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李流伽
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李流伽が通っている学校とR学園は数駅程度の距離しかなく、乗車する列車も同じ路線を経由する。帰宅時間の込み合った夜の時間帯に李流伽は窓の外を眺めながら、時折窓ガラスに映る自分の姿が血に塗れていないことに、酷く安堵していた。
仮に群衆にも溶け込めないほどに己が凄惨な姿だったのならば、乗り物を利用することすらできず、歩くには長い道のりを重い両足と心を動かしてゆかねばならなかったのだろうから。
あれが悪夢だったと思い込むには、李流伽に残る心身の疲弊はあまりにも現実感がありすぎた。もし心というものに形があるのなら、傷一つない陶器のような白い塊にスッと極軽く刃物を横に滑らせて、つうと一滴の線ができるような華奢で痛々しい赤い傷をつけられて、時が過ぎても癒えることも消えることもなかった。
駅到着のアナウンスが流れ列車を降り、改札を抜けて見慣れた道を歩く。コンビニや喧噪や住宅街の柔らかな光たちはこの上なく日常そのもので、どこか今の李流伽には遠く、彼女を置いてけぼりに遠ざけた。
「ただいま」
自宅の玄関を開けるとそこは、確かに生活音が聞こえてくる。TVのニュースと重ね合わせるように聞こえる水道から流れる水の音は止まり、リビングに向かうとキッチンで洗い物をしている母の後ろ姿がそこにあった。
「おかえり」
ちょうどご飯ができたところだから、手を洗ったらこちらにいらっしゃいと母に告げられ、李流伽はそれに従う。テーブルには炊き立てのご飯と味噌汁、焼き魚や漬物、茄子の辛味噌炒めにサラダが並んでいる。
温かくも特別な日の献立ではない、普段通りの夕餉は李流伽を更に感傷に浸らせてしまう。
「いただきます」
いつものこの時間帯であれば、父はまだ帰宅せず仕事をしているはずだ。
(父はどこに)
すぐさま問いかけねばならないはずの言葉を無理やりに飲み込んで、代わりに彼女は「いただきます」と手を合わせた。普段から口数はすくない母子だ、黙々と食卓を囲み飯を食んでも、特に心のうちを気取られるということもない。
李流伽はもう少しだけ現実から目を背け先延ばしにし、偽りでも平穏を感じていたかった。
「お風呂沸いたから先に入っちゃいなさい」
TVを見ながら洗濯物を畳んでいる母の背を眺めながら、李流伽はバスルームへと向かう。少なくとも金銭面では裕福な家庭に育っただろう李流伽の家は大きく、バスルームも例外ではなかった。
ゆったり湯船に浸かりながら、彼女は小春と一緒に浴びたR学園のシャワー室を思い出す。あの時に流したのが誰かの血ではなく自身の汗であったことに李流伽はやはり安堵した。例え李流伽たちの血縁者が許されざる罪を犯したのだとしても、彼女たちが日常に戻ってくるためには誰も殺めず「人間」のままでいる必要があった。
「……」
貴志忠臣、大山祥吾、差由羅麻実、里井健剛……李流伽たちと同じように罪もない復讐ゲームに参加させられた哀れな贄であった彼らと自分たちの違いは、一体何だったのだろうと李流伽は思う。平和なこの時代で多少の退屈と不満を抱えながらも、それでも日常を暮らしていたはずの彼らと李流伽たちの、狂気の分岐はどこであったのか。
狂気に憑りつかれ人の道を踏み外した忠臣と祥吾は命を落としたが、最後に人の心を取り戻したようにも見えた。たとえ因果応報と罵られようとも、確かに何かを取り戻してから彼らは逝くことができた。
けれども麻実と健剛はまだ生きているはずだ……それも首輪と理性の箍が外された状態で。李流伽は、あの化け物となった者たちを開放してしまったことが気がかりだった。
「お母さん」
そろそろ就寝準備に取り掛かるはずの時間帯、李流伽は制服をきっちり着こなすと母が据わるリビングのソファの近くにやってくる。
「お母さん」
「お父さんね、もう帰ってこないかもしれない」
TVを見つめたまま動かない母はいつものように穏やかな笑みを絶やすことなく、李流伽にそう言い放った。
思えば、母が家事や作業をする時はいつも無音だった。TVやラジオなど音のするものを彼女は好まず、李流伽が幼き頃よりしーんと耳が痛くなるような張り詰めた空気の中で、母は作業をすることを好んだ。
母は、家族のために朝や夜にニュースやアニメ、バラエティなど流すことはあるものの、時折最低限の情報収集のためそれに目を向けるだけで、TVに関心のない人間だった。
帰宅時に流れたニュースのような音と水道音に違和感があった。母は父や李流伽がいなければ、基本的にTVをつけることはない。だって雑音が嫌いな人なのだから。
母は、何を見ているのだろう。
李流伽が玄関に足を踏み入れた瞬間から、日常はとうの昔に壊れていた。
母の目に映し出されている映像は、流行のドラマなどではなく先ほどまで李流伽が体験していた非日常の光景だった。教室に映し出される死体、死体、死体……少しだけ質の悪い映像が返ってリアルさを強調しているようだ。
あのゲームは公開され悪趣味な閲覧者やスポンサーたちの他に、関係者の目にも止まるようになっていたのだ。末端のいじめを見過ごしただけの関係者は、自分の子や親族が惨たらしくあっけなく殺されてゆくさまを目の当たりにして、どう思っただろうか。
心を狂わされ破壊されてしまっただろうか。それとも作りものだと、よくできたドラマだと感心でもしただろうか。悪趣味だと憤っただろうか。何をどう思おうが、画面越しに殺された演者は皆本物で、命を散らしていったというのに。
「ごめんなさいね。お母さんずっと……見てるだけで、何もしてあげられなくて」
母は、昨日と今日の全てを知っていた。いじめに加担したわけではない関係者だからこそ、この程度で済んでいるのだろうと李流伽は思う。
ただ、母の言葉はゲームに巻き込まれた娘を助けることができなかったという謝罪にしては含まれているものが重く、多いように感じ取れた。
「あの時、お父さんと別れていれば」
「……」
李流伽は小学生の頃の、あの忌まわしき記憶を思い出した。
書斎で父と青年が睦み合う淫らな不貞行為、あの時の父は青年を自分の浮気相手とすらも見ておらず、誰かに……柳城悟に重ねて己の欲を吐いていた。その残酷さとグロテスクさが、父義人の本質なのだろう。
李流伽から恋や愛という感情に嫌悪と畏怖を抱かせるきっかけとなった歪んだ過去は、未だに彼女、そして母親の心を蝕み続けている。
「お父さんに会わなければ、お父さんに近寄らなければ」
本質的なところで心が通うことがなかった父と母は、仮面夫婦よりもより割り切れない思いを互いに抱いていたのだろう。
父にとっては誰かの代用品でしかない母は、それでも長年偽りの溺愛を享受したふりをしていたが、いつでも見えないガラスに隔たれた拒絶が確かにあった。
それでも柳城悟のように、父に暴力的な情愛を向けられることはなかったのだけが唯一の救いだろうか。臓腑を蹂躙され壊されて、尊厳すら破壊されるような行為を愛として身勝手に置き換えられ繰り返し繰り返し壊れるまで、或いは壊れて朽ちるまで執着されるそれを、普通の人間は到底向けられたいとは思わないだろう。
母が焦がれるほど父は遠く、どこまでも母に優しく紳士的に、けれども真綿で首を絞めるように「お前じゃない」と拒絶し続けて、苦しめた。彼が同性の未成年との淫行が見つかった時に離婚に応じなかったのも、母に対する愛ではなく自分の城を守るためでしかなかった。いつだって彼女は義人にとって、体面を保つための都合の良い人形だった。
「お父さんに好かれていると、愛されていると勘違いしなければこんなことにならなかったのに」
不貞行為を咎め、社会的に制裁を加えていれば、もしかしたら李流伽もあの学園に呼ばれることはなかったのかもしれないのにと母は嘆く。
「……それでも、お母さんは私のお母さんだし……お父さんは私の父でしかないから」
生まれて来たこと自体が李流伽の業だというのなら、きっと今がそれを清算する時なのだろう。李流伽にとって母は母のままで憐憫の念も家族愛もあるが、父に対してはこれまで目をつぶって避けてきた底知れぬ闇を感じていた。
「お母さん、私行かなくちゃ」
「気を付けて、いきなさい」
見送る母の声は、不自然なほどに穏やかだった。
父との決別はとうに覚悟していた李流伽だが、母との別離する可能性が見えたことに未知の不安を抱く。憎い最愛を手離そうとした母は、その半分の血を受け継いだ子供をどう思うだろうか。いつか心の傷も癒えて新しい最愛を見つけようとした時に、どこか父の面影が残る自分はいつか邪魔になるのではないかと。母までいなくなってしまえば、自分は今度こそ壊れてしまうのかもしれないと、無自覚に李流伽の手先は冷たく震えている。
家のドアを開けるとタクシーが止まっていたのは、母が事前に呼んでいたからだろう。出かける直前に彼女に手渡された少なくない額のお金は、娘に対する愛なのか決別のためなのか、今の李流伽には判断がつかなかった。
「どちらまで?」
「……R学園まで」
李流伽から見ても若い男性の運転手は、少しばかり軽薄そうな軽い調子で「了解です!」と返事を返してくれる。腕は確かなのか迷うことなく道を進み、乗り心地もこんな時でなければまどろみを覚えるほどに心地よく安定している。
「R学園ねぇ、なんかTVの撮影でもあるのか貸し切りになってるよねぇあそこ。明日ぐらいまでは一般生徒も入れないって聞いたなぁ」
運転手の言葉に、李流伽はぱちりと目を瞬かせる。ほかの乗客から聞いた話の場合、情報の取り扱いとして不味いのではないかと優等生の感想がちらつくが、今思考を巡らせるのはそこではない。
復讐ゲームの主催側は、セキュリティや許可を取るのが難しい高校で三日も学校を閉鎖させることができる力があるのだ。敵対するには、李流伽はあまりにちっぽけで無力な存在だろう。
「お客さんさぁ、戦場でも行くの?」
表情を強張らせているどころか、どこか死すら覚悟した顔をしていると彼なりに心配した様子で、運転手は李流伽に声を掛けている。
若い運転手の気づかわし気な様子は、遠くの世界に帰って行った親しき変人の姿と、少しだけ重なった。
「ご武運を」
飲酒でもしたのかというぐらいに軽薄な運転手は最後までふざけ倒していたが、意外と様になっている敬礼をした瞬間、目だけはまっすぐに李流伽を見ていた。
李流伽も何故かつられるように、同じように敬礼をして見せてからタクシーを降りた。
「……」
幾度もスマホの画面を見つめては、文字を打とうか悩んで結局はやめた。今からでも許されるのならば、今度こそ彼らは日常に戻すべきだと李流伽は思った。
皆、気の良い者たちだった。本来なら殺された者たちも狂気に狂った鬼役たちも皆そうであったに違いない。怒りでも憎しみでも贖罪でもなく、李流伽はこのゲームの結末が知りたかった。
R学園の門をくぐり、李流伽は始まりの教室へと向かった。2年A組は大河、小春、芳樹の教室ではあるが、数十年前のいつかはきっと、父や柳城悟たちの教室でもあったのだろう。
もし李流伽にまだやるべきことが残されているのであれば、指示を待つならあそこだろうと思ったからだ。
階段を上りドアを開ければ、そこはつんと取り澄ました様子で綺麗に机が並べられた、教室そのものの姿があった。死体が転がっているどころか血一滴すらも落ちていない清潔な空間だ。保健の教科書も転がっていなければ、誰かが着ていたジャージが脱ぎ捨てられた様子もない。整理整頓という言葉を絵に起こしたような空間だ。
だからこそ、黒板にチョークで殴り書きされた文字だけが異質であり、意味の分からない不可知な恐怖心を煽った。
『生物実験室に行きなさい』
これは私のためのメッセージだと李流伽は悟った。黒板の指示に従わず、今度こそ家に帰ることもできる。ここが日常と非日常を分かつ最後の分岐点なのだろう。
「……」
李流伽の速読と記憶力をもってすれば、例え今すぐ消されてしまっても黒板の一文など忘れることが難しいぐらいに暗記は可能だ。それなのに彼女は黒板をスマホのカメラに収めた。一瞬焚かれたフラッシュに目がくらみそうになるが、収めた画像を数秒確認すると、どこかへ送信した。
「やっぱり」
今は、学校内でもネットワークが接続されている。スマホを開きサイトやSNSを開くと通じているのが見て取れた。これなら彼らにもあの画像が共有されているだろう。李流伽はポケットにスマホをしまい込むと、そのまま教室を後にした。
仮に群衆にも溶け込めないほどに己が凄惨な姿だったのならば、乗り物を利用することすらできず、歩くには長い道のりを重い両足と心を動かしてゆかねばならなかったのだろうから。
あれが悪夢だったと思い込むには、李流伽に残る心身の疲弊はあまりにも現実感がありすぎた。もし心というものに形があるのなら、傷一つない陶器のような白い塊にスッと極軽く刃物を横に滑らせて、つうと一滴の線ができるような華奢で痛々しい赤い傷をつけられて、時が過ぎても癒えることも消えることもなかった。
駅到着のアナウンスが流れ列車を降り、改札を抜けて見慣れた道を歩く。コンビニや喧噪や住宅街の柔らかな光たちはこの上なく日常そのもので、どこか今の李流伽には遠く、彼女を置いてけぼりに遠ざけた。
「ただいま」
自宅の玄関を開けるとそこは、確かに生活音が聞こえてくる。TVのニュースと重ね合わせるように聞こえる水道から流れる水の音は止まり、リビングに向かうとキッチンで洗い物をしている母の後ろ姿がそこにあった。
「おかえり」
ちょうどご飯ができたところだから、手を洗ったらこちらにいらっしゃいと母に告げられ、李流伽はそれに従う。テーブルには炊き立てのご飯と味噌汁、焼き魚や漬物、茄子の辛味噌炒めにサラダが並んでいる。
温かくも特別な日の献立ではない、普段通りの夕餉は李流伽を更に感傷に浸らせてしまう。
「いただきます」
いつものこの時間帯であれば、父はまだ帰宅せず仕事をしているはずだ。
(父はどこに)
すぐさま問いかけねばならないはずの言葉を無理やりに飲み込んで、代わりに彼女は「いただきます」と手を合わせた。普段から口数はすくない母子だ、黙々と食卓を囲み飯を食んでも、特に心のうちを気取られるということもない。
李流伽はもう少しだけ現実から目を背け先延ばしにし、偽りでも平穏を感じていたかった。
「お風呂沸いたから先に入っちゃいなさい」
TVを見ながら洗濯物を畳んでいる母の背を眺めながら、李流伽はバスルームへと向かう。少なくとも金銭面では裕福な家庭に育っただろう李流伽の家は大きく、バスルームも例外ではなかった。
ゆったり湯船に浸かりながら、彼女は小春と一緒に浴びたR学園のシャワー室を思い出す。あの時に流したのが誰かの血ではなく自身の汗であったことに李流伽はやはり安堵した。例え李流伽たちの血縁者が許されざる罪を犯したのだとしても、彼女たちが日常に戻ってくるためには誰も殺めず「人間」のままでいる必要があった。
「……」
貴志忠臣、大山祥吾、差由羅麻実、里井健剛……李流伽たちと同じように罪もない復讐ゲームに参加させられた哀れな贄であった彼らと自分たちの違いは、一体何だったのだろうと李流伽は思う。平和なこの時代で多少の退屈と不満を抱えながらも、それでも日常を暮らしていたはずの彼らと李流伽たちの、狂気の分岐はどこであったのか。
狂気に憑りつかれ人の道を踏み外した忠臣と祥吾は命を落としたが、最後に人の心を取り戻したようにも見えた。たとえ因果応報と罵られようとも、確かに何かを取り戻してから彼らは逝くことができた。
けれども麻実と健剛はまだ生きているはずだ……それも首輪と理性の箍が外された状態で。李流伽は、あの化け物となった者たちを開放してしまったことが気がかりだった。
「お母さん」
そろそろ就寝準備に取り掛かるはずの時間帯、李流伽は制服をきっちり着こなすと母が据わるリビングのソファの近くにやってくる。
「お母さん」
「お父さんね、もう帰ってこないかもしれない」
TVを見つめたまま動かない母はいつものように穏やかな笑みを絶やすことなく、李流伽にそう言い放った。
思えば、母が家事や作業をする時はいつも無音だった。TVやラジオなど音のするものを彼女は好まず、李流伽が幼き頃よりしーんと耳が痛くなるような張り詰めた空気の中で、母は作業をすることを好んだ。
母は、家族のために朝や夜にニュースやアニメ、バラエティなど流すことはあるものの、時折最低限の情報収集のためそれに目を向けるだけで、TVに関心のない人間だった。
帰宅時に流れたニュースのような音と水道音に違和感があった。母は父や李流伽がいなければ、基本的にTVをつけることはない。だって雑音が嫌いな人なのだから。
母は、何を見ているのだろう。
李流伽が玄関に足を踏み入れた瞬間から、日常はとうの昔に壊れていた。
母の目に映し出されている映像は、流行のドラマなどではなく先ほどまで李流伽が体験していた非日常の光景だった。教室に映し出される死体、死体、死体……少しだけ質の悪い映像が返ってリアルさを強調しているようだ。
あのゲームは公開され悪趣味な閲覧者やスポンサーたちの他に、関係者の目にも止まるようになっていたのだ。末端のいじめを見過ごしただけの関係者は、自分の子や親族が惨たらしくあっけなく殺されてゆくさまを目の当たりにして、どう思っただろうか。
心を狂わされ破壊されてしまっただろうか。それとも作りものだと、よくできたドラマだと感心でもしただろうか。悪趣味だと憤っただろうか。何をどう思おうが、画面越しに殺された演者は皆本物で、命を散らしていったというのに。
「ごめんなさいね。お母さんずっと……見てるだけで、何もしてあげられなくて」
母は、昨日と今日の全てを知っていた。いじめに加担したわけではない関係者だからこそ、この程度で済んでいるのだろうと李流伽は思う。
ただ、母の言葉はゲームに巻き込まれた娘を助けることができなかったという謝罪にしては含まれているものが重く、多いように感じ取れた。
「あの時、お父さんと別れていれば」
「……」
李流伽は小学生の頃の、あの忌まわしき記憶を思い出した。
書斎で父と青年が睦み合う淫らな不貞行為、あの時の父は青年を自分の浮気相手とすらも見ておらず、誰かに……柳城悟に重ねて己の欲を吐いていた。その残酷さとグロテスクさが、父義人の本質なのだろう。
李流伽から恋や愛という感情に嫌悪と畏怖を抱かせるきっかけとなった歪んだ過去は、未だに彼女、そして母親の心を蝕み続けている。
「お父さんに会わなければ、お父さんに近寄らなければ」
本質的なところで心が通うことがなかった父と母は、仮面夫婦よりもより割り切れない思いを互いに抱いていたのだろう。
父にとっては誰かの代用品でしかない母は、それでも長年偽りの溺愛を享受したふりをしていたが、いつでも見えないガラスに隔たれた拒絶が確かにあった。
それでも柳城悟のように、父に暴力的な情愛を向けられることはなかったのだけが唯一の救いだろうか。臓腑を蹂躙され壊されて、尊厳すら破壊されるような行為を愛として身勝手に置き換えられ繰り返し繰り返し壊れるまで、或いは壊れて朽ちるまで執着されるそれを、普通の人間は到底向けられたいとは思わないだろう。
母が焦がれるほど父は遠く、どこまでも母に優しく紳士的に、けれども真綿で首を絞めるように「お前じゃない」と拒絶し続けて、苦しめた。彼が同性の未成年との淫行が見つかった時に離婚に応じなかったのも、母に対する愛ではなく自分の城を守るためでしかなかった。いつだって彼女は義人にとって、体面を保つための都合の良い人形だった。
「お父さんに好かれていると、愛されていると勘違いしなければこんなことにならなかったのに」
不貞行為を咎め、社会的に制裁を加えていれば、もしかしたら李流伽もあの学園に呼ばれることはなかったのかもしれないのにと母は嘆く。
「……それでも、お母さんは私のお母さんだし……お父さんは私の父でしかないから」
生まれて来たこと自体が李流伽の業だというのなら、きっと今がそれを清算する時なのだろう。李流伽にとって母は母のままで憐憫の念も家族愛もあるが、父に対してはこれまで目をつぶって避けてきた底知れぬ闇を感じていた。
「お母さん、私行かなくちゃ」
「気を付けて、いきなさい」
見送る母の声は、不自然なほどに穏やかだった。
父との決別はとうに覚悟していた李流伽だが、母との別離する可能性が見えたことに未知の不安を抱く。憎い最愛を手離そうとした母は、その半分の血を受け継いだ子供をどう思うだろうか。いつか心の傷も癒えて新しい最愛を見つけようとした時に、どこか父の面影が残る自分はいつか邪魔になるのではないかと。母までいなくなってしまえば、自分は今度こそ壊れてしまうのかもしれないと、無自覚に李流伽の手先は冷たく震えている。
家のドアを開けるとタクシーが止まっていたのは、母が事前に呼んでいたからだろう。出かける直前に彼女に手渡された少なくない額のお金は、娘に対する愛なのか決別のためなのか、今の李流伽には判断がつかなかった。
「どちらまで?」
「……R学園まで」
李流伽から見ても若い男性の運転手は、少しばかり軽薄そうな軽い調子で「了解です!」と返事を返してくれる。腕は確かなのか迷うことなく道を進み、乗り心地もこんな時でなければまどろみを覚えるほどに心地よく安定している。
「R学園ねぇ、なんかTVの撮影でもあるのか貸し切りになってるよねぇあそこ。明日ぐらいまでは一般生徒も入れないって聞いたなぁ」
運転手の言葉に、李流伽はぱちりと目を瞬かせる。ほかの乗客から聞いた話の場合、情報の取り扱いとして不味いのではないかと優等生の感想がちらつくが、今思考を巡らせるのはそこではない。
復讐ゲームの主催側は、セキュリティや許可を取るのが難しい高校で三日も学校を閉鎖させることができる力があるのだ。敵対するには、李流伽はあまりにちっぽけで無力な存在だろう。
「お客さんさぁ、戦場でも行くの?」
表情を強張らせているどころか、どこか死すら覚悟した顔をしていると彼なりに心配した様子で、運転手は李流伽に声を掛けている。
若い運転手の気づかわし気な様子は、遠くの世界に帰って行った親しき変人の姿と、少しだけ重なった。
「ご武運を」
飲酒でもしたのかというぐらいに軽薄な運転手は最後までふざけ倒していたが、意外と様になっている敬礼をした瞬間、目だけはまっすぐに李流伽を見ていた。
李流伽も何故かつられるように、同じように敬礼をして見せてからタクシーを降りた。
「……」
幾度もスマホの画面を見つめては、文字を打とうか悩んで結局はやめた。今からでも許されるのならば、今度こそ彼らは日常に戻すべきだと李流伽は思った。
皆、気の良い者たちだった。本来なら殺された者たちも狂気に狂った鬼役たちも皆そうであったに違いない。怒りでも憎しみでも贖罪でもなく、李流伽はこのゲームの結末が知りたかった。
R学園の門をくぐり、李流伽は始まりの教室へと向かった。2年A組は大河、小春、芳樹の教室ではあるが、数十年前のいつかはきっと、父や柳城悟たちの教室でもあったのだろう。
もし李流伽にまだやるべきことが残されているのであれば、指示を待つならあそこだろうと思ったからだ。
階段を上りドアを開ければ、そこはつんと取り澄ました様子で綺麗に机が並べられた、教室そのものの姿があった。死体が転がっているどころか血一滴すらも落ちていない清潔な空間だ。保健の教科書も転がっていなければ、誰かが着ていたジャージが脱ぎ捨てられた様子もない。整理整頓という言葉を絵に起こしたような空間だ。
だからこそ、黒板にチョークで殴り書きされた文字だけが異質であり、意味の分からない不可知な恐怖心を煽った。
『生物実験室に行きなさい』
これは私のためのメッセージだと李流伽は悟った。黒板の指示に従わず、今度こそ家に帰ることもできる。ここが日常と非日常を分かつ最後の分岐点なのだろう。
「……」
李流伽の速読と記憶力をもってすれば、例え今すぐ消されてしまっても黒板の一文など忘れることが難しいぐらいに暗記は可能だ。それなのに彼女は黒板をスマホのカメラに収めた。一瞬焚かれたフラッシュに目がくらみそうになるが、収めた画像を数秒確認すると、どこかへ送信した。
「やっぱり」
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