とある夫婦の平凡な日常

曇戸晴維

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偏屈な梟:三月

偏屈な梟:三月 前編

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 季節は少しづつ春へと近づいていく。

 いつの間にやら梅が咲き、三寒四温の言葉通りに近づいていく。
 繰り返すたびに気温は上がり、だんだんと寒と温の差は縮まっていくものの、寒のほうが来るたびに、また冬が帰ってきた、とばかりに冷え込んで、寒い寒いとばかり言ってしまう。
 いまだに、朝夜、煙草を吸いに行く時は、コートとホットのコーヒーが手放せない。
 日々、変わらないようで移りゆく日々。
 そんな日々に想いを馳せながら、吐くと白い靄に変わる息はまたしばらく見納めだな、と考える。

 相変わらず、橋の上で煙草を拭かす私を見やる、一羽の鴨。
 まだ早朝、というより深夜だというのに、冷たい川に入って餌を獲っている。
 その慌ただしい性格が、なんだか自分と似ているような気がして、親近感が湧く。
 がんばれよ、と心の中で呟いて、携帯灰皿に煙草を押し消し、帰路についた。

 ひゅう、と吹く風に、寒い寒い、と縮こまりながら、マンションのエレベータを上がる。
 鍵を開けて中に入ると、玄関に飾られた花たちの香りに包まれる。
 一年中、妻が活けてくれている、花たち。
 その優しい甘さに包まれて、幸せを感じる。

 リビングに行き、ポケットの中から煙草やスマートフォンなどを取り出して、テーブルの上に。
 コートはハンガーにかける。
 私は、煙草の匂いを落とすようにしっかりとぬるま湯で手を洗って、寝室に向かった。

 そっ、と扉を開けると、ベッドの上にはまるくなった大きいもこもこ。
 相変わらず、ロングスリーパーな妻は毛布や布団の化身となっていた。

「ただいま」

 そっと呟くと、んう、と変な声を出して顔を出す。
 その姿に微笑みを浮かべざるを得ない。
 起こさないよう、気をつけてゆっくりと近付くと、私はその黒髪を撫でた。
 艶々として、指通りの良い、烏の濡れ羽色。
 次第に表情が熔けていく彼女。
 確かな幸福を噛み締める時間。

 今日も、いい一日になりそうだ。





 妻が起きてきたのはそれから三時間ほど経ってからだった。
 ゆっくりと眠れたらしく、すっきりとした顔で、おはようと言ってくる彼女に挨拶を返して、今日の予定を確認する。

「いつものデパートでいいのか?」
「うん」

 三駅ほど離れたところにある、大手デパート。
 今日はそこに行くのだ。
 なんでも、ハイブランドの化粧品で気になるものがあるらしい。
 普段は主にプチプライスの商品で済ましている彼女。
 試してみたい、とまで言うのはとても珍しい。
 話を聞いたとき、私という男は、よし、と心の中でガッツポーズを決めた。
 というのも、ホワイトデーが近いのだ。
 本当なら、年に何回か――誕生日やクリスマス、ホワイトデーくらいは何か黙ってプレゼントを用意したいところなのだが、あいにく私にそういったセンスはない。
 プレゼント、というものは、やっぱり普段使いができて、それでいて心がこもったものを贈りたいのだけど、どうにもこれだけ長く一緒にいるといいものが思い付かない。
 見兼ねた彼女は、これいいなあ、とこれ見よがしにウェブサイトを見せてくれることがあるのだけど、服や化粧品など、やっぱり直接見たり、試してみたりしてからのほうがいいんじゃないか、と思ってしまって、私はすぐに、じゃあ見に行こうか、などと言ってしまう。
 それに託けて、一緒に出かけたい、という想いは、どうやら妻も同じのようで喜んで同意してくれるのだから、ますます頭が上がらない。
 
 そんなこんなで、今日はデパートに行く。

 女の準備は時間がかかる、とよく聞く。
 私も昔、付き合っていた女性に対して、少し、ほんの少しだけ思ったことがある。
 仏頂面をして、何時間も鏡と睨めっこをするタイプの女性だった。
 その上、どのくらいかかりそうか、と聞けば、もうちょっと、の一点張りで、ほとほと参ってしまった。
 終わったと思えば、男は楽でいいよね、と言われ、なんだか申し訳なくなったことを覚えている。

 妻といえば、シャワーを浴びるところからスタートしてもほんの二時間ほどで済んでしまう。
 いや、時間だけで言えばやはり大変そうだし、人によっては二時間でも待つのは嫌な男も多くいるだろう。
 しかし、彼女ときたら、終始楽しそうなのだ。
 にこにこ笑いながら、鼻唄まで歌って、終いにはスキップしながら踊り出しそうなほど。
 ――ここだけの話、何度かそうしているのを見たことがある。
 それで、前髪が! とか、 服どれがいいかな! とか、これも楽しそうに言うものだから、見ていて飽きない。
 なにより、私と出掛けるのがそんなに嬉しいのか、と思えて、私の方が嬉しくなってしまう。

 今日もそうして見つめていると、睫毛を躍起なって伸ばしていた妻が振り向いて言った。

「ねえ、尻尾出てるよ」

 いつもの如く、犬に例えられる。
 でてないよ、と答えると

「ぶんぶん振ってる!」

 と笑いながら言われた。

「お前だって、嬉しそうじゃないか」
「だって、嬉しいもん」

 そうか、なんてそっけなく返すけど、そんな素直な一面が愛おしくて堪らないんだ。
 


 
 ほどなくして、準備が終わった妻。
 鍵を掛けて、エレベータを降りる。
 しっかりと春らしい空は白い薄雲と相まって見事なコントラストを生んでいた。
 その空模様には反して、風は少し冷たく、寒い。
 コートを着てきて正解だったね、と言い合って、二人並んで歩き出す。
 土曜日のせいか、人が多い商店街を抜けて、駅に行く。

「電車、混んでるかなあ」
「春休みだしなあ」
「あ、そっか」

 そんな会話をしながら、改札を通ると、すぐに電車の案内アナウンスが鳴った。
 早く早く、と年甲斐もなく階段を駆け上がって、電車に乗る。

 ふう、と一息ついて、きょろきょろと辺りを見渡し、空いている席を探すと、一席だけ見つかった。
 土曜日、春休みにも突入ともなれば、やはり電車も混んでいて、人の間を縫うように移動する。
 ほら、と、妻を座らせて私は吊り革に掴まった。

 ふふ、と笑う妻に、どうした、と声をかけると、なんでもない、と返される。

 さあ、目的地までもう少し、あっという間だ。






 
 繁華街の駅に降り立つと、もうそこは人、人、人。
 予想よりだいぶ多い。
 はぐれないように妻の手をしっかり握って歩き出す。
 デパートも変わらず、人、人、人。

 女の買い物は長い、とよく聞く。
 いや、女性に限った話ではなく、誰もが自分の好きなものとなれば買い物は長い。
 そしてそれは、私や妻も例外ではない。
 
 目的のブランドは化粧品フロアの端。
 そこまで一直線に、と、思いきや、あっちを見たり、こっちを見たり。
 結局、化粧品フロアの半分まで見たところで、お昼ごはんにすることにした。
 一度、デパートを出て手頃な定食屋に入って、エネルギーを補給したら、いざ再び出陣。
 その間も、楽しそうで、本当に嬉しくなる。

 
 さて、と、化粧品フロアの残り半分を消化すると、やっとこさ、目的のブランドまで辿り着いた。
 そこには人だかり。
 

「うわあ、失敗したかな」
「番号札、出してるみたいだ」
「取ってくるー」

 そう言って、あっという間に人の海へ消えていく。
 客の中には男性もちらほらいて、店員に説明を受けていた。
 ああ、これか。
 目の前の看板を見ると、『ホワイトデーセット 本日発売』の文字。
 そのほかにも新商品が出たらしくて、みんなこれらを求めて来ているのだろう。
 そこに老いも若いもなくて、それぞれが笑顔で、商品を見ている。
 美しいものは、みんな、大好きなんだよな、となんとなく感慨に耽っていると、妻がひょっこり戻ってきた。

「結構待つかもしれない」
「いいよ」
「うーん、アプリでだいたいの呼び出し時間見れるみたい」

 見せられたスマートフォンの画面、そこには二十人待ちの文字。

「結構だなあ」
「結構だねえ」

 二人して、苦笑い。

「わたし、もうちょっと見たいところあるから、煙草行ってきてもいいよ」

 私が断ろうとすると、ちょっと疲れてるでしょう、と詰め寄られた。
 歳の離れた夫婦、というのはこういうところがなんとも辛い。
 同世代より、こういうときの体力はあるほうだと思ってはいるけれど、さすがに十以上も離れていると妻の若い体力には及ばない。
 お言葉に甘えて、そうするよ、と言うと、彼女は、よろしい、と大きく頷いた。

「じゃあ、本屋にでも寄って、喫茶店に行ってくるよ」
「うん。順番近くなったら連絡する」

 一応、プレゼントなんだから、必ずだぞ! と念を押してから別れる。
 支払いくらいさせてくれないと、私が困ってしまう。
 そんな私を見て、悪戯っぽく笑う彼女。

「わかってますよ~。じゃ、行ってきます!」

 しゅたっ、と敬礼一つ。
 またもや、あっという間に人の海に揉まれて消えていった。

 やれやれ、と私も歩き出す。
 デパートを出て、近くにある本屋に向かった。




 本屋の中は人が多いがそれはもう静かで、落ち着いた。
 同じく揉まれるなら、人の海より文字の海のほうが心地良いな、なんて考えながら、適当に物色する。
 適当に棚の間を練り歩いて、見つけたのは一冊の本。
 何年か前に出たもので、女性探偵が主人公の推理小説だ。
 インターネット上で話題になっていたので名前は知っていたし、つい最近ドラマ化したらしく、妻が録画していた。
 表紙には可愛らしい女の子。
 最近の小説は、アニメ調の絵というか、そういったタッチの方が売れるのだろう。
 学生の時分に読んでいたライトノベルみたいだな、と少し思ったけれど、それもそうだ。
 ライトノベルを読んでいた私の世代がこうして大人になって手に取るのだから、これで戦略として正解なのかもしれない。
 
 ちらっとページを捲ってみると、好みの文章だったので、レジに持って行く。
 カバーを付けてもらい、袋の方は迷ったが大した荷物にもならないので、手に持って歩く。


 なんとなく、テンションが上がって、意気揚々と向かいにある古めかしい喫茶店に入った。
 この喫茶店、近頃珍しい、全席喫煙席という尖った商売をしていて、我々喫煙者の憩いの場なのだ。
 そのため、いつも混んでいて、相席になることも珍しくない。
 だけど、そこは喫煙者同士の仲間意識というか、こうしてゆっくりと紫煙を燻らしながらコーヒーを飲む、なんて場所は珍しいとわかっているわけで、誰かが断っているところなど見たことない。
 案の定、混んでいたけれど、ちょうど入れ違いの形で席に座ることができた。
 テーブルの四人席に腰掛け、メニューを持ってきてくれたウエイトレスに、コーヒーを頼むと、早速、本を捲ってみる。
 
 運ばれてきたコーヒーの香りを楽しみつつ、文字の世界に少しづつ埋もれていく。
 時折、煙草を蒸すと、コーヒーのほろ苦さと相まって、独特の香りが鼻を抜けていく。
 本からする、微かな紙の匂いもあって、まさに至福だ。

 数ページ読み終わったところで、スマートフォンを取り出す。
 このまま読み進めていたら、夢中になって、妻の連絡を撮り忘れそうだったのだ。

 そうして、一瞬意識を現実世界に戻すと、何やら入り口の方で、壮年の男性と店員が話していた。
 グレーのコートに同じ生地の帽子。口髭を貯え、年齢を刻むかのような皺。
 厳格そうな、こう言っては悪いが偏屈そうな、不思議な人だった。
 少し猫背なのに、佇まいが堂々としていて、鋭い眼光は猛禽類のよう。
 まるで梟のような人だな、と思った。
 
 周りを見ると満席になっていたので、相席の確認を取っているようだ。
 そこで私は、近くにいたウエイトレスに声をかける。

「コーヒーのおかわりを。それと、あの人が席を探しているようなら、是非こちらに」

 入り口に目をやると、ウエイトレスもそれで察してくれたのだろう、ありがとうございます、と一言告げて入り口の方へ向かって行った。
 すぐに、こちらに案内され、壮年の男性が向かってくる。

「いやはや、すみませんな」
「いいえ、この店、人気ですからね」

 そんなやり取りをして、男性はコートを脱ぐと椅子に腰掛けた。
 すぐにウエイトレスがやってきて、おしぼりと水、それに灰皿をもうひとつ持ってくる。
 男性は、コーヒーをホットで、と言うと、すぐさま煙草の箱を取り出した。

「よいですか?」
「ええ、もちろん」

 そう言って私も、もう一本取り出して火をつける。
 私は、喫煙者同士のこういう会話が大好きだ。
 このみなまで言わなくても伝わる感じ。
 きっと、似たようなことは他のことでもあるのだろう。
 でも、近親間を覚える、この感覚が好きなのだ。

 そうして、また本の世界に戻ろうとする。
 さっきはどこまで読んだっけ、と思いながらページを捲ると、不意に声がかかった。

「失礼ですが、本はよくお読みになるのですか」

 向かいに座る、壮年の男性からだった。

「ええ。と、いってもこういう本は年に二、三冊ですよ。仕事柄、技術書の類の方が多いですね」

 物語を読むのは久しぶりです、と言ってカバーを外して、見せる。
 すると、壮年の男性は、何やら気恥ずかしそうに、言った。

「これも何かの縁、と思って少し老人にアドバイスなどしていただけませんか」

 
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