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序章
1 岡崎英夫
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途中、何度も詰まったが、話そうと思っていたことはすべて話せた。
岡崎英夫は大きく溜め息をついてから、自分の前であぐらをかいて座っている沼田恭司の反応を窺った。
「なるほどね」
英夫の話を反芻しているのか、恭司は畳を見つめたまま、持参してきた缶コーヒーをぐびりと飲んだ。
甘いものは苦手と言いつつ、恭司はコーヒーを飲むのに大量の砂糖とミルクとを必要とする。ゆえに、いちばん手頃なのは「コーヒー飲料」と印字された缶カフェオレなのだった。
雨が降っていた。近年では珍しい、梅雨らしい雨だ。
時折、車が水を跳ねて走っていくが、それ以外に聞こえるものといえば、かすかな雨音くらいだった。
まだ十時にもなっていない。それなのに、今夜は奇妙なほど静かだった。まるでこの安アパートの二階には、英夫と恭司の二人だけしかいないかのように。
英夫は気づかれないように恭司を盗み見た。
美しい。
絶世の、というほどではないが、充分観賞に耐えうる容姿を持っている。
だが、この姿を見られるのも、今日が最後かもしれない。
いや、あと数時間。
***
英夫の隣室に恭司が越してきたのは、三月も末のある曇天の日のことだった。
特に珍しいことではなかった。ことにその季節には。現に英夫もその数日前に越してきたばかりだった。
しかし、英夫はその新しい隣人にまったく興味を持っていなかった。ついでに言えば、このアパートの全住人にも。
もしも一生顔を合わせずに済むのなら、それに越したことはない。英夫はそういう人間だった。
そんな英夫が、引っ越し当日にその隣人の顔を知る羽目になってしまったのは、食料調達のためだった。
人の話し声や何度も往復する足音で、隣で引っ越しをしていることは見当がついていた。本当は今日一日外には出たくなかったが、背に腹は替えられない。英夫は外に人の気配がしなくなるのを待って、ゆっくり部屋のドアを開けた。
だが、間が悪かった。
英夫がドアを開けたのとほとんど同時に、右隣の部屋のドアも開いた。
瞬間、英夫は首を引っこめそうになったが、さすがにそこまで露骨に人を避けるのもどうかと思い直し、しいて何でもないふうを装って外に出た。
隣室から出てきたのは、三十代半ばと見える貧相な男だった。
身長は英夫のほうがあったが、英夫と同じく眼鏡をかけているせいもあり、まるで未来の自分を見ているような気分にさせられた。
しかし、意外な気もした。このアパートの住人は、英夫も含めてほとんどが学生なのだ。だから、隣もそうだと思いこんでいたのだが、男の年齢からすると学生ではなさそうだった。
まあ、どちらにしろ、自分には関係のないことだ。
そう思って、英夫が男から目を離したときだった。
「別に、俺一人でもよかったのに」
男の後から出てきた人物が、男に向かって言った。
その姿は、ちょうどドアの陰になって英夫には見えなかったが、声は明らかに若い男のものだった。
「荷物は運送屋が運んでくれるし、俺だってもう子供じゃないんだから。親父たちだってそう言ってたろ?」
「だけどなー、恭司」
と、男はいよいよ情けない顔になった。
「俺は心配で心配でしょうがないんだよ。そりゃ、おまえは俺よりしっかりしてるけど、世の中には万が一ってことがあるだろ。恭司ー、月に一度は帰ってこいよー、大学卒業したら絶対帰ってこいよー、にーちゃん一人にしないでくれよー!」
そう言うが早いか、男はいきなりその人物を抱きしめた――ようだ。
どうやら、隣に住むのはこの男ではなく、抱きつかれたもう一人の人物であるらしい。
二人の会話から推察するに、男は隣人の兄で、弟である隣人を溺愛しているようだった。
いずれにせよ、この兄の行動は英夫にはかなり不気味に思えた。いや、こればかりは英夫以外の者も同じ感想を持ったに違いない。
「わかったよ。わかったから飯食いに行こう。ついでに当座の食料でも……」
しかし、こういうことは珍しくないのか、その人物は若干呆れつつもそう返し、ドアの陰から現れた。見るともなく彼らを見ていた英夫は、思わず細い目を見開いた。
女性かと思ったのだ。
背丈は英夫と変わらないくらいだったが――つまり、男は弟よりも身長が低かった――栗色の髪を肩先まで長く伸ばし、後ろで一つに束ねていた。さらりとした髪質なので、束ねた紐は何かの拍子にするりと抜け落ちてしまいそうだ。
服装は紺のダッフルコートにジーンズというごく普通のものだったが、体の均整がとれているので、やけに似合って見える。
だが、英夫を真に驚かせたのは、その顔立ちだった。
並以上に整っている。こう言っては何だが、男と血のつながりがあるとはとても思えない。
男の髪は漆黒で、その点でも弟とはまるで違っていた。年もだいぶ離れているようだし、傍目にはまったくの他人同士のようだ。
弟はすぐに英夫の存在に気がついて、いくぶん戸惑ったような表情をした。
兄はそんな弟の視線を追って、初めて英夫が立っていたことを知ったようだ。彼の視界には、最愛の弟しか入っていなかったのだろう。
もしかしたら義兄弟かもしれない二人に見つめられ、英夫はどんな対応をすればいいものかと困り果てた。
「隣の人ですか?」
とは、男ではなく、煌びやかな弟が言った。
顔が見えなかったときには何とも思わなかった低い声も、こうしてその女性的な外見を目にしてしまうと、ひどく不似合いに感じてしまう。
「え、あ、そうです!」
いきなり話しかけられたのも相まって、英夫は激しく動揺した。
この弟は――隣人は、確かに女のように繊細な顔立ちをしてはいたが、その仕草や態度に女っぽいところはなかった。
それだけに冷ややかで、気安く声はかけられないような雰囲気があったのだが、ふいにその顔が和らいだ。
「あ、じゃあ、挨拶しとかなきゃ。今日からこの部屋に住む沼田です。どうぞよろしく。こっちは俺の兄貴」
隣人は軽く英夫に頭を下げた。その隣で呆けたように立っていた隣人の兄も、あわてて頭を下げた。
笑うと、隣人の印象はがらりと変わった。
愛想がいいというほどでもないが、それだけにとても自然な感じがする。
爽やか、涼しげといった形容が、いかにもふさわしいような笑顔だった。
「あ、こちらこそ。僕は岡崎です。僕も先週、ここに越してきたばかりなんですよ」
その笑顔につられるようにして、多少ぎごちないながらも英夫も笑った。
人付き合いは苦手だが、それなりの常識は英夫にもある。
「ああ、そうなんですか。学生ですか?」
ドアを閉め、鍵をかけながら、隣人――沼田弟は言葉を継いだ。
それを見て、英夫も自分の部屋のドアを閉めた。
「え、まあ。正確には、四月からですけどね」
「あ、俺もそうですよ。どこの大学?」
そう問われて、英夫が多少気後れしながら大学名を答えると、沼田弟は驚いたように切れ長の目を見張ってみせた。
「偶然だなあ。俺もそうですよ」
「ええ?」
「学部は?」
「人文学部……」
「へえ」
沼田弟はさらに驚いた顔をした。
「俺もそう。んじゃあ、クラスも一緒かな。とりあえず、今はこれから昼飯食いに行くんで、夜にまた改めて挨拶に行きますよ。あ、夜、家にいますか?」
「え、ええ、まあ……」
「じゃあ、よかった。それじゃ、また」
なかなか社交的であるらしい沼田弟は、ほとんど一方的にそう言うと、脇であっけにとられた顔をしていた兄の腕を取って、アパートの階段を下りていった。
それから、二人の姿が塀の向こうに消えてしまうまで、英夫は自分の部屋の前に突っ立っていた。
何と言うか――狐につままれたようである。
あんな見た目の如才ない人間が、わざわざ自分などに挨拶に来るという。
――まあ、社交辞令かもしれないからな。
はずむ心を無理に押さえつけて、英夫も階段を下りていった。
しかし、美しい隣人は、嘘つきではなかった。
その夜、某出版社のクオカードを手土産に、英夫の部屋を訪ねてきたのだ。
そして、〝恭司〟という下の名前も名乗り、英夫にとっては実に魅力的なことを話し出した。
「実は、俺の兄貴。あれでも作家してるんだ」
「作家? ほんとに?」
問い返す声がうわずってしまったのは、自分がそれを目指していたからだ。
のちに英夫は、恭司がこのことを明かしたのは、英夫の室内を観察して、自分が作家志望であると見抜いたからではないかと思った。その証拠に、恭司は他の学生にはこのことを話していない。
「まあ、作家って言っても兼業作家で、しかもマイナーだけど。わかるかな……」
と言って恭司が教えてくれたペンネームは、英夫も知っている――言い換えれば、英夫だから知っている、伝奇作家のものだった。
「へえ、あの人か。僕も何冊か持ってるよ。でも、年が――」
昼間見たあの男は、どう見ても三十代半ばである。対して、恭司は一年浪人していると言うから――その点でも英夫と同じだ――まだ十九歳のはずである。
ずいぶん年が離れているような気がした。そもそも、本当に兄弟であるかさえ疑わしい。
「年? ああ、兄貴ね。俺と兄貴とじゃ、十五離れてるから」
いつも言われていることなのか、恭司はすぐにそう答えた。
「十五?」
「そう。しかも、間にゃ一人もいない。俺は俗に言う〝恥かきっ子〟ってやつさ。高齢出産だったから、中絶しようかって話もあったらしいけど、なぜか兄貴が強硬に反対したらしくてさ。まあ、おふくろが死ななくてよかったよ。俺は死んでもよかったけど」
そう言う恭司の鳶色の瞳は、笑っているのにもかかわらず、妙に冷ややかに見えた。
***
それからも、恭司はたびたび英夫の部屋を訪れた。
恭司いわく、作家の妄想を冷やかすのが好きなのだそうだ。おそらく、あの兄にもそうしているのだろう。
基本的に恭司は聞く人だ。あまり自分のことは話さない。だが、その意見は実に的確で、少しでもあやふやなところがあれば、すぐに容赦なく突っこんでくる。
あの男に溺愛されるのも無理はないと思った。年が離れている、容姿が整っているというだけで、充分愛される理由になるのに、彼にはきわめて聡明な頭もあったのだ。
だから今、英夫はあの話を恭司に話した。あくまでも、小説のアイデアの一つとして。
思えば、もっと早くに話しておくべきだった。あんな夢を見てしまう前に。そうすれば、本当に小説のアイデアで済んだかもしれないのに。
「やっぱ、どっか具合悪いんじゃないのか?」
缶コーヒーを畳の上に置きながら、恭司は細い眉をひそめた。
ここに来て英夫の顔を一目見た瞬間、すでに恭司はそう言っていた。
確かに具合は悪かった。寝不足と心労によるものだ。
しかし、これだけは誰かに話しておきたかった。自分という人間が、この世に存在していた証として。
「いや……大丈夫だ」
無理に英夫は笑った。もっとも、今の自分がそんな表情をしても、まったく説得力はないだろう。恭司が来る前に鏡で見た自分は、さながら幽鬼のようだった。
「それより……沼田。今の話をどう思う? どこか、おかしいところはあるか?」
「おかしいねえ……別にこれといってないと思うけど……」
そう呟きながら、恭司は自分の顎に手をやった。
細くて長い指だ。ふと英夫は思った。
肌は白いというほどでもないが、きめが細かくて滑らかだ。髪もさらさらしていて、まるで少女のようで、この本の山だらけの薄汚い部屋には、まったく似つかわしくない。
こんな人間と、たった二ヶ月とはいえ、付き合っていたのだ。
今さらながら、英夫は驚いた。
そして、もう二度と会えないかもしれない――
「岡崎?」
怪訝そうに恭司が顔を上げた。そのとき、玄関のほうでカチャッという音がした。
「助けてくれ!」
英夫は恭司に飛びついた。その拍子に畳の上に置いていた缶が倒れる。
後ろの壁に頭がぶつかって、恭司は盛大に顔をしかめた。
「助けてくれ! 奴が来る! 俺はきっと殺される! その前に……沼田! 沼田!」
「何なんだよ、おまえは!」
恭司は英夫の手を振り払おうとしたが、壁を背にしている上、英夫の力が尋常でないので、なかなか逃げられない。
「来るって何が? それで、何でおまえに襲われなきゃならないんだ?」
と。
まるでそれに答えるように、ドアが開いた。
防犯のため、鍵はかけておいたはずだった。
だが、ドアは開いている。そして、誰かが立っている。
二人は動きを止めて、そちらを見た。
「おまえが、岡崎か?」
よく響く声だった。美声と言ってもよかっただろう。
しかし、英夫は身動きはおろか、呼吸さえできなかった。
その隙に、恭司は英夫を押しのけて、壁から身を起こした。自分の乱れた襟元を直しながら、ある意味、恩人とも言うべき人物を見つめる。
それは、一九〇センチメートルはゆうにありそうな、長身の男だった。
黒のスーツに黒のトレンチコートと、全身黒ずくめである。さらに、闇のような黒髪を背中まで伸ばしていた。
肌は浅黒く、顔立ちは明らかに日本人のものではなかったが、言葉には訛りはなく、どこの国の者ともつかなかった。
ただ、確実に言えたことは、恐ろしく整った顔をしているということだった。
そう――とても人間とは思えないほど。
「おまえが、岡崎か?」
もう一度、今度は念を押すように男は言った。
だが、その黒い瞳はまっすぐ恭司のほうに向けられている。その隣で硬直している英夫には見向きもしない。
「岡崎はそっち」
そっけなく、恭司は英夫を親指で指した。
恭司に他意はないのだろうが、英夫はびくっと体を震わせた。
男はかすかに眉をひそめた。
不信とも、不服ともとれる。
男としては、恭司が英夫であってほしいらしい。その証拠に、英夫を一瞥はしたものの、すぐにまた恭司に視線を戻してしまった。
「嘘じゃないよ。この部屋に住んでるのは、こっちの岡崎。俺は単なる隣の住人。それより、あんたは――」
「訊くな!」
恭司は驚いて英夫を振り返った。
しかし、英夫は畳の一角を見すえていた。そのまま、一語一語、区切るように言う。
「俺の……客だ。今日、来ることになっていた。予定より、だいぶ早かったが。……悪いが、今日はもう、帰ってくれないか?」
恭司はしばらく黙っていた。が、畳の上に転がっていた缶――ほとんど空になっていたので、畳は汚さずに済んでいた――を拾い上げ、勢いをつけて立ち上がった。
「本当に、帰っていいのか?」
弾かれたように恭司を見上げる。
行かないでくれという言葉が、喉まで出かかった。
しかし、恭司を巻きこむわけにはいかないという思いが、すんでのところで英夫を止めた。
恭司は自分の話を聞いてくれた。それでもう充分だろう。
第一、恭司に何ができる? 彼とてやはり〝人間〟なのだ。
恭司の目から逃れるように、英夫は顔をそむけた。
見つめていると、話してはいけないことまで話してしまいそうになる。
「……ああ。帰って、いい」
それだけ言うのに、英夫は残りの一生分の勇気を遣った。
だが、恭司はすぐには帰らず、英夫を見ていた。
いきなり抱きつかれたのにもかかわらず、その表情に嫌悪はない。
彼はただ、黙って英夫を見下ろしていた。
「じゃあ、帰るから」
そう言って、ついに恭司は英夫に背を向けた。
自分の真意を理解して、あえて何も訊かずに去っていくその後ろ姿を、英夫は気づかれないようにそっと見送った。
――これでもう最後なのだ。
そう思った。そして、それは本当に英夫が見た最後となった。
「ちょっとどいてくれる?」
狭い玄関でスニーカーを履くとき、恭司は黒い来訪者にそう声をかけた。
身長差は頭一個分ある。男は恭司を見つめてから、ドアを大きく開いて後ろに退いた。
しかし、恭司からは目を離さない。恭司が立ったままスニーカーを履いているのをずっと見ている。
「何か?」
少し不愉快そうに恭司は男を見やった。
傘など持っていないのにもかかわらず、男の体がほとんど濡れていないことには気づいていないようだった。
「いや……」
だが、男の口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
恭司も本気で訊きたかったわけではないようだ。いまだ自分に向けられている男の視線を振り切るように、英夫の部屋を出ていった。
しかし、恭司が自分の部屋のドアを施錠する音がしても、男は恭司の部屋のほうを見ていた。
――まさか……
嫌な予感に苛まれながら、英夫はそんな男を部屋の中から見ていた。
自分は今夜、ここに恭司を呼んではいけなかったかもしれない。
それが後悔に変わるまで、さして時間はかからなかった。
岡崎英夫は大きく溜め息をついてから、自分の前であぐらをかいて座っている沼田恭司の反応を窺った。
「なるほどね」
英夫の話を反芻しているのか、恭司は畳を見つめたまま、持参してきた缶コーヒーをぐびりと飲んだ。
甘いものは苦手と言いつつ、恭司はコーヒーを飲むのに大量の砂糖とミルクとを必要とする。ゆえに、いちばん手頃なのは「コーヒー飲料」と印字された缶カフェオレなのだった。
雨が降っていた。近年では珍しい、梅雨らしい雨だ。
時折、車が水を跳ねて走っていくが、それ以外に聞こえるものといえば、かすかな雨音くらいだった。
まだ十時にもなっていない。それなのに、今夜は奇妙なほど静かだった。まるでこの安アパートの二階には、英夫と恭司の二人だけしかいないかのように。
英夫は気づかれないように恭司を盗み見た。
美しい。
絶世の、というほどではないが、充分観賞に耐えうる容姿を持っている。
だが、この姿を見られるのも、今日が最後かもしれない。
いや、あと数時間。
***
英夫の隣室に恭司が越してきたのは、三月も末のある曇天の日のことだった。
特に珍しいことではなかった。ことにその季節には。現に英夫もその数日前に越してきたばかりだった。
しかし、英夫はその新しい隣人にまったく興味を持っていなかった。ついでに言えば、このアパートの全住人にも。
もしも一生顔を合わせずに済むのなら、それに越したことはない。英夫はそういう人間だった。
そんな英夫が、引っ越し当日にその隣人の顔を知る羽目になってしまったのは、食料調達のためだった。
人の話し声や何度も往復する足音で、隣で引っ越しをしていることは見当がついていた。本当は今日一日外には出たくなかったが、背に腹は替えられない。英夫は外に人の気配がしなくなるのを待って、ゆっくり部屋のドアを開けた。
だが、間が悪かった。
英夫がドアを開けたのとほとんど同時に、右隣の部屋のドアも開いた。
瞬間、英夫は首を引っこめそうになったが、さすがにそこまで露骨に人を避けるのもどうかと思い直し、しいて何でもないふうを装って外に出た。
隣室から出てきたのは、三十代半ばと見える貧相な男だった。
身長は英夫のほうがあったが、英夫と同じく眼鏡をかけているせいもあり、まるで未来の自分を見ているような気分にさせられた。
しかし、意外な気もした。このアパートの住人は、英夫も含めてほとんどが学生なのだ。だから、隣もそうだと思いこんでいたのだが、男の年齢からすると学生ではなさそうだった。
まあ、どちらにしろ、自分には関係のないことだ。
そう思って、英夫が男から目を離したときだった。
「別に、俺一人でもよかったのに」
男の後から出てきた人物が、男に向かって言った。
その姿は、ちょうどドアの陰になって英夫には見えなかったが、声は明らかに若い男のものだった。
「荷物は運送屋が運んでくれるし、俺だってもう子供じゃないんだから。親父たちだってそう言ってたろ?」
「だけどなー、恭司」
と、男はいよいよ情けない顔になった。
「俺は心配で心配でしょうがないんだよ。そりゃ、おまえは俺よりしっかりしてるけど、世の中には万が一ってことがあるだろ。恭司ー、月に一度は帰ってこいよー、大学卒業したら絶対帰ってこいよー、にーちゃん一人にしないでくれよー!」
そう言うが早いか、男はいきなりその人物を抱きしめた――ようだ。
どうやら、隣に住むのはこの男ではなく、抱きつかれたもう一人の人物であるらしい。
二人の会話から推察するに、男は隣人の兄で、弟である隣人を溺愛しているようだった。
いずれにせよ、この兄の行動は英夫にはかなり不気味に思えた。いや、こればかりは英夫以外の者も同じ感想を持ったに違いない。
「わかったよ。わかったから飯食いに行こう。ついでに当座の食料でも……」
しかし、こういうことは珍しくないのか、その人物は若干呆れつつもそう返し、ドアの陰から現れた。見るともなく彼らを見ていた英夫は、思わず細い目を見開いた。
女性かと思ったのだ。
背丈は英夫と変わらないくらいだったが――つまり、男は弟よりも身長が低かった――栗色の髪を肩先まで長く伸ばし、後ろで一つに束ねていた。さらりとした髪質なので、束ねた紐は何かの拍子にするりと抜け落ちてしまいそうだ。
服装は紺のダッフルコートにジーンズというごく普通のものだったが、体の均整がとれているので、やけに似合って見える。
だが、英夫を真に驚かせたのは、その顔立ちだった。
並以上に整っている。こう言っては何だが、男と血のつながりがあるとはとても思えない。
男の髪は漆黒で、その点でも弟とはまるで違っていた。年もだいぶ離れているようだし、傍目にはまったくの他人同士のようだ。
弟はすぐに英夫の存在に気がついて、いくぶん戸惑ったような表情をした。
兄はそんな弟の視線を追って、初めて英夫が立っていたことを知ったようだ。彼の視界には、最愛の弟しか入っていなかったのだろう。
もしかしたら義兄弟かもしれない二人に見つめられ、英夫はどんな対応をすればいいものかと困り果てた。
「隣の人ですか?」
とは、男ではなく、煌びやかな弟が言った。
顔が見えなかったときには何とも思わなかった低い声も、こうしてその女性的な外見を目にしてしまうと、ひどく不似合いに感じてしまう。
「え、あ、そうです!」
いきなり話しかけられたのも相まって、英夫は激しく動揺した。
この弟は――隣人は、確かに女のように繊細な顔立ちをしてはいたが、その仕草や態度に女っぽいところはなかった。
それだけに冷ややかで、気安く声はかけられないような雰囲気があったのだが、ふいにその顔が和らいだ。
「あ、じゃあ、挨拶しとかなきゃ。今日からこの部屋に住む沼田です。どうぞよろしく。こっちは俺の兄貴」
隣人は軽く英夫に頭を下げた。その隣で呆けたように立っていた隣人の兄も、あわてて頭を下げた。
笑うと、隣人の印象はがらりと変わった。
愛想がいいというほどでもないが、それだけにとても自然な感じがする。
爽やか、涼しげといった形容が、いかにもふさわしいような笑顔だった。
「あ、こちらこそ。僕は岡崎です。僕も先週、ここに越してきたばかりなんですよ」
その笑顔につられるようにして、多少ぎごちないながらも英夫も笑った。
人付き合いは苦手だが、それなりの常識は英夫にもある。
「ああ、そうなんですか。学生ですか?」
ドアを閉め、鍵をかけながら、隣人――沼田弟は言葉を継いだ。
それを見て、英夫も自分の部屋のドアを閉めた。
「え、まあ。正確には、四月からですけどね」
「あ、俺もそうですよ。どこの大学?」
そう問われて、英夫が多少気後れしながら大学名を答えると、沼田弟は驚いたように切れ長の目を見張ってみせた。
「偶然だなあ。俺もそうですよ」
「ええ?」
「学部は?」
「人文学部……」
「へえ」
沼田弟はさらに驚いた顔をした。
「俺もそう。んじゃあ、クラスも一緒かな。とりあえず、今はこれから昼飯食いに行くんで、夜にまた改めて挨拶に行きますよ。あ、夜、家にいますか?」
「え、ええ、まあ……」
「じゃあ、よかった。それじゃ、また」
なかなか社交的であるらしい沼田弟は、ほとんど一方的にそう言うと、脇であっけにとられた顔をしていた兄の腕を取って、アパートの階段を下りていった。
それから、二人の姿が塀の向こうに消えてしまうまで、英夫は自分の部屋の前に突っ立っていた。
何と言うか――狐につままれたようである。
あんな見た目の如才ない人間が、わざわざ自分などに挨拶に来るという。
――まあ、社交辞令かもしれないからな。
はずむ心を無理に押さえつけて、英夫も階段を下りていった。
しかし、美しい隣人は、嘘つきではなかった。
その夜、某出版社のクオカードを手土産に、英夫の部屋を訪ねてきたのだ。
そして、〝恭司〟という下の名前も名乗り、英夫にとっては実に魅力的なことを話し出した。
「実は、俺の兄貴。あれでも作家してるんだ」
「作家? ほんとに?」
問い返す声がうわずってしまったのは、自分がそれを目指していたからだ。
のちに英夫は、恭司がこのことを明かしたのは、英夫の室内を観察して、自分が作家志望であると見抜いたからではないかと思った。その証拠に、恭司は他の学生にはこのことを話していない。
「まあ、作家って言っても兼業作家で、しかもマイナーだけど。わかるかな……」
と言って恭司が教えてくれたペンネームは、英夫も知っている――言い換えれば、英夫だから知っている、伝奇作家のものだった。
「へえ、あの人か。僕も何冊か持ってるよ。でも、年が――」
昼間見たあの男は、どう見ても三十代半ばである。対して、恭司は一年浪人していると言うから――その点でも英夫と同じだ――まだ十九歳のはずである。
ずいぶん年が離れているような気がした。そもそも、本当に兄弟であるかさえ疑わしい。
「年? ああ、兄貴ね。俺と兄貴とじゃ、十五離れてるから」
いつも言われていることなのか、恭司はすぐにそう答えた。
「十五?」
「そう。しかも、間にゃ一人もいない。俺は俗に言う〝恥かきっ子〟ってやつさ。高齢出産だったから、中絶しようかって話もあったらしいけど、なぜか兄貴が強硬に反対したらしくてさ。まあ、おふくろが死ななくてよかったよ。俺は死んでもよかったけど」
そう言う恭司の鳶色の瞳は、笑っているのにもかかわらず、妙に冷ややかに見えた。
***
それからも、恭司はたびたび英夫の部屋を訪れた。
恭司いわく、作家の妄想を冷やかすのが好きなのだそうだ。おそらく、あの兄にもそうしているのだろう。
基本的に恭司は聞く人だ。あまり自分のことは話さない。だが、その意見は実に的確で、少しでもあやふやなところがあれば、すぐに容赦なく突っこんでくる。
あの男に溺愛されるのも無理はないと思った。年が離れている、容姿が整っているというだけで、充分愛される理由になるのに、彼にはきわめて聡明な頭もあったのだ。
だから今、英夫はあの話を恭司に話した。あくまでも、小説のアイデアの一つとして。
思えば、もっと早くに話しておくべきだった。あんな夢を見てしまう前に。そうすれば、本当に小説のアイデアで済んだかもしれないのに。
「やっぱ、どっか具合悪いんじゃないのか?」
缶コーヒーを畳の上に置きながら、恭司は細い眉をひそめた。
ここに来て英夫の顔を一目見た瞬間、すでに恭司はそう言っていた。
確かに具合は悪かった。寝不足と心労によるものだ。
しかし、これだけは誰かに話しておきたかった。自分という人間が、この世に存在していた証として。
「いや……大丈夫だ」
無理に英夫は笑った。もっとも、今の自分がそんな表情をしても、まったく説得力はないだろう。恭司が来る前に鏡で見た自分は、さながら幽鬼のようだった。
「それより……沼田。今の話をどう思う? どこか、おかしいところはあるか?」
「おかしいねえ……別にこれといってないと思うけど……」
そう呟きながら、恭司は自分の顎に手をやった。
細くて長い指だ。ふと英夫は思った。
肌は白いというほどでもないが、きめが細かくて滑らかだ。髪もさらさらしていて、まるで少女のようで、この本の山だらけの薄汚い部屋には、まったく似つかわしくない。
こんな人間と、たった二ヶ月とはいえ、付き合っていたのだ。
今さらながら、英夫は驚いた。
そして、もう二度と会えないかもしれない――
「岡崎?」
怪訝そうに恭司が顔を上げた。そのとき、玄関のほうでカチャッという音がした。
「助けてくれ!」
英夫は恭司に飛びついた。その拍子に畳の上に置いていた缶が倒れる。
後ろの壁に頭がぶつかって、恭司は盛大に顔をしかめた。
「助けてくれ! 奴が来る! 俺はきっと殺される! その前に……沼田! 沼田!」
「何なんだよ、おまえは!」
恭司は英夫の手を振り払おうとしたが、壁を背にしている上、英夫の力が尋常でないので、なかなか逃げられない。
「来るって何が? それで、何でおまえに襲われなきゃならないんだ?」
と。
まるでそれに答えるように、ドアが開いた。
防犯のため、鍵はかけておいたはずだった。
だが、ドアは開いている。そして、誰かが立っている。
二人は動きを止めて、そちらを見た。
「おまえが、岡崎か?」
よく響く声だった。美声と言ってもよかっただろう。
しかし、英夫は身動きはおろか、呼吸さえできなかった。
その隙に、恭司は英夫を押しのけて、壁から身を起こした。自分の乱れた襟元を直しながら、ある意味、恩人とも言うべき人物を見つめる。
それは、一九〇センチメートルはゆうにありそうな、長身の男だった。
黒のスーツに黒のトレンチコートと、全身黒ずくめである。さらに、闇のような黒髪を背中まで伸ばしていた。
肌は浅黒く、顔立ちは明らかに日本人のものではなかったが、言葉には訛りはなく、どこの国の者ともつかなかった。
ただ、確実に言えたことは、恐ろしく整った顔をしているということだった。
そう――とても人間とは思えないほど。
「おまえが、岡崎か?」
もう一度、今度は念を押すように男は言った。
だが、その黒い瞳はまっすぐ恭司のほうに向けられている。その隣で硬直している英夫には見向きもしない。
「岡崎はそっち」
そっけなく、恭司は英夫を親指で指した。
恭司に他意はないのだろうが、英夫はびくっと体を震わせた。
男はかすかに眉をひそめた。
不信とも、不服ともとれる。
男としては、恭司が英夫であってほしいらしい。その証拠に、英夫を一瞥はしたものの、すぐにまた恭司に視線を戻してしまった。
「嘘じゃないよ。この部屋に住んでるのは、こっちの岡崎。俺は単なる隣の住人。それより、あんたは――」
「訊くな!」
恭司は驚いて英夫を振り返った。
しかし、英夫は畳の一角を見すえていた。そのまま、一語一語、区切るように言う。
「俺の……客だ。今日、来ることになっていた。予定より、だいぶ早かったが。……悪いが、今日はもう、帰ってくれないか?」
恭司はしばらく黙っていた。が、畳の上に転がっていた缶――ほとんど空になっていたので、畳は汚さずに済んでいた――を拾い上げ、勢いをつけて立ち上がった。
「本当に、帰っていいのか?」
弾かれたように恭司を見上げる。
行かないでくれという言葉が、喉まで出かかった。
しかし、恭司を巻きこむわけにはいかないという思いが、すんでのところで英夫を止めた。
恭司は自分の話を聞いてくれた。それでもう充分だろう。
第一、恭司に何ができる? 彼とてやはり〝人間〟なのだ。
恭司の目から逃れるように、英夫は顔をそむけた。
見つめていると、話してはいけないことまで話してしまいそうになる。
「……ああ。帰って、いい」
それだけ言うのに、英夫は残りの一生分の勇気を遣った。
だが、恭司はすぐには帰らず、英夫を見ていた。
いきなり抱きつかれたのにもかかわらず、その表情に嫌悪はない。
彼はただ、黙って英夫を見下ろしていた。
「じゃあ、帰るから」
そう言って、ついに恭司は英夫に背を向けた。
自分の真意を理解して、あえて何も訊かずに去っていくその後ろ姿を、英夫は気づかれないようにそっと見送った。
――これでもう最後なのだ。
そう思った。そして、それは本当に英夫が見た最後となった。
「ちょっとどいてくれる?」
狭い玄関でスニーカーを履くとき、恭司は黒い来訪者にそう声をかけた。
身長差は頭一個分ある。男は恭司を見つめてから、ドアを大きく開いて後ろに退いた。
しかし、恭司からは目を離さない。恭司が立ったままスニーカーを履いているのをずっと見ている。
「何か?」
少し不愉快そうに恭司は男を見やった。
傘など持っていないのにもかかわらず、男の体がほとんど濡れていないことには気づいていないようだった。
「いや……」
だが、男の口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
恭司も本気で訊きたかったわけではないようだ。いまだ自分に向けられている男の視線を振り切るように、英夫の部屋を出ていった。
しかし、恭司が自分の部屋のドアを施錠する音がしても、男は恭司の部屋のほうを見ていた。
――まさか……
嫌な予感に苛まれながら、英夫はそんな男を部屋の中から見ていた。
自分は今夜、ここに恭司を呼んではいけなかったかもしれない。
それが後悔に変わるまで、さして時間はかからなかった。
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