【完結】Doctor Master

邦幸恵紀

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第二話 呉博士の逆襲!

10 基本的に空手(2)

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 たぶん、二分は持たないだろうと若林は言った。
 ――まず、関節系がいかれる。ここが駄目になったら、立つこともできなくなる。だから、その前に勝負をつけてくれ。

(言うのは簡単だけど、やるのは困難だよ)

 夕夜は内心文句を言いながら、ネクタイをワイシャツの中へ潜りこませた。
 夕夜がモエに比べて有利なのは、身長と体重が彼女よりあるということだけだ。モエの急所に体重を乗せた蹴りを入れられさえすれば、一撃で勝負をつけることができるかもしれない。だが、当てられなければ、体が大きいのは不利になる。モエのスピードについていけず、逆に夕夜が急所に蹴りを食らえば、それで終わりだ。
 今日はレオタード姿のモエは、何の表情も持たないまま、じっと夕夜を見つめている。その顔を見て、夕夜はなぜか美奈を思い出した。
 世界でただ一体、自分と同じ製作者たちを持つロボット。楽しければ笑い、気に入らなければ怒る。夕夜はそれを当たり前のように思ってきたが、実は奇跡のようなことなのだ。世間では、モエのようなロボットでさえ、よくできていると絶賛される。
 どちらが幸せということは言えないが、もし美奈がモエのようだったら、自分はずいぶん寂しかっただろうなと思う。いくら微笑んでも微笑み返してくれない。製作者に対する思いを共有することもできない。

「僕は今でもこんなことはしたくないんですが」

 今さらながら、夕夜はモエに対して言った。

「〝妹〟を取られたくないから戦うんだと、そう考えることにしました」

 モエは何も言わなかった。何も言う必要はないと考えたのか。それとも、言うべきことを考えられなかったのか。夕夜にはわからなかった。
 審判が進み出て、夕夜とモエの間に立った。ざわめいていた会場が、一瞬にして静まり返る。

「礼」

 審判に言われて、夕夜は軽く頭を下げたが、モエのお辞儀はひどくぎごちなかった。何となく気まずくなって、夕夜は少し視線をそらせた。

(崖から身を投げるときって、こういう感じなのかな)

 どこか他人事のように夕夜は思う。

(自分の意志で、自分の体の支配を手放す……)

 審判が手を挙げた。

 ――モード切替準備完了。終了はパスワードもしくは試合終了の合図による。

「はじめ!」

 ――切替開始。




 はじめの合図と同時に仕掛けてきたのはモエだった。
 夕夜の首に、いきなり上段蹴り。
 普通なら避けることもできないタイミングと速さだったが、夕夜はそれを紙一重でかわした。が、反撃に出る前に、モエはもう次の蹴りを放っていた。あわやというところで身をのけぞらせ、夕夜はその蹴りもかわした。
 モエが蹴り、夕夜がかわす。それが何度か繰り返された後、夕夜はモエの隙をついて軸足を払った。
 モエはバランスを崩したが、すぐにトンボを切って身構えようとした。
 そのモエの細腰に、夕夜は蹴りを叩きこんだ。モエはくの字形になり、そのまま吹き飛ばされた。

「モエッ!」

 千代子が悲鳴のような声を上げた。
 だが、モエは空中で体勢を立て直し、マットに膝をついて着地すると、そこからまっすぐ走って夕夜に跳び蹴りした。鋭い爪先は夕夜のネクタイを掠め、ワイシャツから弾き出した。
 少し夕夜の体勢が崩れたところで、モエは夕夜の腹めがけて正拳突きを放った。
 おお! と会場中がどよめいた。
 モエの攻撃は、もろに入ったように見えた。しかし、夕夜はモエの突きを、間一髪、自分の手で防いでいた。
 もはや空手の試合ではなかった。だが、誰も何も言わなかった。――否。言えなかったのだ。人間同士では考えられないスピードに。審判もあっけにとられた様子で、すっかり観客になってしまっている。

「まーちゃん……」

 美奈が怯えたような顔をして、正木の腕を抱えこんだ。

「夕夜が……夕夜じゃないみたい……怖い……」
「そうだ。あれは夕夜じゃない」

 美奈の頭を抱き寄せて囁く。

「一時的に、感情システムをストップさせてる。ためらいがないから、あれだけ動けるんだ」
「どうしてそんなことしたの?」

 じっと美奈に見つめられ、正木は思わず言葉に詰まった。

「それは……」
「人間にはできないからよ」

 いつのまにかそばに来ていた千代子が、正木の代わりに答えた。しかし、その目はモエに向けられたままである。

「人間にはできないから……だから、ロボットにさせてみたくなる。でも、正木。あんたがモード切替なんて考えたのは、モエがきっかけでしょ? 格闘は制限時間つきの非日常だわ。それならその間だけ、日常生活に必要なものを捨て去ればいい。会話能力も思考能力も、封印してしまえばいい」
「私もそうしたの?」
「……おまえにはないよ」
「どうして? 私もロボットなのに」
「美奈ちゃんの体は、格闘向きにはできてないのよ」

 美奈の質問に、またしても千代子が答える。

「でも、夕夜は違う。あらゆることができるように、改造されつづけてるはずだわ。問題は……耐久性だけ」
「そろそろまずいか……」

 正木は経過時間を表示しているデジタル時計に目をやった。
 すでに一分を過ぎている。が、夕夜もモエもこれといった決定打を出せていない。審判は巻き添えを恐れて、とっくの昔に職務を放棄した。下手に止めれば殺される。
 だが、ふと夕夜が膝をついた。すぐに立ち上がって、モエの蹴りを防いだが。

「関節が……いかれだしたな」
「夕夜ぁ。もういいよ。負けてもいいよ」

 泣きそうな声で美奈が呼びかける。

「悪いのは、若ちゃんとまーちゃんだからぁ……」

 しかし、感情システムを凍結している夕夜には、〝妹〟の声も聞こえない。モエと同じ無表情で、一進一退の攻防を繰り返す。

「誰か止めて……まーちゃん!」

 美奈にすがるような目で見上げられ、正木は口を開きかけた。が。

「駄目よ、正木」

 千代子は横目で正木を睨んだ。

「言ったはずよ。これは私のプライドを賭けた戦いだって。時間切れか勝負がつくまで、試合を止めることは許さない。……ごめんね、美奈ちゃん。恨むなら、私を恨んで」

 美奈は何も言えず、正木の腕を強く握った。
 その間にも、夕夜の膝の状態は明らかに悪化していた。今まで拮抗していたが、だんだんモエに押されるようになってきたのだ。じりじりと追いつめられ、正木たちのいる一角に近づいてくる。

「危ないな……」

 正木は眉をひそめて、美奈と千代子を後ろに下がらせようとしたが、千代子はその場から動こうとしない。
 そうしている間に、とうとう夕夜はマットの端まで追いつめられた。その背が正木たちの目の前にある。このままでは二人の戦いに巻きこまれかねない。

「おい、千代子……」

 正木が彼女の腕をつかもうとしたとき、突然、夕夜が体を沈めた。
 夕夜の頭を狙って放たれたモエの蹴りは、千代子のこめかみ目がけて鋭く切りこんでいく。

「千代子!」

 あわてて正木は彼女を引き寄せようとした。
 その瞬間、凄まじい勢いで迫っていたモエの足は、千代子のこめかみに激突する寸前で、ぴたりと止まった。
 モエが自分の意志で止めたのだ。

「モエ……」

 千代子がそう呟いたとき、すでにモエは彼女の前にいなかった。
 モエが動きを止めた一瞬、夕夜が彼女の首に手刀を入れて吹き飛ばしていた。
 首はロボットにとっても急所の一つだ。マットに投げ出された彼女は、すぐに起き上がろうとしたが、手も足も動かなかった。
 そんなモエに夕夜はゆっくりと歩み寄り、彼女の腹に突きを入れようとした。

「〝終わり〟だ! 夕夜!」

 正木がそう叫んだ瞬間、夕夜は動きを止めた。
 自分の足許に転がっているモエを見つめてから、緩慢に正木を振り返る。

「〝終わり〟だ。もうモエは動けない。おまえの勝ちだ、夕夜。……もう、戦わなくていい」
「……僕は今、何をしようとしていました?」

 夕夜は自分の両手を広げて凝視した。

「まさか……」
「モエ! モエ!」

 呆然と立ちつくす夕夜の横で、千代子が泣きながら、モエにとりすがっていた。
 モエは目を見開いたまま動かない。首の部分はひしゃげて、中が露出していた。

「僕は……」

 夕夜の体が大きくかしぐ。正木が駆け寄ろうとした、そのとき誰かが夕夜の体を支えた。

「すまなかった。もう二度と、おまえにこんなことはさせない」
「若林博士……」

 若林は夕夜をマットの上に座らせると、濡れたタオルを膝に当てた。とたんにタオルがジュッと音を立てる。

「膝が焼けたな……これじゃ歩けないだろ。今、車椅子持ってくる」
「夕夜ぁ!」

 美奈が飛び出してきて、夕夜の膝を覗きこむ。涙は出ていなかったが、顔はすっかり泣き顔だった。

「夕夜、痛い? 痛い?」
「痛いっていうか……感覚がないかな……」

 そう答えながら、隣のモエと千代子に目をやる。
 戦闘モードに切り替えると、夕夜の人格ばかりか、その間の記憶まで失われてしまう。たぶん、わざと正木がそうしたのだ。良心の呵責を覚えないように。
 しかし、通常モードに戻れば、結果が目の前にある。いずれにしろ同じだ。

「おい、審判」

 自分を正気に戻した声を追って顔を上げると、野球帽にサングラス姿の正木が立っていた。

「この試合……夕夜の勝ちだよな? それだけはっきりさせといてくれ」
「は……はい、そう……ですね」

 腑抜けのようになっていた審判は、やっと我に返って、何度もうなずいた。

「はい、そうです、夕夜さんの勝ちです!」
「だそうだ。千代子。文句はないな?」
「……ええ。ないわ」

 硬い声で千代子が答える。正木は横たわったままのモエに手を伸ばすと、横抱きにして立ち上がった。

「正木……」
「さすがにロボットは重いよな。……どけよ。邪魔だ」

 正木は観客をかきわけて、さっさと出口に向かって歩いていく。千代子はあわてて立ち上がり、正木の後を追った。
 観客たちは、最初は黙って正木たちを見送っていた。が、一人、二人と拍手をしはじめ、すぐに会場全体が喝采で満たされた。

「正木! あんた、何してんのよ! あんたは勝者でしょ? 何でモエを運ぶのよ!」

 歓声に掻き消されそうになりながら、千代子が声を張り上げる。

「馬鹿言うな。おまえじゃモエを運べないだろうが」
「そういう問題じゃないわよ! あんたは……!」

 正木は千代子を振り返り、そして、夕夜たちをちらりと見やった。

「俺はおまえの親友だろ。親友を助けて何が悪い」
「正木……」
「それより、モエを褒めてやれよ。モエはパスワードがなくても止まってくれたぜ。夕夜は……止まらなかった」
「でも、負けたわ」
「おまえが悪いんだよ。さっさと引っこまないから、夕夜に利用されたんだ」
「……え?」
「千代子、扉開けてくれ。出られねえ」

 正木に言われて、千代子は扉を開けたが。

「利用って……偶然でしょ?」
「だといいけどな」

 正木は苦く笑った。

「あいつの性格の悪さは、若林譲りだぜ?」




「まーちゃん……帰っちゃうよ?」

 正木を見送りながら、不安そうに美奈が言った。

「ああ……そうだね」

 夕夜はそれだけ答えて、自分の動かない足をさすった。
 きっと、今自分が必要なのは、モエを壊された千代子のほうだと正木は判断したのだろう。夕夜には、若林もいれば美奈もいる。正木がいなくても支障はない。

(でも……それでもやっぱり、そばにいてほしかったな……)

 若林が車椅子を持ってきて、そこに夕夜を美奈と協力して乗せた。スリー・アールのスタッフに守られながら、押し寄せる観衆の間を抜けて会場を出る。

「若林博士……」
「うん?」
「満足ですか?」

 これには、若林も苦笑いを漏らした。

「今後は、正木の言うことには絶対従うよ」
「当然です」

 夕夜は冷たく言い捨てる。

「これのせいで正木博士に会えなくなったら、一生あなたを恨みますからね」

 ――怖い。
 若林と美奈は強ばった表情で、互いの顔を見合わせた。

 ***

 若林はわずか一日で夕夜の足の修理を完了させた。
 しかし、美奈のときと同様、この一件はすぐに大学にばれ、再び教授会で叩かれる羽目になった。
 だが、今回ばかりは夕夜は同情しない。いい気味だ。
 数日後、若林と美奈の目を盗んで電話をかけると、彼はすぐに夕夜の足のことを心配してくれた。
 嬉しい。やっぱり正木が好きだ。
 夕夜は幼い子供のように表情をゆるませた。

「あの……モエさんの具合は……どうですか?」

 記憶はないが、自分がやったことには違いないので、おそるおそる訊いてみた。

『ああ、大丈夫。見た目は派手だったが、修理そのものは簡単だった。自分のせいで負けたってずいぶん悔しがってたよ。あのまま行けば、おまえの足のほうが駄目になって、絶対勝てたってさ』
「そうですね。たぶん、負けてたでしょうね」

 かえって、そのほうがよかったような気がする。そうすれば、きっと正木は夕夜のほうに来ただろうから。

『とにかく、もう二度とおまえにこんなことはさせねえよ。千代子も若林も懲りただろ。おまえも適当なところで勘弁してやれよ。元はといえば俺が悪いんだから』
「あなたがそう言うのなら従います」

 夕夜は呆れて溜め息をついた。
 結局、正木は若林を許さないでいることなんかできなくて、若林はそれを見越した上でやっていて、最終的に痛い思いをしたのは、自分とモエだけだ。
 モエは人間の見栄のために戦う自分のことをどう思っているのだろう。夕夜はやはり護身目的以外で戦うのは嫌だ。

『悪いがそうしてくれ。じゃあな、夕夜』

 そう言って、正木は電話を切った。
 電話が切れてしまっても、夕夜は受話器を置く気になれなくて、しばらく発信音を聞いていた。
 いつになったら、自分たちは取り戻せるのだろう。
 口は悪いが優しくて、奇跡のように美しいあの男を。
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