【傀儡】奴隷闘士の僕が最強になったのは、復讐に燃える天才に操られていたからでした

里奈使徒

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プロローグ「コロシアムの餌」

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 ああ、なんて恐ろしい。

 魔狼が粘りつく涎を垂らしながら、獲物を狙うようにこちらを見据えている。その視線は、まるで僕の心臓の鼓動まで見透かしているかのようだった。

 二メートルを超える巨体。灰色の剛毛に覆われた筋骨隆々の四肢は、一撃で人間の骨を砕くに十分な力を秘めている。鋭い牙の奥で、琥珀色の瞳が血走っていた。その瞳には、知性すら宿っているように見えた。獲物を弄ぶことを楽しんでいるのだ。

 首を繋ぐロープが今にも千切れそうに軋んでいた。よほど飢えているのだろう。縄が喉元に食い込んでいるのも構わず、獣は前傾姿勢で地面を爪で掻き、牙を剥いている。

「グルルル……ガウッ! ガウッ!」

 獣の唸り声が、地響きのように闘技場に響く。観客席からは興奮した歓声が降り注ぎ、僕たちの恐怖を煽っていた。

「殺せ! 殺せ!」
「新入りの血を見せろ!」
「どいつが最初に喰われるか賭けようぜ!」

 野次馬たちの下品な笑い声が、石造りのコロッセウムに響き渡る。彼らにとって、僕たちは娯楽の道具でしかない。人間ではなく、単なる見世物なのだ。

 恐怖に、歯が鳴る。喉が渇いて、唾も飲み込めない。心臓が激しく打ち、胸が痛いほどだ。手のひらは汗でびっしょりと濡れ、足は震えて立っているのがやっとだった。

 ここで死ぬのか。ここで、僕の人生は終わるのか。

 僕の周囲にいる奴隷闘士たちは誰もが絶望の色を浮かべていた。立ちすくんだまま震える者、祈りを捧げる者、泣き叫びながら逃げ場を探す者。中には失禁している者もいた。僕も同じかもしれない。恐怖で自分の身体の感覚がよくわからなくなっていた。

 僕の右隣にいるのは、かつて盗賊だったというガブリエル。左手が欠損しており、右目には大きな傷跡がある。彼は震え声で何かをぶつぶつと呟いていた。

「神よ、慈悲を……神よ、慈悲を……」

 その声は、まるで壊れた人形のように同じ言葉を繰り返していた。強盗で捕まったと聞いていたが、今は哀れな老人にしか見えない。

 左隣の若い男——トニーは、まだ十代後半だろう。村で起きた反乱に巻き込まれ、連帯責任で奴隷に落とされたという。彼の頬には涙の跡がくっきりと残り、唇をかみしめて震えていた。

「かあちゃん……かあちゃん……」

 小さくつぶやく声が聞こえる。きっと故郷に残してきた家族のことを想っているのだろう。もう二度と会えないかもしれない人たちを。

 後方にいるマルクは、元兵士だったという男だ。戦争で左足を失い、松葉杖をついている。本来なら戦闘能力など皆無に等しいはずなのに、なぜかここに放り込まれた。軍法会議で何らかの罪を犯したのだろうが、詳しいことは聞いていない。

「畜生……畜生……こんなところで死ねるか……」

 マルクが歯を食いしばって呟いている。元軍人としてのプライドが、最後まで諦めることを許さないのだろう。しかし、その声にも絶望が滲んでいた。

 ここは、ゼレク=カルのコロッセウム。

 血と暴力が支配する地獄。石造りの観客席には数千人が詰めかけ、野獣のような歓声を上げている。空気は汗と酒と血の匂いで満ちており、闘技場の砂は過去の戦いで流された無数の血で赤黒く染まっていた。

 このコロッセウムは、王国最大の娯楽施設として知られている。毎週末には貴族から平民まで、あらゆる階層の人々が血みどろの見世物を求めて押し寄せる。そして僕たちのような奴隷闘士は、彼らの欲望を満たすための消耗品として扱われているのだ。

 円形の闘技場は直径五十メートルほど。周囲は三メートルの高い壁で囲まれており、脱出は不可能だ。壁の上方には鉄格子があり、その向こうに観客席が広がっている。まるで檻の中の動物のように、僕たちは見世物にされているのだ。

 戦いとは無縁だった僕が、奴隷闘士として闘技場に立たされているのだ。

 つい数日前まで、僕は商家の跡取り息子として、平穏な日々を送っていた。朝は帳簿を確認し、昼は取引先との交渉、夜は家族との夕食。そんな当たり前の日常が、永遠に続くものだと信じていた。

 アヴェンハート商店──父が一代で築き上げた、この街でも有数の商会。扱うのは主に香辛料と織物。遠い異国からの珍しい品々を仕入れ、貴族や富裕層に販売する仕事だった。父は温厚で、従業員からも慕われていた。母は優しく、妹のセリアは明るく元気な子だった。

 僕にとって、それが世界のすべてだった。

 商店は街の中央通りに面した三階建ての立派な建物だった。一階が店舗と倉庫、二階が事務所、三階が居住空間という構造で、従業員も十数名を抱える中堅企業だった。父はよく言っていた。「商売は信用が第一。お客様も従業員も、みんなが幸せになる商売をするんだ」と。

 僕は長男として、いずれその店を継ぐものと思っていた。商売の基本を父から教わり、簿記や交渉術を学んでいた。まだまだ未熟ではあったが、将来に向けて着実に経験を積んでいた。

 セリアは僕より五歳年下で、今年十三歳になったばかりだった。栗色の髪を三つ編みにして、いつも元気よく店の中を駆け回っていた。お客様からも可愛がられ、「セリアちゃんが大きくなったら、きっと美人になるわね」とよく言われていた。

「お兄ちゃん、今度の日曜日、一緒に市場に行こうよ。新しい布地を見に行きたいの」

 そんな風に、無邪気に笑いかけてくれる妹の顔を思い出す。あの笑顔は、僕にとって何よりも大切な宝物だった。

 母は病弱ではあったが、優雅で上品な女性だった。元は小さな貴族の出身で、父との恋愛結婚だった。父がよく言っていたのは、「お母さんは僕には勿体ないぐらい立派な人だ」ということだった。確かに母は教養があり、読み書きはもちろん、複数の言語を解し、音楽や絵画にも造詣が深かった。

「ティリオ、商人として成功するには、ただお金を稼ぐだけではいけません。文化的な教養も身につけ、お客様とも対等に話ができるような人間になりなさい」

 母はそう言って、僕に様々なことを教えてくれた。文学、歴史、芸術。商売に直接関係ないと思われるようなことでも、人間として幅を広げるために必要だと言ってくれた。

 しかし、そんな平穏な日々は、突然終わりを告げた。

 父さんが亡くなったのは半年前だった。アヴェンハート商店を築き上げた偉大な父の死と共に嵐がやってきた。

 心臓発作だった。それまで健康そのものだった父が、ある朝突然胸を押さえて倒れた。医者を呼んだ時には、もう手遅れだった。

「お父さん……お父さん! しっかりして!」

 セリアが泣きながら父にしがみついていた。母も蒼白な顔で、震える手で父の脈を確認していた。しかし、父の体はもう冷たくなり始めていた。

「ティリオ……これからは、お前が家族を守るんだ……店のことも…よろしく…」

 それが父の最後の言葉だった。僕はまだ十八歳で、商売の経験も浅かった。父の跡を継ぐには、あまりにも若過ぎた。

 葬儀は盛大に行われた。父の人柄を慕っていた多くの人々が参列し、商家としての名声の高さを改めて感じさせてくれた。しかし、それが逆に、その後の困難を際立たせることになった。

 最初は小さな綻びだった。いつもの取引先からの支払いが遅れる。新規の顧客が現れない。在庫が売れ残る。それでも、僕は楽観的に考えていた。父の築いた信用があれば、きっと持ち直すだろうと。

 だが、現実は甘くなかった。

 僕は若さゆえに操舵を誤った。父のように皆をまとめることができなかった。取引先との関係も悪化し、資金繰りに追われる日々が続いた。

 父が生きていた頃は、従業員たちも積極的に協力してくれていた。しかし、僕が店主になると、明らかに態度が変わった。年上の従業員たちは、僕の指示に対して渋い顔をするようになった。

「ティリオ様、その件につきましては、もう少し慎重に検討された方が…」

 番頭のマルコスがそう言って、僕の決定に水を差すことが多くなった。最初は僕のことを心配してくれているのだと思っていた。しかし、後になって分かったのは、彼が裏でライバル店と通じていたということだった。

 父が得意としていた香辛料の仕入れルートも、次第に閉ざされていった。遠方の商人たちは、父の死を知ると取引を渋るようになった。

「アヴェンハート様でしたら信用できますが、息子さんではちょっと…」

 そんな風に言われることが増えた。父が何十年もかけて築いた信頼関係が、あっという間に崩れていくのを感じた。

 そして、ライバル店の策謀が始まった。

 競合他社のグレイソン商会が、組織的に僕たちの商売を妨害してきたのだ。取引先に甘い条件を提示して顧客を奪い、銀行に働きかけて融資を停止させ、税務署に告発して不当な査察を入れさせる。まさに四面楚歌だった。

 グレイソン商会の主人、ロバート・グレイソンは父とは長年のライバル関係にあった。商才では父に劣っていたが、政治的な繋がりを巧みに利用して勢力を拡大していた。父が生きている間は、お互いに競い合いながらも、一定の敬意を保っていた。

 しかし、父の死を機に、グレイソンは本性を現した。

「アヴェンハートがいなくなった今、この街の商業界を牛耳るのはこの俺だ」

 そう公言し、露骨に僕たちの商売を妨害してきた。

 まず、僕たちの主要な顧客に対して、破格の条件で商品を売り始めた。明らかに赤字になるような価格設定だったが、資金力のあるグレイソン商会には体力勝負で勝てるはずがなかった。

「申し訳ありませんが、グレイソン商会の方が条件が良いので…」

 長年取引していた顧客たちが、次々と離れていった。中には、父の代から三十年も取引していた老舗もあった。

 次に、仕入れルートへの妨害が始まった。グレイソンが香辛料の産地に先回りして、高値で商品を買い占めたのだ。僕たちが欲しい品物は、ことごとく彼らの手に渡ってしまった。

「すまないが、もう在庫がないんだ。来月になればまた入荷するかもしれないが…」

 いつもの仕入れ先の商人がそう言った時、その倉庫にグレイソン商会の荷車が止まっているのを見た。明らかに、グレイソンが先に買い取ってしまったのだ。

 さらに、銀行への圧力もあった。僕たちが資金繰りに困って融資を申し込むと、なぜか審査が厳しくなった。

「アヴェンハート商店の将来性に疑問が…」
「担保が不十分で…」
「返済能力に問題が…」

 様々な理由をつけて、融資を断られた。後で分かったことだが、グレイソンが銀行の重役たちに働きかけていたのだ。

 内部の裏切りも重なった。番頭のマルコスが帳簿を改ざんし、重要な顧客情報をグレイソン商会に売り渡していたのだ。僕が信頼していた人間に、背中から刺されたのだった。

 そのことが発覚したのは、ある重要な取引が破談になった時だった。僕たちが極秘で進めていた大口契約の情報が、なぜかグレイソン商会に漏れていたのだ。

「マルコス、この件について知っていたのは君だけだ。どういうことだ?」

 僕が問い詰めると、マルコスは最初はしらを切っていた。しかし、証拠を突きつけられると、ついに白状した。

「すまない…だが、このままではアヴェンハート商店は潰れる。グレイソン様に頼むしか道はないんだ」

 彼の言い訳は、僕の心を深く傷つけた。父が可愛がっていた古い従業員が、金に目がくらんで裏切ったのだ。

 政治家の搾取も酷かった。市議会議員のバートンが法外な「商業税」を要求し、支払わなければ営業許可を取り消すと脅してきた。正当な手続きを踏んでも、彼らが結託していては勝ち目がない。

「アヴェンハート君、君の父君は優秀な商人だったが、君はどうかね? この街で商売を続けたいなら、それなりの協力金が必要だ」

 バートンはそう言って、法外な金額を要求してきた。断れば、様々な口実をつけて営業を妨害すると脅された。

「税務調査、衛生検査、建物の安全点検…いくらでも方法はあるからね」

 薄気味悪い笑みを浮かべるバートンの顔は、今でも忘れられない。

 気づけば、すべてが僕の手から滑り落ちていた。

 借金は雪だるま式に膨らみ、ついには商店の建物まで差し押さえられた。従業員たちには給料も払えず、皆、次々と辞めていった。最後まで残ってくれたのは、老いた掃除夫のトムだけだった。彼は涙を浮かべながら「坊ちゃん、きっと立ち直れますよ」と言ってくれたが、その優しさが余計に胸に痛かった。

「トムさん、長い間ありがとうございました。僕が情けないばかりに…」

「そんなことありませんよ。旦那様もきっと、坊ちゃんが頑張っておられることを誇りに思っていますよ」

 トムの言葉が、僕の心を更に重くした。父が築いたものを、僕は全て失ってしまったのだ。

 最後の日、母とセリアに別れを告げるのが、何より辛かった。

「お母さん、セリア…ごめん。父さんの築いた店を、僕が潰してしまった」

 僕が謝ると、母は優しく僕の頭を撫でてくれた。

「ティリオ、あなたは悪くありません。あなたは精一杯頑張りました」

 セリアも涙を浮かべながら言った。

「お兄ちゃんは何も悪くない。お兄ちゃんは立派だよ」

 その優しさが、逆に僕を苦しめた。僕は家族を守れなかった。父の遺志を継ぐことができなかった。

 結果、僕は巨額の借金を背負い、家族は夜逃げを余儀なくされた。僕だけが借金取りに捕まり、債務の代償として奴隷商人に売られたのだ。その時の債権者たちの冷酷な笑顔を、僕は一生忘れることはないだろう。

「ガキ一匹でも、それなりの値は付くだろう」

 奴隷商人のガロンがそう言って、僕を品定めするように見回した。その目は、人間を見る目ではなかった。商品を見る目だった。

 母さんとセリアは、今頃どこにいるのだろう。無事に逃げ切れただろうか。食べるものはあるだろうか。寒さを凌げる場所は見つかっただろうか。

 考えるたびに胸が締め付けられる。僕のせいで、家族はバラバラになってしまった。

 ——母さん、セリア。無事でいてくれ。

 父さんが見たら、なんと言うだろう。なんて親不孝な息子だ。父が命をかけて築いた商店を、僕はわずか半年で潰してしまった。家族を路頭に迷わせ、自分は奴隷として売られる始末。

 情けない。本当に情けない。

 でも、今更後悔しても仕方がない。過去は変えられない。今、僕にできることは——生き延びることだけだ。

 生きて、いつか母さんとセリアに再び会うこと。それが、僕に残された唯一の希望だった。

 どんなに惨めでも、どんなに辛くても、生きていればいつかチャンスが来るかもしれない。家族を探し出し、再び一緒に暮らせる日が来るかもしれない。その希望だけが、絶望の淵に立つ僕を支えていた。

 試合開始の銅鑼が鳴る。その音が、僕の心臓を貫いた。

「始めっ!」

 その号令とともに、魔狼が解き放たれた。

 咆哮が空気を裂き、巨体が地を蹴って跳ぶ。地面が震動し、砂埃が舞い上がった。

 牙を剥き、四肢を広げて宙を舞う魔狼。その美しくも恐ろしい跳躍は、死の舞踏のようだった。

 ——逃げられない。

 鈍足。恐怖で動かぬ身体。武器を持つ手が震えて、まともに構えることすらできない。支給された剣は僕には重すぎて、先端が地面を擦っている。これでは戦いになどならない。死ぬ。間違いなく死ぬ。こんな状態で、あの化け物と戦えるはずがない。

 周囲の他の闘士たちも、同じように恐怖に支配されていた。ガブリエルは完全に腰が抜けて座り込んでしまい、トニーは泣きながら「かあちゃん」と呟き続けている。マルクだけは松葉杖を武器のように構えていたが、その手も激しく震えていた。

 魔狼の鋭い視線が、僕たちを一人ずつ品定めしている。どの獲物から襲うか、冷酷に選択しているのだ。その知的な瞳が、背筋を凍らせた。

 影が覆いかぶさり、巨獣の口が開かれる。その口の中は、暗闇そのものだった。

 陽光を反射した牙が閃き、迫る——

 ……目を閉じた。

 母さん、セリア。僕は君たちに会えないまま死んでしまうのかもしれない。ごめん。本当にごめん。

 その時だった。

 チクリ。

 首筋に針を刺すような痛み。それは魔狼の牙ではない。もっと細く、鋭いもの。まるで注射針のような——

 痛みが血管を駆け上がり、脳に達する。視界が歪み、音が遠のいていく。身体の感覚が薄れ、まるで深い水の底に沈んでいくような感覚に包まれた。

 これは何だ? 毒か? それとも幻覚か?

 耳の奥で、微かな機械音のようなものが響いているような気がした。それとも幻聴だろうか。頭の中で何かが蠢いているような、奇妙な感覚が広がっていく。まるで脳の奥で、何かのスイッチが入ったような感覚。体の自由が利かなくなっていく。

 意識が、糸が切れるように——

 ——死んだ。

 それが最後の思考だった。



★☆



 目を開ける。

 ……生きている?

 身体を起こそうとして、違和感を覚えた。手足が自分のものではないような奇妙な感覚。まるで長い間眠っていて、感覚が戻っていないような、それでいて妙にすっきりとした感じ。

 恐怖で震えていたはずの足に、しっかりと力が入っている。さっきまでガクガクと震えて武器すら握れなかった手が、今は安定していた。

 周囲が騒がしい。歓声が耳を打つ。だが、その歓声は先ほどとは違っていた。興奮ではなく、畏怖に満ちていた。

 目を凝らすと、闘技場の中央に魔狼の死体があった。

 腹にぽっかりと空いた大穴。そこから腸が飛び出し、血が地を染めている。その傷口は、人間の手によるものとは思えないほど深く、正確だった。

 ——何が起きた?

 自分の手を見た。血まみれだ。

 けれど痛くない。傷一つない。

 僕の血じゃない。

 ……魔狼の血。

 手のひらを見つめる。この手が、あの巨獣を殺したのか?記憶がない。どうやって?いつ?何も覚えていない。

 身体を確認してみる。特に変わったところはない。相変わらず小太りで、筋肉質とは程遠い体型だ。

 でも、記憶がない。魔狼をどうやって倒したのか、まったく覚えていない。意識を失ってから目覚めるまでの間に、一体何が起こったのだろう。自分が戦ったのか? それとも誰かが助けてくれたのか? しかし、周りには誰もいない。僕以外は皆、死んでいる。

 まるで悪夢のようだ。いや、悪夢の方がまだましかもしれない。目覚めれば終わるのだから。しかし、これは現実だ。血の匂いも、死体も、観客の歓声も、すべて現実なのだ。

 周囲の闘士たちは、皆、倒れていた。顔を潰された者、腸を引きずり出された者……魔狼の爪と牙が作り出した惨劇。

 ガブリエルは頭部を大きく損傷し、もう息をしていなかった。トニーは胸部を貫かれ、血だまりの中に倒れている。マルクは松葉杖で最後まで抵抗したようだが、片腕を引きちぎられて絶命していた。

 彼らは僕を守ろうとしたのか、それとも単に巻き込まれたのか。皆、恐怖の中で死んでいった。最後に何を思ったのだろう。故郷の家族のことだろうか。

 地面は血の海。鉄臭い匂いが肺を焼く。

 うげぇ!

 胃から込み上げてくるものを必死に耐える。何も食べていなかったのが幸いした。少しでも胃に入っていたら、きっと吐いていただろう。

 はぁ、はぁ、はぁ……誰もいない。

 生きている闘士は、僕しかいない。

 観客席がざわめいている。驚嘆の声、恐怖の声、興奮の声が入り混じっていた。

「あの小僧、何をしたんだ?」
「魔狼が一瞬で……」
「今まで見たことがない…」

 観客たちも困惑している。何が起こったのか理解できずにいるのだ。僕と同じように。

「勝者、十九番ッ!」

 審判の声が、震えていた。彼もまた、何が起きたのか理解していないのだろう。

 僕は、最後まで生き残っていた。

 ——勝った?

 わけがわからない。記憶がない。気がついたら、すべてが終わっていた。

 けれど、歓声がそれを証明していた。

 僕は、生きている。

 でも、これは本当に僕なのだろうか? なぜ魔狼が死んでいるのだろうか? あの奇妙な感覚は何だったのだろうか? 記憶がないというのが一番恐ろしい。自分の行動を覚えていないなんて、まるで別人が僕の体を使ったかのようだ。

 疑問ばかりが頭を巡る中、僕はゆっくりと立ち上がった。足は震えているが、なんとか立つことができた。勝者として、この地獄のような闘技場を後にするために。そして、この謎を解くために。

 観客席の歓声が次第に大きくなっていく。

「魔狼殺し!」
「新星の誕生だ!」
「一体何者だ、あの少年は!」

 彼らの興奮した声が、石造りのコロッセウムに響き渡る。しかし、僕の心は混乱と不安で満たされていた。

 本当に僕が勝ったのだろうか。それとも、何か別の力が働いたのだろうか。記憶のない空白の時間に、一体何が起こったのだろうか。

 そんな疑問を抱えながら、僕は血に染まった闘技場をゆっくりと歩いた。生き残った代償として、新たな運命が僕を待っているのだろう。それが幸運なのか、それとも更なる地獄への入り口なのか、その時の僕にはまだ分からなかった。

 ただ一つ確かなことは、僕の人生が今日を境に、全く違うものになったということだった。弱い商人の息子は死に、何か得体の知れない存在として、僕は新たな歩みを始めることになったのだ。

 母さん、セリア。僕は生きている。まだ生きているよ。きっと、いつか君たちに会いに行く。その日まで、僕は生き続ける。どんなことがあっても。
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