【完結】堕天の末裔

邦幸恵紀

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第2部 草月歌

14 御前会議(前)

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 ――ああ、なるほど。

 神殿の柱廊で、成人した紅蓮の姿を目にした瞬間、神官たちはなぜ自分たちの愛しい上司があれほどこの男に執着するのか納得した。納得せざるを得なかった。

 ――なるほど。これでは仕方がない。

 この世でいちばん美しいのは白蘭だと固く信じている彼らだったが、この守護天将候補――まだ正式に決定されてはいないので――は、白蘭とはまったく違った意味で美しかった。
 一言で言うなら、均整美。屈強な戦士である紅蓮は、理想的に鍛え上げられた大柄な体と、それにふさわしい堂々たる翼を持っていた。
 おまけに、印象的な緋色の長い髪を鬱陶しそうに掻き上げると、その下から現れる顔は、意外なくらい理知的で端整なのだ。
 そういえば、学問所時代は白蘭と首位を争っていた。そこも白蘭の中では好印象だったに違いない。

 ――なんて嫌味な男だ。

 神官たちは心の中で毒づいたが、その男の横で白蘭は、かつて自分たちが見たことがないくらい嬉しそうに笑っているのである。
 彼はこの出来すぎた親友が自慢でならないのだ。その気持ちはわからないでもなかったが、白蘭の場合、自慢以外の感情も多分に含まれていると簡単に推測できてしまうだけに、神官たちは微笑ましく見守る気にまったくなれないのだった。

『紅蓮様』

 あえて白蘭は見ないようにして、神官の一人が守護天将候補を呼び止めた。
 すぐに紅蓮は足を止め、その神官を見下ろした。

『何か?』

 ――若造のくせに、どうしてそんなに偉そうなんだ。
 言いがかりとしか思えないことを心の中で呟きつつ、表面上は丁寧に頭を下げる。

『申し訳ございませんが、紅蓮様は他の天卓の方々とは別室にて控えるようにとの黒蘆様からのご命令です。ご案内いたしますのでどうぞこちらへ』
『聞いていないよ』

 間髪を入れず白蘭が抗議する。御前会議が始まるまで、天卓の面々が待機する控えの間に紅蓮を連れていくつもりでいたのだろう。白蘭の望みを叶えてやりたくとも、黒蘆の命令は絶対だ。しかし、今回ばかりは黒蘆の判断に感謝する。これ以上この男を白蘭と一緒に歩かせてなるものか。

『白蘭様は早退されていらっしゃいましたから』

 すかさずそう答えると、案の定、白蘭は怯んで黙りこんでしまった。

『早退?』

 紅蓮が怪訝そうに白蘭を見やる。仕事が手につかずに早退していたことを、さすがに紅蓮には話していなかったようだ。あわてて何でもないよとごまかし――実際はまったくごまかせていなかったが――何でそれを紅蓮の前で言うんだと神官を睨みつけた。普段なら傷つくが、今はいっそ快感だ。

『そういうことなら仕方あるまい』

 紅蓮は苦笑いすると――白蘭の反応で、だいたいのところは察したらしい――白蘭の肩を軽く叩いた。そう怒るなということらしい。それで白蘭が素直にやめるのがまたむかつく。もっとも、紅蓮が何をしても神官たちが気に入ることはないだろうが。

『わかった。行こう。白蘭、また後でな』
『……うん』

 白蘭はがっかりしたような表情を隠せなかったが、黒蘆の命令なら従わざるを得ないと思ったのか、神官の後を追って離れていく親友を笑顔で見送った。
 あの男が正式に守護天将となったら、御前会議のたびにこのような光景を目にしなくてはならないのだ。否。天卓の十三人は、自由に神殿を出入りできるばかりか、その一角に自室を持つことができる。もしかしたら、これから毎日、あの姿を見かけることになるのかもしれない。そう想像しただけで、うんざりしてしまう神官たちであった。

 * * *

『翠菻!』

 控えの間で、馴染みの天人の姿を見つけた白蘭は、真っ先に彼女の元へと駆けつけた。
 今日は青い面紗を身につけている翠菻は、穏やかに笑って白蘭に会釈した。

『昨日は本当にすまなかった! 君の歌があまりに心地よかったものだから、つい眠くなってしまって!』

 翠菻が何か言う前に、白蘭は自分の言いたいことを言った。翠菻は面食らったようだったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

『それは歌い手にとって最高の褒め言葉ですわ。私も失礼かとは思いましたが、よくお休みのご様子だったので、そのまま退室させていただきました。……白蘭様。もしや、それは私の……?』

 翠菻の眼差しが白蘭の肩に掛かっている薄緑の布に注がれる。白蘭はあわてて外そうとして固く結ばれた結び目に手を置き、そこで動きを止めた。

『うん……これは、君が昨日置いていった面紗だよ。私が風邪でも引くと思ったのかい? 君が思っているほど私は弱くはないよ。でも、ありがとう。実は、今日君に返そうと思って持ち歩いていたのだけど、見てのとおり、皺だらけにしてしまって……』

 言いよどみ、ためらったあげく、翠菻を見つめた。

『それで……もしよかったら、これ、このまま私にくれないかな?』
『は?』

 翠菻はあっけにとられたように目を見開いた。

『それはまったくかまいませんけれど……もし、皺のことをお気になさっているのでしたら、それは洗って伸ばせば直るものですから……』
『うん……そうなんだけど……気に入ったから』

 結び目をいじりながら、小さく答える。
 ――嘘だ。
 本当は、紅蓮が結んでくれたこの結び目を、解きたくなかったから。
 今日の日の思い出として、ずっと手元に残しておきたいと思ってしまったから。

『そうですか。白蘭様がそうおっしゃるのでしたら、私はまったくかまいません。そのようなものでよろしければいくらでも』
『じゃあ、翠菻。これの代わりになるものを何かあげるよ』

 よく謝って返せと紅蓮に言われていただけに、後ろめたいものを感じていた白蘭は、それをごまかすためにことさら明るく言った。

『いいえ、そんな。本当に大したものではございませんから』

 翠菻は恐縮して頭を下げる。

『でも、申し訳ないから。何かないかな……』

 白蘭は自分の体をまさぐってみたが、面紗の代わりになるようなものなど持ち歩いているはずもない。まさかこの神官服を脱いで渡すわけにもいかないだろう。渡されたほうが迷惑だ。と白蘭は思った。

『困ったな。じゃあ、あとで綺麗な布を見繕って君に贈るよ』
『白蘭様。本当にかまいませんから。どうぞお気遣いなさらず』

 翠菻にしてみれば、自分のものを白蘭がもらってくれるだけで嬉しかった。その上、白蘭から何かをもらうなんて、とんでもないことだと思う。もっとも、その理由を知らされていたら、深く落胆していただろうが。

『いいんだよ。昨日歌も歌ってくれただろう。あれのお礼も入っていると思ってくれれば』

 白蘭は屈託なく微笑むと、あ、そうだと両手を鳴らした。

『昨日歌ってくれた歌だけど、私に教えてくれないか? すごく気に入ったから、私も自分で歌えるようになりたいんだ』

 やはり記憶頼りの独学では無理がある。せっかく身近に最高の音楽教師がいるのだ、直接指導してもらったほうが上達も早かろう。

『もちろん、喜んで。いつでも白蘭様のご都合のよろしいときに』

 翠菻は感激したように白い頬を上気させた。
 控えの間には、白蘭と翠菻の他に、七人の天卓の天人たちがいた。ある者は白蘭たちのように立ち話をしたり、ある者は椅子に腰かけて寛いだり、またある者は水晶に書かれた文書を読んだりして、御前会議開始までの時を過ごしている。
 初回こそ一人一人回って挨拶をしたものの、さすがに御前会議のたびにそれを繰り返すのは面倒になった白蘭は、今では翠菻以外の天卓には、こちらに用があるとき以外は近づかず、したがって挨拶もしない。
 今ここにいるのは、自分と翠菻を含めて九人だから、黒蘆とすでに謁見の間にいるはずの文天・朱葭シュカを除くと、まだ来ていない天卓は二人ということになる。

『まだ、蒼芭殿と黄英コウエイ殿が来ていないのか』

 建前上、天卓同士であれば立場は同等ということになっているので、公の場では白蘭は〝殿〟を使う。無論、あくまで建前であって、たとえば黒蘆には必ず〝様〟をつけるし、翠菻には何もつけない。
 その選択基準は何かと問われれば、やはり上下関係なのだろう。朱葭は〝殿〟をつけてくれるが、白蘭と翠菻は呼び捨てで呼ばれることが多い。年の差は確実に存在するのだ。

『まあ、そういえばそうですわね。珍しいこと。いつも早い時間にお見えになるのに』

 白蘭の指摘に翠菻が軽く目を見張る。その二人は、白蘭が翠菻以外によく言葉を交わす天卓の天人だった。蒼芭は今日守護天将となるはずの紅蓮の関係者ということで、黄英は自分を生み出した科学院の長ということで、それぞれ昔なじみだった。
 二人とも、外見も言動も雰囲気もまったく違うのだが、自分に対する態度はどこか似ている気がする。何か他に言いたいことがあるのだが、どうしても言えずにどうでもいいようなことを話しているようなもどかしさ。言いたいことがあればはっきり言えばいいのにと内心白蘭は思っているのだが、藪蛇になりそうなので、あえて気づかないふりをしつづけている。

『もうそろそろ時間だよね……』

 白蘭がそう言いかけたとき、まるでそれが聞こえていたかのように、蒼芭が控えの間に入ってきた。たまたま目が合ってしまったので会釈だけする。
 いつもなら、向こうのほうから何かしら話しかけてくるのだが、今日はわずかにうなずいたきり、すぐに顔をそむけてしまった。
 やはり、紅蓮の天卓入りが面白くないのだろうか。白蘭が首を傾げたとき、謁見の間へと通じる扉が開き、黒蘆付きの神官が現れて、ご準備が整いましたのでどうぞお入りくださいと言った。
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