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第2部 草月歌
27 重い闇(後)【完】
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突然、育児院を訪れた守護天将に、猫によく似た顔を持つ育児官は緑の目を丸くした。
紅蓮がここにいたときにもいた育児官なのかはわからなかったが、向こうは彼を知っていた。
『まあ、紅蓮様。いったいどうなされました?』
『いや……ただ何となく』
正直に黄英に勧められたからだと答えるわけにもいかず言葉を濁すと、その育児官は得心顔で両手を叩いた。
『ああ、もしかして、白蘭様をお捜しですか?』
『白蘭? なぜここに?』
ひどく驚いた紅蓮を見て、育児官は自分が余計なことを言ってしまったのではないかと不安そうな表情になった。が、今さらもう取り消すわけにもいかないと思ったのか、覚悟を決めたように紅蓮の問いに答えた。
『いえ、今日はいらっしゃっておりませんが、時々お見えになるんです。……ご存じありませんでしたか?』
知らなかった。正式に許婚となってからは、事情の許すかぎり夜を共にしているが、育児院に行ったと聞かされたことは一度としてなかった。
『ああ。俺はまったく知らなかった。いったい何をしに?』
『あら、では申し上げないほうがよかったかしら』
とたんに育児官は狼狽して、立ち去りたいようなそぶりを見せた。
ここで逃げられるわけにはいかない。紅蓮は彼女を怯えさせないよう、白蘭には黙っておくから詳しいことを教えてほしいと極力穏やかに頼みこんだ。
『そうですか。それなら……』
育児官はほっとしたように胸を撫で下ろすと、にこやかに語り出した。
『白蘭様はこちらに子供たちの顔を見にいらっしゃるんです。忙しいときには、恐れ多いことですけれども、私どもを手伝ってくださいます。きっと、早くご自分のお子が欲しくていらっしゃるのでしょうね。紅蓮様とのお子でしたら、それは美しく健やかなお子になるでしょう』
――だから言わなかったのか。
我知らず、紅蓮は眉をひそめた。
白蘭はまだ子供を産める状態にない自分のことをひどく嫌がっている。紅蓮はまったく気にしていないのだが――そもそも、子供を産ませたいと思って愛したわけではない――本能によるものなのか、教育によるものなのか、しばしば早く子供が欲しいと訴える。
まったく黄英の言うとおりだった。子供に対する白蘭の切実さには、紅蓮はいつも強く困惑させられる。きっとその感情は白蘭にも伝わっていたのだろう。その日あった出来事を逐一話す白蘭が、この育児院のことだけは黙っていたということはそういうことだ。
『すまないが、生まれたばかりの子供を見せてもらえないだろうか』
育児官の追従を聞き流して、紅蓮は自分がここへ来た目的を端的に告げた。
『あ、はい、それはかまいませんけれど……育児官長をお呼びいたしますか?』
『いや、実はあまり時間がないんだ。すぐに帰るから、このまま案内してもらいたい』
育児官は少し考えてから、かしこまりましたと頭を下げて紅蓮を先導した。
育児院は、生まれたばかりの乳児を収容する乳児舎――生命維持に問題のある乳児は医療院のほうへ回される――と、学問所へ上がる前までの幼児を収容する幼児舎の二つに分かれている。ちょうど歌の練習でもしているのか、幼児舎のほうからは、不揃いな幼い声がかすかに聞こえた。
紅蓮にもあのような時代が確かにあったはずなのだが、どういうわけかあまりよく覚えていない。いつか白蘭にそう漏らしたら、君にとって楽しいことが少なかったからじゃないのかいと言われて思わず納得してしまった。道理で白蘭と出会ってからの記憶ばかりが鮮明なわけだ。
乳児舎の中を案内されている間、時折、他の育児官ともすれ違った。
育児院にはまったく不似合いな大男を見かけると、彼らは皆一瞬硬直したが、すぐに含み笑いをして会釈をし、通り過ぎていった。
いったい何をしにきたと思われているのだろうと、紅蓮は少しだけ気になった。
『こちらです』
奥まった一室の扉を育児官が開けた。
意外と狭い室内には、小さな寝台が十台ほど並べられていた。近寄って寝台の中を覗いた紅蓮は、反射的に顔をしかめた。
――何だ、これは。
黄英が言っていたとおり、どの赤子も羽なしに近い体をしていた。
無論、天人族の証である羽も体のどこかしらに生えている。しかし、足りない部分のない赤子は一人としていないのだった。
目がない。手がない。足がない。耳がない。何もない。
いずれも寝台に取りつけられた装置に繋がれて、緩やかな呼吸を繰り返していた。
『驚かれましたか?』
紅蓮が何を思ったのか表情でわかったのだろう。自分のせいでもないのに育児官は申し訳なさそうに話しかけてきた。
『近頃は無事に生まれてくる子供も少なくなって。この子たちもようやく命を取り留めたような状態です』
『これほど、体の欠損した子供が多いのか』
『今ではこれが当たり前ですよ。紅蓮様や白蘭様のように五体満足で生まれてくる子供のほうが珍しいくらいです。だから、お二人が選ばれたのではありませんか。完全な天人の子を生み出すために』
緋色の長い髪の陰で、紅蓮は口元を歪めた。
『完全か……そのためには、何を犠牲にしてもよいのか』
『紅蓮様?』
『何でもない。邪魔をしたな』
『いえ、とんでもない。……今日こちらへいらっしゃったことは、白蘭様には秘密にされたほうがよろしゅうございますか?』
『そうしてもらえると助かる。あれに余計な気は遣わせたくない』
『承知いたしました。もしよろしければ、今度はお二人でおいでくださいませ』
笑顔で頭を下げる育児官に、紅蓮はただ曖昧な微笑を返した。
* * *
今の時間なら執務室にいるだろうと当たりをつけると、案の定、白蘭はそこにいた。
例によって、神殿の入口から入るのが面倒だった紅蓮は、執務室の窓から中へ侵入した。
『紅蓮? どうしてここに?』
ちょうど水晶玉を読んでいた白蘭は、菫色の瞳を大きく見張った。
『確か、地上に降りるんじゃなかったっけ?』
『急におまえに会いたくなったんだ』
白蘭は赤くなったが、これではいけないと思い直したのか、無理に怒ったような表情を作った。
『君、公私混同はしたくないって言ったじゃないか。また蒼芭様に嫌味を言われるよ』
『悔しかったら、おまえも許婚を決めてもらえと言い返してやれ』
『そんなこと、言えるわけがないだろう』
呆れたように笑う唇を軽く塞いだ後、紅蓮は白蘭の細い体を強く抱きしめた。
生きていてほしい。
たとえどのような形になってもかまわない。
この許婚に生きていてほしい。
『どうしたの? 何かあったの?』
紅蓮の胸の中で、怪訝そうに白蘭が問う。
『別に。何もない』
そう答えながら、紅蓮は漠然と思っていた。
――白蘭。俺がおまえの子を見ることは、きっとない。
―第2部・了―
紅蓮がここにいたときにもいた育児官なのかはわからなかったが、向こうは彼を知っていた。
『まあ、紅蓮様。いったいどうなされました?』
『いや……ただ何となく』
正直に黄英に勧められたからだと答えるわけにもいかず言葉を濁すと、その育児官は得心顔で両手を叩いた。
『ああ、もしかして、白蘭様をお捜しですか?』
『白蘭? なぜここに?』
ひどく驚いた紅蓮を見て、育児官は自分が余計なことを言ってしまったのではないかと不安そうな表情になった。が、今さらもう取り消すわけにもいかないと思ったのか、覚悟を決めたように紅蓮の問いに答えた。
『いえ、今日はいらっしゃっておりませんが、時々お見えになるんです。……ご存じありませんでしたか?』
知らなかった。正式に許婚となってからは、事情の許すかぎり夜を共にしているが、育児院に行ったと聞かされたことは一度としてなかった。
『ああ。俺はまったく知らなかった。いったい何をしに?』
『あら、では申し上げないほうがよかったかしら』
とたんに育児官は狼狽して、立ち去りたいようなそぶりを見せた。
ここで逃げられるわけにはいかない。紅蓮は彼女を怯えさせないよう、白蘭には黙っておくから詳しいことを教えてほしいと極力穏やかに頼みこんだ。
『そうですか。それなら……』
育児官はほっとしたように胸を撫で下ろすと、にこやかに語り出した。
『白蘭様はこちらに子供たちの顔を見にいらっしゃるんです。忙しいときには、恐れ多いことですけれども、私どもを手伝ってくださいます。きっと、早くご自分のお子が欲しくていらっしゃるのでしょうね。紅蓮様とのお子でしたら、それは美しく健やかなお子になるでしょう』
――だから言わなかったのか。
我知らず、紅蓮は眉をひそめた。
白蘭はまだ子供を産める状態にない自分のことをひどく嫌がっている。紅蓮はまったく気にしていないのだが――そもそも、子供を産ませたいと思って愛したわけではない――本能によるものなのか、教育によるものなのか、しばしば早く子供が欲しいと訴える。
まったく黄英の言うとおりだった。子供に対する白蘭の切実さには、紅蓮はいつも強く困惑させられる。きっとその感情は白蘭にも伝わっていたのだろう。その日あった出来事を逐一話す白蘭が、この育児院のことだけは黙っていたということはそういうことだ。
『すまないが、生まれたばかりの子供を見せてもらえないだろうか』
育児官の追従を聞き流して、紅蓮は自分がここへ来た目的を端的に告げた。
『あ、はい、それはかまいませんけれど……育児官長をお呼びいたしますか?』
『いや、実はあまり時間がないんだ。すぐに帰るから、このまま案内してもらいたい』
育児官は少し考えてから、かしこまりましたと頭を下げて紅蓮を先導した。
育児院は、生まれたばかりの乳児を収容する乳児舎――生命維持に問題のある乳児は医療院のほうへ回される――と、学問所へ上がる前までの幼児を収容する幼児舎の二つに分かれている。ちょうど歌の練習でもしているのか、幼児舎のほうからは、不揃いな幼い声がかすかに聞こえた。
紅蓮にもあのような時代が確かにあったはずなのだが、どういうわけかあまりよく覚えていない。いつか白蘭にそう漏らしたら、君にとって楽しいことが少なかったからじゃないのかいと言われて思わず納得してしまった。道理で白蘭と出会ってからの記憶ばかりが鮮明なわけだ。
乳児舎の中を案内されている間、時折、他の育児官ともすれ違った。
育児院にはまったく不似合いな大男を見かけると、彼らは皆一瞬硬直したが、すぐに含み笑いをして会釈をし、通り過ぎていった。
いったい何をしにきたと思われているのだろうと、紅蓮は少しだけ気になった。
『こちらです』
奥まった一室の扉を育児官が開けた。
意外と狭い室内には、小さな寝台が十台ほど並べられていた。近寄って寝台の中を覗いた紅蓮は、反射的に顔をしかめた。
――何だ、これは。
黄英が言っていたとおり、どの赤子も羽なしに近い体をしていた。
無論、天人族の証である羽も体のどこかしらに生えている。しかし、足りない部分のない赤子は一人としていないのだった。
目がない。手がない。足がない。耳がない。何もない。
いずれも寝台に取りつけられた装置に繋がれて、緩やかな呼吸を繰り返していた。
『驚かれましたか?』
紅蓮が何を思ったのか表情でわかったのだろう。自分のせいでもないのに育児官は申し訳なさそうに話しかけてきた。
『近頃は無事に生まれてくる子供も少なくなって。この子たちもようやく命を取り留めたような状態です』
『これほど、体の欠損した子供が多いのか』
『今ではこれが当たり前ですよ。紅蓮様や白蘭様のように五体満足で生まれてくる子供のほうが珍しいくらいです。だから、お二人が選ばれたのではありませんか。完全な天人の子を生み出すために』
緋色の長い髪の陰で、紅蓮は口元を歪めた。
『完全か……そのためには、何を犠牲にしてもよいのか』
『紅蓮様?』
『何でもない。邪魔をしたな』
『いえ、とんでもない。……今日こちらへいらっしゃったことは、白蘭様には秘密にされたほうがよろしゅうございますか?』
『そうしてもらえると助かる。あれに余計な気は遣わせたくない』
『承知いたしました。もしよろしければ、今度はお二人でおいでくださいませ』
笑顔で頭を下げる育児官に、紅蓮はただ曖昧な微笑を返した。
* * *
今の時間なら執務室にいるだろうと当たりをつけると、案の定、白蘭はそこにいた。
例によって、神殿の入口から入るのが面倒だった紅蓮は、執務室の窓から中へ侵入した。
『紅蓮? どうしてここに?』
ちょうど水晶玉を読んでいた白蘭は、菫色の瞳を大きく見張った。
『確か、地上に降りるんじゃなかったっけ?』
『急におまえに会いたくなったんだ』
白蘭は赤くなったが、これではいけないと思い直したのか、無理に怒ったような表情を作った。
『君、公私混同はしたくないって言ったじゃないか。また蒼芭様に嫌味を言われるよ』
『悔しかったら、おまえも許婚を決めてもらえと言い返してやれ』
『そんなこと、言えるわけがないだろう』
呆れたように笑う唇を軽く塞いだ後、紅蓮は白蘭の細い体を強く抱きしめた。
生きていてほしい。
たとえどのような形になってもかまわない。
この許婚に生きていてほしい。
『どうしたの? 何かあったの?』
紅蓮の胸の中で、怪訝そうに白蘭が問う。
『別に。何もない』
そう答えながら、紅蓮は漠然と思っていた。
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