【完結】堕天の末裔

邦幸恵紀

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第2部 草月歌

09 腑に落ちない(前)

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 急ぎ神殿に戻ると、待ちかねたように白蘭を出迎えたのは神官たちではなく、今や妙齢の美女となった楽天・翠菻だった。

『いったいどちらにいらっしゃっていたんですか!』

 よほど緊急の用があったようだ。薄緑の面紗の下の美しい顔がかなり強ばっていた。

『神官たちに訊かなかったのかい?』
『もちろん訊きました。でも、すぐにお戻りになりますと言うばかりで、誰も行き先を教えてくれなくて』

 なるほど。最近は捜されなくなったのは、自分の行動がすべて見透かされていたからだったのか。
 しかも、それを翠菻には教えなかった。白蘭は自分の部下たちを見直した。今度報酬を少しだけ上げてやろう。

『ちょっとこみいった用事だったんだよ。何かあったのかい?』
『白蘭様はまだご存じないのですか?』

 翠菻が呆れたような念波を発する。

『紅蓮が守護天将の御名を受けるそうです』

 学問所時代から翠菻は白蘭のことを〝白蘭様〟と呼んでいたが、紅蓮に対しては成人しても敬称をつけなかった。
 それなら自分のことも呼び捨てにしていいのではないかと白蘭は思うのだが、そう彼女に言うと、そんなことはできませんと血相を変えて返される。白蘭に恋しているがゆえにできないのだと気づいていないのは、今この神殿内で白蘭一人だけだった。

『翠菻がそれを知ったのはいつ?』
『たった今です。黒蘆様からお手紙をいただいて、あわてて飛んでまいりました』
『では、知らなかったのは私だけではなかったのか』

 翠菻の金色の目が大きく見開かれる。

『それでは、白蘭様も今日初めて?』
『私はもっとひどいよ。手紙すら送られてこなかった』

 だが、たぶん黒蘆は、白蘭が紅蓮宛ての手紙を自分で届けにいこうとすること――そのとき紅蓮から手紙の内容を聞くだろうこと――を見越した上で、あえて白蘭には手紙を出さなかったのだ。相変わらず食えない年寄りである。

『手紙が来なかったのに、どうやってお知りになったのです?』

 何気なく翠菻に訊かれて、白蘭は思わず顔をしかめた。その表情を見ただけで翠菻はすべてを見抜いたらしく、紅蓮のところへ行かれていたのですね、と白蘭がいちばん知られたくないと思っていたことを的確に言い当てた。

『どうしてわかるんだい?』

 もはや言い逃れはできないといち早く諦めてそう問うと、翠菻はそんな質問をするほうがおかしいと言わんばかりに白蘭を軽く睨みつけた。

『他に白蘭様が神殿のお仕事を放り出して行かれるような場所がありますか? 大方、紅蓮宛ての手紙をご自分で届けに行って、そのとき手紙の内容もお知りになったのでしょう』

 まったくそのとおりだった。白蘭はうなずくかわりに力なく答えた。

『翠菻。私は今、天都で君がいちばん恐ろしい』
『何をおっしゃいます。白蘭様を知る者なら誰でもすぐにわかることです。ただあえて白蘭様にはお伝えしていないだけで』
『見て見ぬふりというわけか。……みんな優しいね』
『ご理解いただけて嬉しいですわ』
『じゃあ、その優しさに甘んじて訊いてもいいかい? 君以外の天卓も、今日手紙によって紅蓮のことを知らされているのかな?』

 翠菻ははっとした表情になり、羽で口元を覆った。

『それは……どうでしょう。まず白蘭様にお伺いしようと思って参りましたから、他の方々にはまだ確認しておりません。申し訳ございません、白蘭様』
『いや、君が謝る必要はないよ。とりあえず、私一人が知らなかったわけではないということはわかったからね』

 白蘭がにっこり微笑むと、翠菻は頬を染めてうつむいた。そんな様子を見てもなお白蘭は、彼女が自分に特別な思いを寄せているとは夢にも思っていないのである。

『続きは私の執務室で話さないか? 君のご指摘どおり、私は仕事を中座して外出していたんだ』

 よくできた白蘭の部下たちは、突然消えて戻ってきた上司を見ても、今までどちらにいらしたんですかと問いただしたり、お早いお戻りですねと嫌味を言ったりすることもなかったが、執務室の机の上には、今度から紅蓮様宛ての文書はまとめてお渡ししますから、勝手に抜き出して届けにいくのはもうおやめくださいと書かれた水晶玉が載せられていた。

『本当にみんな優しいね』

 白蘭は独りごち、その水晶玉を翠菻の目の届かないところにしまいこんでから、改めて彼女に向き直った。

『私より先に天卓の仲間入りをした翠菻に訊きたいのだけれど、御名というのは黒蘆様の独断で決められるものなのかい?』
『いえ。普通は御前会議に諮られて、天卓の十三人全員の同意を得て決定されます。現に白蘭様のときも、形式的にですけれどそうしましたもの』
『だけど、今回はもう決まっているんだ。これまで議題に上ったこともないのに』
『そのようですわ』

 白蘭は自分の唇に白い指を当てて考えこんだ。

『妙だね』
『ええ、妙ですね。妙ですけれど』

 ふと翠菻は上目使いで白蘭を見た。

『紅蓮が守護天将の御名を受けて、白蘭様は嬉しいのでは?』

 不意を突かれて驚いたが、すぐに表情を和らげて微笑み返す。

『そりゃあね。自分の友達が、守護天将の御名をもらったと知ったら嬉しいよ。でも、その決定の仕方が腑に落ちない。本当は直接黒蘆様にお会いして訊ねたほうが早いんだけど』

 ――正直に答えるかな、あの爺さん。
 この神殿に住まう黒蘆とは、無論幼い頃から何度も会っているが、親しみを覚えたことは一度もない。学問所へ通うことを許してくれたときには感謝もしたが、それさえも何か裏に思惑があったように思えてならない。
 黒蘆が白蘭に向ける眼差しからは、年若い者に対する慈しみではなく、実験動物を眺めるような冷たさを感じた。天人族の能力開発組織の一人であったという彼の目には、今の天人族はまだ開発途上の生き物に見えるのだろうか。

『しかし、いま黒蘆様に会われなくとも、明日、御前会議が開かれるのですから、そのときに訊ねられてもよろしいのでは?』
『うん……それはそうなんだけど……』

 紅蓮の前で、紅蓮のことは訊きにくい。
 白蘭自身は、紅蓮が守護天将の御名を受けることについてまったく異論はないし、受けて当然とすら思っている。だが、なぜ先例どおり御前会議――御前たる神はいずこかに去ってしまっていたが、慣習的にそう呼び習わしていた――に諮って決定しなかったのか、そこが引っかかる。これではまるで、事前に天卓の十三人全員の同意は得られないとわかっていたから、あえて回避したかのようではないか。
 そこまで考えて、先ほど紅蓮が言っていた言葉が脳裏によみがえる。
 ――蒼芭はたった一人でも反対しつづけたはずだ……

『そうだね。明日でも遅くはないか。でも、天卓は今、十三席全部埋まっているだろう? 誰の代わりに紅蓮は入ることになるんだろう。翠菻は知ってる?』
『いえ、それは私にもわかりません。黒蘆様のお手紙にも書いてありませんでしたし。白蘭様のときも私のときも、おやめになる方が決まってから御名をいただきましたのに、今回はどなたがおやめになるのかもわからないのですね。確かにこれは異例すぎます』

 翠菻も白蘭が感じた不自然さをようやく意識しはじめたようだ。しかし、彼女自身が言うように、今から黒蘆に詰め寄るよりも、明日行われる御前会議で訊ねたほうが無難だろう。
 だが、他の天卓の十三人――正確には、黒蘆、白蘭、翠菻を除いた十人――が手紙を送られる前に今回の件を知らされていたかどうかを確認するのは難しそうだ。知っていたにしろ知らなかったにしろ、彼らは若輩者の自分に正直に話してくれるだろうか。せめて蒼芭には訊いてみたいものだが。
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