしてもすぐに仲良くなれるだろう。
夜も更けて、チヤが少しぼうっとした様子を見せた。久しぶりにダラで活動してからヤジナに来たからか、それとも呪い札で合体した影響か……とにかく疲れているようだ。
俺たちは店を辞した。ジャンもクオラも表まで送ってくれ、チヤと軽く抱き合って別れた。
宿に戻り、湯をもらって顔や手を洗うと、チヤは衝立の陰で大きめの寝間着に着替えた。そして、
「隊長、おやすみなさい……」
と寝台にもぐり込むと、あっという間に寝息をたてだした。
ランプの灯りを小さくし、こっそり観察していると、やがてムシュクの耳がすーっと引っ込んだ。三色だった髪の毛が黒一色になり、毛布の中で身体が少し大きくなる。枕の横に出ていた手が、すらりとした女性の手になる。
たちまちこの部屋は、大人の男女の滞在する部屋になった。
あ、いや、もう一人……もう一匹。毛布の裾から、ひょっこりとチャコが顔を出した。そして、チヤの足下で丸くなる。
「……寝るか」
俺はランプの灯りを消すと、自分の寝台に潜り込んだ。
崖の上で、短刀を持って構えているドストラーがいる。
茶色の耳にふさふさとした尾、黒の軍服。壮年のドストラー。
懐かしい、副隊長だ。
崖の下から、黒い影が飛び出す。巨大なイノシシが二頭、その鋭い牙と爪で副隊長を襲う。副隊長は短刀を振り回して応戦するが、赤いものが飛び散った。
副隊長、と叫び、俺はイートの姿に変身して飛び出そうとした。が、身体が動かない。見上げると、蜘蛛の黄色い腹が見えた。いつの間にか俺の身体はこいつの糸にからめ取られている。
身体をよじって抜け出そうとしながら見回すと、俺の周りに何人もの人間が倒れている。同期の軍人たち、呪術師たち、そして子供たち……ああ、その向こうではトゥルガンまでが巨大なヨーボイに襲われて……
叫び声が聞こえた。はっ、と視線を戻すと、崖から副隊長が落ちていく。下で待ちかまえていたアソシーが、大きな口を開いた。
やめろ!
「隊長!」
はっ、と目を見開くと、心配そうな顔が見えた。
真っ暗な、宿屋の部屋。チヤが膝をついて俺の身体を揺さぶっていた。
「隊長、大丈夫?」
「あ、ああ」
声を出したとたん、自分がイートの姿になっているのに気づく。何てこった、うなされて変身するなんて。
「すまん。……チヤ、大丈夫か」
暴れて彼女に怪我をさせてはいないかと、急いで身体を起こして鼻を近づける。血のにおいはしない。
「私、平気。隊長、悪いゆめ?」
「インギロージャの夢を見た」
言うと、チヤは俺の背中の毛を撫でながら辛そうな顔をする。もしかしたら副隊長の名を口走ったかもしれないから、彼女も察しているのだろう。昼間の出来事が、きっかけになったのではないかと。
「悪いゆめ、よくみますか?」
「いや……そういえば、久しぶりだ。このところずっと見ていなかった」
俺は苦笑する。
「川に落ちたお前と二人で、ダラの底で眠った時でさえ、見なかったんだけどな」
「あのときは、隊長、私を守ってくれてたから。そのきもちが、きっと……」
うまく言葉が出ないのかチヤは黙ってしまったが、微笑んだ。
動悸が落ち着いて来る。俺はうなずき、伏せた状態から軽く身体を倒して腹をチヤに向けた。
「床は冷える、ここ座れ」
本当は、自分の寝台に戻れと言うべきだったのかもしれない。しかし、今はチヤをそばに置きたいと思ったら、自然とそう言ってしまっていた。
おとなしく俺のそばに座ったチヤは、引き続き背中の毛を撫でている。俺は尻尾を持ち上げて、彼女の腰を抱くようにした。ダラの底で、二人で眠ったときのように。
「……インギロージャから長い時間が経ったが、ずっと何も解決しないままだった。俺やトゥルガン、他にも関わった者たちの中じゃ、何も終わってなんかいなかった」
前足に頭をもたせかけながら、俺はチヤに話して聞かせる。
「でも、原因がわかって一段落したことで、区切りだけはついたってことかな。正体不明だった恐怖が、正体のある恐怖だとわかったわけだ。だから、夢を見ることも減ったんだろう。忘れることはなくても」
チヤは黙ってうなずく。
心地よい沈黙。
やがて、俺の脇腹に温かなものが寄り添った。疲れているチヤも、眠くなったのだろう。軽く俺にもたれ、撫でる手もゆっくりになっている。俺はその感覚を、黙って味わった。
チヤの手が止まり、柔らかな重みが寄りかかってきた。
顔をのぞき込むと、彼女は穏やかな表情で眠っている。長いまつげ、わずかに開いた唇、綺麗な顎の線。
ふと、思った。
――こんなのおかしいだろ、出来すぎだ。
ニルファルの術によって、無理矢理こちらに連れてこられたチヤ。人間なのにドストラーの姿になり、それでもまっすぐ生きてきた。
ダラの謎を解く手助けをしてくれ、その直後に今度は人間に。俺たちが必要としていた事務官になって部隊を再び助け、しかも今、こうして俺に寄り添ってくれている。悪夢を追い払おうとしてくれている。
あまりに俺だけに、都合が良すぎる。
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俺は、鼻面をチヤの顔に近づけた。ぺろり、と、彼女の額を舐める。「ん……」とチヤは声を漏らし、俺の毛皮に顔をすり寄せた。
どうしようもなく、愛おしい気持ちが沸き上がった。チヤが俺を、ただのおっさん上司だと思っていたとしても、俺の方はもしかしたら……
眠る彼女の顔を、飽きずに眺める。
「やばいな。こいつの言うこと、何でも聞いちまいそうだ」
こっそり、つぶやいた。
翌朝、目を覚ましたチヤは、自分が俺の寝台に一人で寝ているのに気づいて仰天したらしい。
「た、隊長っ、私何か……ご、ごめんなさい!?」
「いやすまん、寝ちまったお前をお前の寝台に戻してやりたかったんだが、イートの姿だと無理でな。俺の方が寝台を移った」
「あああああ、それもごめんなさい……!」
ひたすら恐縮するチヤを見て、罪悪感を覚える。
本当は、俺は人間になるまで起きていたのだ。そして、チヤに寄り添ったまま、腕を回して髪を梳いて――
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「やばい」と思って、とっさに離れて寝台を移った。それが真相だ。
「まあ、あれだ。俺はチヤが幸せなら、それでいいんだ」
ははっ、と笑う俺を、「はあ?」とチヤは不思議そうに見ていたのだった。
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