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令嬢アスティの質屋さん 前編
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ルンドマルク王国北方の町リンドにも、ようやく遅い春が訪れていた。
温かな陽射しが、黄味を帯びた石造りの家々を照らしている。ほとんど深さのない小川の岸は緑に包まれ、草の合間から現れた水鳥が雛を連れて、ゆっくりと石のアーチ橋をくぐりぬけて行く。
小川を離れて下町に入って行くと、緩やかに起伏した石畳の道の両側に、漆喰の白い壁に筋交いの木材が見える家々が立ち並んでいた。
カラン、というベルの音を響かせてそのうちの一軒の店に入ったのは、皮の編み上げブーツにマフのついた仕立ての良いコート、レースのふちどりのついた大きなボンネットをかぶった金髪の少女だった。大きな青い瞳が、素早く店内を見回した。
店は大勢の女性たちで混雑している。皆、エプロンにショール姿の、労働者の妻といった風情だ。にぎやかな話し声と体温が、狭い空間に満ち満ちていた。
金髪の少女はちょっと眉根を寄せ、女性たちと触れあわないように壁際を移動しながら、つま先立ってカウンターの方を伺った。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こう側で、女性たちの隙間からひょいと顔を見せた焦茶の髪の少女が、驚いた顔をして青紫色の目を見張った。
「ウルリーカ!」
「アスティ」
金髪のウルリーカが微笑むと、焦茶の髪のアスティもぱっと笑顔になった。
「ちょ、ちょっと待ってて! そこにかけて! ……はい、お待たせしてごめんなさい」
編んだ髪を頭に巻きつけてまとめ、ぴったりした白のブラウスに地味なボレロを着たアスティは、客の女性に向き直った。
「いつも通り? 五着ですね。あら、旦那さんの上着、ここ破けてる」
「昨日、教会の柵にひっかけちゃってねえ。直しも頼めます? その分、少なくていいから」
「ううん、いつも通りお出しします。その代わり今度買い物に行くから、おまけして下さいな。はい、お金と質札」
客の女性は何着かの服をカウンターに出し、それと引き替えに少女――アスティから現金と木の札を受け取った。
アスティの背後、カウンターの奥の開け放した扉から、背の高い男性が現れた。女性たちの視線が彼に集中し、場の空気が変わるのに気づいて、ウルリーカも彼を眺める。
黒髪は丁寧に撫でつけられて後ろに流れ、一筋の前髪が額に落ちかかっている。銀縁眼鏡の向こうの瞳は、カシスの実のように紫を隠した黒。三十代半ばのその男は、ウルリーカも知っている人物だった。
彼が、襟の高い白いシャツにチャコールグレイのスーツ姿でアスティに近寄ると、アスティは
「バルト、これお願い」
と服を示した。彼は軽く頭を下げ、服を抱えると奥に運んで行く。
女性がその男性をうっとりと見送っていると、次に並んだ背の低い女性客が背中をつついた。
「ほら、目の保養はおしまいだよっ、交代交代!」
「わかってるわよぅ。じゃ、お嬢さん、よろしくお願いしますね」
「もう、アスティでいいですってば。毎度ありがとう!」
笑顔で女性を見送ると、アスティは次の客に対応し始める。
ウルリーカはその様子を眺めながら、壁際に置いてあった木のベンチの端に浅く腰かけた。
隣に座っていた背中の丸い老婆が、編み物の手を止めて首を傾げ、上目遣いにウルリーカを観察しながら会釈してくる。ウルリーカはややひきつった笑顔を返 してから、さっと目を逸らして視線を外した。そして、いかにも店の中が気になるといった風に辺りを見回し、話しかけられないような雰囲気を作る努力をし た。
最後の客がいなくなると、カウンターの横手の板を跳ね上げてアスティが半身をのぞかせた。少しふくらんだスカートの上に短いエプロン、レースの縁取りのある裾から飾り気のない黒い靴が見える。
「ウルリーカ! こっちに入って」
立ち上がったウルリーカが近づくと、アスティは彼女の手を引くようにして招き入れた。
「待たせてごめんなさい。休息日の翌日は一番混むの……町の人たちが、昨日教会に着ていった晴れ着を預けにくるから」
「服を質入れしてしまうの?」
「ええ。そのお金で今週の商売をして、稼いだお金で週末にまた、晴れ着を請け出しにくるのよ」
カウンターの内側の狭い空間で、薄いクッションを敷いた椅子をウルリーカに勧めると、アスティは木のスツールを持ってきて腰かけた。二人はお互いの両手を握り合う。
「会いに来てくれたのね、嬉しいわ」
「ええ、だって、あれからどうしてるか気になって」
ウルリーカは声を潜める。
「本当に、質屋を開いて働いているのね。男爵令嬢のあなたが」
「ええ、でも、もう男爵家の人間じゃないから。今まででさえ、伯爵令嬢のあなたと気安くさせてもらってたけど、もうこんな口のききかたしちゃいけないわね」
「アストリッド! 何を言っているの、私たちは今でも友達よ」
ウルリーカは憤然と言う。
その時、開け放したままだった扉の向こうに、小柄な少女が現れた。彼女は廊下の、扉の手前の台に茶の道具の載ったトレイを置くと、スカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「いらっしゃいませ」
小さな、ごくごく小さな声で、ささやくように挨拶する。
頭を包むような白のキャップから、黒い巻き毛が少し見えている。紺地に白の小花柄のワンピース、白いエプロンというメイド姿の少女だ。
「まあ……さっき執事のバルトサールがいたけれど、メイドも一緒だったの」
ウルリーカが話しかけると、メイドは一度アスティを見てから、おずおずと微笑んだ。
「そう。バルトは、大恩ある父のためにも私を守るって言って離れないし、ビーは身寄りがないから……それに美人でしょ。よそのお屋敷で働いたりしたら、すぐにそこの誰かのお手がついちゃうわ」
アスティのあけすけな台詞に、ビーという愛称のメイド――ベアトリスは顔から首筋まで真っ赤になった。その様子は確かに、小さな薔薇が香るように可愛らしい。
彼女はもう一度頭を下げると、そそくさと廊下の奥へ下がってしまった。
「ごめんなさい、ビーはずっと台所で働いてた子で、人前に出るのは未だに苦手なの。でも、バルトやビー目当ててうちに来るお客さんもいるから、悪いけど助かっちゃう」
アスティが話しているうちに、奥から湯気の立つポットを手に出てきたのはバルトサールだった。
彼はポットをいったん置いて、ウルリーカにきっちりとしたお辞儀をすると、そのまま廊下でベアトリスの用意した茶器を使って紅茶を淹れ始めた。アスティたちのいるカウンターの内側が狭いので、遠慮しているのだ。
湯を高い位置から陶器のポットに注ぐその様子は、そこが下町の質屋の廊下であることを忘れさせるような優雅な動きだ。やがて、彼は静かに店側に入って来て、紅茶の白いカップをカウンターの下の台に置いた。湯気とともにふわりと芳しい香りが立ち上る。
「それじゃ、今は三人で暮らしているのね。執事とメイドが、まるで以前と変わらない様子で働いているから、何だかここをレイグラーフ家のあなたのお部屋と錯覚してしまいそうだわ」
仕事を終えたバルトサールを見送って、ウルリーカはつぶやいた。
扉が閉まると、彼女はアスティに向き直る。
「……だいたい、今回のことはあなたは何も悪くない。もちろんあなたのお父様もよ。誰もがそう思っているわ。それなのに、爵位剥奪だなんて」
「ありがとう。あなたや、たくさんの方がそう思って下さったから、お父様も追放で済んだのだわ」
アスティは微笑んだ。
アスティの父、リンド男爵トビアス・レイグラーフは、とても見目麗しい男性だった。アスティの母サンナを病で失った後、後添いに立候補する女性が後を絶たなかったほどだ。
そんな彼が、この国の王妃に恋着し誘惑したとして、罪に問われた。本来なら死罪のところを、爵位剥奪と国外追放で済んだのは、王太后のとりなしがあったからだ。
なぜなら、男爵は亡くした妻ただ一人を想い、独身を貫いてきたことで有名な人物だったからである。実際のところは、王妃の方が男爵を誘惑したのだともっぱらの噂だった。
噂の通りだとしても、国王夫妻にしてみれば認めるわけにはいかなかったのだろう。しかしトビアスを死罪にしてしまっては、リンド男爵領の領民から反感を買う。トビアスの潔白を証明する材料がないのをいいことに、うやむやのうちに追放して幕、というわけだ。
「男爵とは、お話できなかったんでしょ?」
「ええ……お父様から直接、お話を聞きたかったけれど」
トビアスは王家から派遣された兵士によって、自らの屋敷から港に連行された。
当時、遠縁の公爵家に行儀見習いに出ていたアスティは、連絡を受けて急いで実家に戻ったものの間に合わず、さらに後を追って港に着いた時には、すでに父は異国へ出港して数日経っていた。
運の悪いことに、アスティが父の後を追おうと手続きをしている数日の間に、その国との間で小競り合いが起きてしまい、航路が封鎖されてしまったのだ。
「手紙だけは残してくれたの。読む?」
アスティは立ち上がると後ろの棚を開け、下町の店にはあまり似つかわしくない、美しい刺繍の入った布張りの箱を取り出した。箱を開けると、中から封筒を取り出してウルリーカに渡す。
「いいの?」
受け取ったウルリーカは、ためらいがちにそれを開くと、一行目に目を走らせた。
『美しさ――それは罪』
「…………何これ」
彼女は忘れていた。アスティの父が、詩人だったということを。
「美しさは罪、だなんて、私も言ってみたいものだわ」
アスティは片方の手を頬に当てて、目を閉じるとため息をついた。……そしてすぐに目を開け、ぷっと吹き出す。
ウルリーカは苦笑いし、読み進めた。
『この私の美しさが、ご婦人という花を引き寄せてしまうというのなら……それは確かに誘惑と言う名の甘美な蜜なのだろう。しかし、おお、私が愛する女性はサンナ唯一人』
「あの……要約してもらっていいかしら」
『溜め』や感嘆詞を多用したその文章にげっそりしたウルリーカは、丁寧に手紙をたたんで封筒に戻す。
「要するに、迷惑をかけてすまないけれど、自分が愛する女性は昔も今もお母様だけでやましいことはない、ということ。それと、私の今後の身の振り方について」
「そうだ、あなた、婚約してたでしょう!?」
「ああ、もちろん破談よ」
アスティはパッと両手を広げた。
「だってほら、私、一人娘でしょ。婿入りしてもらう予定だったんだもの」
「ヴェイセル男爵の三男……だったわよね」
「そうそう。でも、今や質屋を経営してる私に婿入りしてもらったって仕方ないし。私がお嫁に行くわけにも、ねえ」
この国では、財産を分散させないため爵位を長子が継ぐ。無用の次男三男はただでさえ生計を立てるのに苦労するのだから、下町の小さな質屋の経営者となったアスティを嫁にもらう意味などないのだ。
「でも……あちらは、アスティの様子を気にしてるって聞いたわ」
「あらそうなの? 私、お顔も覚えてないのに」
アスティが笑った時、カラン、と音がした。
温かな陽射しが、黄味を帯びた石造りの家々を照らしている。ほとんど深さのない小川の岸は緑に包まれ、草の合間から現れた水鳥が雛を連れて、ゆっくりと石のアーチ橋をくぐりぬけて行く。
小川を離れて下町に入って行くと、緩やかに起伏した石畳の道の両側に、漆喰の白い壁に筋交いの木材が見える家々が立ち並んでいた。
カラン、というベルの音を響かせてそのうちの一軒の店に入ったのは、皮の編み上げブーツにマフのついた仕立ての良いコート、レースのふちどりのついた大きなボンネットをかぶった金髪の少女だった。大きな青い瞳が、素早く店内を見回した。
店は大勢の女性たちで混雑している。皆、エプロンにショール姿の、労働者の妻といった風情だ。にぎやかな話し声と体温が、狭い空間に満ち満ちていた。
金髪の少女はちょっと眉根を寄せ、女性たちと触れあわないように壁際を移動しながら、つま先立ってカウンターの方を伺った。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こう側で、女性たちの隙間からひょいと顔を見せた焦茶の髪の少女が、驚いた顔をして青紫色の目を見張った。
「ウルリーカ!」
「アスティ」
金髪のウルリーカが微笑むと、焦茶の髪のアスティもぱっと笑顔になった。
「ちょ、ちょっと待ってて! そこにかけて! ……はい、お待たせしてごめんなさい」
編んだ髪を頭に巻きつけてまとめ、ぴったりした白のブラウスに地味なボレロを着たアスティは、客の女性に向き直った。
「いつも通り? 五着ですね。あら、旦那さんの上着、ここ破けてる」
「昨日、教会の柵にひっかけちゃってねえ。直しも頼めます? その分、少なくていいから」
「ううん、いつも通りお出しします。その代わり今度買い物に行くから、おまけして下さいな。はい、お金と質札」
客の女性は何着かの服をカウンターに出し、それと引き替えに少女――アスティから現金と木の札を受け取った。
アスティの背後、カウンターの奥の開け放した扉から、背の高い男性が現れた。女性たちの視線が彼に集中し、場の空気が変わるのに気づいて、ウルリーカも彼を眺める。
黒髪は丁寧に撫でつけられて後ろに流れ、一筋の前髪が額に落ちかかっている。銀縁眼鏡の向こうの瞳は、カシスの実のように紫を隠した黒。三十代半ばのその男は、ウルリーカも知っている人物だった。
彼が、襟の高い白いシャツにチャコールグレイのスーツ姿でアスティに近寄ると、アスティは
「バルト、これお願い」
と服を示した。彼は軽く頭を下げ、服を抱えると奥に運んで行く。
女性がその男性をうっとりと見送っていると、次に並んだ背の低い女性客が背中をつついた。
「ほら、目の保養はおしまいだよっ、交代交代!」
「わかってるわよぅ。じゃ、お嬢さん、よろしくお願いしますね」
「もう、アスティでいいですってば。毎度ありがとう!」
笑顔で女性を見送ると、アスティは次の客に対応し始める。
ウルリーカはその様子を眺めながら、壁際に置いてあった木のベンチの端に浅く腰かけた。
隣に座っていた背中の丸い老婆が、編み物の手を止めて首を傾げ、上目遣いにウルリーカを観察しながら会釈してくる。ウルリーカはややひきつった笑顔を返 してから、さっと目を逸らして視線を外した。そして、いかにも店の中が気になるといった風に辺りを見回し、話しかけられないような雰囲気を作る努力をし た。
最後の客がいなくなると、カウンターの横手の板を跳ね上げてアスティが半身をのぞかせた。少しふくらんだスカートの上に短いエプロン、レースの縁取りのある裾から飾り気のない黒い靴が見える。
「ウルリーカ! こっちに入って」
立ち上がったウルリーカが近づくと、アスティは彼女の手を引くようにして招き入れた。
「待たせてごめんなさい。休息日の翌日は一番混むの……町の人たちが、昨日教会に着ていった晴れ着を預けにくるから」
「服を質入れしてしまうの?」
「ええ。そのお金で今週の商売をして、稼いだお金で週末にまた、晴れ着を請け出しにくるのよ」
カウンターの内側の狭い空間で、薄いクッションを敷いた椅子をウルリーカに勧めると、アスティは木のスツールを持ってきて腰かけた。二人はお互いの両手を握り合う。
「会いに来てくれたのね、嬉しいわ」
「ええ、だって、あれからどうしてるか気になって」
ウルリーカは声を潜める。
「本当に、質屋を開いて働いているのね。男爵令嬢のあなたが」
「ええ、でも、もう男爵家の人間じゃないから。今まででさえ、伯爵令嬢のあなたと気安くさせてもらってたけど、もうこんな口のききかたしちゃいけないわね」
「アストリッド! 何を言っているの、私たちは今でも友達よ」
ウルリーカは憤然と言う。
その時、開け放したままだった扉の向こうに、小柄な少女が現れた。彼女は廊下の、扉の手前の台に茶の道具の載ったトレイを置くと、スカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「いらっしゃいませ」
小さな、ごくごく小さな声で、ささやくように挨拶する。
頭を包むような白のキャップから、黒い巻き毛が少し見えている。紺地に白の小花柄のワンピース、白いエプロンというメイド姿の少女だ。
「まあ……さっき執事のバルトサールがいたけれど、メイドも一緒だったの」
ウルリーカが話しかけると、メイドは一度アスティを見てから、おずおずと微笑んだ。
「そう。バルトは、大恩ある父のためにも私を守るって言って離れないし、ビーは身寄りがないから……それに美人でしょ。よそのお屋敷で働いたりしたら、すぐにそこの誰かのお手がついちゃうわ」
アスティのあけすけな台詞に、ビーという愛称のメイド――ベアトリスは顔から首筋まで真っ赤になった。その様子は確かに、小さな薔薇が香るように可愛らしい。
彼女はもう一度頭を下げると、そそくさと廊下の奥へ下がってしまった。
「ごめんなさい、ビーはずっと台所で働いてた子で、人前に出るのは未だに苦手なの。でも、バルトやビー目当ててうちに来るお客さんもいるから、悪いけど助かっちゃう」
アスティが話しているうちに、奥から湯気の立つポットを手に出てきたのはバルトサールだった。
彼はポットをいったん置いて、ウルリーカにきっちりとしたお辞儀をすると、そのまま廊下でベアトリスの用意した茶器を使って紅茶を淹れ始めた。アスティたちのいるカウンターの内側が狭いので、遠慮しているのだ。
湯を高い位置から陶器のポットに注ぐその様子は、そこが下町の質屋の廊下であることを忘れさせるような優雅な動きだ。やがて、彼は静かに店側に入って来て、紅茶の白いカップをカウンターの下の台に置いた。湯気とともにふわりと芳しい香りが立ち上る。
「それじゃ、今は三人で暮らしているのね。執事とメイドが、まるで以前と変わらない様子で働いているから、何だかここをレイグラーフ家のあなたのお部屋と錯覚してしまいそうだわ」
仕事を終えたバルトサールを見送って、ウルリーカはつぶやいた。
扉が閉まると、彼女はアスティに向き直る。
「……だいたい、今回のことはあなたは何も悪くない。もちろんあなたのお父様もよ。誰もがそう思っているわ。それなのに、爵位剥奪だなんて」
「ありがとう。あなたや、たくさんの方がそう思って下さったから、お父様も追放で済んだのだわ」
アスティは微笑んだ。
アスティの父、リンド男爵トビアス・レイグラーフは、とても見目麗しい男性だった。アスティの母サンナを病で失った後、後添いに立候補する女性が後を絶たなかったほどだ。
そんな彼が、この国の王妃に恋着し誘惑したとして、罪に問われた。本来なら死罪のところを、爵位剥奪と国外追放で済んだのは、王太后のとりなしがあったからだ。
なぜなら、男爵は亡くした妻ただ一人を想い、独身を貫いてきたことで有名な人物だったからである。実際のところは、王妃の方が男爵を誘惑したのだともっぱらの噂だった。
噂の通りだとしても、国王夫妻にしてみれば認めるわけにはいかなかったのだろう。しかしトビアスを死罪にしてしまっては、リンド男爵領の領民から反感を買う。トビアスの潔白を証明する材料がないのをいいことに、うやむやのうちに追放して幕、というわけだ。
「男爵とは、お話できなかったんでしょ?」
「ええ……お父様から直接、お話を聞きたかったけれど」
トビアスは王家から派遣された兵士によって、自らの屋敷から港に連行された。
当時、遠縁の公爵家に行儀見習いに出ていたアスティは、連絡を受けて急いで実家に戻ったものの間に合わず、さらに後を追って港に着いた時には、すでに父は異国へ出港して数日経っていた。
運の悪いことに、アスティが父の後を追おうと手続きをしている数日の間に、その国との間で小競り合いが起きてしまい、航路が封鎖されてしまったのだ。
「手紙だけは残してくれたの。読む?」
アスティは立ち上がると後ろの棚を開け、下町の店にはあまり似つかわしくない、美しい刺繍の入った布張りの箱を取り出した。箱を開けると、中から封筒を取り出してウルリーカに渡す。
「いいの?」
受け取ったウルリーカは、ためらいがちにそれを開くと、一行目に目を走らせた。
『美しさ――それは罪』
「…………何これ」
彼女は忘れていた。アスティの父が、詩人だったということを。
「美しさは罪、だなんて、私も言ってみたいものだわ」
アスティは片方の手を頬に当てて、目を閉じるとため息をついた。……そしてすぐに目を開け、ぷっと吹き出す。
ウルリーカは苦笑いし、読み進めた。
『この私の美しさが、ご婦人という花を引き寄せてしまうというのなら……それは確かに誘惑と言う名の甘美な蜜なのだろう。しかし、おお、私が愛する女性はサンナ唯一人』
「あの……要約してもらっていいかしら」
『溜め』や感嘆詞を多用したその文章にげっそりしたウルリーカは、丁寧に手紙をたたんで封筒に戻す。
「要するに、迷惑をかけてすまないけれど、自分が愛する女性は昔も今もお母様だけでやましいことはない、ということ。それと、私の今後の身の振り方について」
「そうだ、あなた、婚約してたでしょう!?」
「ああ、もちろん破談よ」
アスティはパッと両手を広げた。
「だってほら、私、一人娘でしょ。婿入りしてもらう予定だったんだもの」
「ヴェイセル男爵の三男……だったわよね」
「そうそう。でも、今や質屋を経営してる私に婿入りしてもらったって仕方ないし。私がお嫁に行くわけにも、ねえ」
この国では、財産を分散させないため爵位を長子が継ぐ。無用の次男三男はただでさえ生計を立てるのに苦労するのだから、下町の小さな質屋の経営者となったアスティを嫁にもらう意味などないのだ。
「でも……あちらは、アスティの様子を気にしてるって聞いたわ」
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アスティが笑った時、カラン、と音がした。
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