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04 おまえは誰だ
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いちばん好きだったのは右手だった。
理由は自分でもよくわからない。でも、手をつなぐときになると、いつも左手ではなく右手のほうを選んだ。
だから、見上げることになるのは、いつも右の横顔ばかり。
その顔の正面も、左の横顔も美しいと知っていたけれど。
それは、声をかければ見られるものだから。
名前を呼べば、必ずこちらを向いて笑ってくれるから。
名前を――
「呼んだか?」
出し抜けにそう訊かれて、紀里ははっと目を開けた。
最初に目に入ったのは、星の輝く夜空だった。
まさにあのとき、思い描いたとおりの。
(ということは、俺は今、宇宙にでもいるのか?)
寝起きの機能低下した頭で、紀里はぼんやり考えた。
だが、そういえば宇宙には空気はなかったはずだ。今の紀里は宇宙服なしで呼吸できているのだから、宇宙にいるというのはありえない。
「どうした? 久しぶりだから疲れたか?」
また同じ声が紀里にかけられる。
若い男。それでも、紀里よりは年上のようだ。
聞き覚えがあるような気がしたが、それが誰だったかを今の紀里は思い出せなかった。
とりあえず、いま自分が戸外にいて、しかも草むらに寝かされていることは、涼しい夜風と草の匂いや感触でわかる。
しかし、そこまでだ。どういうわけか、金縛りにでもあっているかのように、自分の指先を動かすのもままならない。
「……おい。どうした?」
紀里の異状に気がついたのか、男の声に焦りが混じり出した。
「どこか具合でも悪いのか?」
そう言って、紀里の額に手を伸ばす。
一瞬ひやりとして、紀里は思わず首をすくませた。
「お、ワリィ。冷たかったか?」
男はおどけたように笑って、今度はその手で紀里の目を軽く覆った。
「もう少し休んどけ。おまえが動けないことには話にならないからな。まだそれくらいの猶予はあるだろ」
瞼を閉じて、男の声に耳を傾ける。
適度に低くて、妙に安心感を与える声。
紀里に当てられた手も、ちょうどいい具合に冷たくて、とても心地がいい。
このままもう一度眠れたら、どんなに気持ちがいいだろう。
何もかも忘れて、いつもと同じ朝を迎えられたら。
だが、紀里は少しずつ思い出していた。
意識を失う寸前、自宅で何があったかを。
いつものように寝坊して家を出たはずの自分が、なぜすぐに帰ることになったのかを。
「何で……」
思わずそう口走ると、男は少しだけ指を浮かせた。
「何にでも終わりはあるものさ。ただ、たいていの場合、それがいつなのかがわからないだけだ。俺もまさか今日終わるとは思わなかった」
ようやく――本当にようやく、紀里は肝心なことを見落としていたのに気がついた。
今、自分の目を覆っている、この男は誰だ?
「なあ……」
何とか動かせるようになった手で、自分の目を覆う男の手首を緩慢につかむ。
「今さらこんなこと訊くのも何だけど……あんた、いったい誰?」
男はしばらく考えるような間を置いてから、逆に紀里にこう問い返してきた。
「じゃあ、おまえは誰だ?」
「誰だって……俺は向井紀里。高校生だよ」
「そうか。なるほどな。それじゃわからないよな」
男は納得したように呟いて、紀里につかまれた手を紀里の胸の上に置いた。
「なら、目を開けて俺の顔を見ろ。そうすればわかるから」
男に言われたとおり、紀里はゆっくりと目を開いた。
あの夜空を背景にして、白い顔が紀里を覗きこんでいた。
日本人ではなかった。
確かに黒髪で、紀里と同じように日本語を話していたが。
これほどに整った顔をした〝男〟を、今まで見たことがない。
そう。見たことがないはずだった。
しかし、男がにやりと笑ったとき。
紀里はまた、どこかで見たと思ったのだ。
ここではないどこか。今ではないいつか。
「……あの、やっぱりわからないんだけど……」
何となく申し訳ないような気持ちになって、ためらいながらそう言っても、男はがっかりしたような表情は見せなかった。
「とりあえず、わからないってことはわかっただろ?」
「はあ……」
「俺もよくわかったよ。おまえ、中身は〝向井紀里〟のままなんだな? じゃあ、今朝うちに〝ヘンな外人の女の子〟が襲来してきたのは覚えてるか?」
「うん……それは覚えてるけど……」
そう答えてから、紀里は今、男が気になる表現を遣ったことに気がついた。
「……うち?」
紀里の自宅を〝うち〟と呼ぶのは、その家に住んでいる人間だけだ。
紀里以外にあの家に住んでいたのは、たった一人の肉親である父・鏡太郎だけで――
「まさか……あんた……」
理由は自分でもよくわからない。でも、手をつなぐときになると、いつも左手ではなく右手のほうを選んだ。
だから、見上げることになるのは、いつも右の横顔ばかり。
その顔の正面も、左の横顔も美しいと知っていたけれど。
それは、声をかければ見られるものだから。
名前を呼べば、必ずこちらを向いて笑ってくれるから。
名前を――
「呼んだか?」
出し抜けにそう訊かれて、紀里ははっと目を開けた。
最初に目に入ったのは、星の輝く夜空だった。
まさにあのとき、思い描いたとおりの。
(ということは、俺は今、宇宙にでもいるのか?)
寝起きの機能低下した頭で、紀里はぼんやり考えた。
だが、そういえば宇宙には空気はなかったはずだ。今の紀里は宇宙服なしで呼吸できているのだから、宇宙にいるというのはありえない。
「どうした? 久しぶりだから疲れたか?」
また同じ声が紀里にかけられる。
若い男。それでも、紀里よりは年上のようだ。
聞き覚えがあるような気がしたが、それが誰だったかを今の紀里は思い出せなかった。
とりあえず、いま自分が戸外にいて、しかも草むらに寝かされていることは、涼しい夜風と草の匂いや感触でわかる。
しかし、そこまでだ。どういうわけか、金縛りにでもあっているかのように、自分の指先を動かすのもままならない。
「……おい。どうした?」
紀里の異状に気がついたのか、男の声に焦りが混じり出した。
「どこか具合でも悪いのか?」
そう言って、紀里の額に手を伸ばす。
一瞬ひやりとして、紀里は思わず首をすくませた。
「お、ワリィ。冷たかったか?」
男はおどけたように笑って、今度はその手で紀里の目を軽く覆った。
「もう少し休んどけ。おまえが動けないことには話にならないからな。まだそれくらいの猶予はあるだろ」
瞼を閉じて、男の声に耳を傾ける。
適度に低くて、妙に安心感を与える声。
紀里に当てられた手も、ちょうどいい具合に冷たくて、とても心地がいい。
このままもう一度眠れたら、どんなに気持ちがいいだろう。
何もかも忘れて、いつもと同じ朝を迎えられたら。
だが、紀里は少しずつ思い出していた。
意識を失う寸前、自宅で何があったかを。
いつものように寝坊して家を出たはずの自分が、なぜすぐに帰ることになったのかを。
「何で……」
思わずそう口走ると、男は少しだけ指を浮かせた。
「何にでも終わりはあるものさ。ただ、たいていの場合、それがいつなのかがわからないだけだ。俺もまさか今日終わるとは思わなかった」
ようやく――本当にようやく、紀里は肝心なことを見落としていたのに気がついた。
今、自分の目を覆っている、この男は誰だ?
「なあ……」
何とか動かせるようになった手で、自分の目を覆う男の手首を緩慢につかむ。
「今さらこんなこと訊くのも何だけど……あんた、いったい誰?」
男はしばらく考えるような間を置いてから、逆に紀里にこう問い返してきた。
「じゃあ、おまえは誰だ?」
「誰だって……俺は向井紀里。高校生だよ」
「そうか。なるほどな。それじゃわからないよな」
男は納得したように呟いて、紀里につかまれた手を紀里の胸の上に置いた。
「なら、目を開けて俺の顔を見ろ。そうすればわかるから」
男に言われたとおり、紀里はゆっくりと目を開いた。
あの夜空を背景にして、白い顔が紀里を覗きこんでいた。
日本人ではなかった。
確かに黒髪で、紀里と同じように日本語を話していたが。
これほどに整った顔をした〝男〟を、今まで見たことがない。
そう。見たことがないはずだった。
しかし、男がにやりと笑ったとき。
紀里はまた、どこかで見たと思ったのだ。
ここではないどこか。今ではないいつか。
「……あの、やっぱりわからないんだけど……」
何となく申し訳ないような気持ちになって、ためらいながらそう言っても、男はがっかりしたような表情は見せなかった。
「とりあえず、わからないってことはわかっただろ?」
「はあ……」
「俺もよくわかったよ。おまえ、中身は〝向井紀里〟のままなんだな? じゃあ、今朝うちに〝ヘンな外人の女の子〟が襲来してきたのは覚えてるか?」
「うん……それは覚えてるけど……」
そう答えてから、紀里は今、男が気になる表現を遣ったことに気がついた。
「……うち?」
紀里の自宅を〝うち〟と呼ぶのは、その家に住んでいる人間だけだ。
紀里以外にあの家に住んでいたのは、たった一人の肉親である父・鏡太郎だけで――
「まさか……あんた……」
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