傷が「跡」に変わる頃には

寺音

文字の大きさ
上 下
1 / 4

1

しおりを挟む
 窓ガラスが震えた音に驚き、唯香ゆいかは目線を移動させる。ガタガタと窓枠を揺らしているのは、寒風かんぷうだったようだ。校舎を囲む木の枝が、大きく左右に揺れているのが見える。
 教室は暖房が効いているが、窓ガラスや壁からひんやりとした空気が伝わってきてしまう。唯香は制服のブレザーをしっかりと羽織った。
 冬の窓際席はなかなかに過酷だ。変わってくれるものなら変わってほしい。

「おはよう唯香。今日も寒いねぇ」
 教室の喧騒をぬって陽だまりのような声が響く。唯香が後ろを振り返ると、友人の茉莉まりが朗らかな笑みを浮かべていた。風に乱されたのか、それともただの寝癖か、くるりと巻かれた髪の毛があちこちに跳ねている。
 温かそうなマフラーにベージュのコートを羽織っていたが、彼女の頬も鼻も薄っすらと紅くなってしまっていた。

「教室はあったかいね。暖房最高ー」
 茉莉は指先同士を擦り合わせている。彼女の指先は雪のように真っ白だ。
「おはよう茉莉。マフラーやコートだけじゃなくて、手袋も着けてきたら? 寒いでしょ」
「うーん、そうしたいんだけど。不思議だよね、私の手袋、絶対に相方だけ旅に出ちゃうの」

 そう言って、彼女は困ったような怒ったような表情を浮かべる。太めの眉毛を下げて、ふっくらとした唇を少し突き出していた。
 唯香は不自然にならないように、茉莉の顔から視線を逸らす。

 クラスメイトが集まってきた教室からは、迫る期末テストの話題に混じって、バレンタインデーについての会話が飛び交っていた。
「アンタ彼に何あげるの? やっぱり手作りチョコとか?」
「えー、チョコとか喜ばないって。アイツ、甘いの苦手だし。肉とかの方が喜びそう」
「あはは、言えてる」

 そんな浮かれた会話を耳にしたのか、茉莉が唯香の後ろの席に着くやいなや、ぐっと身を乗り出してくる。
「ふふ、バレンタインデーももうすぐだね。唯香は誰かにチョコあげるの?」
 茉莉の瞳は好奇心でキラキラと輝いている。必死で何も考えないようにして、唯香は口元に笑みを浮かべた。

「あげないよー。あげても友チョコくらい。別に、好きな人なんていないし」
「そう? 来年は私たちも受験生だし、のんびり恋愛していられるのも今のうちなのになぁ」
 両頬に手を当てて、揶揄うように微笑む茉莉は眩しい。一瞬息が詰まったのを、唯香は喉を鳴らすことで誤魔化した。

「その、茉莉はやっぱり……?」
 恐る恐る尋ねると、茉莉はパッと表情を明るくして「待ってました」とばかり話始める。きっとずっと、誰かに話を聞いてもらいたかったのだろう。
「うん、あげるよ! カレってば甘い物大好きだからさ。もうね、はっきり口に出されなくても、期待されてるのが丸分かりなの。でも私、あんまり器用じゃないからなぁ。手作りしてあげたいけど、上手くできる自信がなくって……市販のチョコでも喜んでくれるかなぁ? せめて少し奮発するべき? ねぇ、唯香はどう思う?」
 眉毛を下げて、茉莉が唯香に回答を求めてくる。本当に困って悩んでいる、そんな表情だ。
 唯香はそんな彼女の表情を、腹立たしく思ってしまう。
 どう答えようかしばらく迷ったが、結局唯香は逃げることを選んだ。

「その――ごめん。私、ちょっとチャイムが鳴るまでにお手洗い行ってくるね!」
「そう? だったら急いだ方が良いよ」
 いってらっしゃい、と茉莉がにこやかに手を振った。彼女ののんびりとした声は、羽毛のように柔らかく唯香の耳をくすぐる。
 勢いをつけて立ち上がり、唯香は茉莉に背を向けた。




 トイレの個室から出て、手洗い場の蛇口をひねる。流れ出す水に手を差し出すと、氷のような水が唯香の肌を刺した。
 冷たさが、自分を正気に戻してくれたら良い。早く普通にならなければ。
 そんなことを考えながら、しばらく指先を水にさらす。指先が、冷えて痺れてきたところで水を止めた。
 何をやっているんだろう。ため息を一つ吐いて、唯香は何気なく顔を上げる。

「え……!?」
 ぞわりと背筋を震わせて、唯香は声を上げた。
 手洗い場の壁に設置されている鏡には、大した特徴のないボブカットの女子高生が写っている。何の変哲もない、いつも通りの自分だった。しかし。
 唯香は恐る恐る自分の左胸に、視線を落とす。何もない、じゃあ一体は何だ。
 唯香は再び鏡の自分へと視線を戻した。

 向かい合った自分の左胸には、一本の赤い線が走っている。線なんて軽々しいものじゃない。どう見てもだ。
 鋭い刃物で切り裂かれたか、刺し貫かれたか、そんな風にしてできた傷のように見えた。
 握り拳くらいの大きさで、その紅い色合いは生々しい。

 手が汚れるのも構わず、唯香は鏡にそっと触れた。鏡はつるりとしていて、凹凸はない。
 鏡にヒビが入っているわけでもなさそうだ。
「じゃあ、これ……何……?」
 唯香の薄い唇が恐怖に震える。全身が冷水を浴びせられたように冷えていった。

 その時鳴ったチャイムの音で、唯香は金縛りが解けたようにハッと息をのむ。
 実際に傷があるわけではないし、気にすることなんてない。それよりも、朝のホームルームに遅れてしまう。
 唯香は鏡の中を見ないように注意しながら、素早く踵を返した。
しおりを挟む

処理中です...