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Dog on the sofa:十二月
Dog on the sofa:十二月 後編
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翌日、土曜日だというのに出勤してから、連絡先も交換していないことに気付いた。
わざわざ友人に連絡して、高橋くんだかなんだか経由で聞き出すのも、なんだか億劫で、そんな具合だから彼氏のひとつもできないんだ、とか、その程度なんだから大して気になってないんだ、とか、色々考えたけど、とにかくあの晩から妙にスッキリしていて、それこそ憑き物が落ちたかのようにニコニコ笑顔で毎日が楽しい日々を送った。
彼と再会したのは本当にたまたま。
その一年後、友人の結婚式に出たときに、新郎側のお世話になった人ということで呼ばれていて、二次会でドッグランではしゃぎすぎた大型犬みたいな顔でいるところを見つけたのだ。
私ときたら、その顔を見るまですっかり彼のことを忘れていたくせに、乙女のように「ああ、運命なのかな」なんて思ったんだから手に負えない。
結局、とんとん拍子で仲良くなって、お付き合いをして、結婚。
いまや、私の旦那様。
来年で結婚五年目となれば、夫婦のやり取りも板につく。
とにかく、私はロングスリーパーで、それを受け止めてくれる素敵な旦那様を捕まえたのだ。
問題は、彼が私と逆を行く、ショートスリーパーということだけど。
私達、夫婦の生活は、いわゆる古き良き夫婦みたいな、お嫁さんが遅寝早起きで朝晩は御飯の支度をして、旦那様は据え膳下げ膳で、なんてことは一切ない。
なにせ私は夜の十時から朝の九時まではぐっすりだ。
対する彼は、六時間も寝ればいい方で、早く寝れば早く起きるし、遅く寝ても私よりも早い。
家事をするのは大好きだから、晩御飯はもちろん作るし、朝御飯は申し訳ないけど、おにぎりと味噌汁を寝る前に用意したりで済ませている。
彼曰く、「朝はあんまり摂らない癖がついてたから、無理しないでいい。」とのことだけど、専業主婦をしている身として、私がしたいのだ。
このご時世、働き方が変わったおかげでリモートワークも増えて、昼間も家にいてくれるし、お昼も一緒に食べられるのは私にとってとても都合がよかった。
彼には、感謝してもしきれない。
ゆっくり寝かせてもらって、ゆっくり家事をして、趣味の裁縫やハンドメイドをする。
それらを、心の底から自分ごとのように喜んでくれる。
夜は一緒にテレビを見たり音楽を聴いたり、映画を観たり。二人でお風呂に入って寝る。
そんな幸せな毎日を、もう五年も過ごしていて、私は本当に幸せなのだ。
しかし、五年もこんな生活を続けていれば、そりゃあ、悩むこともある。
彼が何か不満を抱えてないか、とか、本当は我慢しているんじゃないか、とか思うことだってある。
御飯のバリエーションのこととか、彼が私が寝ている間、なにをしているのかとか。
…彼の寝顔が見れないこととか。
そんな日曜日だった。
彼は、休みにも関わらず早起きで、私が眠い目を擦って隣を見てももういない。
リビングに行くと、ちょうど、表でタバコを吸って帰ってきたようで、ダイニングチェアに薄手のコートがかけてある。
十二月に入り、寒々しい空の下、よくもまあ煙のために出ること。
彼はというと、歯磨きをしながらテレビを見ていた。
「おはよー。」
「ぼあよう。」
歯ブラシをしゃこしゃこしながら返事をしてくる律儀さが面白い。
「朝御飯、トーストでいい?」
さすがに返事ができないのか、首を必死にぶんぶんと振って、いそいそと洗面所に向かう彼。
今日はお米の気分なのかな。
「さすがに歯磨きしながらじゃ喋れなかった。そんなにお腹減ってないから、今日は抜こうかな。」
「あら、そう。じゃあ私も抜いてお昼早めにしよっか。」
「うん。お願いします。」
そんな会話をして、各々テレビを見たり、スマートフォンでニュースやSNSを見たり、私は私で、顔を洗ったり歯磨きしたり。
ゆっくりとした時間を過ごしながら、彼が熱心に見ているテレビの内容が気になった。
他愛のないニュースバラエティで専門家だか専門家じゃないんだかわからない人達が、話を振る偉そうな司会者の指図のまま、ああでもないこうでもないと話をしている。
内容は、大雑把に言うと教育についてだった。
学校や義務教育、核家族の問題や、虐待や、両親の離婚、育児放棄、SNSの危険性、そんなことを熱心にやっている。
彼は、お行儀よくダイニングチェアに腰掛けて、リモコン片手に、じっ、と見ていた。
なんとなく、本当になんとなく、彼に話しかける。
「やっぱり、子ども欲しい?」
その質問があまりにも唐突すぎたし、後から考えれば、私達のナイーヴなところに切り込んだ話題だった。
彼は、一瞬、びくっ、と身体を震わせてから、ゆっくりと振り向き、困ったような顔で言う。
「そりゃあ、まあ。でも、うちは仕方ない。」
そう言った彼の顔は少し寂しそうな、諦めているような、そんな顔で。
思わず、私は彼の背中に抱きついて「ごめん。」と呟くしかなかった。
「いや、俺の方こそごめん。俺は今、幸せだし、本当に子どもを育てたければいろんな手段がある。それはわかっているけど。」
「わかっているけど、考えちゃうよね。」
「そうなんだよなぁ。まあ、こればかりは仕方ない。」
そう。私だって、彼との子どもが欲しくないか、といえば嘘になる。
でも、私達夫婦には『お互いに』ある問題を抱えてしまって、子どもはできない。
それについて何度だって話し合ってきたし、お互いに納得している。
彼の言う通り、子どもを育てるっていうのは、いろんな手段がある。
養子を迎えるっていうのもそうだし、何より隣近所や親戚の子ども、もっと言えば何かの縁で関わることになった若い子の人生に携わることだって、それは広義の意味で言えば「子どもを育てる」っていうことに変わりはない。
わかってはいても、うまくいかないのが人の心で、こういうとき私はやっぱり、この人と一緒に子どもを育てたいんだなぁ、って思う。
そして、決まって思うのが、この誰にでも分け隔てなく接する、世話好きで面倒見がいい彼が、とても素敵で、彼を支えていきたいということだ。
「そういえば、ケイタの奴から連絡が来てたよ。」
「甥っ子くん?なんだって?」
「学校、ちゃんと行っているみたいだ。冬休みには姉さんと一緒にこっちに来たいって。」
「がんばってるのね。そして、最近の高校生男児は母親と旅行に行くのね。」
「孝行息子と見るか、乳離れができてないと見るか、か。」
笑いながら、伸びをする彼。
こんな風に親戚の子どもに関わったり、ボランティア団体や、施設に共感すれば寄付をしたり、側から見れば自己満足甚だしいのかもしれないけれど、そうやって私達は自分達の問題とうまく向き合っている、つもり。
変な声を上げながら伸び終わり、ソファに移動して深く腰掛けると、テレビのチャンネルを変え、今度は世界情勢について見始めた。
正直、社会問題や政治なんてちんぷんかんぷんだから私は退散させてもらう。
歳が十も離れていると、こういった関心のある話題や、所謂ジェネレーションギャップなんかをたまに感じる。
それでも、テレビの前にのほほんと陣取っている彼を見ると、その姿はやっぱり大型犬っぽくて、気を許してくれているというか、言葉に言い表せない安心感がある。
さて、私は私で、軽くお昼の準備しちゃおうかな。
冷蔵庫からレタスとミニトマト、作り置きしていたザワークラウトもどきを取り出す。
レタスを剥いて、必要分だけ出したあとは芯をぎゅっぎゅっと親指で押し込んで取る。ボウルに水を張ってレタスを入れ冷蔵庫へ戻す。
芯を取って水に浸けておくだけで、鮮度の持ちが段違いだ。私はこういう作業が好き。
洗ったレタスをちぎって、手動で回して遠心力で水気を飛ばすタイプの水切り器で水分を飛ばす。
ぐるぐると回すのが楽しい。うるさいのが難点だけど。
トマトは湯むきして氷水で冷ます。私は平気だけど、彼は皮の部分が気になるらしい。普通のトマトなら平気なのに。
メインは何がいいかな。なんとなく洋食な気分だし、パスタにでもしようか。
と、一応確認は取っておくか。
「ねえ、お昼、パスタでもいい?」
冷蔵庫を漁りながら言ってみるが、返事がない。
あれっと思ってリビングの方を見る。
テレビでは相変わらず世界情勢の話をしていた。
ソファに座っているはずの彼の姿はなく、ただ端のほうから、ちょこん、と足の先が伸びている。
もしかして!!
私は、猫のようにそろりそろりと、ゆっくり近付いていった。
自分でもわかるくらい、顔がニヤけている。
キッチンからソファまでの短い距離を、たっぷり時間を掛けて進んでいく。
だって、きっとそこには滅多に見れない彼の寝顔があるのだから。
ようやく、辿り着いて、そっと背もたれ側から覗いてみる。
彼は、自分の腕を枕にして、真一文字に口を閉じ、丸まるようにしながら片足は投げ出す、という奇抜な体勢で寝ていた。
私の気配を察知したのか、投げ出した足を縮め、横向きに転がる。
そうしたかと思えば、腕と足だけ伸びをして、そのままだらーん。
思わず、笑いが漏れてしまう。
ダメだ。
こんな貴重なシーンを逃すわけにはいかない。
そんなことを考えていると、もぞもぞとまた動き出す。
体制を変え、少しだけ仰向けに転がったその姿は、まるで大きな犬がお腹を撫でられるのを待っているみたい。
私の目には、もうすぐ四十近い男の人ではなく、可愛い大型犬にしか映らなかった。
なんて可愛いのだろう!
今すぐ、そのお腹に顔を埋めて可愛がりたい!
撫でたい!
母性本能と愛情と何かよくわからないものが混ぜこぜになって、テンションがおかしくなっていくのを感じる。
ダメだ。少し冷静になろう。
ゆっくりと立ち上がり、深呼吸をする。
エアコンをつけているとはいえ、我が家では節電しているので、外気温が低いときの部屋の温度は適温より少し下。
少し冷たい空気を吸って、吐いて、よし落ち着いた。
「っんが。」
…変な声したなぁ。
再び、大型犬もとい、旦那様を見てみると、無防備に口が開いていた。
尊いというのはこういうことを言うのだろうか。
おかしくなってしまった頭では、冷静になろうとしたところでおかしいままだった。
引き続き、ゆっくりと覗き込んでみる。
「あ。」
思わず声が漏れた。
それは、珍しく彼が寝てしまった理由に気づいたからだった。
おかしくなった頭は一気に冷えて、いつもの思考が戻ってくる。
先週末だった。
十二月に入り、年の終わりに近いこともあって仕事が立て込み始めた、と。
だから、もしかしたら普段の生活に食い込んだり、朝晩と仕事に勤しむかもしれないから、と。
そんな話をされたことを思い出した。
それでも、今週一週間、いつも通りの生活リズムで、特に仕事を重視しているわけではないと思っていた。
思い込んでいたのだ。
彼は、私との時間を大事にしてくれる。
私の起きている時間から、仕事の時間や生活の時間を抜いたら、さほど残らない。
だからこそ、私も彼も、二人で居られる時間を大事にしている。
なんのことはない、彼は私が寝ている間も遅くまで仕事をしていたのだろう。
私との時間を大事にするために、朝早く起きて、仕事をしていたのだろう。
そう気がついてしまうと、途端にさっきまで浮かれていた気持ちが申し訳ないような気がしてきた。
眉間に皺を寄せ、目をぎゅっとつむったような顔で、寒そうに丸まる彼。
私は慌てて寝室に走ると毛布を持ってくる。
ぱたぱたと、結構な音を立てても起きる気配はない。
毛布をゆっくりと、できるだけ優しく、ふわっと掛ける。
歳をとって、白髪の増えた髪をそっと撫で、呟いた。
「ごめんね…。」
大切にされていて嬉しい気持ちは、もちろんある。
彼と出会い、付き合い、結婚して、私のコンプレックスはほとんどすべてを流してくれた。
それでも、やはり、こういうときはこの身体がもどかしい。
そして、こういうことに気付けない自分のハッピーな頭も。
二度、三度、とゆっくり撫でていると、彼に変化があった。
眉間の皺が、すっとなくなり、ぎゅっとつむっていた目は柔らかく、口元を綻ばせて。
その瞬間、私は、自然に思うことができた。
彼は決して、無理をしているわけではないんだ、と。
やりたくてやっていて、それが彼にとって自然なんだ、と。
付き合いたてのころに、同じように私が不安になっていたとき、言われたことを思い出す。
「俺は人から見るとがんばりすぎなところがあるらしい。
けど、俺はそれをしたくてしてるんだ。
だって、嬉しいじゃないか。大切な人が喜んでくれる。
だから、心配になったら思い出してほしいんだ。
迷惑なんかじゃない。
俺は君が大好きなんだよ。大好きで大好きで、仕方ないんだ。
だから、ちょっと頑張ってしまう。でも大丈夫。嬉しくてやっているんだから。」
そうだった。この人はそういう人なのだ。
そんな彼を支えたい、と思ったんだ。
するとどうだろう。さっきまでの陰鬱な気持ちはどこかに吹き飛んでいってしまって、どうしようもなく心が温かくなる。
「いつもお疲れ様。ありがとう。」
そんな台詞が、するりと出てきて。不思議なものだ。
こんなにも、信じられる。積み重ねてきた時間と交わした言葉は、こんなにも積み上がっている。
「さて、起きるまでに洗濯でもしちゃいましょうかね。」
私は立ち上がって、伸びをして、てきぱきと動き出す。
お腹が空いたら起きるだろう、と思って、その自分の思考に笑いが漏れる。
だって、やっぱり可愛いわんこみたいなんだもの。
わざわざ友人に連絡して、高橋くんだかなんだか経由で聞き出すのも、なんだか億劫で、そんな具合だから彼氏のひとつもできないんだ、とか、その程度なんだから大して気になってないんだ、とか、色々考えたけど、とにかくあの晩から妙にスッキリしていて、それこそ憑き物が落ちたかのようにニコニコ笑顔で毎日が楽しい日々を送った。
彼と再会したのは本当にたまたま。
その一年後、友人の結婚式に出たときに、新郎側のお世話になった人ということで呼ばれていて、二次会でドッグランではしゃぎすぎた大型犬みたいな顔でいるところを見つけたのだ。
私ときたら、その顔を見るまですっかり彼のことを忘れていたくせに、乙女のように「ああ、運命なのかな」なんて思ったんだから手に負えない。
結局、とんとん拍子で仲良くなって、お付き合いをして、結婚。
いまや、私の旦那様。
来年で結婚五年目となれば、夫婦のやり取りも板につく。
とにかく、私はロングスリーパーで、それを受け止めてくれる素敵な旦那様を捕まえたのだ。
問題は、彼が私と逆を行く、ショートスリーパーということだけど。
私達、夫婦の生活は、いわゆる古き良き夫婦みたいな、お嫁さんが遅寝早起きで朝晩は御飯の支度をして、旦那様は据え膳下げ膳で、なんてことは一切ない。
なにせ私は夜の十時から朝の九時まではぐっすりだ。
対する彼は、六時間も寝ればいい方で、早く寝れば早く起きるし、遅く寝ても私よりも早い。
家事をするのは大好きだから、晩御飯はもちろん作るし、朝御飯は申し訳ないけど、おにぎりと味噌汁を寝る前に用意したりで済ませている。
彼曰く、「朝はあんまり摂らない癖がついてたから、無理しないでいい。」とのことだけど、専業主婦をしている身として、私がしたいのだ。
このご時世、働き方が変わったおかげでリモートワークも増えて、昼間も家にいてくれるし、お昼も一緒に食べられるのは私にとってとても都合がよかった。
彼には、感謝してもしきれない。
ゆっくり寝かせてもらって、ゆっくり家事をして、趣味の裁縫やハンドメイドをする。
それらを、心の底から自分ごとのように喜んでくれる。
夜は一緒にテレビを見たり音楽を聴いたり、映画を観たり。二人でお風呂に入って寝る。
そんな幸せな毎日を、もう五年も過ごしていて、私は本当に幸せなのだ。
しかし、五年もこんな生活を続けていれば、そりゃあ、悩むこともある。
彼が何か不満を抱えてないか、とか、本当は我慢しているんじゃないか、とか思うことだってある。
御飯のバリエーションのこととか、彼が私が寝ている間、なにをしているのかとか。
…彼の寝顔が見れないこととか。
そんな日曜日だった。
彼は、休みにも関わらず早起きで、私が眠い目を擦って隣を見てももういない。
リビングに行くと、ちょうど、表でタバコを吸って帰ってきたようで、ダイニングチェアに薄手のコートがかけてある。
十二月に入り、寒々しい空の下、よくもまあ煙のために出ること。
彼はというと、歯磨きをしながらテレビを見ていた。
「おはよー。」
「ぼあよう。」
歯ブラシをしゃこしゃこしながら返事をしてくる律儀さが面白い。
「朝御飯、トーストでいい?」
さすがに返事ができないのか、首を必死にぶんぶんと振って、いそいそと洗面所に向かう彼。
今日はお米の気分なのかな。
「さすがに歯磨きしながらじゃ喋れなかった。そんなにお腹減ってないから、今日は抜こうかな。」
「あら、そう。じゃあ私も抜いてお昼早めにしよっか。」
「うん。お願いします。」
そんな会話をして、各々テレビを見たり、スマートフォンでニュースやSNSを見たり、私は私で、顔を洗ったり歯磨きしたり。
ゆっくりとした時間を過ごしながら、彼が熱心に見ているテレビの内容が気になった。
他愛のないニュースバラエティで専門家だか専門家じゃないんだかわからない人達が、話を振る偉そうな司会者の指図のまま、ああでもないこうでもないと話をしている。
内容は、大雑把に言うと教育についてだった。
学校や義務教育、核家族の問題や、虐待や、両親の離婚、育児放棄、SNSの危険性、そんなことを熱心にやっている。
彼は、お行儀よくダイニングチェアに腰掛けて、リモコン片手に、じっ、と見ていた。
なんとなく、本当になんとなく、彼に話しかける。
「やっぱり、子ども欲しい?」
その質問があまりにも唐突すぎたし、後から考えれば、私達のナイーヴなところに切り込んだ話題だった。
彼は、一瞬、びくっ、と身体を震わせてから、ゆっくりと振り向き、困ったような顔で言う。
「そりゃあ、まあ。でも、うちは仕方ない。」
そう言った彼の顔は少し寂しそうな、諦めているような、そんな顔で。
思わず、私は彼の背中に抱きついて「ごめん。」と呟くしかなかった。
「いや、俺の方こそごめん。俺は今、幸せだし、本当に子どもを育てたければいろんな手段がある。それはわかっているけど。」
「わかっているけど、考えちゃうよね。」
「そうなんだよなぁ。まあ、こればかりは仕方ない。」
そう。私だって、彼との子どもが欲しくないか、といえば嘘になる。
でも、私達夫婦には『お互いに』ある問題を抱えてしまって、子どもはできない。
それについて何度だって話し合ってきたし、お互いに納得している。
彼の言う通り、子どもを育てるっていうのは、いろんな手段がある。
養子を迎えるっていうのもそうだし、何より隣近所や親戚の子ども、もっと言えば何かの縁で関わることになった若い子の人生に携わることだって、それは広義の意味で言えば「子どもを育てる」っていうことに変わりはない。
わかってはいても、うまくいかないのが人の心で、こういうとき私はやっぱり、この人と一緒に子どもを育てたいんだなぁ、って思う。
そして、決まって思うのが、この誰にでも分け隔てなく接する、世話好きで面倒見がいい彼が、とても素敵で、彼を支えていきたいということだ。
「そういえば、ケイタの奴から連絡が来てたよ。」
「甥っ子くん?なんだって?」
「学校、ちゃんと行っているみたいだ。冬休みには姉さんと一緒にこっちに来たいって。」
「がんばってるのね。そして、最近の高校生男児は母親と旅行に行くのね。」
「孝行息子と見るか、乳離れができてないと見るか、か。」
笑いながら、伸びをする彼。
こんな風に親戚の子どもに関わったり、ボランティア団体や、施設に共感すれば寄付をしたり、側から見れば自己満足甚だしいのかもしれないけれど、そうやって私達は自分達の問題とうまく向き合っている、つもり。
変な声を上げながら伸び終わり、ソファに移動して深く腰掛けると、テレビのチャンネルを変え、今度は世界情勢について見始めた。
正直、社会問題や政治なんてちんぷんかんぷんだから私は退散させてもらう。
歳が十も離れていると、こういった関心のある話題や、所謂ジェネレーションギャップなんかをたまに感じる。
それでも、テレビの前にのほほんと陣取っている彼を見ると、その姿はやっぱり大型犬っぽくて、気を許してくれているというか、言葉に言い表せない安心感がある。
さて、私は私で、軽くお昼の準備しちゃおうかな。
冷蔵庫からレタスとミニトマト、作り置きしていたザワークラウトもどきを取り出す。
レタスを剥いて、必要分だけ出したあとは芯をぎゅっぎゅっと親指で押し込んで取る。ボウルに水を張ってレタスを入れ冷蔵庫へ戻す。
芯を取って水に浸けておくだけで、鮮度の持ちが段違いだ。私はこういう作業が好き。
洗ったレタスをちぎって、手動で回して遠心力で水気を飛ばすタイプの水切り器で水分を飛ばす。
ぐるぐると回すのが楽しい。うるさいのが難点だけど。
トマトは湯むきして氷水で冷ます。私は平気だけど、彼は皮の部分が気になるらしい。普通のトマトなら平気なのに。
メインは何がいいかな。なんとなく洋食な気分だし、パスタにでもしようか。
と、一応確認は取っておくか。
「ねえ、お昼、パスタでもいい?」
冷蔵庫を漁りながら言ってみるが、返事がない。
あれっと思ってリビングの方を見る。
テレビでは相変わらず世界情勢の話をしていた。
ソファに座っているはずの彼の姿はなく、ただ端のほうから、ちょこん、と足の先が伸びている。
もしかして!!
私は、猫のようにそろりそろりと、ゆっくり近付いていった。
自分でもわかるくらい、顔がニヤけている。
キッチンからソファまでの短い距離を、たっぷり時間を掛けて進んでいく。
だって、きっとそこには滅多に見れない彼の寝顔があるのだから。
ようやく、辿り着いて、そっと背もたれ側から覗いてみる。
彼は、自分の腕を枕にして、真一文字に口を閉じ、丸まるようにしながら片足は投げ出す、という奇抜な体勢で寝ていた。
私の気配を察知したのか、投げ出した足を縮め、横向きに転がる。
そうしたかと思えば、腕と足だけ伸びをして、そのままだらーん。
思わず、笑いが漏れてしまう。
ダメだ。
こんな貴重なシーンを逃すわけにはいかない。
そんなことを考えていると、もぞもぞとまた動き出す。
体制を変え、少しだけ仰向けに転がったその姿は、まるで大きな犬がお腹を撫でられるのを待っているみたい。
私の目には、もうすぐ四十近い男の人ではなく、可愛い大型犬にしか映らなかった。
なんて可愛いのだろう!
今すぐ、そのお腹に顔を埋めて可愛がりたい!
撫でたい!
母性本能と愛情と何かよくわからないものが混ぜこぜになって、テンションがおかしくなっていくのを感じる。
ダメだ。少し冷静になろう。
ゆっくりと立ち上がり、深呼吸をする。
エアコンをつけているとはいえ、我が家では節電しているので、外気温が低いときの部屋の温度は適温より少し下。
少し冷たい空気を吸って、吐いて、よし落ち着いた。
「っんが。」
…変な声したなぁ。
再び、大型犬もとい、旦那様を見てみると、無防備に口が開いていた。
尊いというのはこういうことを言うのだろうか。
おかしくなってしまった頭では、冷静になろうとしたところでおかしいままだった。
引き続き、ゆっくりと覗き込んでみる。
「あ。」
思わず声が漏れた。
それは、珍しく彼が寝てしまった理由に気づいたからだった。
おかしくなった頭は一気に冷えて、いつもの思考が戻ってくる。
先週末だった。
十二月に入り、年の終わりに近いこともあって仕事が立て込み始めた、と。
だから、もしかしたら普段の生活に食い込んだり、朝晩と仕事に勤しむかもしれないから、と。
そんな話をされたことを思い出した。
それでも、今週一週間、いつも通りの生活リズムで、特に仕事を重視しているわけではないと思っていた。
思い込んでいたのだ。
彼は、私との時間を大事にしてくれる。
私の起きている時間から、仕事の時間や生活の時間を抜いたら、さほど残らない。
だからこそ、私も彼も、二人で居られる時間を大事にしている。
なんのことはない、彼は私が寝ている間も遅くまで仕事をしていたのだろう。
私との時間を大事にするために、朝早く起きて、仕事をしていたのだろう。
そう気がついてしまうと、途端にさっきまで浮かれていた気持ちが申し訳ないような気がしてきた。
眉間に皺を寄せ、目をぎゅっとつむったような顔で、寒そうに丸まる彼。
私は慌てて寝室に走ると毛布を持ってくる。
ぱたぱたと、結構な音を立てても起きる気配はない。
毛布をゆっくりと、できるだけ優しく、ふわっと掛ける。
歳をとって、白髪の増えた髪をそっと撫で、呟いた。
「ごめんね…。」
大切にされていて嬉しい気持ちは、もちろんある。
彼と出会い、付き合い、結婚して、私のコンプレックスはほとんどすべてを流してくれた。
それでも、やはり、こういうときはこの身体がもどかしい。
そして、こういうことに気付けない自分のハッピーな頭も。
二度、三度、とゆっくり撫でていると、彼に変化があった。
眉間の皺が、すっとなくなり、ぎゅっとつむっていた目は柔らかく、口元を綻ばせて。
その瞬間、私は、自然に思うことができた。
彼は決して、無理をしているわけではないんだ、と。
やりたくてやっていて、それが彼にとって自然なんだ、と。
付き合いたてのころに、同じように私が不安になっていたとき、言われたことを思い出す。
「俺は人から見るとがんばりすぎなところがあるらしい。
けど、俺はそれをしたくてしてるんだ。
だって、嬉しいじゃないか。大切な人が喜んでくれる。
だから、心配になったら思い出してほしいんだ。
迷惑なんかじゃない。
俺は君が大好きなんだよ。大好きで大好きで、仕方ないんだ。
だから、ちょっと頑張ってしまう。でも大丈夫。嬉しくてやっているんだから。」
そうだった。この人はそういう人なのだ。
そんな彼を支えたい、と思ったんだ。
するとどうだろう。さっきまでの陰鬱な気持ちはどこかに吹き飛んでいってしまって、どうしようもなく心が温かくなる。
「いつもお疲れ様。ありがとう。」
そんな台詞が、するりと出てきて。不思議なものだ。
こんなにも、信じられる。積み重ねてきた時間と交わした言葉は、こんなにも積み上がっている。
「さて、起きるまでに洗濯でもしちゃいましょうかね。」
私は立ち上がって、伸びをして、てきぱきと動き出す。
お腹が空いたら起きるだろう、と思って、その自分の思考に笑いが漏れる。
だって、やっぱり可愛いわんこみたいなんだもの。
応援ありがとうございます!
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