【完結】北条秀一という男

邦幸恵紀

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 外はもうすっかり暗くなっていた。
 俺と北条のアパートはかなり離れていたが、方向が同じだったから、いつも途中まで一緒に帰っていた。
 しかし、これからは一人でこの道を歩くことになるのだ。そう考えたとたん、強い寂寥感に襲われた。

「遠藤」

 まるでそれを見透かしたように、例の低い声が俺を呼んだ。俺は振り返らず、そのまま歩きつづけた。

「待てよ。せめて話くらいは聞いてくれよ」

 声の主はあっというまに俺に追いついて、ぬっと横に現れた。それでも、俺はそいつを見なかった。見るまでもない。北条だ。
 何も答えずにいたら、北条も何も言わなかった。俺の少し後ろを黙ってついてくる。
 その状態に先に音を上げたのは俺だった。「話だけならな」と無愛想に返すと、北条がほっとしたような息を吐いた。

「まず、その……俺はホモじゃない。だから、おまえが男だからつきあってくれって言ってるんじゃない。それだけは言っとく」

 俺にはナンセンスとしか思えないことを、北条はきっぱり言いきった。
 よほど断っておきたいらしい。男につきあってくれと言ったら、その時点ですでにホモだと思うのだが。

「俺がつきあってくれって言ったのは……もっとおまえに近づきたいと思ったからだ。今のおまえは俺のこと、〝友人〟とすら思ってやしないだろ? ずっとイライラしてたが、そう言ったら言ったで、逆におまえが離れていきそうで……だから、今まで言えなかった」
「…………」
「でも、もういい。このままじゃ、俺の息が詰まっちまう。無理強いするつもりはないが、これだけは信じてくれ。――おまえが好きだ。誰よりも」

 なぜ――
 そう訊ねたくなる衝動を、俺は必死で抑えこんでいた。
 この女顔のせいか? そうに違いない。それ以外に俺に取り柄などない。俺がこんな顔をしていたから北条は近づいてきたのだし、今こうして柄にもない〝愛の告白〟なんぞをしているのだ――
 俺は黙々と歩きつづけた。北条もそれ以後は何も言わずに、俺の隣を歩きつづけた。
 そうして無言のまま歩きつづけて、とうとう俺のアパートの前までたどりついた。
 北条のアパートは、もっと行ったずっと先だ。だが、その場所を俺は知らなかった。
 俺は立ち止まった。北条も立ち止まった。でも、なかなか北条に向き直れなくて、ただ重苦しい沈黙の時間だけが刻々と過ぎていった。

「返事をくれないか」

 その沈黙を破ったのは、北条だった。

「嫌なら嫌だとはっきり断ってくれていい。おまえの負担にはなりたくないから。でも、もし少しでも……本当に少しでも、おまえに俺を好きだと思う気持ちがあるんなら……俺とつきあってくれないか。――遠藤。何とか言ってくれよ。俺が突然こんなこと言い出したから、怒ってんのか? おまえが何も言ってくれないと、俺、どうしたらいいかわかんないだろ……」

 困り果てたような声で北条は言った。北条のそんな声を聞くのもこれが初めてだった。
 これは俺の知っている北条ではなかった。俺の知っている北条は、横柄で、意地が悪くて、俺に子供じみた独占欲を持っていて――

「遠藤……」

 いつまでたっても何もしゃべろうとしない俺に、いいかげん北条もしびれをきらしたらしい。長身を屈めて、俺を覗きこんできた。

「なあ……怒ってんのか? 何とか言って――」
「いつからだ?」

 気づいたときには口走っていた。

「え?」

 さすがに北条も面食らったような顔をする。

「いつからって……」
「いつからそんなふうに思ってた?」

 北条を責めるつもりはなかった。
 しかし、北条にはそう聞こえたらしく、悪さが見つかった子供のように大柄な体をすくませると、決まり悪そうに頭を掻いた。

「いや、まあ……だんだん……な。だんだん。本格的に思い出したのは、去年の終わりくらいかな。でも、最初から気にはなってたよ。そうじゃなきゃ、おまえが迷惑そうな顔してるのに、わざわざつきまとったりしないだろ?」
「どこがいいんだよ!」

 こらえきれず、俺は北条に向かって叫んだ。そんな俺の反応は予想もしていなかったのか、北条は大仰なくらい俺から飛びのいた。

「俺なんかのどこが……おまえはって思ってたのに……」

 ついそう言ってしまってから、すぐにしまったと思った。
 案の定、北条は怪訝そうな顔をしている。
 今さら何でもないとも、かといってその意味も言えなくて、俺は気まずい思いを噛みしめながら、黙ってうつむいた。

「違わないとは言いきれない」

 俺ははっと顔を上げた。
 訝しい顔をしていたはずの北条が、静かに笑っていた。

「でも、俺はおまえの顔だけじゃなくて……中身も好きだよ」

 ――見抜かれた!
 そう思ったとたん、俺の足は勝手にアパートの階段を駆け上がっていた。

「遠藤! 返事!」

 あわてて北条が叫ぶ。追ってくる様子は、ない。

「言葉だけで信じられるか!」

 怒鳴り返して、俺は自分の部屋の鍵を開け、中に飛びこんで再び鍵をかけた。だが、北条が俺の部屋の前に来る気配はなかった。
 一分くらい経っただろうか。俺はとうとう我慢できずに解錠し、ドアを少しだけ開け、ついさっきまで立っていたアパート前の道路を見た。
 街灯があるせいで明るいそこには、すでに北条の姿はなかった。

「何でだよ……」

 ドアのノブを握ったまま、俺はその場にしゃがみこんだ。
 追ってくるんじゃないかと思っていた。追ってきて、また信じてくれと言うんじゃないかと。どうしても返事が欲しいとねばるんじゃないかと。
 そうしたら、俺も言うつもりだった。――もう、つきあってるじゃないか、と。
 嫌いなはずはなかった。俺は嫌いな人間とは、一分だって一緒にいられない。食事だったらなおさらだ。食欲だってなくなってしまう。
 それなのに、あのときそう言えなかったのは、怖かったからだ。
 突然、北条にあんなことを言われたのに、さして動揺していない自分が。そんな北条を、気持ち悪いだとか、もう二度と会いたくないだとか、まるで思っていない自分が。
 きっと、一度北条を受け入れたら、俺はすぐに何もかも許してしまう。
 だからこそ、素直にうなずけなかった。
 北条がどこまで本気なのか、いまいちつかめなくて。それでも、簡単に北条のものになってしまうだろう自分が悔しくて。

 ――北条はもう、俺の前には現れないかもしれない。

 そう思ったとき、なぜか自嘲めいた笑いがこみ上げた。
 俺はやっと立ち上がり、ドアを閉めた。
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