【完結】堕天の末裔

邦幸恵紀

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第2部 草月歌

11 赤き太陽(前)

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 その日、神官たちが敬愛する白蘭は、朝から妙にそわそわしていた。
 神殿の外部の者は、彼をただ美しいだけの天人だと思いがちだが、実は有能な実務家でもある。天都及び神殿の最高責任者は黒蘆だったが、神殿の主要業務の統括者は白蘭だった。
 白蘭が最も優れていた点は、他人に任せられる仕事は徹底的に任せたことだった。おかげで彼がいなくとも――たとえば親友に会いにいくためにこっそり神殿を抜け出していたとしても――よほどの非常事態が起こらないかぎり、神殿の業務は滞らない。
 ゆえに、今日に限って白蘭がやたらと窓の外を見たり、執務室を出たり入ったりしていても、神官たちが困ることは特になかったのだが、普段あせるべきときでも泰然自若としている白蘭が、落ち着きのない子供のように動き回っているのを見ていると、周りにいる彼らのほうが疲れてしまう。白蘭の挙動不審の理由が丸わかりなだけになおさら。
 まだ正式に発表されてはいないが、白蘭の親友である紅蓮――白蘭が神殿を抜け出して会いにいく相手――が、天人族最強の称号でもある守護天将の御名を与えられたことは、昨日のうちに天都中の人々が知ることとなった。天人族のことわざで言うなら〝人の念波を止めることはできない〟のである。
 中には、時期尚早だ、守護天将にはふさわしくないとの意見もあったが――そんなことを言うのは、たいてい養老院の年寄りたちだった――大多数の人々は納得して受け止めた。紅蓮は人前に出ることは好まなかったが、その輝かしい――あるいは凶々しい――武勲は一般の人々にも知れ渡っていた。紅蓮ならば守護天将の御名を受けてもおかしくはない。
 その紅蓮が、今夜、神殿で開かれる御前会議に初めて出席するのだ。白蘭が落ち着かない理由は、まずそれに間違いなかった。この親友に関することならば、彼の行動は非常にわかりやすい。
 他の院であったら、そんな白蘭を奇異に思ったかもしれない。しかし、ここは神殿だった。白蘭が生まれ育った場所だった。そこで働く神官たちは、彼がこれほどに紅蓮に執着するわけを、積極的にではないが理解していた。
 神殿で隔離されて育った白蘭にとって、紅蓮は生まれて初めて得た同年代の友人だった。しかも、容姿に優れ、才覚に溢れた、神官たちにとっては鼻持ちならない子供だった。
 初めて知った自分以外の子供が、同年代で最高の子供だったのだ(悔しいが、それだけは認めざるを得ない)。他に目がいくわけがない。
 だが、たぶんそれ以上に、白蘭が生まれながらに課せられた使命、生まれる前から定められた宿業――それを思うと、神官たちはいつも沈痛な面持ちになる――が強く影響している。白蘭自身は無自覚のまま、その体に潜むものは最良のものを選択した。
 だから、その日が来るまでは、神官たちは自分たちに許される範囲内で白蘭を甘やかす。時々神殿を抜け出すくらいが何であろう。白蘭が機嫌よく戻ってきてくれればそれでいいではないか。そういうときの白蘭は、本当に幸せそうに笑うのだ――

『白蘭様』

 白蘭が窓の外に気をとられるあまり水晶玉を壊したとき、ついに年配の神官が耐えかねたように念波を発した。

『もしや本日、どなたかがいらっしゃるご予定でもあるのですか?』

 白蘭はこちらが気の毒になるほど激しく動揺して、菫色の瞳を泳がせた。

『いや、別に……そんなことはないけど……』
『では、なぜ朝からそのように外ばかり見ておられるのです? ご予定があるならあるとはっきりそうおっしゃってくださいまし。こちらもそのように対処いたしますから』

 たまたま居合わせた神官たちも心の中で大きくうなずく。はっきり言って、今の白蘭ならいてもいなくても同じ。かえっていられるほうが迷惑だ。

『本当に、予定があるわけではないんだけど……』

 この期に及んでまだそんなことを言いながら、白蘭は上目使いで年配の神官を窺った。

『今日はもう仕事に集中できそうもないから、早退させてもらってもいいかな……?』

 ――もっと早くそうすればよかったのに。
 神官たちは全員同時にそう思ったが、彼らの愛すべき上司は自分からそんなことを言い出せる性格をしていなかった。むしろ、彼らのほうがもっと早く切り出してやるべきだったかもしれない。この神官は勇気ある決断をした。

『どうぞ、ぜひそうなさってくださいまし』

 その神官が満面の笑みで白蘭に答える。しかし、彼女は最後にこの一言を付け加えることを忘れなかった。

『でも、今夜の御前会議には出席なさいますよね?』

 わかっていても言ってみたい。反応を見てみたい。
 案の定、白蘭は頭の羽と同じくらい白い頬に朱を散らせると、うん、出るよと小さく答え、昨日翠菻が置いていったという面紗を手にして、逃げるように執務室を出ていってしまった。
 神官たちは笑顔で見送ってから、そろって溜め息をついた。
 ――愛しい愛しい白蘭。いつまでも、私たちの子供でいてほしかった。

 * * *

 婉曲に早退を促されてしまった白蘭は、少し悩んだ後、仕事が終わったら行こうと思っていた場所――本当に、仕事をする気だけはあったのだ、体がついてこなかっただけで――へ向かった。
 天都で最大の建造物は神殿である。本来の神に祈る聖域としての機能よりも、他の院を統括する中央機関としての機能が重視された結果、それだけの広さが必要となった。その内部には様々な部署があり、それらに従事する神官たちは、みな基本的に神殿内で寝起きしている。天卓の十三人も神殿の中に神官たちのものより上等な部屋を与えられているのだが、実際そこを使っているのは、十三人の中で白蘭一人だけだった。
 神殿は天都の最重要施設であるため、一般の人々が気安く立ち入ることはできない。開放されるのは儀式や祭があるときだけだ。入口には軍事院に行ったほうがよかったのではないかと思われる頑強な神殿兵が交替で常に立っており、一部の選ばれた人々以外の入殿を厳しく排除している。
 だが、神官たちが無骨な神殿兵に歩き回られることを嫌ったため、神官たちの居住区――幼い頃、白蘭がほとんどの時間を過ごした場所――の警備は意外と甘い。定期的に見回りは行われるものの、その気になれば外部から侵入することも不可能ではない。
 しかし、そのような不届き者は天人族にはいなかったのか、いたとしても何らかの理由で許されたため記録には残らなかったのか、これまでそのような事態が起こったことはない、ということになっている。
 久しぶりに訪れたそこは、昔より狭くなったように見えた。縮小工事をした覚えはないから、これは単純に当時の自分が小さかったから広く感じていただけのことだろう。見覚えのある長椅子に腰を下ろしてから、白蘭ははたと我に返って途方に暮れた。

 ――これからどうやって時間を潰そう?

 冷静に考えてみれば、いくら早めといっても、夜に行われる御前会議のために朝から来るはずもないのだが、もしかしたらという思いにとらわれて、何度も外を見てしまった。結果、神官たちから〝戦力外通告〟をされてしまったわけだが、ここに来てみたところで、相手がいつ来るか――それどころかここには来ないかもしれない――まったく見当がつかない。

 ――こんなことなら、時間を指定しておけばよかったかな。

 指定したところで、あの男がそれを守るとも思えないが。
 そのとき、強めの風が吹いて、手に持っていた翠菻の面紗が乱れた。それを直しながら、ふと思いつく。

 ――これを翠菻に返しにいこうか。

 昨日は本当に申し訳ないことをした。自分が歌を歌ってくれと頼んだのに、こともあろうか居眠りをしてしまった。翠菻はきっと気分を害したことだろう。
 白蘭が目を覚ましたときには、彼女はもうとっくの昔に帰ってしまっていて、自分の体にはこの面紗が掛けられていた。翠菻となら御前会議の前に会う機会もあるかもしれないと思って、いつ会ってもすぐに返せるようにと持ち歩いているのである。

 ――さすがにいい匂いがするな。

 鼻を近づけなくても、風に乗って面紗の移り香が漂ってくる。いつかあの男は白蘭のことをいい匂いがすると言ってくれたが、翠菻のと比べたらこちらのほうがいいと言うのではないだろうか。

 ――やっぱり、返しにいくのはやめよう。

 翠菻とは御前会議のときに会えるのだし。やはりここを離れたくないし。だが、夜になるまではまだかなりある。退屈だ。
 昔、ここに一人きりでいた頃は、何時間でも何もしないで座っていられていた気がする。あの頃の自分はいったい何を考えていたのだろう。今でもここから天恵の樹は眺められるが、成長した今ではもう見飽きてしまった。天人族にとって唯一無比の宝だとわかってはいても、あれを見ていると例のわだかまりを思い出してしまう。

 ――歌でも歌ってみようかな。

 昨日、翠菻が歌っていた歌。あれはよかった。あまりにも心地よかったから、つい眠ってしまったのだ。今日、そう言って謝ることにしよう。
 口の中で小さく歌をそらんじながら、戯れに翠菻の面紗をかぶってみる。
 翠菻のものを身につけたら、翠菻のようにうまく歌えるのではないかと思ったのだ。天人族でも地人族でも、別段突飛な発想ではない。

 ――確か……

 記憶力のよい白蘭だが、一度聞いただけの歌を再現するのは、やはり簡単なことではなかった。しかし、それだけいい時間潰しにもなる。白蘭は時を忘れて熱中した。
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