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偽神外伝/第一話 闇の城/番外 むつごと
第二・五幕
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まさか、ここでこう来るとは思わなかった。
彼が呆然としていると、魅惑に満ちた悪魔は涼しげに微笑んだ。
「どうした? 嫌ならいいよ、別に」
「嫌……ということはない。ないが――おまえ、本気か?」
どうしても、そう確認せずにはいられなかった。
恭司が何を考えてこんなことを言い出したのかは彼にも想像がつく。恭司は単に〝報酬〟として自分の体を彼に与えるつもりなのだ――彼が真に欲しい心のかわりに。
しかし、たとえ体であっても恭司はまったく安売りしない。自分から彼を誘ってきたのは今夜が初めてである。だからこそ、彼も思わず本気かと確認せずにはいられなかったのだ。
「こんな命がけの冗談、言いたくもないね」
まんざら嘘でもなさそうに恭司は言った。
「で、どうするんだよ? 俺はどっちでもいいよ。おまえしだい」
「何もやらないとは……」
だが、やるとも即答できない。彼にとってはこれから先、あるかないかくらいの滅多にない好機だったが、その訪れがあまりにも突然すぎて、歓喜する前に当惑してしまったのだ。
恭司は椅子の背に手に置いて、そんな彼を面白そうに眺めている。決して自分から積極的に働きかけようとしないのが恭司のよいところでもあり、ずるいところでもあった。
「本当にいいのだな?」
もう一度、彼は念を押した。
「途中でやめたというのはなしだぞ。この前、一度くらいあっただろう」
「あれは――何だかめんどくさくなっちゃってさ。今度はそんなことのないように努力するよ」
悪びれず恭司は言った。その言葉がどれくらい信用できるかは怪しいものだったが、せっかく本人がその気になっているものをみすみす断ることはない。彼はまっすぐ恭司に歩み寄り、その変わらず涼しい顔に手を添えた。
「言っとくけど、俺、痛いのと面倒なのはやだからね」
塞がれる前に唇はすかさず注文をつけた。
「汚いのもだろう」
すぐに離して補足する。その気になればいくらでも技巧を凝らした性戯で恭司を悦ばすことができるのだが、今の彼はその道にはあまり熱心ではない。
「何だ、ちゃんと覚えてたんだ」
彼の腕の中でくすくすと悪魔は笑った。捕らえたのは彼のほうだったはずなのに、いつから逆にこの悪魔に捕われてしまったのだろう。
過去を振り返ることを、彼は恭司と出会ってから身につけた。
あの雨の夜――岡崎のアパートで一目恭司を見た瞬間から――彼は魅いられていた。
事前に岡崎の顔は知っていたのに、どうしても恭司におまえが岡崎かと訊ねずにはいられなかった。
それでも、一時は最初の計画どおりに事を運ぼうと思った。しかし、岡崎から恭司のことを訊き出すにつれ、とにかくもう一度、まっすぐ自分を見つめ返してきたあの顔を見てみたいと望み、いざとなれば時間を戻すこともできた彼は岡崎を殺して、今度は恭司を自分の側に引きこむべく現れた。
彼を幻惑したものに、恭司の風変わりな言動があった。
会うたび、一度は必ず彼を驚かせ、魅惑し、恐れさせた。
ひとたびそんな恭司に毒されると、岡崎のことなどもう忘れた。いや、それまで彼が関わってきた人間たち、すべてを忘れた。
いま思えば、恭司を各地に案内していたあの頃が、彼にとっても恭司にとってもいちばん平穏だったようだ。だが、最後のこの夢の国の旅で、とうとう彼は決定的に道を踏みはずした。
自力でこの城まで来ることが条件であったはずなのに、恭司に身の危険が迫ると居ても立ってもいられなくなり、何度もそれを破って恭司を助けた。――この頃からだ。恭司が彼に深入りするなと言い出したのは。しかし、もう遅かった。
やがて、恭司は途中出会った中国人の男と旅を共にした。それは彼の嫉妬をかきたて、何とか二人を別れさせようと画策したがうまくいかず、ついに彼はその男をサルコマンドで生きながら異形のものどもに食わせてしまった。
そのことを知った恭司は泣きも喚きもしなかった。ただ一言、その男はどうしたと彼に訊いた。
彼はそんな男は知らぬと答えた。――見え透いた嘘だ。だが、恭司はそれについては何も言わず、かわいそうにとだけ呟いた。
てっきりその男のことがだと思い、彼はそう言った。しかし、恭司はおまえがだと哀れむように言ったのだ。
あれほど言ったのに――とうとうおまえは深みにはまってしまった。
違いなかった。今の状況がそれを雄弁に物語っている。
だが、彼は過去を振り返ることはあったけれども、それを後悔したことは今のところなかった。いや、後悔することなど何もないと思っている。こうして恭司と出会うことができ、さらにここに留めることができ、そして今、この腕にかき抱くことができる。何を今さら悔いる必要があるだろう。
「いつまでこうしてる気だ?」
不粋な悪魔が彼の腕の中であきあきしたようにそう言った。彼は恨めしく思ったが、結局何も言わずにその手を引き、開け放してあった天蓋つきのベッドの上に丁重に座らせた。
シャツを脱ごうとした恭司の手を押しとどめ、代わりにその作業を行う。恭司はおとなしくされるがままになっていた。下着はいっさい身につけていなかったので、シャツとジーンズを脱がせるとすぐに全裸になった。
「ずいぶん薄着だな」
生真面目に呟くと、シーツの中にもぐりこんでから恭司が笑った。
「着るのが面倒なんだよ。何ならすっぽんぽんでいてもいいぜ」
「そんなことをするなら、本当にここに閉じこめるぞ」
むしろそうしてもらいたいと思いながら、彼は今度は自分の服を脱いだ。実はこの服は念じればすぐに消し去ることができるのだが、彼は恭司の前では極力人間離れしたことはしないようにしていた。何しろ彼は存在自体が人間離れしていたから。
「ずーっと疑問に思ってたんだけど」
彼の背中を見ているらしい恭司が言った。
「どーしていっつもスーツ着てるわけ? 最初からそうだったろ」
「どうしてって……これがいちばん無難だろう」
また妙なことを言い出したなと思いつつ彼は黒いネクタイをほどいた。
「で、ここでもやっぱりそれが無難だと?」
「では何か、私にも召使たちと同じ格好をせよと?」
「ラヴクラフトはそう書いてたぞ」
「……おまえはどう思う?」
「俺? ――あんたの美意識には多大なる信頼を寄せているよ」
「それは字義どおり受け取っていいのか。それとも嫌味か」
「本心だよ。いつか言ったろ。俺は超面食いだって。おまえにその顔がなかったら、こんなことしてやらない」
「顔だけか」
靴を脱ぎながら彼は嘆いた。顔も顔以外も自分の思いどおりにできるので、褒められてもあまり嬉しくない。
「そうがっかりするなよ。顔が美しければ心も美しいぞ。知ってるか? 犯罪者の更生には顔の整形手術が効果的だそうだ」
「我は犯罪者ではない」
恭司に向き直ってそう言うと、頭を腕で支えて横になっていた恭司はにやにや笑って彼を見た。
「似たようなもんじゃないの?」
「嫌な奴だな。おまえは本当に」
軽く恭司を睨んでから、彼は恭司の体からシーツを引き剥がし、自らの逞しい体の下に敷きこんだ。
「今頃やっと気づいたのか。遅すぎるぞ」
彼の首に腕を巻きつけて恭司が笑う。
「俺は嫌な奴で、ちっとも優しくなんかないんだよ。あまり俺に期待するな」
「いつもそう言うな、おまえは」
彼は苦笑すると、軽く唇を合わせた。
「自分はつまらないちっぽけな人間なのだと。だからこれ以上かまうなと。――そう言えば言うほど、私がおまえから離れられなくなっていくのも、きっとおまえはよくわかっているのだろう?」
「だからって、他にどう言えっていうんだ? 俺は嘘はつけない質なんだ」
彼はまた恭司から言葉を奪った。今度は長く。しかし神聖に。
「恭司」
「何?」
両腕で強く抱きしめて囁く。
「できることなら、おまえを殺してやりたいよ」
だが、平然と恭司は答える。
「殺せばいいのに」
「それでおまえが私のものになるのか」
「またそれか」
いささかうんざりしたように恭司は眉をひそめた。
「ナイアーラ。それはないものねだりってやつだよ。おまえの欲しいものは、きっと永遠に手に入らない。手に入れたと思っても、それはたぶん偽物だ。それでもいいならいくらでも手はある。俺は止めないよ」
「悪魔め」
恭司の髪を撫でながら呻く。と、恭司は薄く笑った。
「よせよ。悪魔が気を悪くするぜ」
「確かにな。おまえは悪魔よりずっと質が悪い。悪魔ならふりだけでも我の思うとおりになってくれる。だが、悪魔はおまえのように自分に害をなすものを哀れんだり、いち早く死にたがったりはせぬ。――恭司。恭司。おまえだけだ。我に恐れ気もなくそのようなことが言えるのは。我は本当におまえだけでいい。他には何もいらぬ。同じことをおまえに求めはせぬが、せめてもう少し、我にも優しい言葉をかけてもらいたいものだな」
「口先だけの優しさで、おまえは満足するのか?」
一転して、恭司はひどく醒めた目で彼を見た。彼はまた苦く笑い、今度は恭司の額に口づけた。
「言ってみただけよ。おまえがあまりにつれぬものだから。だがもうそのことを責めたりしても始まらん。そういうおまえに我は惹かれたのだからな」
自分が求めてやまぬ心を持った体にそっと唇を這わせると、恭司はくすぐったそうに笑って彼を押し戻すような仕草をした。
恭司は細かったが、決して華奢ではなかった。東洋人特有の滑らかな肌と薄い体毛や体臭。何もかも綺麗な彼の神。
敬虔な信者がその崇拝物に対してするようにゆるやかに愛撫を繰り返す。恭司は先ほどの黒い子猫のように気持ちよさそうに目を細めていた。
彼らに互いを貪り尽くすような激しさはない。彼は常に恭司に調子を合わせているから、これが恭司の好みなのだ。まるで海の底でたゆたうような、気怠くそして心地よい時間。
恭司が望まぬことは彼も望まぬ。恭司を必要以上に興奮させるようなことは彼はしない。大部分の男が望むだろうあの行為も、あとでその口でキスしたくないと言われたのでしていない。ようするに恭司は潔癖なのかもしれない。
頃合いを見計らって、彼は恭司を抱き寄せるようにうつ伏せにし、やはり細い腰を捕らえようとした。
「いきなりそう来る」
枕に顔を埋めたまま恭司が呟いた。
「嫌か?」
「……いいよ。好きにしろよ」
投げやりに恭司は言った。こんなとき、いつも恭司はそんなふうに言う。
少し、彼は迷った。そのとき、ふと恭司の肩を流れる栗色の髪が目についた。
「髪が……まだほどいていなかったのだな。からまってしまった」
髪を一本一本丁寧に外し、黒いゴム紐を慎重にほどく。乱れてしまった髪を案外と繊細な指先で何度もすいてやっているうちに、ようやく決心がついた。彼は恭司をこちらに向かせ、許しを請うような深い口づけをした。
「どうした?」
恭司は面食らったような顔をしている。
「あれではおまえの顔が見られぬ」
「えー、俺、顔は見られたくないなー」
「どうして? おまえは自分で思っているより、どんなときでも美しいぞ?」
「女にもだけど、男に言われると余計嬉しくないな。それに俺はシャイなんだ」
「よく言うわ。だが、我はおまえの顔を見ていたいのよ。――恭司、少し足を広げてくれぬか。入れぬ」
「やっぱりそう来る」
無表情にそう呟きはしたが、恭司は彼の言うとおりにした。
彼はできるだけ恭司に負担のかからない体勢をとる。
どちらも激情に駆られてやっているわけではないので、どこか珍妙である。いったい何が目的でこんなことをしているのだろうと冷静に考えてしまうあたり、醒めている証拠である。
とりあえず恭司を体の下に置き、少し不安そうな恭司の視線に気がついて、彼は言葉に困った。が、とりあえず抱きしめて、恭司にキスの雨を降らせた。
先ほど言ったとおり、彼は本当にどんなときでも恭司は綺麗だと思う。今の夢見るような上気した顔も、機嫌の悪いときの険しい顔も。
その一方で、なぜ自分はこれほど愛しい者を抱きながら狂わぬのだろうと思った。そう思わずにはいられないほど、彼は恭司に身も心も奪われ尽くされていた。
しかし、恭司はそうではない。こうして彼に身は許しても心を預けたわけではない。
だが、体を許してくれるだけ、恭司は彼を信頼しているのだと言える。かつて初めて肌を重ねたとき、彼は心ならずも恭司にしばらく動けぬほどの傷を負わせることになってしまったが、それでも恭司は許してくれた。もう二度と抱くまいとも思ったが、こういうときでないと恭司は彼に触れさせてくれない。
しかし、彼はそれほど恭司と床を共にしてはいない。これでようやく三度め。あれほど一緒にいながらそんなものだ。
わけはある。恭司の理性があまりにも強すぎるのだ。己を失うことを何よりも嫌う恭司にこの行為が相容れるはずがない。そして、もっとシビアでプラクティカルな問題は、男を受け入れるには恭司の体は脆すぎるということだった。
これはすでに決定的な前科があるだけに彼には深刻な問題だった。また逆に恭司は彼がそう考えているからあえてその身を委ねてくれる。彼なら決して悪いようにしないだろうと信じてくれている。
それは限りなく愛に似ていた。だが、彼はそんなものは宇宙創生以来、とうてい知り得るはずもなかった。人間の愚かしい感情の一つだと常に嘲笑いつづけていたし、それを利用して幾度悪事を重ねたかしれない。
しかし、一度こうして恭司に捕われてみると、それはかつて彼が味わったことがないほど甘美で幸福なものだった。
恭司のそばにいられるためなら、どんな犠牲を払ってもかまわない。実際、彼は多くを犠牲にしたが、彼自身はそれを犠牲などとは考えていなかった。いまや彼にとって最も大事なものは恭司だけで、それ以外は何もなかった。
もしも、恭司もまた彼と同じだけ彼を思ってくれたのなら、もはや二人がこの世に存在する意味などなくなってしまうだろう。彼が理性をもって恭司を抱けるのも、恭司は彼にのめりこんではいないからだ。
皮肉なものだ。思いが叶えば滅びるしかないとは。それでも――愛しい。いっそ狂えたらよかったのに。
どうしようもない絶望を覚えながら彼は恭司の両膝をつかんだ。いよいよ来るのかとやはり恭司が不安げな顔をする。三度目でもこれには慣れない。だが、やめろと言ったこともない。彼の思いを叶えてやれないことを、この苦痛を味わうことによって贖っているような、そんな感じがした。
それでも、少しでも恭司に近づきたくて、恭司と共有するものを持ちたくて、彼はすまないと思いながらも、恭司の呼吸に合わせて一気に腰を進めた。
――一瞬、恭司は暴れた。これでも最初に比べるとかなり慣れたほうだ。しかし、相変わらず狭い。まるで壊れ物のようだ。
以前の彼なら、そういうものは容赦なく簡単に壊した。だが、今恭司にそんなことをしたら彼も一緒に壊れてしまう。恭司は彼のすべてなのだ。
なじんできたところで、ゆるゆると動きはじめる。彼が動くたびに恭司は眉をひそめたが、決して苦痛なだけではないことは、ちょうど彼の腹に当たるものでもわかる。
と、ベッドについていた彼の腕を、今までシーツをつかんでいた恭司の手がそっと遠慮がちにつかんだ。黙ってその手を見やると、恭司は少し汗ばみはじめた顔で恥ずかしそうに薄く笑った。
彼は今、体の上だけでも恭司とつながっていた。しかし、そのことよりもこの恭司の微笑みのほうが彼にはずっと重たかった。体重をかけないように注意しつつ、唇で恭司を愛撫する。
本当は抱きしめたかった。力いっぱい、骨がきしむくらい、恭司を抱きしめたかった。
だが、今のこの状態ではそれは無理だった。恭司も痛々しさのほうが目立つ。血が出ていなければいいがと心配になったが、一刻も早く終わらせるために、動きを荒らげなければならなかった。
もう微笑むどころではなくて、恭司は眉間を険しくしてきつく目を閉じていた。恭司の爪が彼の腕に深く食いこむ。さぞかし痛いのだろうなと自分でそういう目にあわせておきながら恭司が可哀相で可哀相でたまらなかった。一言痛いとかやめろとか言えば、すぐにでも彼は中断するつもりだったが、恭司は本当に途中でやめないよう努力してくれているらしい。恭司の言葉を信じようとしなかった彼はただひたすら反省した。
ようやく、そのときが訪れようとしていた。
彼の腕を恭司が強く引っ掻いている。彼は苦笑してその手をほどくと、改めて握り返して、一緒に来るべき時を待った。
――声にならない声を恭司は上げた。汗ばんだ体が震え、弛緩する。
彼はすぐには抜かず、しばらくそのままでいた。満足感というよりも、やれやれやっと終わったという安堵感のほうが大きかった。恭司ももう身も心も疲れ果てたようにぐったりとしている。
「大丈夫か?」
身動ぎ一つしない恭司に彼は低く声をかけた。恭司は何も答えなかった。
「痛いのか? すごく?」
急に心配になった彼は、できるだけ恭司を動かさないように腰を引き、恭司に横を向かせて具合を見ようとした。
「――これが痛くないって奴がいたら、そいつはきっと糞するのもよっぽどはえーだろーよ……」
さすがにいつもより弱々しい声で、しかし、いつもよりきついことを恭司は言った。
「ああ、やっぱり少し切れたな。これは痛かったな。すまぬな、すまぬな」
シーツで傷口を拭い、あわてて真新しいシーツを取り寄せて、恭司をすっぽりとくるむ。
「まだどこか痛いところはあるか? 気分は? 一応気をつけてはいたのだが、まだまだ配慮が足りなかったようだ。大丈夫か? 動けぬほど痛いか?」
矢継ぎ早に恭司に訊ねる。これでもかなり手加減したつもりなのに、予想以上に痛がっている様子なので、すっかり気が動転してしまったのだ。そんな彼を恭司はじっと見つめていたが、やがて小さくナイアと言った。
「何だ何だ?」
急いで恭司の口元に耳を寄せる。が、恭司はシーツの隙間から彼の頬に手を伸ばすと、少し強引に自分のほうを向かせ、そしてそっと口づけた。
「痛かった!」
驚きのあまり何も言えない彼に、恭司は小憎らしく言った。
「でもまあ、もうどうでもいいや。ほんとはそんなに痛くないよ。おまえ、ずいぶん気ィ遣ってくれたから。ははは、やってるようじゃなかったろ。俺も当分キス以外やだね。やってるときの顔見られるから」
ようやくいつもの調子が戻ってきて、恭司は悪戯っぽく笑った。こういうときの恭司のほうが恭司らしくて彼は好きだ。
「そんなことはないが……本当に平気か? 無理することはないのだぞ?」
「どうして俺が無理して痛くないなんて言わなきゃならないんだ? それほど俺は健気じゃないぜ」
「……そうだろうよ」
憮然と彼は言った。これなら先ほど彼の腕に爪を立てていた恭司のほうがよかったなという気がしないでもなかったが、どちらも恭司に違いなく、恭司であれば、それは彼の神だった。
――気まぐれで、冷たくて優しい、悪魔のような彼の神。
「また、俺の顔見てる」
彼の視線に気がついて、恭司があからさまに嫌そうに自分の顔を手で隠してしまう。
「言っただろう。我はおまえの顔を見るのが好きなのだと」
「俺は好きじゃない。自分の顔見てろよ。おまえのほうがよっぽどいいぞ」
「我は我で己の顔を好かぬのよ」
恭司は手を外して真顔で言った。
「俺は好いてるぞ」
「顔だけだろう」
彼はまだそのことを根に持っていた。
「いくら顔だけよくったって、こんなことまでさせてやらない」
あの魅惑的な皮肉そうな笑みで、彼の悩ましい悪魔は言った。
「人間でも人外でも、俺は今んとこ、おまえがいちばん気に入ってるよ――ナイア」
恭司は彼の扱いにかけては天才的だった。だからまた彼は恭司から離れられない。恭司のためなら何でもしてやろうと思ってしまう。こうなると、はたして本当に恭司に彼と別れる気があるのかどうか疑問だが、そんなことは彼にはどうでもいいことだ。
「恭司ーぃッ!」
シーツごと思いきり恭司を抱きしめる。最初から、ずっとそうしていたかった。
「やっぱり我はおまえがいい。その口の悪さもつれなさも、みーんなひっくるめておまえがいい。でも、そんなことを言うということは、少しはおまえも我のことを好いてくれているのだな? 恭司!」
召使や普段の彼を知る者が見たら卒倒しかねないような超躁状態で言いまくったが、恭司からの返答はなかった。
「恭司? どうした? 何とか言ったら……」
にたにたしながら自分の腕の中を覗きこんだ彼は、一瞬身動きがとれなかった。
「悪魔め……」
腕をゆるめて小さく呻く。
彼の腕の中で、恭司は軽い寝息を立てていた。
眠っていると恭司はひどく幼く見える。最初は腹を立てたものの、恭司のそんな寝顔を見ているうちに怒るのが見当違いに思えてきて、彼はいたわるように恭司のほつれた髪を撫で、半開きの唇に口づけた。
今夜はこのまま朝まで一緒にいよう。そう思い、宝物を取り出すようにそっとシーツを開き、まだ熱い恭司の体を抱き寄せて自分もその中に入る。
もう一度、恭司に口づけようとしたとき、ふと彼の眉がひそめられた。
「……馬鹿が。こざかしい好奇心を出しおったか」
低く独りごちてから、軽く恭司の唇を塞ぎ、恭司を起こさぬように静かにベッドから滑り出る。
そうしてベッドの横に立った彼は、すでにいつもの黒いスーツに身を包んでいた。あどけなく眠る恭司を見下ろし、温かい微笑をこぼす。恭司の肩にきちんとシーツを掛けてやり、シーツから覗く手も中にしまおうとしたとき、彼はその手の甲に接吻した。
「――さて」
まだ未練がましく恭司を見やりつつ彼は歩き出した。
「あの男の始末をせねばな」
端整な浅黒い顔に残酷な笑みを浮かべてそう呟く彼は、もはや恭司の一言一行に一喜一憂する哀れな男ではなく、目障りなものは傲慢なまでに排除しようとする、邪神ナイアーラトテップであった。
彼が呆然としていると、魅惑に満ちた悪魔は涼しげに微笑んだ。
「どうした? 嫌ならいいよ、別に」
「嫌……ということはない。ないが――おまえ、本気か?」
どうしても、そう確認せずにはいられなかった。
恭司が何を考えてこんなことを言い出したのかは彼にも想像がつく。恭司は単に〝報酬〟として自分の体を彼に与えるつもりなのだ――彼が真に欲しい心のかわりに。
しかし、たとえ体であっても恭司はまったく安売りしない。自分から彼を誘ってきたのは今夜が初めてである。だからこそ、彼も思わず本気かと確認せずにはいられなかったのだ。
「こんな命がけの冗談、言いたくもないね」
まんざら嘘でもなさそうに恭司は言った。
「で、どうするんだよ? 俺はどっちでもいいよ。おまえしだい」
「何もやらないとは……」
だが、やるとも即答できない。彼にとってはこれから先、あるかないかくらいの滅多にない好機だったが、その訪れがあまりにも突然すぎて、歓喜する前に当惑してしまったのだ。
恭司は椅子の背に手に置いて、そんな彼を面白そうに眺めている。決して自分から積極的に働きかけようとしないのが恭司のよいところでもあり、ずるいところでもあった。
「本当にいいのだな?」
もう一度、彼は念を押した。
「途中でやめたというのはなしだぞ。この前、一度くらいあっただろう」
「あれは――何だかめんどくさくなっちゃってさ。今度はそんなことのないように努力するよ」
悪びれず恭司は言った。その言葉がどれくらい信用できるかは怪しいものだったが、せっかく本人がその気になっているものをみすみす断ることはない。彼はまっすぐ恭司に歩み寄り、その変わらず涼しい顔に手を添えた。
「言っとくけど、俺、痛いのと面倒なのはやだからね」
塞がれる前に唇はすかさず注文をつけた。
「汚いのもだろう」
すぐに離して補足する。その気になればいくらでも技巧を凝らした性戯で恭司を悦ばすことができるのだが、今の彼はその道にはあまり熱心ではない。
「何だ、ちゃんと覚えてたんだ」
彼の腕の中でくすくすと悪魔は笑った。捕らえたのは彼のほうだったはずなのに、いつから逆にこの悪魔に捕われてしまったのだろう。
過去を振り返ることを、彼は恭司と出会ってから身につけた。
あの雨の夜――岡崎のアパートで一目恭司を見た瞬間から――彼は魅いられていた。
事前に岡崎の顔は知っていたのに、どうしても恭司におまえが岡崎かと訊ねずにはいられなかった。
それでも、一時は最初の計画どおりに事を運ぼうと思った。しかし、岡崎から恭司のことを訊き出すにつれ、とにかくもう一度、まっすぐ自分を見つめ返してきたあの顔を見てみたいと望み、いざとなれば時間を戻すこともできた彼は岡崎を殺して、今度は恭司を自分の側に引きこむべく現れた。
彼を幻惑したものに、恭司の風変わりな言動があった。
会うたび、一度は必ず彼を驚かせ、魅惑し、恐れさせた。
ひとたびそんな恭司に毒されると、岡崎のことなどもう忘れた。いや、それまで彼が関わってきた人間たち、すべてを忘れた。
いま思えば、恭司を各地に案内していたあの頃が、彼にとっても恭司にとってもいちばん平穏だったようだ。だが、最後のこの夢の国の旅で、とうとう彼は決定的に道を踏みはずした。
自力でこの城まで来ることが条件であったはずなのに、恭司に身の危険が迫ると居ても立ってもいられなくなり、何度もそれを破って恭司を助けた。――この頃からだ。恭司が彼に深入りするなと言い出したのは。しかし、もう遅かった。
やがて、恭司は途中出会った中国人の男と旅を共にした。それは彼の嫉妬をかきたて、何とか二人を別れさせようと画策したがうまくいかず、ついに彼はその男をサルコマンドで生きながら異形のものどもに食わせてしまった。
そのことを知った恭司は泣きも喚きもしなかった。ただ一言、その男はどうしたと彼に訊いた。
彼はそんな男は知らぬと答えた。――見え透いた嘘だ。だが、恭司はそれについては何も言わず、かわいそうにとだけ呟いた。
てっきりその男のことがだと思い、彼はそう言った。しかし、恭司はおまえがだと哀れむように言ったのだ。
あれほど言ったのに――とうとうおまえは深みにはまってしまった。
違いなかった。今の状況がそれを雄弁に物語っている。
だが、彼は過去を振り返ることはあったけれども、それを後悔したことは今のところなかった。いや、後悔することなど何もないと思っている。こうして恭司と出会うことができ、さらにここに留めることができ、そして今、この腕にかき抱くことができる。何を今さら悔いる必要があるだろう。
「いつまでこうしてる気だ?」
不粋な悪魔が彼の腕の中であきあきしたようにそう言った。彼は恨めしく思ったが、結局何も言わずにその手を引き、開け放してあった天蓋つきのベッドの上に丁重に座らせた。
シャツを脱ごうとした恭司の手を押しとどめ、代わりにその作業を行う。恭司はおとなしくされるがままになっていた。下着はいっさい身につけていなかったので、シャツとジーンズを脱がせるとすぐに全裸になった。
「ずいぶん薄着だな」
生真面目に呟くと、シーツの中にもぐりこんでから恭司が笑った。
「着るのが面倒なんだよ。何ならすっぽんぽんでいてもいいぜ」
「そんなことをするなら、本当にここに閉じこめるぞ」
むしろそうしてもらいたいと思いながら、彼は今度は自分の服を脱いだ。実はこの服は念じればすぐに消し去ることができるのだが、彼は恭司の前では極力人間離れしたことはしないようにしていた。何しろ彼は存在自体が人間離れしていたから。
「ずーっと疑問に思ってたんだけど」
彼の背中を見ているらしい恭司が言った。
「どーしていっつもスーツ着てるわけ? 最初からそうだったろ」
「どうしてって……これがいちばん無難だろう」
また妙なことを言い出したなと思いつつ彼は黒いネクタイをほどいた。
「で、ここでもやっぱりそれが無難だと?」
「では何か、私にも召使たちと同じ格好をせよと?」
「ラヴクラフトはそう書いてたぞ」
「……おまえはどう思う?」
「俺? ――あんたの美意識には多大なる信頼を寄せているよ」
「それは字義どおり受け取っていいのか。それとも嫌味か」
「本心だよ。いつか言ったろ。俺は超面食いだって。おまえにその顔がなかったら、こんなことしてやらない」
「顔だけか」
靴を脱ぎながら彼は嘆いた。顔も顔以外も自分の思いどおりにできるので、褒められてもあまり嬉しくない。
「そうがっかりするなよ。顔が美しければ心も美しいぞ。知ってるか? 犯罪者の更生には顔の整形手術が効果的だそうだ」
「我は犯罪者ではない」
恭司に向き直ってそう言うと、頭を腕で支えて横になっていた恭司はにやにや笑って彼を見た。
「似たようなもんじゃないの?」
「嫌な奴だな。おまえは本当に」
軽く恭司を睨んでから、彼は恭司の体からシーツを引き剥がし、自らの逞しい体の下に敷きこんだ。
「今頃やっと気づいたのか。遅すぎるぞ」
彼の首に腕を巻きつけて恭司が笑う。
「俺は嫌な奴で、ちっとも優しくなんかないんだよ。あまり俺に期待するな」
「いつもそう言うな、おまえは」
彼は苦笑すると、軽く唇を合わせた。
「自分はつまらないちっぽけな人間なのだと。だからこれ以上かまうなと。――そう言えば言うほど、私がおまえから離れられなくなっていくのも、きっとおまえはよくわかっているのだろう?」
「だからって、他にどう言えっていうんだ? 俺は嘘はつけない質なんだ」
彼はまた恭司から言葉を奪った。今度は長く。しかし神聖に。
「恭司」
「何?」
両腕で強く抱きしめて囁く。
「できることなら、おまえを殺してやりたいよ」
だが、平然と恭司は答える。
「殺せばいいのに」
「それでおまえが私のものになるのか」
「またそれか」
いささかうんざりしたように恭司は眉をひそめた。
「ナイアーラ。それはないものねだりってやつだよ。おまえの欲しいものは、きっと永遠に手に入らない。手に入れたと思っても、それはたぶん偽物だ。それでもいいならいくらでも手はある。俺は止めないよ」
「悪魔め」
恭司の髪を撫でながら呻く。と、恭司は薄く笑った。
「よせよ。悪魔が気を悪くするぜ」
「確かにな。おまえは悪魔よりずっと質が悪い。悪魔ならふりだけでも我の思うとおりになってくれる。だが、悪魔はおまえのように自分に害をなすものを哀れんだり、いち早く死にたがったりはせぬ。――恭司。恭司。おまえだけだ。我に恐れ気もなくそのようなことが言えるのは。我は本当におまえだけでいい。他には何もいらぬ。同じことをおまえに求めはせぬが、せめてもう少し、我にも優しい言葉をかけてもらいたいものだな」
「口先だけの優しさで、おまえは満足するのか?」
一転して、恭司はひどく醒めた目で彼を見た。彼はまた苦く笑い、今度は恭司の額に口づけた。
「言ってみただけよ。おまえがあまりにつれぬものだから。だがもうそのことを責めたりしても始まらん。そういうおまえに我は惹かれたのだからな」
自分が求めてやまぬ心を持った体にそっと唇を這わせると、恭司はくすぐったそうに笑って彼を押し戻すような仕草をした。
恭司は細かったが、決して華奢ではなかった。東洋人特有の滑らかな肌と薄い体毛や体臭。何もかも綺麗な彼の神。
敬虔な信者がその崇拝物に対してするようにゆるやかに愛撫を繰り返す。恭司は先ほどの黒い子猫のように気持ちよさそうに目を細めていた。
彼らに互いを貪り尽くすような激しさはない。彼は常に恭司に調子を合わせているから、これが恭司の好みなのだ。まるで海の底でたゆたうような、気怠くそして心地よい時間。
恭司が望まぬことは彼も望まぬ。恭司を必要以上に興奮させるようなことは彼はしない。大部分の男が望むだろうあの行為も、あとでその口でキスしたくないと言われたのでしていない。ようするに恭司は潔癖なのかもしれない。
頃合いを見計らって、彼は恭司を抱き寄せるようにうつ伏せにし、やはり細い腰を捕らえようとした。
「いきなりそう来る」
枕に顔を埋めたまま恭司が呟いた。
「嫌か?」
「……いいよ。好きにしろよ」
投げやりに恭司は言った。こんなとき、いつも恭司はそんなふうに言う。
少し、彼は迷った。そのとき、ふと恭司の肩を流れる栗色の髪が目についた。
「髪が……まだほどいていなかったのだな。からまってしまった」
髪を一本一本丁寧に外し、黒いゴム紐を慎重にほどく。乱れてしまった髪を案外と繊細な指先で何度もすいてやっているうちに、ようやく決心がついた。彼は恭司をこちらに向かせ、許しを請うような深い口づけをした。
「どうした?」
恭司は面食らったような顔をしている。
「あれではおまえの顔が見られぬ」
「えー、俺、顔は見られたくないなー」
「どうして? おまえは自分で思っているより、どんなときでも美しいぞ?」
「女にもだけど、男に言われると余計嬉しくないな。それに俺はシャイなんだ」
「よく言うわ。だが、我はおまえの顔を見ていたいのよ。――恭司、少し足を広げてくれぬか。入れぬ」
「やっぱりそう来る」
無表情にそう呟きはしたが、恭司は彼の言うとおりにした。
彼はできるだけ恭司に負担のかからない体勢をとる。
どちらも激情に駆られてやっているわけではないので、どこか珍妙である。いったい何が目的でこんなことをしているのだろうと冷静に考えてしまうあたり、醒めている証拠である。
とりあえず恭司を体の下に置き、少し不安そうな恭司の視線に気がついて、彼は言葉に困った。が、とりあえず抱きしめて、恭司にキスの雨を降らせた。
先ほど言ったとおり、彼は本当にどんなときでも恭司は綺麗だと思う。今の夢見るような上気した顔も、機嫌の悪いときの険しい顔も。
その一方で、なぜ自分はこれほど愛しい者を抱きながら狂わぬのだろうと思った。そう思わずにはいられないほど、彼は恭司に身も心も奪われ尽くされていた。
しかし、恭司はそうではない。こうして彼に身は許しても心を預けたわけではない。
だが、体を許してくれるだけ、恭司は彼を信頼しているのだと言える。かつて初めて肌を重ねたとき、彼は心ならずも恭司にしばらく動けぬほどの傷を負わせることになってしまったが、それでも恭司は許してくれた。もう二度と抱くまいとも思ったが、こういうときでないと恭司は彼に触れさせてくれない。
しかし、彼はそれほど恭司と床を共にしてはいない。これでようやく三度め。あれほど一緒にいながらそんなものだ。
わけはある。恭司の理性があまりにも強すぎるのだ。己を失うことを何よりも嫌う恭司にこの行為が相容れるはずがない。そして、もっとシビアでプラクティカルな問題は、男を受け入れるには恭司の体は脆すぎるということだった。
これはすでに決定的な前科があるだけに彼には深刻な問題だった。また逆に恭司は彼がそう考えているからあえてその身を委ねてくれる。彼なら決して悪いようにしないだろうと信じてくれている。
それは限りなく愛に似ていた。だが、彼はそんなものは宇宙創生以来、とうてい知り得るはずもなかった。人間の愚かしい感情の一つだと常に嘲笑いつづけていたし、それを利用して幾度悪事を重ねたかしれない。
しかし、一度こうして恭司に捕われてみると、それはかつて彼が味わったことがないほど甘美で幸福なものだった。
恭司のそばにいられるためなら、どんな犠牲を払ってもかまわない。実際、彼は多くを犠牲にしたが、彼自身はそれを犠牲などとは考えていなかった。いまや彼にとって最も大事なものは恭司だけで、それ以外は何もなかった。
もしも、恭司もまた彼と同じだけ彼を思ってくれたのなら、もはや二人がこの世に存在する意味などなくなってしまうだろう。彼が理性をもって恭司を抱けるのも、恭司は彼にのめりこんではいないからだ。
皮肉なものだ。思いが叶えば滅びるしかないとは。それでも――愛しい。いっそ狂えたらよかったのに。
どうしようもない絶望を覚えながら彼は恭司の両膝をつかんだ。いよいよ来るのかとやはり恭司が不安げな顔をする。三度目でもこれには慣れない。だが、やめろと言ったこともない。彼の思いを叶えてやれないことを、この苦痛を味わうことによって贖っているような、そんな感じがした。
それでも、少しでも恭司に近づきたくて、恭司と共有するものを持ちたくて、彼はすまないと思いながらも、恭司の呼吸に合わせて一気に腰を進めた。
――一瞬、恭司は暴れた。これでも最初に比べるとかなり慣れたほうだ。しかし、相変わらず狭い。まるで壊れ物のようだ。
以前の彼なら、そういうものは容赦なく簡単に壊した。だが、今恭司にそんなことをしたら彼も一緒に壊れてしまう。恭司は彼のすべてなのだ。
なじんできたところで、ゆるゆると動きはじめる。彼が動くたびに恭司は眉をひそめたが、決して苦痛なだけではないことは、ちょうど彼の腹に当たるものでもわかる。
と、ベッドについていた彼の腕を、今までシーツをつかんでいた恭司の手がそっと遠慮がちにつかんだ。黙ってその手を見やると、恭司は少し汗ばみはじめた顔で恥ずかしそうに薄く笑った。
彼は今、体の上だけでも恭司とつながっていた。しかし、そのことよりもこの恭司の微笑みのほうが彼にはずっと重たかった。体重をかけないように注意しつつ、唇で恭司を愛撫する。
本当は抱きしめたかった。力いっぱい、骨がきしむくらい、恭司を抱きしめたかった。
だが、今のこの状態ではそれは無理だった。恭司も痛々しさのほうが目立つ。血が出ていなければいいがと心配になったが、一刻も早く終わらせるために、動きを荒らげなければならなかった。
もう微笑むどころではなくて、恭司は眉間を険しくしてきつく目を閉じていた。恭司の爪が彼の腕に深く食いこむ。さぞかし痛いのだろうなと自分でそういう目にあわせておきながら恭司が可哀相で可哀相でたまらなかった。一言痛いとかやめろとか言えば、すぐにでも彼は中断するつもりだったが、恭司は本当に途中でやめないよう努力してくれているらしい。恭司の言葉を信じようとしなかった彼はただひたすら反省した。
ようやく、そのときが訪れようとしていた。
彼の腕を恭司が強く引っ掻いている。彼は苦笑してその手をほどくと、改めて握り返して、一緒に来るべき時を待った。
――声にならない声を恭司は上げた。汗ばんだ体が震え、弛緩する。
彼はすぐには抜かず、しばらくそのままでいた。満足感というよりも、やれやれやっと終わったという安堵感のほうが大きかった。恭司ももう身も心も疲れ果てたようにぐったりとしている。
「大丈夫か?」
身動ぎ一つしない恭司に彼は低く声をかけた。恭司は何も答えなかった。
「痛いのか? すごく?」
急に心配になった彼は、できるだけ恭司を動かさないように腰を引き、恭司に横を向かせて具合を見ようとした。
「――これが痛くないって奴がいたら、そいつはきっと糞するのもよっぽどはえーだろーよ……」
さすがにいつもより弱々しい声で、しかし、いつもよりきついことを恭司は言った。
「ああ、やっぱり少し切れたな。これは痛かったな。すまぬな、すまぬな」
シーツで傷口を拭い、あわてて真新しいシーツを取り寄せて、恭司をすっぽりとくるむ。
「まだどこか痛いところはあるか? 気分は? 一応気をつけてはいたのだが、まだまだ配慮が足りなかったようだ。大丈夫か? 動けぬほど痛いか?」
矢継ぎ早に恭司に訊ねる。これでもかなり手加減したつもりなのに、予想以上に痛がっている様子なので、すっかり気が動転してしまったのだ。そんな彼を恭司はじっと見つめていたが、やがて小さくナイアと言った。
「何だ何だ?」
急いで恭司の口元に耳を寄せる。が、恭司はシーツの隙間から彼の頬に手を伸ばすと、少し強引に自分のほうを向かせ、そしてそっと口づけた。
「痛かった!」
驚きのあまり何も言えない彼に、恭司は小憎らしく言った。
「でもまあ、もうどうでもいいや。ほんとはそんなに痛くないよ。おまえ、ずいぶん気ィ遣ってくれたから。ははは、やってるようじゃなかったろ。俺も当分キス以外やだね。やってるときの顔見られるから」
ようやくいつもの調子が戻ってきて、恭司は悪戯っぽく笑った。こういうときの恭司のほうが恭司らしくて彼は好きだ。
「そんなことはないが……本当に平気か? 無理することはないのだぞ?」
「どうして俺が無理して痛くないなんて言わなきゃならないんだ? それほど俺は健気じゃないぜ」
「……そうだろうよ」
憮然と彼は言った。これなら先ほど彼の腕に爪を立てていた恭司のほうがよかったなという気がしないでもなかったが、どちらも恭司に違いなく、恭司であれば、それは彼の神だった。
――気まぐれで、冷たくて優しい、悪魔のような彼の神。
「また、俺の顔見てる」
彼の視線に気がついて、恭司があからさまに嫌そうに自分の顔を手で隠してしまう。
「言っただろう。我はおまえの顔を見るのが好きなのだと」
「俺は好きじゃない。自分の顔見てろよ。おまえのほうがよっぽどいいぞ」
「我は我で己の顔を好かぬのよ」
恭司は手を外して真顔で言った。
「俺は好いてるぞ」
「顔だけだろう」
彼はまだそのことを根に持っていた。
「いくら顔だけよくったって、こんなことまでさせてやらない」
あの魅惑的な皮肉そうな笑みで、彼の悩ましい悪魔は言った。
「人間でも人外でも、俺は今んとこ、おまえがいちばん気に入ってるよ――ナイア」
恭司は彼の扱いにかけては天才的だった。だからまた彼は恭司から離れられない。恭司のためなら何でもしてやろうと思ってしまう。こうなると、はたして本当に恭司に彼と別れる気があるのかどうか疑問だが、そんなことは彼にはどうでもいいことだ。
「恭司ーぃッ!」
シーツごと思いきり恭司を抱きしめる。最初から、ずっとそうしていたかった。
「やっぱり我はおまえがいい。その口の悪さもつれなさも、みーんなひっくるめておまえがいい。でも、そんなことを言うということは、少しはおまえも我のことを好いてくれているのだな? 恭司!」
召使や普段の彼を知る者が見たら卒倒しかねないような超躁状態で言いまくったが、恭司からの返答はなかった。
「恭司? どうした? 何とか言ったら……」
にたにたしながら自分の腕の中を覗きこんだ彼は、一瞬身動きがとれなかった。
「悪魔め……」
腕をゆるめて小さく呻く。
彼の腕の中で、恭司は軽い寝息を立てていた。
眠っていると恭司はひどく幼く見える。最初は腹を立てたものの、恭司のそんな寝顔を見ているうちに怒るのが見当違いに思えてきて、彼はいたわるように恭司のほつれた髪を撫で、半開きの唇に口づけた。
今夜はこのまま朝まで一緒にいよう。そう思い、宝物を取り出すようにそっとシーツを開き、まだ熱い恭司の体を抱き寄せて自分もその中に入る。
もう一度、恭司に口づけようとしたとき、ふと彼の眉がひそめられた。
「……馬鹿が。こざかしい好奇心を出しおったか」
低く独りごちてから、軽く恭司の唇を塞ぎ、恭司を起こさぬように静かにベッドから滑り出る。
そうしてベッドの横に立った彼は、すでにいつもの黒いスーツに身を包んでいた。あどけなく眠る恭司を見下ろし、温かい微笑をこぼす。恭司の肩にきちんとシーツを掛けてやり、シーツから覗く手も中にしまおうとしたとき、彼はその手の甲に接吻した。
「――さて」
まだ未練がましく恭司を見やりつつ彼は歩き出した。
「あの男の始末をせねばな」
端整な浅黒い顔に残酷な笑みを浮かべてそう呟く彼は、もはや恭司の一言一行に一喜一憂する哀れな男ではなく、目障りなものは傲慢なまでに排除しようとする、邪神ナイアーラトテップであった。
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