16 / 21
第十四話「医療室の秘密」
しおりを挟む
医療室の扉をノックすると、中から低く落ち着いた声が響いた。
「入りなさい」
扉を開けて中に入ると、清潔な白い空間が広がっていた。石造りの壁には医療器具が整然と並び、薬品の棚が規則正しく配置されている。消毒薬の匂いが鼻を突き、ここだけが施設の他の部分とは別世界のように感じられた。
白衣を着た青年が振り返った。端正で美しい顔立ちに眼鏡をかけており、その瞳には深い知性が宿っている。穏やかな微笑を浮かべていて、どこか上品で洗練された印象を受けた。年齢は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。
「私はDr.ゼイド、この施設の医師だ」
その声は温かく、安心感を与えてくれる響きだった。今朝から続いている混乱の中で、ようやく信頼できそうな大人に出会えた気がした。
「ゼイド様、よろしくお願いします」
緊張しながら挨拶をする。Dr.ゼイドは微笑みを深めた。
「そんなに畏まらなくてもいい。Dr.ゼイドでいいよ。さあ、診察台に横になって。身体の調子を診てみよう」
促されて診察台に横になる。清潔な白いシーツの感触が心地よい。Dr.ゼイドが聴診器を当て、血圧を測る。いかにも医師らしい手慣れた動作で、その手つきからは豊富な経験と確かな技術が感じられた。
「心拍数、正常。血圧も問題なし。呼吸音も清明だ」
専門的な検査を続けながら、Dr.ゼイドが丁寧に説明してくれる。
「筋肉の発達状況も良好だ。最近、急激に体型が変わったようだが、健康上は何の問題もない」
体型の変化まで見抜かれていることに驚いた。さすがは医師だ。
「健康状態は良好だ。何か気になることはないかい?」
Dr.ゼイドの優しい問いかけに、僕は相談する良い機会だと思った。この混乱した状況について、きっと医学的な説明をしてくれるはずだ。
「実は……記憶のことで悩んでいるんです」
「記憶? どんな風に?」
Dr.ゼイドが真剣な表情で身を乗り出す。その眼差しには、患者を心配する医師としての誠実さが宿っていた。
「時々、記憶が飛ぶことがあるんです。昨夜も、途中から覚えていなくて……朝起きたら、何もかもが変わっていました」
Dr.ゼイドが顎に手を当てて考え込む。その表情は思慮深く、何か重要なことを検討しているようだった。
「なるほど。それは心配だね。他にも症状はあるかい?」
「時々、激しい頭痛があります。それと、起きた時に体中が筋肉痛になっていることも……まるで激しい運動をした後のような」
これらの症状について話すと、Dr.ゼイドの表情がさらに真剣になった。まるで何かの病気を疑っているかのように、慎重に言葉を選んでいる。
「記憶がないということ、他の人には話したかい?」
「いえ、Dr.ゼイドが初めてです」
正直に答えると、Dr.ゼイドが安堵したような表情を見せた。
「それなら、他の人には黙っていた方がいい。この施設では、少しでも異常があると弱者と見なされる。君の立場が悪くなる可能性がある」
その忠告は理にかなっていた。確かに、記憶喪失などという弱点を他の闘士たちに知られたら、どんな目に遭うかわからない。
Dr.ゼイドが立ち上がり、扉に鍵をかけた。そして窓のブラインドを下ろす。部屋が薄暗くなり、より秘密めいた雰囲気になった。
「実はね……君の記憶喪失には、理由があるんだ」
Dr.ゼイドが壁際の棚から小瓶を取り出した。淡い緑色の液体が入っている。瓶を光にかざすと、液体が微かに光っているように見えた。
「これは何ですか?」
「君にはある特殊な薬を服用させていた。魔狼が本能的に嫌がる匂いを発する薬だ」
魔狼を嫌がらせる薬? そんなものが存在するなんて信じられない。
「そんな薬が……」
「ただし、まだ研究中の不完全な薬でね。副作用として意識混濁を引き起こす。さらに、筋肉を無意識に緊張させる作用もあるんだ」
Dr.ゼイドの説明は論理的で説得力があった。科学的な根拠に基づいた説明に、僕は安堵のため息をついた。
「それで朝起きた時に筋肉痛が……」
「その通りだ。君の身体は薬の作用で無意識に筋肉を動かし続けていた。それが筋肉痛の原因だ」
なるほど、それで説明がつく。記憶がないのも、体の変化も、全て薬の副作用だったのか。
「どうりで、ところどころ記憶がないわけです……」
「申し訳ない。不完全な薬を使ってしまって……」
Dr.ゼイドが申し訳なさそうに頭を下げた。その姿勢からは、医師としての責任感と患者への配慮が感じられる。
「いえいえ、そんな! あのままだったら、僕は魔狼に食い殺されて死んでいました。Dr.ゼイドが助けてくださったおかげで、こうして生きています」
心からの感謝を込めて言うと、Dr.ゼイドの表情が少し和らいだ。
「君は……本当に優しい子だ。医師として、こんなに理解のある患者に出会えて嬉しい」
Dr.ゼイドが別の小瓶を手に取った。今度は透明な液体が入っている。
「あと君が魔狼を倒せたのには理由がある。私は事前に魔狼に毒薬を飲ませていたんだ」
「毒薬を……?」
「遅行性の毒薬でね。戦闘開始のタイミングに合わせて効果が現れるよう計算していた」
複雑な気持ちになった。やはり自分の力で勝ったわけではなかったのだ。でも、それでもDr.ゼイドが僕を助けてくれたという事実に変わりはない。
「それだけではない。離れた場所から投石で支援もさせていたんだ」
「そんな人が……」
胸が熱くなった。自分を守るために、そこまでしてくれる人がいるなんて。
「なぜ僕なんかを……」
「君は父君のことをよく覚えているかい? アヴェンハート氏のことを」
父の名前を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。父の温かい笑顔、優しい声、大きな手。すべてが鮮明に蘇ってくる。
「はい……父のことは、いつも思い出しています」
「立派な人だった。多くの人を助け、正義を貫いた商人だった。私も、父君には恩がある」
Dr.ゼイドの目に、深い敬意の色が浮かんだ。
「だから、息子である君を見殺しにするわけにはいかなかった」
「父に恩が……?」
父がこんなところまで影響を与えていたなんて。改めて、父の偉大さを感じる。
「ただし、これは重大な問題でもある。コロッセオの戦いに外部から介入することは重罪なんだ。それでも、君を見殺しにはできなかった……」
Dr.ゼイドの表情が曇った。自分を助けるために、Dr.ゼイドが重大なリスクを冒してくれたのだ。
「あの……皆が僕が部屋長やヴァルクを殺したって言うんですが……僕、本当にそんなことをしたんでしょうか?」
この質問が一番気になっていた。周囲の人々の反応を見る限り、何か恐ろしいことが起こったようだが、記憶にないのが不安だった。
「ティリオ君、君は誰も殺していない」
「え?」
この言葉に、僕は心の底から安堵した。やはり僕は人殺しなんかじゃない。安心感が全身に広がっていく。
「私が協力者をあの部屋に送り込んでいたんだ。君を救うために、襲撃者たちを排除した」
「協力者……?」
「私の協力者がこっそり君を監視していた。君の身に危険が及ばないよう、常に見守っていたんだ」
なるほど、それで僕は無事だったのか。Dr.ゼイドの周到な計画に感謝の気持ちでいっぱいになる。
Dr.ゼイドが別の小瓶を取り出した。今度は白い粉末が入っている。
「意識を朦朧とさせる薬だ。その効果で、現場にいた者たちの記憶が曖昧になった」
「それで……」
「ネズ君にとって、部屋に侵入者が入ってくるなど考えられない。部屋長と対立していたのは君だから、当然君が倒したと思った」
安堵のため息をついた。全ての謎が解けていく。
「そうだったんですか……僕は誰も殺していない……」
「そうだ。君の手は汚れていない」
その時、扉がそっとノックされた。
「失礼します」
扉が開き、白衣を着た若い女性が現れた。美しい顔立ちだが、どこか悲しげな表情を浮かべている。銀色の髪を後ろで結んでおり、瞳には深い知性と優しさが宿っていた。
「こちらは私の助手のエリシアだ」
Dr.ゼイドが彼女を紹介した。
エリシアの顔をじっと見つめた。どこかで会ったような気がする。その整った顔立ちと悲しげな瞳に、懐かしさを感じるのはなぜだろう。
「ティリオ、久しぶりね」
エリシアが深々と頭を下げる。その声には、長い間の感謝と懐かしさが込められていた。
「あの……どこかでお会いしたことが……」
記憶の奥で何かが蠢いている。大切な何かを忘れているような感覚に襲われる。
エリシアが震える声で話し始めた。
「覚えていますか? 雨の降る夜のことを……私はシルヴァン族の血を引いていて……昔、王命によって一族が狩られていた時期がありました」
シルヴァン族? その名前を聞いた瞬間、記憶の断片が蘇り始めた。雨音、恐怖に震える影、茂みの隙間から見えた小さな顔。
エリシアの目に涙が浮かんだ。
「廃屋に隠れていた時、ティリオが茂みの隙間から私たちを見つけてくれた」
その瞬間、記憶が鮮明に蘇った。雨の音、母親を守ろうとする女の子、そして恐怖に震える二つの影。
「あ……!君は、あの時の……!」
心の中で、全ての記憶が繋がった。あの雨の夜、森の中で出会った母子。僕が父のところへ駆け寄って助けを求めた。
「はい。ティリオはお父様のところへ駆け寄って『助けてあげて』と言ってくれたね」
心に、父の温かい笑顔が浮かんだ。父の優しい声が聞こえてくるような気がする。
「覚えてる……!父さんが『よし。すぐに毛布を持っていこう』って……」
「そう! 温かいスープを……」
当時の記憶が鮮明に戻ってきた。あの夜の温かさ、家族の優しさ、そして見知らぬ人を助けることの大切さ。父が教えてくれた人としての在り方。
「エリシア……君だったんだ。あの時の女の子は……」
目に涙を浮かべた。まさか、あの時助けた女の子と再び会えるなんて。世界は本当に狭い。そして、人と人との繋がりは、時を超えて続いているのだ。
「もしあの時、ティリオとお父様がいなければ、私も母もあの場で殺されていました」
エリシアの声が震えている。その言葉から、あの夜がいかに危険だったか、僕たちの行動がいかに重要だったかが伝わってくる。
「だから僕を……」
「はい。ゼイド様にお願いしたのよ。ティリオを守ってくださいって。あの時の恩返しをさせてくださいって」
Dr.ゼイドが頷いた。
「エリシアの頼みだからな。それに、君の父君は立派な人だった。その息子を見殺しにはできない」
胸が熱くなった。父の行いが、こんな形で僕を救ってくれるなんて。
「ありがとう、エリシアさん……本当に、ありがとう」
心からの感謝を込めて言うと、エリシアが微笑んだ。涙に濡れた顔だったが、その笑顔は美しかった。
「こちらこそ、ティリオ。やっと、恩返しができるわ」
しかし、Dr.ゼイドの表情が真剣になった。
「ティリオ君、もう一つお願いがある」
「なんでしょうか?」
Dr.ゼイドが立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら考えている。何か重要なことを伝えようとしているようだ。
「君には、強者のふりを続けてもらいたい」
「強者のふり……?」
強者のふり? 僕が? そんなことができるだろうか。
「まず、君自身を守るためでもある。弱者だとばれれば、皆からリンチに遭うだろう」
確かに、その通りだった。今朝の食堂での扱いを思い出す。皆が僕を恐れ、敬っていた。もしあれが偽りだとばれたら……
「そして……実は強くないとばれてしまうと、誰かが君を手助けしたということになる。そうなれば、その『誰か』を探し出そうとする者が現れるだろう」
「それは……」
なるほど、そういうことか。僕が弱いとばれれば、必然的にDr.ゼイドの存在が疑われることになる。
「もし詮索が進めば、最終的に私とエリシアに辿り着く可能性がある」
Dr.ゼイドがエリシアの方を見た。彼女の顔に不安の色が浮かんでいる。
「エリシアには重罪を負わせたくない」
エリシアを見た。彼女の目に不安の色が浮かんでいる。あの時助けてくれた恩人を、僕のせいで危険にさらすわけにはいかない。
僕の心は決まった。エリシアを守らなければ。Dr.ゼイドも。
「わかりました。僕にできることなら」
「ありがとう、ティリオ君。もし誰かに戦闘のことを聞かれたら、『そうだ、俺がやった』と答えてくれ」
「そうだ、俺がやった……」
その言葉を練習してみる。少し違和感があるが、演技だと思えばできそうだ。
「そう。どんなに非道な行いを聞かれても、君がやったと認めてほしい」
少し戸惑った。非道な行い? 一体どんなことが起こっていたのだろう。
「でも、実際にはDr.ゼイドの協力者が……」
「それでいいんだ」
Dr.ゼイドの表情が厳しくなった。
「君が認めることで、詮索は止まる。そして、私たちも安全でいられる」
弱い僕を守るために、これほど多くのリスクを背負ってくれている。今度は僕が、彼らを守る番だ。
「わかりました。Dr.ゼイドとエリシアさんを守るために、僕にできることはします」
「ありがとう」
Dr.ゼイドは満足そうに頷いた。エリシアも安堵の表情を見せた。
自分を命がけで守ってくれた人たちのためなら、このくらいのことはできる。演技は苦手だが、大切な人たちを守るためなら頑張れる。
「ただし、演技は慎重にな。あまり大げさにやると、かえって不自然になる」
「はい、気をつけます」
Dr.ゼイドが最後に一つの小瓶を取り出した。
「これは痛み止めだ。筋肉痛がひどい時に飲むといい」
「ありがとうございます」
小瓶を受け取ると、Dr.ゼイドとエリシアが微笑んだ。
「それでは、診察は終了だ。何かあったら、いつでも相談しに来なさい」
「はい、Dr.ゼイド」
医療室を出る前に、もう一度振り返った。Dr.ゼイドとエリシア、二人の恩人が僕を見守ってくれている。
この人たちを裏切ることはできない。絶対に守り抜いてみせる。
廊下に出ると、相変わらず人々の視線が僕に注がれていた。でも今度は、その視線の意味がわかる。皆、僕を恐れ、敬っているのだ。
この演技を続けなければならない。Dr.ゼイドとエリシアのために。そして、自分自身を守るために。
演技は得意ではないが、やってみせる。大切な人たちを守るために。
「入りなさい」
扉を開けて中に入ると、清潔な白い空間が広がっていた。石造りの壁には医療器具が整然と並び、薬品の棚が規則正しく配置されている。消毒薬の匂いが鼻を突き、ここだけが施設の他の部分とは別世界のように感じられた。
白衣を着た青年が振り返った。端正で美しい顔立ちに眼鏡をかけており、その瞳には深い知性が宿っている。穏やかな微笑を浮かべていて、どこか上品で洗練された印象を受けた。年齢は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。
「私はDr.ゼイド、この施設の医師だ」
その声は温かく、安心感を与えてくれる響きだった。今朝から続いている混乱の中で、ようやく信頼できそうな大人に出会えた気がした。
「ゼイド様、よろしくお願いします」
緊張しながら挨拶をする。Dr.ゼイドは微笑みを深めた。
「そんなに畏まらなくてもいい。Dr.ゼイドでいいよ。さあ、診察台に横になって。身体の調子を診てみよう」
促されて診察台に横になる。清潔な白いシーツの感触が心地よい。Dr.ゼイドが聴診器を当て、血圧を測る。いかにも医師らしい手慣れた動作で、その手つきからは豊富な経験と確かな技術が感じられた。
「心拍数、正常。血圧も問題なし。呼吸音も清明だ」
専門的な検査を続けながら、Dr.ゼイドが丁寧に説明してくれる。
「筋肉の発達状況も良好だ。最近、急激に体型が変わったようだが、健康上は何の問題もない」
体型の変化まで見抜かれていることに驚いた。さすがは医師だ。
「健康状態は良好だ。何か気になることはないかい?」
Dr.ゼイドの優しい問いかけに、僕は相談する良い機会だと思った。この混乱した状況について、きっと医学的な説明をしてくれるはずだ。
「実は……記憶のことで悩んでいるんです」
「記憶? どんな風に?」
Dr.ゼイドが真剣な表情で身を乗り出す。その眼差しには、患者を心配する医師としての誠実さが宿っていた。
「時々、記憶が飛ぶことがあるんです。昨夜も、途中から覚えていなくて……朝起きたら、何もかもが変わっていました」
Dr.ゼイドが顎に手を当てて考え込む。その表情は思慮深く、何か重要なことを検討しているようだった。
「なるほど。それは心配だね。他にも症状はあるかい?」
「時々、激しい頭痛があります。それと、起きた時に体中が筋肉痛になっていることも……まるで激しい運動をした後のような」
これらの症状について話すと、Dr.ゼイドの表情がさらに真剣になった。まるで何かの病気を疑っているかのように、慎重に言葉を選んでいる。
「記憶がないということ、他の人には話したかい?」
「いえ、Dr.ゼイドが初めてです」
正直に答えると、Dr.ゼイドが安堵したような表情を見せた。
「それなら、他の人には黙っていた方がいい。この施設では、少しでも異常があると弱者と見なされる。君の立場が悪くなる可能性がある」
その忠告は理にかなっていた。確かに、記憶喪失などという弱点を他の闘士たちに知られたら、どんな目に遭うかわからない。
Dr.ゼイドが立ち上がり、扉に鍵をかけた。そして窓のブラインドを下ろす。部屋が薄暗くなり、より秘密めいた雰囲気になった。
「実はね……君の記憶喪失には、理由があるんだ」
Dr.ゼイドが壁際の棚から小瓶を取り出した。淡い緑色の液体が入っている。瓶を光にかざすと、液体が微かに光っているように見えた。
「これは何ですか?」
「君にはある特殊な薬を服用させていた。魔狼が本能的に嫌がる匂いを発する薬だ」
魔狼を嫌がらせる薬? そんなものが存在するなんて信じられない。
「そんな薬が……」
「ただし、まだ研究中の不完全な薬でね。副作用として意識混濁を引き起こす。さらに、筋肉を無意識に緊張させる作用もあるんだ」
Dr.ゼイドの説明は論理的で説得力があった。科学的な根拠に基づいた説明に、僕は安堵のため息をついた。
「それで朝起きた時に筋肉痛が……」
「その通りだ。君の身体は薬の作用で無意識に筋肉を動かし続けていた。それが筋肉痛の原因だ」
なるほど、それで説明がつく。記憶がないのも、体の変化も、全て薬の副作用だったのか。
「どうりで、ところどころ記憶がないわけです……」
「申し訳ない。不完全な薬を使ってしまって……」
Dr.ゼイドが申し訳なさそうに頭を下げた。その姿勢からは、医師としての責任感と患者への配慮が感じられる。
「いえいえ、そんな! あのままだったら、僕は魔狼に食い殺されて死んでいました。Dr.ゼイドが助けてくださったおかげで、こうして生きています」
心からの感謝を込めて言うと、Dr.ゼイドの表情が少し和らいだ。
「君は……本当に優しい子だ。医師として、こんなに理解のある患者に出会えて嬉しい」
Dr.ゼイドが別の小瓶を手に取った。今度は透明な液体が入っている。
「あと君が魔狼を倒せたのには理由がある。私は事前に魔狼に毒薬を飲ませていたんだ」
「毒薬を……?」
「遅行性の毒薬でね。戦闘開始のタイミングに合わせて効果が現れるよう計算していた」
複雑な気持ちになった。やはり自分の力で勝ったわけではなかったのだ。でも、それでもDr.ゼイドが僕を助けてくれたという事実に変わりはない。
「それだけではない。離れた場所から投石で支援もさせていたんだ」
「そんな人が……」
胸が熱くなった。自分を守るために、そこまでしてくれる人がいるなんて。
「なぜ僕なんかを……」
「君は父君のことをよく覚えているかい? アヴェンハート氏のことを」
父の名前を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。父の温かい笑顔、優しい声、大きな手。すべてが鮮明に蘇ってくる。
「はい……父のことは、いつも思い出しています」
「立派な人だった。多くの人を助け、正義を貫いた商人だった。私も、父君には恩がある」
Dr.ゼイドの目に、深い敬意の色が浮かんだ。
「だから、息子である君を見殺しにするわけにはいかなかった」
「父に恩が……?」
父がこんなところまで影響を与えていたなんて。改めて、父の偉大さを感じる。
「ただし、これは重大な問題でもある。コロッセオの戦いに外部から介入することは重罪なんだ。それでも、君を見殺しにはできなかった……」
Dr.ゼイドの表情が曇った。自分を助けるために、Dr.ゼイドが重大なリスクを冒してくれたのだ。
「あの……皆が僕が部屋長やヴァルクを殺したって言うんですが……僕、本当にそんなことをしたんでしょうか?」
この質問が一番気になっていた。周囲の人々の反応を見る限り、何か恐ろしいことが起こったようだが、記憶にないのが不安だった。
「ティリオ君、君は誰も殺していない」
「え?」
この言葉に、僕は心の底から安堵した。やはり僕は人殺しなんかじゃない。安心感が全身に広がっていく。
「私が協力者をあの部屋に送り込んでいたんだ。君を救うために、襲撃者たちを排除した」
「協力者……?」
「私の協力者がこっそり君を監視していた。君の身に危険が及ばないよう、常に見守っていたんだ」
なるほど、それで僕は無事だったのか。Dr.ゼイドの周到な計画に感謝の気持ちでいっぱいになる。
Dr.ゼイドが別の小瓶を取り出した。今度は白い粉末が入っている。
「意識を朦朧とさせる薬だ。その効果で、現場にいた者たちの記憶が曖昧になった」
「それで……」
「ネズ君にとって、部屋に侵入者が入ってくるなど考えられない。部屋長と対立していたのは君だから、当然君が倒したと思った」
安堵のため息をついた。全ての謎が解けていく。
「そうだったんですか……僕は誰も殺していない……」
「そうだ。君の手は汚れていない」
その時、扉がそっとノックされた。
「失礼します」
扉が開き、白衣を着た若い女性が現れた。美しい顔立ちだが、どこか悲しげな表情を浮かべている。銀色の髪を後ろで結んでおり、瞳には深い知性と優しさが宿っていた。
「こちらは私の助手のエリシアだ」
Dr.ゼイドが彼女を紹介した。
エリシアの顔をじっと見つめた。どこかで会ったような気がする。その整った顔立ちと悲しげな瞳に、懐かしさを感じるのはなぜだろう。
「ティリオ、久しぶりね」
エリシアが深々と頭を下げる。その声には、長い間の感謝と懐かしさが込められていた。
「あの……どこかでお会いしたことが……」
記憶の奥で何かが蠢いている。大切な何かを忘れているような感覚に襲われる。
エリシアが震える声で話し始めた。
「覚えていますか? 雨の降る夜のことを……私はシルヴァン族の血を引いていて……昔、王命によって一族が狩られていた時期がありました」
シルヴァン族? その名前を聞いた瞬間、記憶の断片が蘇り始めた。雨音、恐怖に震える影、茂みの隙間から見えた小さな顔。
エリシアの目に涙が浮かんだ。
「廃屋に隠れていた時、ティリオが茂みの隙間から私たちを見つけてくれた」
その瞬間、記憶が鮮明に蘇った。雨の音、母親を守ろうとする女の子、そして恐怖に震える二つの影。
「あ……!君は、あの時の……!」
心の中で、全ての記憶が繋がった。あの雨の夜、森の中で出会った母子。僕が父のところへ駆け寄って助けを求めた。
「はい。ティリオはお父様のところへ駆け寄って『助けてあげて』と言ってくれたね」
心に、父の温かい笑顔が浮かんだ。父の優しい声が聞こえてくるような気がする。
「覚えてる……!父さんが『よし。すぐに毛布を持っていこう』って……」
「そう! 温かいスープを……」
当時の記憶が鮮明に戻ってきた。あの夜の温かさ、家族の優しさ、そして見知らぬ人を助けることの大切さ。父が教えてくれた人としての在り方。
「エリシア……君だったんだ。あの時の女の子は……」
目に涙を浮かべた。まさか、あの時助けた女の子と再び会えるなんて。世界は本当に狭い。そして、人と人との繋がりは、時を超えて続いているのだ。
「もしあの時、ティリオとお父様がいなければ、私も母もあの場で殺されていました」
エリシアの声が震えている。その言葉から、あの夜がいかに危険だったか、僕たちの行動がいかに重要だったかが伝わってくる。
「だから僕を……」
「はい。ゼイド様にお願いしたのよ。ティリオを守ってくださいって。あの時の恩返しをさせてくださいって」
Dr.ゼイドが頷いた。
「エリシアの頼みだからな。それに、君の父君は立派な人だった。その息子を見殺しにはできない」
胸が熱くなった。父の行いが、こんな形で僕を救ってくれるなんて。
「ありがとう、エリシアさん……本当に、ありがとう」
心からの感謝を込めて言うと、エリシアが微笑んだ。涙に濡れた顔だったが、その笑顔は美しかった。
「こちらこそ、ティリオ。やっと、恩返しができるわ」
しかし、Dr.ゼイドの表情が真剣になった。
「ティリオ君、もう一つお願いがある」
「なんでしょうか?」
Dr.ゼイドが立ち上がり、部屋の中を歩き回りながら考えている。何か重要なことを伝えようとしているようだ。
「君には、強者のふりを続けてもらいたい」
「強者のふり……?」
強者のふり? 僕が? そんなことができるだろうか。
「まず、君自身を守るためでもある。弱者だとばれれば、皆からリンチに遭うだろう」
確かに、その通りだった。今朝の食堂での扱いを思い出す。皆が僕を恐れ、敬っていた。もしあれが偽りだとばれたら……
「そして……実は強くないとばれてしまうと、誰かが君を手助けしたということになる。そうなれば、その『誰か』を探し出そうとする者が現れるだろう」
「それは……」
なるほど、そういうことか。僕が弱いとばれれば、必然的にDr.ゼイドの存在が疑われることになる。
「もし詮索が進めば、最終的に私とエリシアに辿り着く可能性がある」
Dr.ゼイドがエリシアの方を見た。彼女の顔に不安の色が浮かんでいる。
「エリシアには重罪を負わせたくない」
エリシアを見た。彼女の目に不安の色が浮かんでいる。あの時助けてくれた恩人を、僕のせいで危険にさらすわけにはいかない。
僕の心は決まった。エリシアを守らなければ。Dr.ゼイドも。
「わかりました。僕にできることなら」
「ありがとう、ティリオ君。もし誰かに戦闘のことを聞かれたら、『そうだ、俺がやった』と答えてくれ」
「そうだ、俺がやった……」
その言葉を練習してみる。少し違和感があるが、演技だと思えばできそうだ。
「そう。どんなに非道な行いを聞かれても、君がやったと認めてほしい」
少し戸惑った。非道な行い? 一体どんなことが起こっていたのだろう。
「でも、実際にはDr.ゼイドの協力者が……」
「それでいいんだ」
Dr.ゼイドの表情が厳しくなった。
「君が認めることで、詮索は止まる。そして、私たちも安全でいられる」
弱い僕を守るために、これほど多くのリスクを背負ってくれている。今度は僕が、彼らを守る番だ。
「わかりました。Dr.ゼイドとエリシアさんを守るために、僕にできることはします」
「ありがとう」
Dr.ゼイドは満足そうに頷いた。エリシアも安堵の表情を見せた。
自分を命がけで守ってくれた人たちのためなら、このくらいのことはできる。演技は苦手だが、大切な人たちを守るためなら頑張れる。
「ただし、演技は慎重にな。あまり大げさにやると、かえって不自然になる」
「はい、気をつけます」
Dr.ゼイドが最後に一つの小瓶を取り出した。
「これは痛み止めだ。筋肉痛がひどい時に飲むといい」
「ありがとうございます」
小瓶を受け取ると、Dr.ゼイドとエリシアが微笑んだ。
「それでは、診察は終了だ。何かあったら、いつでも相談しに来なさい」
「はい、Dr.ゼイド」
医療室を出る前に、もう一度振り返った。Dr.ゼイドとエリシア、二人の恩人が僕を見守ってくれている。
この人たちを裏切ることはできない。絶対に守り抜いてみせる。
廊下に出ると、相変わらず人々の視線が僕に注がれていた。でも今度は、その視線の意味がわかる。皆、僕を恐れ、敬っているのだ。
この演技を続けなければならない。Dr.ゼイドとエリシアのために。そして、自分自身を守るために。
演技は得意ではないが、やってみせる。大切な人たちを守るために。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる