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いかにして人格たちは瀬那とセフレ関係を結ぶことになったのか。
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それは誰にも気づかれずに、消えるまで存在し続けるだけの人格のはずだった。
彼自身、己が誰かの人格だという認識すらもなかった。あまりにも当たり前に空気のように存在しているものだから、宮本俊之や他の人格すらも彼に気付くことはなかった。
彼は元康が生まれて今に至るまで、人格が分断される前とされた後、全ての記憶を持っている。ただの一つも忘れることなく、取りこぼすことなく、記憶されてゆくだけの備忘録のような人格だった。
忘却とは恐ろしく寂しいものだが、反面生きとし生けるものにとって救済の一つでもある。その場に蹲りたくなるような失態も、喉を掻きむしりたくなるような辛さも、失恋の胸に冷たい矢が刺さるような痛みも理不尽な言いがかりも、時間と共に少しずつ少しずつ忘れていくからこそ人は過去と見切りをつけて生きてゆけた。
その人格は、水月元康という人間の全記憶を持ってはいるが決して忘れることができず、もし心というものがあるのならしだいにそれは壊れて行き、少しずつ狂っていった。
楽しい記憶も辛い記憶も鮮明に思い出せるので、いつまでも「それ」の心は辛い過去を思い出しては血を流す。楽しい記憶すらも躁鬱の間を繰り返すように負担となってゆく。
辛い事の筆頭としては、幼馴染の両親からのプレッシャーや周囲からのやっかみ、決定打はあのいじめだった。
何のためにこの膨大な記憶を溜めておかなくてはならないのだろうと、それは初めて考えた。
その人格は退屈と苦痛を抱えて十数年間生きてきたが、ある日「それ」は気づいた。自身が他の人格に記憶を押し付けることも、取り除くこともできるということに。
そして「それ」は努力した。人格の一部を切り取って別の人格に貼りつけ、或いは剥がすことができるようになるまで。
いつしか記憶の付け替えができるようになった「それ」は、誰も彼に名前を付けてくれる者がいなかったので、自身に脳漿(のうしょう)と名付けた。
「元康」
いつかの昼休み、最上瀬那は満面の笑みで元康に声を掛ける。元康も「ん?」と会話に乗ってやっている。そんな二人の姿を、ヤマザキは少々困惑した様子で眺めているが、K君は「現金な奴め」と呆れ気味だ。
元康の別人格である宮本俊之が現れている時、瀬那はこのように話しかけることは決してない。K君は元康の他人格を知っており、そして宮本俊之と最上瀬那の相性が最悪であることも知っているので「またやってら」と見ていられるが、他の人間にとっては彼らの仲が突然悪くなったり良くなったりするので、どこでそのスイッチが入るのか予測できないし、乱高下する空気に耐えられず、居心地の悪い思いをしていた。
「あいつら、なんか変わったなぁ」
「そうかねぇ」
焼きそば目玉焼きソーセージパンというトチ狂ったカロリー爆弾のようなパンを秒で食べ終わると、ヤマザキはデザートである苺メロンクリームバナナマンゴーパンという相性は悪くなさそうだが、一体いくつ果実を織り交ぜたら気が済むんだという贅沢な菓子パンに齧りついた。
「ヤマザキ、それ美味い?」
「甘い」
「だろうな。お前食レポ向いてねえ」
「味じゃねえんだよ、次の授業に備えて糖質摂取してるだけ」
「そんなに頭使う人生送ってるっけお前」
「この学校に入学した時点で頭に糖質は使いまくりなんだよ」
K君とヤマザキの殺伐とした和やかな会話をBGMに、瀬那は「久しぶりに」一緒に元康と昼を食べることができた幸せを嚙みしめている。最近は「あれ」が俺と元康の仲を邪魔してくる、と瀬那は内心苛立っていた。
彼は元康が解離性同一性障害を患っていることは知らない。けれども宮本俊之が元康ではない事と、そして瀬那が「あれ」こと俊之とは相容れない仲であるということだけは本能で理解していた。
「元康、あーん」
「んむ」
「美味しい?」
「甘い」
瀬那は笑顔で元康に菓子パンを与えては、蕩けそうな笑みを隠そうともせずに目の前の最愛が咀嚼するところを飽きもせずに見つめている。
どうやらヤマザキとチョイスが被ったであろう苺メロンクリームバナナマンゴーパンは、誰が食べてもその最初の感想は「甘い」一択のようだった。暴力的な甘さが歯に沁み渡り虫歯や虫歯予備軍、或いは知覚過敏の人間は甘すぎてとてもこのパンを齧ることすらできないのだと噂されている。
そんなパン早く製造中止になってしまえと教師陣や養護教諭、栄養士あたりが思うかもしれないが、一部の狂信者的ファンの間でこのパンは愛され続けていた。
心穏やかな日々が続いている。元康には体育や美術音楽などの授業だけ受け、後はたまに友達と瀬那と昼ご飯を食べて、気が付いたら家に帰ってきており家族と食事を取り眠るという記憶だけが残っている。
その日の状況によって風呂に入ったり部屋で本を読むこともあるが、勉学のために机に向かった記憶がほぼ無くて、宿題もいつのまにか提出されており、毎日がそれの繰り返しだった。
「なんだかどんどん、自分がいなくなっていく気がする」
あれほどべったりいつも一緒だった瀬那とも、今は程よい距離感が保てるようになったというのに、その心には寂しさが生まれる。
……無論程よい距離感というのはあくまでも瀬那と元康基準であり、外部の人間が見たらそれは充分すぎるぐらいにバグってはいるが。健全な男同士の友人や普通の幼馴染は、おそらく歯が溶けそうに甘いパンを「あーん」とそれこそ喉が焼けるほどに甘ったるい眼差しで、愛おし気に食べさせてあげるということはあまりしないだろう。
卒業するまであと何回、瀬那と会えるだろうか。卒業した後の俺達はどうなるだろうか。もう彼の両親には見捨てられて期待に応える必要はなくなったので、瀬那と元康は大学を始め、きっとそれぞれ違う道を歩んでいくだろう。そこに、俺はいるのだろうか。元康は、初めて記憶を失うのが怖いと思った。
『おい、どこにいるんだよ』
どこでもない場所で、宮本俊之は叫ぶ。ここ最近おかしい、雫と李衣菜は眠り続けたままだというのに彼らの人格は消え去ることもなく存在しているし、ゼラ、セラ、ソラの3人も同様だ。今動いている人格は俊之と、彼らとコンタクトを取ることができない主人格の元康だけだというのに、何か第三者にじっと覗かれているような不気味な目線を絶えず感じている。
俊之もK君や瀬那ほどではないが、勘が鋭い方だった。人格とも言えない、何か特別な力をもった者がいる。恐ろしいのは、それが何を目的に動いているかということ。明確な意志や敵意などがあれば対話の余地がまだあるが、一番恐ろしいのは「それ」自体も何が目的で存在しているかわからないという場合だ。
「……こんなものあったっけ」
気が付けばどこでもない場所のでたらめなインテリアの中に、ちょこんとそれは存在していた。大きめで立派な水槽が俊之たちの居住スペースから少しばかり離れた場所に置かれており、中には灰紫色の脳みそが浮かんでいた。
「気味が悪い」
本物の脳よりもデフォルメ化されてはいるが、脳だけではなく飛び出した目玉も付いており、目の色だけはキラキラとした綺麗なグリーンで一層不気味さを引き立てている。グロテスクだというのに妙な光沢があり怪しく、見様によっては美しくすら見えるそれは存外澄んで綺麗な液体の中で、ぷかぷかと存外快適そうに浮いていた。
気味が悪くてどこかにやるか壊してしまいたい気持ちでいっぱいなのに、宮本俊之は、何故かそれに触れてはならないと本能で悟った。
中学の頃とは異なり、高校の修学旅行では瀬那と元康は一緒だった。正しくは最上瀬那、水月元康、それからヤマザキにK君という形ばかりは仲良し4人組でのグループとなった。これは瀬那を除けば混じりけのない本当の仲良しグループといって差し障りがない、という意味である。
このグループ編成を羨ましがる生徒たちは多く、ヤマザキは友人が多かったしK君は人気者から疎まれている分、実は陰の者たちに絶大的な人気があった。
瀬那は言わずもがなで、男女問わず幾人もの生徒たちが「一緒にまわろう?」と誘うのを無視し、べったりと元康にくっついている。いつものとおりみんなのお邪魔虫だな俺はと自嘲気味に笑う元康に、K君とヤマザキは「気にすんな」と友情の念で肩を叩いてくれるし、瀬那に関しては少しでも元康に対する悪意を察知するとそちらを睨み付け牽制する。
「おお番犬だ」
「狂犬だよあれ」
K君は無論のこと、ヤマザキもなんとなく二人の仲を察していた。もしもの時のために、ホテルで別の部屋に匿ってくれるグループを探しておこうねと内心二人は誓い合っていた。無論同グループ内にいるカップルの情事に巻き込まれたくないためだ。
「瀬那、鹿だ」
「うん、元康気を付けて、鹿が狙ってる」
「ヤマザキ、それ鹿用の煎餅だぞ」
「うん、苦いな」
「食レポは聞いてない」
ヤマザキ曰く鹿煎餅は煎茶や玄米茶の葉あたりを固めて焼いて上手い事形にしたのを齧ったような苦さとのことだった。恐らく生涯使うことは無い知識だろう。
腹を壊すこともあるまいと、鹿に集られるヤマザキを尻目に、K君はちらと瀬那と元康の方を盗み見していた。
修学旅行中、水月元康は元康のままで一度も宮本俊之は出てきていないようだった。勉強に関係がないので、彼は休息中ということだろうか。それとも元康と瀬那の仲を応援し、良い思い出作りに協力してやっているのだろうかと一瞬考えたが、瀬那を敵視しているあの俊之がそこまで気を回すわけはない、むしろ意識があれば積極的に阻止するだろうとK君は思い直した。
『離せ』
『はい落ち着いて』
『どうどう』
『ヒッヒッフー』
『最後なんか違うだろ!』
K君の推測通り、宮本俊之は元康と瀬那が二人きりになるのを防ぐべく外へ出ようとしているが、珍しく起きているゼラ、セラ、ソラ、それから雫と李衣菜の複数の人間に羽交い絞めにされそれを阻止されている状態だ。
元康の修学旅行中は見守ろうよと、他の人格たちに諭されてようやく落ち着いたのは数時間経過した後だった。
『僕達が何を言っても、最終的に決めるのは元康なんだからさ』
『彼には幸せになって欲しいでしょ?』
『今まで辛かった分さぁ、楽しい思い出作って欲しいでしょ?』
『……そうだけど!』
アイツが俺達を生み出した、アイツが不幸の元凶じゃないかと俊之は身体を震わせている。そんな彼をそっと横から抱きしめたのは、雫と李衣菜だった。
『……こんなことしても意味ないだろうけど。アタシらはあんたのことも好きだよ。いつもぴりぴり張り詰めてて憎しみに我を失うアンタは見てて、辛い』
『疲れてるんだね、俊之は。修学旅行中ぐらい勉強もサボってみんなで一緒に寝ちゃお?外の事は元康に任せてさぁ』
『皆、お前のことが大好きだよ俊之』
同じ人間の脳内で違う人格たちが好意を伝え合う姿は、自己愛と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。けれども俊之の心には、彼が生まれてから初めて安らぎと安堵が、そして心地よい疲労が全身にじんわりと滲み出ていた。
ゼラ、セラ、ソラも加わって一人ずつ俊之とハグをしてその後みんなで横になり、俊之を取り囲むようにして人格たちは束の間の睡眠をとることにした。
「ねーんねんころーりよ♪」
「……何してんだお前」
修学旅行の夜、4人部屋となった元康、瀬那、ヤマザキ、K君は4つ並べて敷かれた布団に身を横たえて眠りに就こうとしていた。なお、取り決めによりこのメンバーの間で恋バナだけは禁止事項である。
今のところ平和な恋バナというものを語ることができるのはヤマザキぐらいであり、K君は己にあるのか無いのかすらわからない恋愛観というものに触れられたくないし、元康はこの学校を生き抜くために必死で基本的にもう恋愛どころではなく、瀬那に至っては禁足地だ。逆に触れてはならない。
ぺんぺん草1本も生えない焦土のような、殺伐とした空気になるのが目に見えているためだ。
「明日も早いし、さあ寝るべか……」
まるでタコ部屋に詰め込まれた労働者のような台詞を吐いて目を閉じるK君と「おう、また明日な!」と爽やかな挨拶をして秒で夢の世界に突入するヤマザキ、そんな二人を冷めた目で見ながら、瀬那は元康の隣を陣取り彼のために子守歌を歌っているのだった。それは世間で言うところの美声であり、かつ歌が上手いのも腹立たしいと元康は思った。
「ぼうやは良い子だ♪ねんねしな♪」
「何してんだっての」
「んー?寝かしつけ。元康が寝るまでずっと見ていたいの」
すりすりと鼻先を元康の頬や首筋に摺り寄せて、愛おしくてたまらないといった風で瀬那は彼の布団をかけ直してやり、そしてちゅいちゅい元康の顔中にバードキスを降らせながら抱きしめた。
「徹夜しろ」
こんなことをされては眠れません、という言葉を元康はオブラートを数枚破り捨てて暴言のように吐き捨てる。
「じゃあ、元康も一緒に夜更かししてくれるの?」
ゾクリと熱を帯びた眼差しを向けられると、元康の背筋にも同じぐらいにゾクリと何かが走る。
「好きな人とこんなに近くにいて、大人しく眠れるわけないでしょ」
「瀬那……っんむぅ」
ちゅっと可愛らしい音を立てて唇に唇を重ね合わせると、そのまま吸われて舌先でノックをされる。友人二人がすぐそばで眠っているというのに元康は抗うこともできず、無意識のうちに遠慮がちに舌を絡ませ始めた。「いい子」とでも言うように、瀬那は目を細めて笑うとくちゅりと少しいやらしい音を立ててそれに応じる。
何度も位置を変え唇で唇を挟まれて、ようやく二人が唇を離した時にはつうと銀糸が伝った。
「お前、アイツらもいるんだぞ……」
「そんな潤んだ目で睨まれても怖くないよ」
うふふと妖艶に笑う幼馴染の姿に、元康の心臓がばくばく音を立てるのが胸を押さえてみなくとも、容易に感じ取れた。
「元康、もう諦めて。俺の事好き?」
「……うん」
「ちゃんと言って」
「……好きだよ、本当に、嫌になるぐらい」
「俺も、頭がおかしくなるぐらい好きだよ。もう狂ってるのかもしれないね。元康、愛してる」
「俺は愛憎って感じだよ。未だに……たまにお前の隣に居るのが辛くなる」
「……好きなのに、そばに居たくないなんて言わないで」
「だって、どうしたらいいんだよ。お前の傍にいるとものすごく苦しくなる。色んな思いが渦巻いて、今だってここが」
胸を押さえる手をそっと両手で包み込み「ごめんね」と眉を下げて声を掛ける瀬那と「今のお前に謝らせたいわけじゃないんだ」という元康のどうしようもないやり取りが繰り返される。
布団の中で互いに抱きしめ合って指と指、腕と腕、足と足を絡ませる姿は情欲のそれではない。ただ引き裂かれそうになるのを拒み、離れたくなくて互いを縄にして縛り付けるように抱きしめ合っているだけで、その姿は閉鎖された空間で生き辛さから逃れようともがき苦しんでいる二匹の蛇だった。
大人の行為などしなくても、服を着たままでも隙間なく身体をくっつけていられたのなら、今の二人にはそれが幸せだった。
「はやく自立して、元康と一緒に暮らせるように頑張るね」
「期待しないで待ってる。いや、お前一人で頑張るな。俺も一緒だから」
感極まって泣き出してしまった瀬那と、つられてもらい泣きをしてしまった二人は互いに慰め合って額や鼻先をこつんと軽くぶつけ合い、安堵したところで次第に眠りに落ちてゆく。
……今この部屋、もといこの世界で一番気の毒な男は。
そのすべての光景を目の当たりにし必死で寝たふりをしながらも、一人完徹を決行する羽目になってしまったK君その人であった。
「いい朝だなぁ」
うぅんと思い切り伸びをして、誰の許可も取らずガラリと窓を全開にして爽やかな朝の陽射しを全身に浴び、賑やかに一人「いちっに、いちっに!」ストレッチを始めるヤマザキは、意図せず徹夜をさせられたK君にとって朝の悪魔そのものだ。無論夜の悪魔たちは瀬那と元康である。
「おはよ、K!よく眠れたか」
「ええ、とても」
あからさまに目の下には隈ができており、その目は赤く充血しているが彼は快眠だったと言わざるを得ないのだ。寝不足の目に朝日が差し込んで染みてもよく寝たと調子をあわせなければならないのだ。「そうでなければ、俺は瀬那に殺される」と恐怖心から彼は背筋を伸ばす。K君はどこまでも友人思いであり、そして自分の命が惜しかった。
「……K君、似合うね」
「うん」
ホテルの土産物屋でその土地に全く所縁のない黒いサングラスを購入したK君は、目の隈と充血を覆い隠すためだけにそれを装着していた。目の前の友人が突然謎の方向性にイメチェンをし出したことに多少の驚きを隠せない元康だが、それでもたどたどしく褒めてくれた。
「なんか、動画配信者みたいだね」
「動画配信者なんだよ」
暴露系動画配信者だが、今の俺の心の内だけは誰にも暴露させられやしないわ!とシナを作り気持ちの悪いことを考えながらその日の移動中のバス内、K君は死んだように眠っていた。
K君のごりごり削り取られる睡眠時間と反比例するかのように、宮本俊之含む他の人格たちは深く心地の良い眠りについていた。特に俊之に関しては彼が生まれてからこんなにも長時間眠りについたことがなかったものだから、明日にでもこのまま俺達は元康と同化してしまうのかもしれない、けれどもそれもいいのかもしれないと彼の心は凪いでいた。
彼らから少し離れたところで水槽に浮かぶ灰紫色の脳みそも、しんと静まり返っており今のところ動く様子はなかった。
「おはよう、ねぼすけさん」
「ん、ああもう朝か。おはよう」
「すごくよく寝てた。ふふ、ここ寝癖ついてる」
「いいんだよ、朝はみんなそんなもんだろ」
「可愛い」
もう周りに隠すつもりすらもなくなったのだろう。爆睡するヤマザキはそのままで早朝から見せつけるようにいちゃつきだした瀬那と、まだ理性も羞恥も残っているのだろう、身を捩って抵抗を見せる元康の攻防を、K君はチベットスナギツネのような表情で眺めていた。
帰りの飛行機でも電車でも、隙を見つけては元康の手を繋ぎたがったりハグをしたりする瀬那と、もう抗うのも疲れたのだろうぐったりとされるがままになっている元康の二人を見たクラスメイトや他の生徒たちは、二人の仲を把握しないわけにはいかなかった。
「最上君と水月君、見た?」
「前々からべったりしてるとは思ってたけど」
「ああショックすぎる、告る前に失恋確定」
「ハナから相手にされないって」
「幼馴染だからってなんであんな奴……」
「……馬鹿、やめとけ」
狂おしい嫉妬に駆られてまた元康に害を成す者も現れるかとヤマザキとK君がそれとなく注意を払っていたが、イジメ事件は学内でも影を残しており表立って手を出そうとするものはいなかった。
元康や宮本俊之すらも知らなかったが、いじめや嫌がらせが酷かったものに対して最上瀬那が裏で一人一人制裁を加えていたのは、K君などの裏の情報に詳しいものにしてみれば周知の事実というやつだった。
「○○さんが僕の大切な人を傷つけました」
「○○君が元康を苛めていたんです」
いじめの主犯やその周辺の家に瀬那は挨拶と言う名目で単身乗り込み、両親や家族に事実を伝えに行ったのだ。無論証拠という手土産は忘れずに。
それでも何食わぬ顔で親し気に瀬那に話しかけようとする、図太い性質のいじめっ子達に関しては「俺の大切な人を傷つけてよく平然としていられるね?」「正直、同じ空気にいるのも不愉快」「もう、話しかけてほしくない」という内容を過剰にならない程度に薄っぺらいオブラートに包みながらも伝え、皆の前で隠すことなく瀬那は敵意を露わにさせた。
スクールカーストの最上位であり心酔すらしている人間に、そのような態度を取られた取り巻き達はどうなるか。何せ「いじめ」という後ろめたい過去がある者たちだ。いじめをした者への社会的制裁という大義名分を掲げられ、次のいじめや無視の標的になるのは時間の問題だった。
多少知恵のある者や反省の念がある者は、人が変わった様になりを潜めて大人しく暮らしたり転校や自主退学をしていった。
上記を知りつつも瀬那に告白をするものは後を絶たなかったが、きっちりフラれて諦めよう、次へ進もうとする者に対しては、瀬那も比較的紳士的な態度を見せた。
「最上君、ずっと前から好きでした、もしよかったら付き合ってください!」
上記に対するこれまでの瀬那の回答は「ごめんなさい、ずっと前から俺には好きな人がいるから……」だったのが、修学旅行の一件により「ごめんなさい、俺には愛する恋人がいるので!」とデレッデレで返すようになり、その度に元康はどこか離れた場所でヘックションとデカいくしゃみをするようになり「誰かが噂をしているのかな」と思うようになった。
修学旅行の最終日、美しい夜景の見える場所で瀬那は元康に告白をした。
「元康、俺と付き合ってください。高校卒業しても大学が別になっても、社会人になってもずっと一緒にいたいです」
「……俺で良かったら喜んで。照れくさいなこれ」
周囲から隠れるように、耳元で囁かれるようにして行われたそれは、まるで永遠の誓いのようだった。
そして、とても運が悪いことに異常なほどの聴覚の良さを持つK君だけが、またしてもその光景を目撃してしまうのだった。暗闇でもサングラスをかけていたことが功を奏したのか、彼らにばれることはなかったようだ。
「……という感じだった」
『うわぁやぁあああ!』
いつもの公園の屋根付きのベンチ、修学旅行の様子を細やかに伝えてくれたK君とそれを聞いて悶絶する宮本俊之の姿がそこにあった。
「で、そっちは?ロングバケーションはどうだったい?」
『寝てたわ』
「勿体ない」
憎き瀬那と元康が付き合ったという事実を聞き取り乱しては見せたものの、その後の俊之は平常運航と言って差し支えがないというレベルには落ち着いている。
そんな様子にK君は少しだけ怪訝そうな表情を見せるが、俊之は大人びた表情を浮かべて少しだけ笑う。
『いいんだ、元康が本当に幸せならさ。俺達も嬉しい』
「……そっか、大人になったなお前『たち』も」
一瞬頭でも撫でてやろうかとしたが、彼の「ガワ」には非常に嫉妬深い執着が過ぎる恋人がいるので、K君は思い直し明るく友人として肩を叩いてやる。
彼が把握する人格たちはおおむね元康と瀬那の関係を受け入れ祝福しているようだ。けれども「あれ」もそうだろうかと、K君は一度だけ浮上した不気味で敵意丸出しの人格に考えを巡らせる。
『今日を限りにお前と会うこともない』
あの謎の人格は水月元康の奥の方にいるためか、もしくは別の役割でもあるのか本来であれば外に出てくる者ではないのだろう。
「心の闇は深そうだ」
あれが今後元康の身体で何かの行動を起こそうとする可能性を考えた時、彼らはどうなってしまうのか。K君は漠然とそれを不安に思っていた。
卒業する数日前まで、瀬那と元康はようやくすれ違い拗れた糸をほぐして相思相愛と言ってもいいほどに幸せな毎日を過ごしていた。宮本俊之も気を使ったのか、彼は授業や自主勉とテスト以外は現れなくなった。すっかり起き上がることのなくなったゼラ、セラ、ソラの三人や雫や李衣菜は相変わらず眠りこけている。
少しづつ、人格たちはこうして元康になってゆくのだろうと俊之は己の運命を受け入れている。無論他人格たちと元康との共存という生き方もあるが、俺達がいなくても元康には守ってくれる人間がもう存在している。
統合しても死ぬわけでもない、元々の元康一人に戻るだけなのだと俊之は何かの信仰のように思っているのかもしれない。
「わあ、だれだろうあの子」
「可愛い、顔ちいさい、細い、モデルみたい!」
「最上君と一緒に居るけど彼女?」
「悔しいけどお似合いのカップルって感じ!」
「え、でも最上君は」
「そもそもあんな、ましてや男と本気で付き合うわけないだろ」
授業が終わった後、突然スマホの着信があった瀬那は元康に「ごめん、用事ができちゃった」と頭を下げて足早に教室を出ていった。
最上至上主義の瀬那が珍しいなと、K君もヤマザキも首を傾げながら窓の外をのぞくと、そこには瀬那の両親と見慣れない一人の女子がいた。お嬢様学校の制服を身に包んだその人は、オーラとでもいうのだろうか、遠巻きから見るだけでも美しく可憐さであることがわかる。
清楚だけど少しだけ意志と気が強そうな眉と目をしたその子は、礼儀正しくぺこりと瀬那にお辞儀をしていた。どうやら初対面のようだ。
後姿の瀬那の表情は伺い知ることはできないが、美少女のほうは頬を赤らめており明らかに瀬那に対して好意を抱いていることは明白であった……と、そこらへんのマサイ族より視力の良いヤマザキとオペラグラスを覗き込んでいるK君が、元康とクラスの人間たちに実況をしてくれた。実にいらない世話である。
次の日。普段と変わらない様子で教室にやってきた瀬那の周りに、無遠慮な取り巻き達と自称友人たちがぐるりと囲む。
「最上君おはよ!ねえねえ昨日の美少女だれ?」
「お父さんお母さんも一緒だったみたいだけど、大切な人?」
「もしかして彼女、いや結婚相手?」
「もし彼女とかじゃないんなら紹介してくれよ~」
同級生たちを冷たい眼差しで適当にいなすと、瀬那はやはりいつもと変わらない風で元康に朝の挨拶をしにやってきた。
「おはよう、元康」
「……おはよう」
今日も可愛いねと元康にハグを求め頬にキスをしてこようとする瀬那を、周囲の人間は相変わらず呆れたように二人を視野に入れないようにしていて、けれども目の端ではしっかりと見ている。これも随分前からありふれた光景となった。
「瀬那、昨日校庭に居た人って誰なんだ?」
「……うん、突然うちの両親が「会わせたい人がいる」って紹介してきてね。簡単な挨拶だけでその日は終わったけど、俺にもよくわからないんだ」
仕事関係のお偉いさんの子、とかかなぁと瀬那自身も首を傾げている。ヤマザキはへーそうなんだといつもと変わらない風で深入りしようとはせず、元康は漠然とした不安が水に垂らした黒いインクのように心に広がっている。K君だけは「面倒なことになりそうだ」とまるで行く末が見えているという様子で、珍しく暗い表情を浮かべていた。
淡い青空に薄桃の桜舞い散る日。楽しい記憶より辛い思い出の方が多かったかもしれない箔恵木学園を、元康は卒業した。
「君は、この学校で辛い思いばかりしてきたかもしれない。毎日生きてゆくだけでも精一杯だったかもしれない。沢山辛い目や理不尽な目にも遭っただろうし過ちも犯したかもしれない。けれども、僕は……先生たちは君の努力を称えたい。卒業おめでとう、本当におめでとう」
彼がこの学園に入学したのは本人の希望でもないであろうことも、本来の実力以上のことを日々課せられてきたことも元康の担任は気づいていた。いじめを防げなかったことに対して彼の心にはいくら拭っても拭いきれない罪悪感があった。
腐らず、生き延びてくれてありがとうとその担任は頭を下げた。
「先生、俺は。沢山のいろんな人『たち』に支えられて無事卒業できたんです。だから、俺だけの努力というわけではありません。でも、ありがとうございます。俺の担任が先生でよかった」
元康は自分の知らない頭の中の『誰かさん』に感謝をしていた。彼らが元康の負担を分散させてくれなかったら、今頃本当に元康は心身ともに壊れてしまっただろうから。
「……君も、友達に挨拶したいだろう?」
誰もいなくなった教室で、元康は机に突っ伏すとわざとらしく眠りの姿勢を取る。十数秒後にがばりと起き上がった彼は、きょろきょろと周囲を見渡すと黒板に大きく「卒業おめでとう」というこのクラスの生徒たちが書いたチョークの文字に気付き、心の中がじんわり温かくなった。
無事に『俺達』は卒業することができたんだ。元康をこの学校から卒業させてやることができたんだと、宮本俊之は身を震わせて視界が歪むのを必死でこらえようとしている。とめどなく溢れ出るそれは、辛くて苦しい時以外でも流れる温かいものなのだと俊之は今更ながらに知った。
『……おブス』
「誰がブスだ」
卒業おめでとう。教室の入り口に立っていた俊之の唯一の友人は、拍手をしてやると俊之の卒業を祝ってやった。『彼』らは卒業式にも出られなかったのだから、これが最後になるかもしれないのだからと、俺一人だけでも祝ってやろうとK君は俊之の目覚めを待っていたのだ。
「今のお前のほうがおブスだ。目なんかこんなに腫らしやがって」
『K、ありがとう。いままでありがとう。ずっと言いたかった。最後かもしれないからよかった。ありがとう……お前が友達で、本当によかった』
「……」
最後なんて寂しい事言うなよなんて、無責任な言葉をK君は吐くことはできなかった。この先『彼ら』がどうなってゆくのかはK君にもわからないのだから。このまま幸せな人生を歩むことができるのなら、俊之たちは元康と共に生きる道を選ぶのならば、彼らと言う存在はいつしか元康に溶け込んでしまう可能性もあるのだから。
だから、K君は俊之と固い握手を交わした。
「お前がどうなっても、俺らは友達だから」
「……ああ」
俊之は「元気で」と片手を軽く上げると、そのまま自分の席に向かい椅子に座って机に突っ伏し、眠りの姿勢に入った。身体を元康に返してやるのだろう。
K君は俊之が元康に切り替わる前に教室を後にした。友の門出を祝うには、彼がその場に居ない方が綺麗だと思ったからだ。
「……お別れは言えたかい?」
むくりとゆっくり起き上がった元康は、決して返事を返してくれない頭の中の同居人に
優しく声を掛けてやる。無事に卒業できたのは誰かたちのおかげなのだ。それが一人なのか複数なのかすらも元康にはわからない。
けれども「誰か」を卒業式にも出してやれなかった元康は、せめて卒場を迎えられたということだけでも伝えたく、教室で意識を少しだけ飛ばしてやった。黒板の卒業おめでとうは、元康の彼らに対する感謝の気持ちでもあった。
卒業後、元康も瀬那も別々の大学に通うことになった。瀬那は大学と家が近いので自宅から通うことになったが、元康は一人暮らしをすることになっている。その方が大学に近いという理由もそうだが、彼の両親がもう辛い思いをさせないように、最上家に関わらせないようにと暗に気遣ってくれたのだ。
「(父さん、母さんごめん)」
最上家との縁を切りたかったのは元康も同じだが、彼は瀬那を好きになってしまった。愛と言う言葉は少しだけ照れくさくてまだ着慣れない新品の洋服のようだが、しだいにすぐしっくりしてくるだろうという確信もあった。
「あ……」
校庭では最上家の人間と、もう一組の家族がいた。そこには瀬那と前に見かけた美少女もいる。家族ぐるみの付き合いといった様子で親密な空気が流れている。
「瀬那君がうちの娘と結婚してくれるなんて夢のようだなぁ」
「こちらこそ霧崎家とうちが親族になれるなんて、夢のようです」
「うちの瀬那を婚約者として迎え入れてくださって、本当にありがとうございます」
「もう、この子ったら瀬那君のことが大好きで、一目惚れなんですって」
和やかに会話するその言葉の一つ一つが元康の心を割れたガラスの破片のように傷つけてゆく。恐らく最上家にとってはかなりの優良案件である、良家の娘との婚約の話が家族間で進んでいたのだろう。瀬那は「何故」という困惑の表情を浮かべており、美少女……霧崎 美音(きりさきみおん)が腕にしがみついてくるのを遠慮がちに、けれどもはっきりと拒絶の意志と共に引きはがしている。
「瀬那、美音ちゃんになんて失礼なことを!」
「こらこら美音やめなさい、瀬那君はシャイなんだから」
「そうだ、ゆっくりこれから仲良くなっていけばいいさ」
「それでは夜の食事会でまたお会いしましょう」
霧崎家の人たちは高そうな車に乗り込み、一足先にその場を後にしたようだ。後に残されたのは、息子の心などそっちのけで野心を抱いた最上家両親と、顔を青ざめさせ絶望の表情を浮かべている瀬那の三人だった。
「……父さん、母さん。どういうことなの?俺何も聞かされてないけど」
「瀬那あなたはね。霧崎家の娘さん、美音さんの婚約者になるのよ」
「名誉なことだぞ、あの霧崎家と家族になれるなんて!おまけにとても美人じゃないか。お前の隣に並ぶのにふさわしい令嬢だ」
「無理だよ、俺には恋人がいる」
「……その子には悪いけど、別れなさい。あなたも学生時代に遊べてよかったでしょう」
「お前に暴力を振るわれた時も父さんたちは黙って見過ごしてやったんだ。次はお前が親孝行しなさい」
最上家の両親は、元康に対してだけではなく実の息子に対しても毒親だった。今までは元康というスケープゴートがおり、また結婚という話もなく瀬那自身が恋人を作らないように監視を続けてきたので、これといった歪みを感じずに瀬那は生きてゆくことができた。
悪意が無い分余計にたちが悪く、最上両親にとって瀬那はこれまで見目の良い愛玩用の子であったが、今は自分たちの将来のため息子を贄扱いにしたということなのだろう。
「そんなの勝手すぎる!俺は嫌だよ!……元康?」
瀬那と目線が合った瞬間、全てを目の当たりにした元康は意識を失い、この日から24歳になるまで、一度も外へ浮上することはなくなった。
桜の淡い花弁がひらひらと、初恋と元康の粉々に割れた心のように儚げに舞っていた。
『可哀想にね、辛い?』
灰紫色の髪にキラキラしたグリーンの目を持つ少年は、どこでもない場所の奥底、深く深く沈んだ暗い場所で膝を抱えて蹲る元康にそっと声をかける。
『辛いのは、時間が解決してくれるんだって』
それまで僕が君の記憶を預かっててあげるから、君は少し寝なよ。灰紫色に頭を優しく撫でられると、元康はそのまま眠りについた。それはいつ目覚めるかもわからない深い眠りで、主人格の異変に真っ先に気付いた宮本俊之が『何をしている!』と怒鳴り声をあげて駆け寄ってきた。
『……元康?』
『どうしたの』
『あれ、久しぶりに目が覚めた』
『皆、どうした』
『ちょっと、どうしたのよ』
『ねえちょっとなんで?!』
これまで眠りについていた他の人格たちも次々に目を覚まし、本来そこに居てはならない人物が眠りこけているのに驚いている。
どこでもない場所の一角に、水月元康がいた。誰が用意したのか白い保健室にあるベッドに身を横たえてスースー眠りについている。相当に眠りが深いのか揺さぶっても起きず反応すらない。
『どういうことなんだよ……』
困惑する俊之は掻きむしるようにして頭を抱えている。卒業してこれから彼には幸せな人生が待っているのではなかったのか。よほど衝撃的なことがあったか、もしくは彼が「もう生きていたくない」というぐらいに傷つきでもしない限り、このように眠りにつくことはないはずだと俊之は思う。
慌てふためく彼らから少し離れた場所で、水槽の脳みそはきらりきらりと灰紫色の身体とグリーンの目を輝かせながら、静かにその情景を眺めていた。
『ともかくだ』
俺達は「水月元康」を演じ続けなくてはならないと、宮本俊之はここで生きていくためのルールを告げた。元康がこれから通う大学は箔恵木学園ほどの厳しいところではないが、これから先もお互いに助け合って「水月元康」として生きていかねばならないと俊之は方針を定めた。
基本的に授業や日常生活は俊之の管轄だが、何かトラブルがあった時はゼラ、セラ、ソラ、家事料理などは雫や李衣菜と分担させることにした。
ルールというのは実に簡単で、人格たちが外に出る際は皆「水月元康と名乗ること」「元康として振る舞うこと」それのみであった。
『新しい人格が生まれた時も説明がやりやすいように、この辺に貼っておくか』
俊之は壁に『外出時は水月元康を名乗ること、元康でいること』と書かれたポスターのようなものを張りつける。丁度元康が一人暮らしを始めたのも、彼『ら』のことが元康の両親にばれるリスクが少なくて良いだろうと、人格たちは各々前向きに考えているようだ。
「……ハロー。いやぁ、束の間の別れだったな。綺麗に収まんないもんだねぇ、あの感動のお別れは何なのよもう」
『全くだ、こんな形で会いたくなかったよ。久しぶりK』
大学生活に少しだけ慣れかけた頃、俊之は唯一の友人であるK君とコンタクトを取っていた。日の当たる爽やかなカフェテラスで、爽やかさとは程遠い男たち二人が近状報告をしている。この場所を指定したのはK君だが、彼は存外甘いものが好きなようで今はアフタヌーンティーを楽しんでいるようだ。
『……状況を聞きたい』
「うん……その前に、お前瀬那に会った?」
『それがさっぱり、他の奴らはわからないけど俺は一度も奴と接触を取れていない。ラインに連絡はちょくちょく来るんだけどな』
「ごめん」や「今日は用事があって」と、元康との接触を避けるような文が続いていることを俊之は伝えた。
「実は、最上瀬那は霧崎家の娘さんの婚約者にさせられたそうで」
『は?』
かなりの良家の娘さんで、最上に一目惚れしたらしい。最上家にとっても太いパイプになるだろうし、資金援助もあったらしくあの両親なら絶対に断る話じゃないだろうとK君は掴んだ情報を伝える。
『あの糞野郎!!』
清潔でお洒落なカフェテラスにふさわしくない暴言を吐く俊之に「どうどう」とK君は荒れ狂う馬を宥めるように落ち着かせてやる。
『これが落ち着いてられるかよ……!元康、だから卒業式の後に……』
俊之の推測として、元康は卒業式の日にたまたま最上家と霧崎家が会って婚約者の話をしているところを目撃してしまったのだと察した。その後、彼は心に受けた衝撃により耐えい切れず意識を飛ばし、数秒で入れ替わった俊之の目には、冷たい眼差しを向ける最上家両親と困惑した様子でこちらを見つめている瀬那の姿があった。
「なるほど、そこから元康は戻ってこないと」
『それどころか、今元康は眠りについたまま起き上がってこなくなった』
「眠り姫になっちまったってわけか……」
『……見かけによらず少女趣味だなおブス』
「あ?」
今のK君は、大学生活と並行して行っている暴露系動画配信者としての活動の方が、乗りに乗っている状況なのだろう。暗めの細いジーンズに動きやすいようにスニーカー、そしてパーカーにジャケットのあまり目立たないラフな格好はいいとして、怪しさ満点なサングラスとマスクを身に着けるようになっていた。
なお、彼は今もサングラスは修学旅行で買ったものを愛用している。
「で、婚約者の話だけど。最上瀬那は乗り気どころか断ろうと必死みたいだ。霧崎家はまだ話が通じるみたいだけど、どうやら最上の両親が相当な毒親らしくてなかなか逃げられないみたいだよ。厳しいなぁ親に恵まれないって」
『……』
俊之は瀬那を含めた最上家に恨みがあったが、元康が傷つけられたのも他人だからあの程度で済んでいたのかと思うと、背筋にゾクリと冷たいものが走った。
これが昔のように憎き元康の仇のままであれば、俊之としては瀬那ざまぁで済む話だが、何せ元康は瀬那を好いているのだ。好いているからこそ突然湧いて出た美少女婚約者にショックを受けてしまったのだろう。
俊之自身としては複雑な思いがあるが、それでも元康と瀬那には幸せになってもらいたかった。
『悔しいけど、あいつが元康以上に他の奴を愛せるとは思えない。というか奴が元康以外の人間を愛せるとも思わない』
「俺も、それはそう思う」
あの元康限定で執着心の塊のようなアイツが、他の奴に目を向けるかねとK君も同意する。まあ、聞くところによると大学卒業?下手すれば結婚するまでは清い交際を続けさせるそうですよ、相手は良家のお嬢さんですもんねとK君は「ケッ」と吐き捨てるように情報を流す。
余談ではあるがK君の下半身の清らかさ事情については、彼に精通が来て早々にそこら辺の女性で捨て去ってしまったので、清いという言葉には反吐が出る思いなのだろう。恐らくは。
「何よ今時清い交際って。マンコが何個かかってきても穢れるアタイじゃないわよ!!」
『K、大丈夫か、お茶足りてるか?』
友人のあまりにもお上品過ぎる言葉遣いに、窘めるため頭上にポットのお茶をかけようとしている俊之をK君は「ごめんごめん足りてる足りてるやめてやめて」と阻止しつつ、声のボリュームを少しだけ絞って一口大の可愛らしいケーキやスコーンを貪り始めた。
『雫』
『……何?』
ある日、体調でも悪いのかと気遣う俊之の前に、顔を赤く染めた雫の姿があった。『彼女』が図書館から帰って来た時から思えば様子がおかしい。
そして、別の日には李衣菜が同じように顔を赤らめて、物思いに耽ることが増えたように思える。嫌な予感がした俊之は『彼女たち』を問いただした。
『あの、あのね。ええと……ものすごくカッコいい人に声を掛けられて、その』
『私も……それからホテルに行って、やっちゃった』
『は?』
別人格も「水月元康」として生活しているので、心が女性であっても言動は男子として気を使っていた。二人の前に現れた「彼」は「元康、会いたかった……!」と彼の知り合いなのだろうか、或いはそれ以上なのか熱烈に二人を求めてハグをし、そのままなし崩しにホテルに連れ込まれて行為に至ったのだという。
無論雫と李衣菜が「彼」と遭遇したのはそれぞれ別の時間別の場所なので、上記のようなやり取りが二度行われたということになる。
『……待て、ものすごーく嫌な予感がしてきた。その色男の名前は?』
『……』
『隠してもお前たちのためにならないぞ、言えよ。吐け』
数多の人格と共存している俊之は基本的には平和的な人格だが、優先順位の一番は元康なので反抗的な態度を取るなら彼は決して容赦をしなかった。最悪害を成す人格については消すこともためらわずに、冷酷にやり遂げるであろう。
最初は言いよどんでいた彼女たちも諦めたのだろう。答えは聞くまでもなく、彼女たちは口をそろえて『……最上瀬那』と答えた。
『最上瀬那と!?お前ら瀬那とヤったのか?瀬那だとわかってやったのか!』
これは、どう捉えたらいいんだと俊之は悩む。今まで眠りこけていた二人が直接瀬那に会ったことはないにせよ、それでも瀬那のことは知っていたはずだ。
瀬那の名前を聞いてもそのまま行為を止めずにヤリ続けるとはどういうことだ、この尻軽、アバズレ、ヤリチン、元康に謝れと彼ら彼女らを激しく罵ってみるが、外側から見れば浮気も本命も全て瀬那×元康で完結してしまっている。
そう、少なくとも瀬那の中では浮気にあたらず、すべてが元康とした行為ではあるのだ。
また、二人の身体の相手が同じ最上瀬那と知った雫と李衣菜は互いに罵り合っており、ちょっとした地獄絵図のようだった。
『でも、最上瀬那、なんかおかしかった』
『うん……元康のことが好きで好きでたまらないというのは、確かに伝わって来たんだけどさ』
少し冷静になった雫と李衣菜は、性交中の出来事などを思い出した。曰く、彼は最初の内は『可愛い、君だけが好きだよ、愛している』と言っていたくせに、次第に『君は俺の知ってる元康と違う……ねえ、彼はどこ?彼を出して、彼を呼び出してくれたらもっと気持ちよくしてあげてもいいよ』という謎の台詞を吐いたという。
『なんか、私たちを別人格と気づいたような感じで……優しかったけどどこか心が無くて』
まるで行為は蕩けるほどに優しいけれど、心がそれに伴っていないセフレみたいな扱いだったと彼女たちは語る。「元康を出して」と何度も繰り返されてしまい、雫も李衣菜も元々が恋愛を司る人格であったためか『あんなに誰かの代わりにされて、心が冷たくなる思いをするぐらいなら、もう瀬那とはしたくないし会いたくない』と口をそろえて言った。
『助けて俊之』
『あいつ、やばい。何なんだよ』
『拷問だ、俺達の身体も心も持たない』
次に白旗を上げてきたのはゼラ、セラ、ソラの三人だった。どうやら瀬那は「まだ会ったことのない元康」に会うたびにまるで元康本人に出会ったかのように愛を囁き、化け物じみた野生の勘で『彼ら』が別人格と察すると途端に「元康を出して」と優しくはあるが、愛のない快楽の責め具や尋問のようなセックスをして、元康を引きずり出そうとしているようだった。
彼らが口々にその様子をセフレと称するのもそのためだろう。雫や李衣菜と異なりゼラ、セラ、ソラは元康に恋愛感情などないので尻を掘られた屈辱と、それを上回る快楽に屈した悔しさしかないのがまだ救いと言えば救いだった。
それにしても苦痛や暴言、屈辱などにはめっぽう強い三人も快楽には弱く音を上げてしまうとはと、俊之は瞬時に『別の人格を立てる必要があるか』と冷酷な思考を巡らせた。
その後も、元康が男性(瀬那)と性交してから生まれたアンシィや、発展場やバーへ赴くために生まれたであろうマックスやTAKAという人格たちも、皆瀬那の元康探しの餌食となった。
身体の相性が合った一部の人格は、元康以外愛されることはないと痛いほどわかっていながらもそのまま瀬那とセフレのような関係を続けているようだったが、当然他の瀬那を求める他の人格と衝突し罵り合いすべての人格と破局寸前まで迎えているようで、元康の脳内人間関係は泥沼化しこじれに拗れまくっていた。
『どうしたらいいんだ、何とかしてくれ……』
「どうにもしようがねえ……」
酒が飲める歳になった俊之とK君は、居酒屋の座敷席で二人して仲良く頭を抱えていた。二日酔いでもなく頭痛でもなく、瀬那の元康探しによって人格たちの脳内治安がとんでもないことになっているためだ。
「何をどうしたらそんなことになんのよ」
『俺にもわからねぇよ』
「もしかして、俊之も瀬那と寝」
『気持ち悪ぃこと言うな、んなわけねえだろ』
もし『俺』が出ているうちに何かけしかけてきたら、アイツのチンポも睾丸も引きちぎってやる、二度と悪さをしないようになと黒い憎悪を吐き出すと、全然関係のないK君が「ひぇっ」と己の股間を庇うように押さえた。全くノリの良い男ではある。
人格たちが共有する身体は元康のものなので、瀬那とセックスをしたかと問われたのなら「Yes」になってしまうが、高校卒業後は俊之の人格の時に瀬那と遭遇したことは無く、彼の人格が瀬那とセックスは疎か、直接対話すらしたことはない。よって辛くも『彼』の心の純潔は守られたまま、ということになるのだろう。
『俺以外の人格がセフレ連合軍になって瀬那と戦ってくれてるんだよ。人間関係はぐちゃぐちゃで壊滅的だけどな……』
「酷すぎる……」
多少爛れた性生活をしてきたK君がドン引きするぐらいに、瀬那の性欲はすさまじかったようだ。
「……でも、おかしくないか。最上瀬那は「元康を出せ」の一点張りなんだろう。奴はお前たちの状況を知ってるのか?」
『知らないはずだし……元康も伝えていないと思う』
「まあ、最上も頭は悪くないから。元康が何らかの心の病だったり障害を抱えているということは気づいたのかもしれない。それでもわからないのがやっぱり最上の行動だよ」
元康の別人格に気付きながらも、そのまま性交に進む理由。そして「元康を出せ」という言葉は、まるで彼が他の人格を潰そうとしているように見えた。「お前たちはお呼びでは無い」と言わんばかりに、他の人格を優しく蹂躙し、消すか潰そうとしているようにも見える。
「あいつは無意識に、他の人格たちを一人一人消滅させようとしてるんじゃないか?」
解離性同一性障害の対処方法としてそれはもっとも良くないやり方だが、他の人格が消えれば残された元康が戻って来ると瀬那は考えているのかもしれない。
そんなことをすれば屍を乗り越えるように、次から次へと元康の心を守るために数多の人格がゾンビのように生み出されてゆくだけだというのに。K君の考えに俊之は全身の肌を粟立たせた。
『ここどこぉ、やだぁああお家帰りたい、うぁあああん!』
俊之たちの前に、小さな男の子の人格が現れた。元康が生きていくための力にはとてもなれなさそうな、小さくて無垢で弱すぎるその人格は「夏樹(なつき)」と名乗った。
彼はそれぞれの人格たちが外で自身の名を名乗ることができないストレスと、そして瀬那に愛してもらえず、元康代わりの性の捌け口として利用されていることへの心の悲鳴とストレスから生まれた人格だと俊之は判断した。
その人格はなっちゃんと皆から呼ばれるようになり、可愛がられた。これも人格たちのストレスの捌け口としての役割だ。彼らは自分より弱くて頼りない人格を可愛がることで、『彼ら』は心の均整を保とうとしている。
『なっちゃん、どこ行くの』
『お砂場!』
夕方過ぎの子供がいなくなった時間帯に、夏樹は赤いバケツと黄色いシャベルを持って砂場に遊びに行った。成人男性がそのようにして熱心に公園で遊んでいる姿は悪い意味で人の目を引くので、人がいない時間帯で遊ぶように彼は他の人格からも注意を受けていた。
「ねえ、何をしているの?」
『……砂のお城作ってるの』
運悪くというべきか、たまたま公園を通り過ぎようとした最上瀬那の目に砂場で遊ぶ夏樹、外側から見れば元康の姿が目に止まってしまった。
……最上瀬那は、かなり早い時期から最愛の恋人元康の様子がおかしいことに気付いていた。学生時代も時折見せるまるで他人のような彼の様子に違和感を覚えており、その決定打となる起因が卒業式の日だった。
元康が瀬那の前からいなくなってしまったのが、突然現れた身に覚えのない瀬那の婚約者、霧崎美音という存在を元康が知った瞬間であることも理解していた。
高校時代に幾度か瀬那の前に現れた、瀬那に対して良い感情を抱いていない『あれ』が元康に成り代わっていると初めのうちは思っていた。しかしよくよく観察しているうちに、『あれ』以外の別の『誰か』も元康の身体を使っては現れ、次第にいろんな人間が元康を抑え込み、支配しているように瀬那には感じられた。
解離性同一性障害というものについては、瀬那も知識として知っていた。
だが彼は他の人格に興味がなく交流するつもりなど毛頭なく、瀬那を押し込めて隠してしまった人格たちには敵意しかなかった。彼は確証を握るため、新しい『誰か』と会うたびにそれが元康であるかを確認し、異なれば情が無いセフレのように扱った。
それは元康以外の人格には興味がないという牽制であり、酷い男を演じることで瀬那の前にそれらが出てこないようにするための、最も誤った人格の潰し方だった。
これまでに、何人もの『誰か』を抱いただろうか。その身体は元康だというのに中身だけが異なっており、瀬那は気味の悪さを覚えていた。
「君のお名前は?」
『なっちゃん!』
最上瀬那は、ついに元康の別人格の一人を明確に捕らえることに成功した。この人格はまだ幼いのだろう、初めのうちは一緒に砂場で遊んでやり、城作りにも付き合ってやった。
「おにいちゃん……や、やぁ」
「ああ、元康可愛い」
「ぼく、もとやすじゃないよぉ。やめて、いやぁ」
「元康、どうして出てきてくれないの?ねえ、元康に会いたいよ……俺には元康しかいらない」
この人格にも瀬那という存在を知らしめ、そして二度と出てこないようにトイレに連れて行き、その身体に悪戯をした。最悪であることは前提として、まだ幼い人格に対しては指で少し苛めてやるだけだった。流石に性行為には進まず、精を吐き出させて気をやってしまったなっちゃんの身体を清めて服を着せると、瀬那は元康を抱えて病院へと連れて行った。
「元康、必ず俺が元に戻してあげる……大好きだよ」
慣れない場所に連れてこられて最初に現れた人格はストレス耐性があるゼラ、セラ、ソラだったが、次第に混乱するように瀬那やもしかしたら俊之すらも把握していないさまざまな人格が現れては消え、極度の興奮状態を抑えるために鎮静剤を打たれた元康の身体は、プツンと糸が切れるように再度意識を飛ばした。
そこで初めて、水月元康は自身の診断が下されることになった。
『……ここは』
いつの間にか自室に寝かされていた宮本俊之は、ベッドの横に見覚えのない診察カードがあることに気付いた。
「……気づいた?」
『……最上、瀬那』
「お前、高校時代に見た覚えある。昼休みや休憩時間に元康を俺から引きはがそうとしてたから、よく覚えてる」
お前は嫌いだよと、瀬那は冷めた目線を投げつける。元康や話に聞いていた他人格とは違いすぎる態度の悪さに苛立ちを覚えるが、不思議と俊之を別の人格として見てくれる瀬那に対しては、不快な思いはそれほど感じられなかった。
「元康がいなくなった理由、わかる?」
『……お前のせいだろ』
俺達は元康の幸せを願っていたし、お前と元康が一緒になることも容認していた。だけどあのお金持ちの婚約者のことを知って、元康は壊れちまったんだ。
深く傷ついた元康は眠っちまって……そのまま起きてくれなくなった。どうすりゃいいんだよ、お前あの人と結婚するのかよ、なんで元康を裏切ったんだと俊之は怒りの感情を吐露する。
「……違う。元康を裏切ってなんていない。あの人と結婚なんてするもんか!元康以外はいらない」
『じゃあ、婚約者とは縁を切れたのか』
「……」
『まだ、切れてないのか?』
「……先手を打って、既に婚姻届不受理申出は出している」
毒親が故に、最上両親との婚約解消の交渉は難航しているのだろう。
ただし、瀬那は霧崎家には頭を下げて「最愛の恋人がいます」と結婚ができないことを事前に伝えており、幸いなことに常識的な霧崎家両親たちは「勝手に話を進めてしまい申し訳ない」と瀬那の気持ちを汲み取ってくれていた。
不受理申出の話も、霧崎家の両親が彼に早急に対応するようアドバイスをくれたのだ。けれども最上家両親はまだ二人のことを諦めておらず、霧崎家も仕事の関係上彼らに対して強くは出られず困っているようだった。
また、自称婚約者となった霧崎美音に対してはきちんと恋人がいることを両親と美音の前で伝えており、霧崎家の両親にも「もう諦めなさい」と説得されている。
しかしその後も瀬那がいくら会わないようにしても冷たい態度を取っても美音は一歩も引かずに、ひたすら病的なまでに今も瀬那に執着しているのだという。
『……そんなことがあったのか。なあ最上。俺も、元康のことを考えているつもりで、具体的には何もできていなかった。彼を辛いままにさせてきた。元康を病院に連れて行くという考えまでは正直思い至らなかったんだ。最上、ありがとう』
自分たちが他とは異なるということは理解していたが、それが病院に行ってどうにかするようなものだというところまで、考えが及ばなかったことを俊之は恥じた。無論自身が陥っている状況が異常事態だと認めるのに心の葛藤があったのも事実だ。
「……え?」
長年の宿敵に頭を下げられ、瀬那は動揺する。この際だからと、俊之はいつから人格が分離したのか、現在はどのような状況になっているのかなど事細かに説明をする。彼らの最終目的も元康の復活であることと、そのために自身らが人格統合しても構わないことを伝えたうえで。
『最上瀬那』
「なに」
『一発殴らせてもらってもいいか』
瀬那は無言で頷くと、俊之から顔面に重たい一撃をもらった。彼が他の人格を、自身の身体を使って惑わせ蹂躙させたことは事実であり「元康」に対して誠実な態度で無かったことに怒りを覚えたからだ。
そして、人格の一つ一つを彼らの理解なしで消滅させるということの非道さと、そんなことをしても逆効果であることもこんこんと説いた。
「申し訳なかった……元康が貴方たちにどこかに隠されて、連れ去られてしまったのだと思い込んでいた。それで怒りに駆られてしまった」
『そうなる前になんでもっと話をしようと思わなかった……?お前のおかげで他の奴らの人間関係は最悪だったよ。おかげで人格統合どころの話じゃない。バラバラだよ』
「ごめんなさい。本当に悪かった」
『もうアイツらとセフレ、やめてくれるか?』
「……うん。もう元康としかしないし、したくもない」
『それ、本人が戻って来たらちゃんと言って謝れよ、殴られても耐えろよ。なっちゃんのことなんかアイツ本当にブチ切れると思う。正義感の強い奴だから』
「……ああ」
『それと、ほかの奴らが許すか許さないかは、俺としては正直あまり興味が無い。もし他の奴らと会って暴言吐かれても受け止めろよ』
「……勿論だ」
彼らも最愛の元康の一部なんだからと、瀬那は初めて自分の元康『たち』へしてきたことへの残酷さを、心の底から悔いていた。
『反省したんなら次に進もう。なあ、俺達と共同戦線を張らないか』
「……どういうこと?」
『法的にはもう、自称婚約者とは絶縁と無視でいいんだろうけどな。お前は婚約者とちゃんと別れたい、俺達は……俺は少し不本意だが結局はお前と元康が一緒になることを望んでいる。元康の幸せが一番だから。終了条件の一つとしては、とりあえず婚約者を幻滅させたらいいんだろう?』
「うん……向こうから縁を切ってくれたら最高だね」
『今すぐには無理かもしれないけど、仲間達にも協力してもらって一芝居打とうと思ってる』
そのためにはやっぱり元康には早く起きてもらわないとだな……と遠い目をする俊之に「俺も全力で元康を支える」と彼の前に手を差し出した。躊躇することなく俊之も瀬那の手を握りしめ、二人は握手を交わした。その日から、元康の治療が始まった。
彼自身、己が誰かの人格だという認識すらもなかった。あまりにも当たり前に空気のように存在しているものだから、宮本俊之や他の人格すらも彼に気付くことはなかった。
彼は元康が生まれて今に至るまで、人格が分断される前とされた後、全ての記憶を持っている。ただの一つも忘れることなく、取りこぼすことなく、記憶されてゆくだけの備忘録のような人格だった。
忘却とは恐ろしく寂しいものだが、反面生きとし生けるものにとって救済の一つでもある。その場に蹲りたくなるような失態も、喉を掻きむしりたくなるような辛さも、失恋の胸に冷たい矢が刺さるような痛みも理不尽な言いがかりも、時間と共に少しずつ少しずつ忘れていくからこそ人は過去と見切りをつけて生きてゆけた。
その人格は、水月元康という人間の全記憶を持ってはいるが決して忘れることができず、もし心というものがあるのならしだいにそれは壊れて行き、少しずつ狂っていった。
楽しい記憶も辛い記憶も鮮明に思い出せるので、いつまでも「それ」の心は辛い過去を思い出しては血を流す。楽しい記憶すらも躁鬱の間を繰り返すように負担となってゆく。
辛い事の筆頭としては、幼馴染の両親からのプレッシャーや周囲からのやっかみ、決定打はあのいじめだった。
何のためにこの膨大な記憶を溜めておかなくてはならないのだろうと、それは初めて考えた。
その人格は退屈と苦痛を抱えて十数年間生きてきたが、ある日「それ」は気づいた。自身が他の人格に記憶を押し付けることも、取り除くこともできるということに。
そして「それ」は努力した。人格の一部を切り取って別の人格に貼りつけ、或いは剥がすことができるようになるまで。
いつしか記憶の付け替えができるようになった「それ」は、誰も彼に名前を付けてくれる者がいなかったので、自身に脳漿(のうしょう)と名付けた。
「元康」
いつかの昼休み、最上瀬那は満面の笑みで元康に声を掛ける。元康も「ん?」と会話に乗ってやっている。そんな二人の姿を、ヤマザキは少々困惑した様子で眺めているが、K君は「現金な奴め」と呆れ気味だ。
元康の別人格である宮本俊之が現れている時、瀬那はこのように話しかけることは決してない。K君は元康の他人格を知っており、そして宮本俊之と最上瀬那の相性が最悪であることも知っているので「またやってら」と見ていられるが、他の人間にとっては彼らの仲が突然悪くなったり良くなったりするので、どこでそのスイッチが入るのか予測できないし、乱高下する空気に耐えられず、居心地の悪い思いをしていた。
「あいつら、なんか変わったなぁ」
「そうかねぇ」
焼きそば目玉焼きソーセージパンというトチ狂ったカロリー爆弾のようなパンを秒で食べ終わると、ヤマザキはデザートである苺メロンクリームバナナマンゴーパンという相性は悪くなさそうだが、一体いくつ果実を織り交ぜたら気が済むんだという贅沢な菓子パンに齧りついた。
「ヤマザキ、それ美味い?」
「甘い」
「だろうな。お前食レポ向いてねえ」
「味じゃねえんだよ、次の授業に備えて糖質摂取してるだけ」
「そんなに頭使う人生送ってるっけお前」
「この学校に入学した時点で頭に糖質は使いまくりなんだよ」
K君とヤマザキの殺伐とした和やかな会話をBGMに、瀬那は「久しぶりに」一緒に元康と昼を食べることができた幸せを嚙みしめている。最近は「あれ」が俺と元康の仲を邪魔してくる、と瀬那は内心苛立っていた。
彼は元康が解離性同一性障害を患っていることは知らない。けれども宮本俊之が元康ではない事と、そして瀬那が「あれ」こと俊之とは相容れない仲であるということだけは本能で理解していた。
「元康、あーん」
「んむ」
「美味しい?」
「甘い」
瀬那は笑顔で元康に菓子パンを与えては、蕩けそうな笑みを隠そうともせずに目の前の最愛が咀嚼するところを飽きもせずに見つめている。
どうやらヤマザキとチョイスが被ったであろう苺メロンクリームバナナマンゴーパンは、誰が食べてもその最初の感想は「甘い」一択のようだった。暴力的な甘さが歯に沁み渡り虫歯や虫歯予備軍、或いは知覚過敏の人間は甘すぎてとてもこのパンを齧ることすらできないのだと噂されている。
そんなパン早く製造中止になってしまえと教師陣や養護教諭、栄養士あたりが思うかもしれないが、一部の狂信者的ファンの間でこのパンは愛され続けていた。
心穏やかな日々が続いている。元康には体育や美術音楽などの授業だけ受け、後はたまに友達と瀬那と昼ご飯を食べて、気が付いたら家に帰ってきており家族と食事を取り眠るという記憶だけが残っている。
その日の状況によって風呂に入ったり部屋で本を読むこともあるが、勉学のために机に向かった記憶がほぼ無くて、宿題もいつのまにか提出されており、毎日がそれの繰り返しだった。
「なんだかどんどん、自分がいなくなっていく気がする」
あれほどべったりいつも一緒だった瀬那とも、今は程よい距離感が保てるようになったというのに、その心には寂しさが生まれる。
……無論程よい距離感というのはあくまでも瀬那と元康基準であり、外部の人間が見たらそれは充分すぎるぐらいにバグってはいるが。健全な男同士の友人や普通の幼馴染は、おそらく歯が溶けそうに甘いパンを「あーん」とそれこそ喉が焼けるほどに甘ったるい眼差しで、愛おし気に食べさせてあげるということはあまりしないだろう。
卒業するまであと何回、瀬那と会えるだろうか。卒業した後の俺達はどうなるだろうか。もう彼の両親には見捨てられて期待に応える必要はなくなったので、瀬那と元康は大学を始め、きっとそれぞれ違う道を歩んでいくだろう。そこに、俺はいるのだろうか。元康は、初めて記憶を失うのが怖いと思った。
『おい、どこにいるんだよ』
どこでもない場所で、宮本俊之は叫ぶ。ここ最近おかしい、雫と李衣菜は眠り続けたままだというのに彼らの人格は消え去ることもなく存在しているし、ゼラ、セラ、ソラの3人も同様だ。今動いている人格は俊之と、彼らとコンタクトを取ることができない主人格の元康だけだというのに、何か第三者にじっと覗かれているような不気味な目線を絶えず感じている。
俊之もK君や瀬那ほどではないが、勘が鋭い方だった。人格とも言えない、何か特別な力をもった者がいる。恐ろしいのは、それが何を目的に動いているかということ。明確な意志や敵意などがあれば対話の余地がまだあるが、一番恐ろしいのは「それ」自体も何が目的で存在しているかわからないという場合だ。
「……こんなものあったっけ」
気が付けばどこでもない場所のでたらめなインテリアの中に、ちょこんとそれは存在していた。大きめで立派な水槽が俊之たちの居住スペースから少しばかり離れた場所に置かれており、中には灰紫色の脳みそが浮かんでいた。
「気味が悪い」
本物の脳よりもデフォルメ化されてはいるが、脳だけではなく飛び出した目玉も付いており、目の色だけはキラキラとした綺麗なグリーンで一層不気味さを引き立てている。グロテスクだというのに妙な光沢があり怪しく、見様によっては美しくすら見えるそれは存外澄んで綺麗な液体の中で、ぷかぷかと存外快適そうに浮いていた。
気味が悪くてどこかにやるか壊してしまいたい気持ちでいっぱいなのに、宮本俊之は、何故かそれに触れてはならないと本能で悟った。
中学の頃とは異なり、高校の修学旅行では瀬那と元康は一緒だった。正しくは最上瀬那、水月元康、それからヤマザキにK君という形ばかりは仲良し4人組でのグループとなった。これは瀬那を除けば混じりけのない本当の仲良しグループといって差し障りがない、という意味である。
このグループ編成を羨ましがる生徒たちは多く、ヤマザキは友人が多かったしK君は人気者から疎まれている分、実は陰の者たちに絶大的な人気があった。
瀬那は言わずもがなで、男女問わず幾人もの生徒たちが「一緒にまわろう?」と誘うのを無視し、べったりと元康にくっついている。いつものとおりみんなのお邪魔虫だな俺はと自嘲気味に笑う元康に、K君とヤマザキは「気にすんな」と友情の念で肩を叩いてくれるし、瀬那に関しては少しでも元康に対する悪意を察知するとそちらを睨み付け牽制する。
「おお番犬だ」
「狂犬だよあれ」
K君は無論のこと、ヤマザキもなんとなく二人の仲を察していた。もしもの時のために、ホテルで別の部屋に匿ってくれるグループを探しておこうねと内心二人は誓い合っていた。無論同グループ内にいるカップルの情事に巻き込まれたくないためだ。
「瀬那、鹿だ」
「うん、元康気を付けて、鹿が狙ってる」
「ヤマザキ、それ鹿用の煎餅だぞ」
「うん、苦いな」
「食レポは聞いてない」
ヤマザキ曰く鹿煎餅は煎茶や玄米茶の葉あたりを固めて焼いて上手い事形にしたのを齧ったような苦さとのことだった。恐らく生涯使うことは無い知識だろう。
腹を壊すこともあるまいと、鹿に集られるヤマザキを尻目に、K君はちらと瀬那と元康の方を盗み見していた。
修学旅行中、水月元康は元康のままで一度も宮本俊之は出てきていないようだった。勉強に関係がないので、彼は休息中ということだろうか。それとも元康と瀬那の仲を応援し、良い思い出作りに協力してやっているのだろうかと一瞬考えたが、瀬那を敵視しているあの俊之がそこまで気を回すわけはない、むしろ意識があれば積極的に阻止するだろうとK君は思い直した。
『離せ』
『はい落ち着いて』
『どうどう』
『ヒッヒッフー』
『最後なんか違うだろ!』
K君の推測通り、宮本俊之は元康と瀬那が二人きりになるのを防ぐべく外へ出ようとしているが、珍しく起きているゼラ、セラ、ソラ、それから雫と李衣菜の複数の人間に羽交い絞めにされそれを阻止されている状態だ。
元康の修学旅行中は見守ろうよと、他の人格たちに諭されてようやく落ち着いたのは数時間経過した後だった。
『僕達が何を言っても、最終的に決めるのは元康なんだからさ』
『彼には幸せになって欲しいでしょ?』
『今まで辛かった分さぁ、楽しい思い出作って欲しいでしょ?』
『……そうだけど!』
アイツが俺達を生み出した、アイツが不幸の元凶じゃないかと俊之は身体を震わせている。そんな彼をそっと横から抱きしめたのは、雫と李衣菜だった。
『……こんなことしても意味ないだろうけど。アタシらはあんたのことも好きだよ。いつもぴりぴり張り詰めてて憎しみに我を失うアンタは見てて、辛い』
『疲れてるんだね、俊之は。修学旅行中ぐらい勉強もサボってみんなで一緒に寝ちゃお?外の事は元康に任せてさぁ』
『皆、お前のことが大好きだよ俊之』
同じ人間の脳内で違う人格たちが好意を伝え合う姿は、自己愛と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。けれども俊之の心には、彼が生まれてから初めて安らぎと安堵が、そして心地よい疲労が全身にじんわりと滲み出ていた。
ゼラ、セラ、ソラも加わって一人ずつ俊之とハグをしてその後みんなで横になり、俊之を取り囲むようにして人格たちは束の間の睡眠をとることにした。
「ねーんねんころーりよ♪」
「……何してんだお前」
修学旅行の夜、4人部屋となった元康、瀬那、ヤマザキ、K君は4つ並べて敷かれた布団に身を横たえて眠りに就こうとしていた。なお、取り決めによりこのメンバーの間で恋バナだけは禁止事項である。
今のところ平和な恋バナというものを語ることができるのはヤマザキぐらいであり、K君は己にあるのか無いのかすらわからない恋愛観というものに触れられたくないし、元康はこの学校を生き抜くために必死で基本的にもう恋愛どころではなく、瀬那に至っては禁足地だ。逆に触れてはならない。
ぺんぺん草1本も生えない焦土のような、殺伐とした空気になるのが目に見えているためだ。
「明日も早いし、さあ寝るべか……」
まるでタコ部屋に詰め込まれた労働者のような台詞を吐いて目を閉じるK君と「おう、また明日な!」と爽やかな挨拶をして秒で夢の世界に突入するヤマザキ、そんな二人を冷めた目で見ながら、瀬那は元康の隣を陣取り彼のために子守歌を歌っているのだった。それは世間で言うところの美声であり、かつ歌が上手いのも腹立たしいと元康は思った。
「ぼうやは良い子だ♪ねんねしな♪」
「何してんだっての」
「んー?寝かしつけ。元康が寝るまでずっと見ていたいの」
すりすりと鼻先を元康の頬や首筋に摺り寄せて、愛おしくてたまらないといった風で瀬那は彼の布団をかけ直してやり、そしてちゅいちゅい元康の顔中にバードキスを降らせながら抱きしめた。
「徹夜しろ」
こんなことをされては眠れません、という言葉を元康はオブラートを数枚破り捨てて暴言のように吐き捨てる。
「じゃあ、元康も一緒に夜更かししてくれるの?」
ゾクリと熱を帯びた眼差しを向けられると、元康の背筋にも同じぐらいにゾクリと何かが走る。
「好きな人とこんなに近くにいて、大人しく眠れるわけないでしょ」
「瀬那……っんむぅ」
ちゅっと可愛らしい音を立てて唇に唇を重ね合わせると、そのまま吸われて舌先でノックをされる。友人二人がすぐそばで眠っているというのに元康は抗うこともできず、無意識のうちに遠慮がちに舌を絡ませ始めた。「いい子」とでも言うように、瀬那は目を細めて笑うとくちゅりと少しいやらしい音を立ててそれに応じる。
何度も位置を変え唇で唇を挟まれて、ようやく二人が唇を離した時にはつうと銀糸が伝った。
「お前、アイツらもいるんだぞ……」
「そんな潤んだ目で睨まれても怖くないよ」
うふふと妖艶に笑う幼馴染の姿に、元康の心臓がばくばく音を立てるのが胸を押さえてみなくとも、容易に感じ取れた。
「元康、もう諦めて。俺の事好き?」
「……うん」
「ちゃんと言って」
「……好きだよ、本当に、嫌になるぐらい」
「俺も、頭がおかしくなるぐらい好きだよ。もう狂ってるのかもしれないね。元康、愛してる」
「俺は愛憎って感じだよ。未だに……たまにお前の隣に居るのが辛くなる」
「……好きなのに、そばに居たくないなんて言わないで」
「だって、どうしたらいいんだよ。お前の傍にいるとものすごく苦しくなる。色んな思いが渦巻いて、今だってここが」
胸を押さえる手をそっと両手で包み込み「ごめんね」と眉を下げて声を掛ける瀬那と「今のお前に謝らせたいわけじゃないんだ」という元康のどうしようもないやり取りが繰り返される。
布団の中で互いに抱きしめ合って指と指、腕と腕、足と足を絡ませる姿は情欲のそれではない。ただ引き裂かれそうになるのを拒み、離れたくなくて互いを縄にして縛り付けるように抱きしめ合っているだけで、その姿は閉鎖された空間で生き辛さから逃れようともがき苦しんでいる二匹の蛇だった。
大人の行為などしなくても、服を着たままでも隙間なく身体をくっつけていられたのなら、今の二人にはそれが幸せだった。
「はやく自立して、元康と一緒に暮らせるように頑張るね」
「期待しないで待ってる。いや、お前一人で頑張るな。俺も一緒だから」
感極まって泣き出してしまった瀬那と、つられてもらい泣きをしてしまった二人は互いに慰め合って額や鼻先をこつんと軽くぶつけ合い、安堵したところで次第に眠りに落ちてゆく。
……今この部屋、もといこの世界で一番気の毒な男は。
そのすべての光景を目の当たりにし必死で寝たふりをしながらも、一人完徹を決行する羽目になってしまったK君その人であった。
「いい朝だなぁ」
うぅんと思い切り伸びをして、誰の許可も取らずガラリと窓を全開にして爽やかな朝の陽射しを全身に浴び、賑やかに一人「いちっに、いちっに!」ストレッチを始めるヤマザキは、意図せず徹夜をさせられたK君にとって朝の悪魔そのものだ。無論夜の悪魔たちは瀬那と元康である。
「おはよ、K!よく眠れたか」
「ええ、とても」
あからさまに目の下には隈ができており、その目は赤く充血しているが彼は快眠だったと言わざるを得ないのだ。寝不足の目に朝日が差し込んで染みてもよく寝たと調子をあわせなければならないのだ。「そうでなければ、俺は瀬那に殺される」と恐怖心から彼は背筋を伸ばす。K君はどこまでも友人思いであり、そして自分の命が惜しかった。
「……K君、似合うね」
「うん」
ホテルの土産物屋でその土地に全く所縁のない黒いサングラスを購入したK君は、目の隈と充血を覆い隠すためだけにそれを装着していた。目の前の友人が突然謎の方向性にイメチェンをし出したことに多少の驚きを隠せない元康だが、それでもたどたどしく褒めてくれた。
「なんか、動画配信者みたいだね」
「動画配信者なんだよ」
暴露系動画配信者だが、今の俺の心の内だけは誰にも暴露させられやしないわ!とシナを作り気持ちの悪いことを考えながらその日の移動中のバス内、K君は死んだように眠っていた。
K君のごりごり削り取られる睡眠時間と反比例するかのように、宮本俊之含む他の人格たちは深く心地の良い眠りについていた。特に俊之に関しては彼が生まれてからこんなにも長時間眠りについたことがなかったものだから、明日にでもこのまま俺達は元康と同化してしまうのかもしれない、けれどもそれもいいのかもしれないと彼の心は凪いでいた。
彼らから少し離れたところで水槽に浮かぶ灰紫色の脳みそも、しんと静まり返っており今のところ動く様子はなかった。
「おはよう、ねぼすけさん」
「ん、ああもう朝か。おはよう」
「すごくよく寝てた。ふふ、ここ寝癖ついてる」
「いいんだよ、朝はみんなそんなもんだろ」
「可愛い」
もう周りに隠すつもりすらもなくなったのだろう。爆睡するヤマザキはそのままで早朝から見せつけるようにいちゃつきだした瀬那と、まだ理性も羞恥も残っているのだろう、身を捩って抵抗を見せる元康の攻防を、K君はチベットスナギツネのような表情で眺めていた。
帰りの飛行機でも電車でも、隙を見つけては元康の手を繋ぎたがったりハグをしたりする瀬那と、もう抗うのも疲れたのだろうぐったりとされるがままになっている元康の二人を見たクラスメイトや他の生徒たちは、二人の仲を把握しないわけにはいかなかった。
「最上君と水月君、見た?」
「前々からべったりしてるとは思ってたけど」
「ああショックすぎる、告る前に失恋確定」
「ハナから相手にされないって」
「幼馴染だからってなんであんな奴……」
「……馬鹿、やめとけ」
狂おしい嫉妬に駆られてまた元康に害を成す者も現れるかとヤマザキとK君がそれとなく注意を払っていたが、イジメ事件は学内でも影を残しており表立って手を出そうとするものはいなかった。
元康や宮本俊之すらも知らなかったが、いじめや嫌がらせが酷かったものに対して最上瀬那が裏で一人一人制裁を加えていたのは、K君などの裏の情報に詳しいものにしてみれば周知の事実というやつだった。
「○○さんが僕の大切な人を傷つけました」
「○○君が元康を苛めていたんです」
いじめの主犯やその周辺の家に瀬那は挨拶と言う名目で単身乗り込み、両親や家族に事実を伝えに行ったのだ。無論証拠という手土産は忘れずに。
それでも何食わぬ顔で親し気に瀬那に話しかけようとする、図太い性質のいじめっ子達に関しては「俺の大切な人を傷つけてよく平然としていられるね?」「正直、同じ空気にいるのも不愉快」「もう、話しかけてほしくない」という内容を過剰にならない程度に薄っぺらいオブラートに包みながらも伝え、皆の前で隠すことなく瀬那は敵意を露わにさせた。
スクールカーストの最上位であり心酔すらしている人間に、そのような態度を取られた取り巻き達はどうなるか。何せ「いじめ」という後ろめたい過去がある者たちだ。いじめをした者への社会的制裁という大義名分を掲げられ、次のいじめや無視の標的になるのは時間の問題だった。
多少知恵のある者や反省の念がある者は、人が変わった様になりを潜めて大人しく暮らしたり転校や自主退学をしていった。
上記を知りつつも瀬那に告白をするものは後を絶たなかったが、きっちりフラれて諦めよう、次へ進もうとする者に対しては、瀬那も比較的紳士的な態度を見せた。
「最上君、ずっと前から好きでした、もしよかったら付き合ってください!」
上記に対するこれまでの瀬那の回答は「ごめんなさい、ずっと前から俺には好きな人がいるから……」だったのが、修学旅行の一件により「ごめんなさい、俺には愛する恋人がいるので!」とデレッデレで返すようになり、その度に元康はどこか離れた場所でヘックションとデカいくしゃみをするようになり「誰かが噂をしているのかな」と思うようになった。
修学旅行の最終日、美しい夜景の見える場所で瀬那は元康に告白をした。
「元康、俺と付き合ってください。高校卒業しても大学が別になっても、社会人になってもずっと一緒にいたいです」
「……俺で良かったら喜んで。照れくさいなこれ」
周囲から隠れるように、耳元で囁かれるようにして行われたそれは、まるで永遠の誓いのようだった。
そして、とても運が悪いことに異常なほどの聴覚の良さを持つK君だけが、またしてもその光景を目撃してしまうのだった。暗闇でもサングラスをかけていたことが功を奏したのか、彼らにばれることはなかったようだ。
「……という感じだった」
『うわぁやぁあああ!』
いつもの公園の屋根付きのベンチ、修学旅行の様子を細やかに伝えてくれたK君とそれを聞いて悶絶する宮本俊之の姿がそこにあった。
「で、そっちは?ロングバケーションはどうだったい?」
『寝てたわ』
「勿体ない」
憎き瀬那と元康が付き合ったという事実を聞き取り乱しては見せたものの、その後の俊之は平常運航と言って差し支えがないというレベルには落ち着いている。
そんな様子にK君は少しだけ怪訝そうな表情を見せるが、俊之は大人びた表情を浮かべて少しだけ笑う。
『いいんだ、元康が本当に幸せならさ。俺達も嬉しい』
「……そっか、大人になったなお前『たち』も」
一瞬頭でも撫でてやろうかとしたが、彼の「ガワ」には非常に嫉妬深い執着が過ぎる恋人がいるので、K君は思い直し明るく友人として肩を叩いてやる。
彼が把握する人格たちはおおむね元康と瀬那の関係を受け入れ祝福しているようだ。けれども「あれ」もそうだろうかと、K君は一度だけ浮上した不気味で敵意丸出しの人格に考えを巡らせる。
『今日を限りにお前と会うこともない』
あの謎の人格は水月元康の奥の方にいるためか、もしくは別の役割でもあるのか本来であれば外に出てくる者ではないのだろう。
「心の闇は深そうだ」
あれが今後元康の身体で何かの行動を起こそうとする可能性を考えた時、彼らはどうなってしまうのか。K君は漠然とそれを不安に思っていた。
卒業する数日前まで、瀬那と元康はようやくすれ違い拗れた糸をほぐして相思相愛と言ってもいいほどに幸せな毎日を過ごしていた。宮本俊之も気を使ったのか、彼は授業や自主勉とテスト以外は現れなくなった。すっかり起き上がることのなくなったゼラ、セラ、ソラの三人や雫や李衣菜は相変わらず眠りこけている。
少しづつ、人格たちはこうして元康になってゆくのだろうと俊之は己の運命を受け入れている。無論他人格たちと元康との共存という生き方もあるが、俺達がいなくても元康には守ってくれる人間がもう存在している。
統合しても死ぬわけでもない、元々の元康一人に戻るだけなのだと俊之は何かの信仰のように思っているのかもしれない。
「わあ、だれだろうあの子」
「可愛い、顔ちいさい、細い、モデルみたい!」
「最上君と一緒に居るけど彼女?」
「悔しいけどお似合いのカップルって感じ!」
「え、でも最上君は」
「そもそもあんな、ましてや男と本気で付き合うわけないだろ」
授業が終わった後、突然スマホの着信があった瀬那は元康に「ごめん、用事ができちゃった」と頭を下げて足早に教室を出ていった。
最上至上主義の瀬那が珍しいなと、K君もヤマザキも首を傾げながら窓の外をのぞくと、そこには瀬那の両親と見慣れない一人の女子がいた。お嬢様学校の制服を身に包んだその人は、オーラとでもいうのだろうか、遠巻きから見るだけでも美しく可憐さであることがわかる。
清楚だけど少しだけ意志と気が強そうな眉と目をしたその子は、礼儀正しくぺこりと瀬那にお辞儀をしていた。どうやら初対面のようだ。
後姿の瀬那の表情は伺い知ることはできないが、美少女のほうは頬を赤らめており明らかに瀬那に対して好意を抱いていることは明白であった……と、そこらへんのマサイ族より視力の良いヤマザキとオペラグラスを覗き込んでいるK君が、元康とクラスの人間たちに実況をしてくれた。実にいらない世話である。
次の日。普段と変わらない様子で教室にやってきた瀬那の周りに、無遠慮な取り巻き達と自称友人たちがぐるりと囲む。
「最上君おはよ!ねえねえ昨日の美少女だれ?」
「お父さんお母さんも一緒だったみたいだけど、大切な人?」
「もしかして彼女、いや結婚相手?」
「もし彼女とかじゃないんなら紹介してくれよ~」
同級生たちを冷たい眼差しで適当にいなすと、瀬那はやはりいつもと変わらない風で元康に朝の挨拶をしにやってきた。
「おはよう、元康」
「……おはよう」
今日も可愛いねと元康にハグを求め頬にキスをしてこようとする瀬那を、周囲の人間は相変わらず呆れたように二人を視野に入れないようにしていて、けれども目の端ではしっかりと見ている。これも随分前からありふれた光景となった。
「瀬那、昨日校庭に居た人って誰なんだ?」
「……うん、突然うちの両親が「会わせたい人がいる」って紹介してきてね。簡単な挨拶だけでその日は終わったけど、俺にもよくわからないんだ」
仕事関係のお偉いさんの子、とかかなぁと瀬那自身も首を傾げている。ヤマザキはへーそうなんだといつもと変わらない風で深入りしようとはせず、元康は漠然とした不安が水に垂らした黒いインクのように心に広がっている。K君だけは「面倒なことになりそうだ」とまるで行く末が見えているという様子で、珍しく暗い表情を浮かべていた。
淡い青空に薄桃の桜舞い散る日。楽しい記憶より辛い思い出の方が多かったかもしれない箔恵木学園を、元康は卒業した。
「君は、この学校で辛い思いばかりしてきたかもしれない。毎日生きてゆくだけでも精一杯だったかもしれない。沢山辛い目や理不尽な目にも遭っただろうし過ちも犯したかもしれない。けれども、僕は……先生たちは君の努力を称えたい。卒業おめでとう、本当におめでとう」
彼がこの学園に入学したのは本人の希望でもないであろうことも、本来の実力以上のことを日々課せられてきたことも元康の担任は気づいていた。いじめを防げなかったことに対して彼の心にはいくら拭っても拭いきれない罪悪感があった。
腐らず、生き延びてくれてありがとうとその担任は頭を下げた。
「先生、俺は。沢山のいろんな人『たち』に支えられて無事卒業できたんです。だから、俺だけの努力というわけではありません。でも、ありがとうございます。俺の担任が先生でよかった」
元康は自分の知らない頭の中の『誰かさん』に感謝をしていた。彼らが元康の負担を分散させてくれなかったら、今頃本当に元康は心身ともに壊れてしまっただろうから。
「……君も、友達に挨拶したいだろう?」
誰もいなくなった教室で、元康は机に突っ伏すとわざとらしく眠りの姿勢を取る。十数秒後にがばりと起き上がった彼は、きょろきょろと周囲を見渡すと黒板に大きく「卒業おめでとう」というこのクラスの生徒たちが書いたチョークの文字に気付き、心の中がじんわり温かくなった。
無事に『俺達』は卒業することができたんだ。元康をこの学校から卒業させてやることができたんだと、宮本俊之は身を震わせて視界が歪むのを必死でこらえようとしている。とめどなく溢れ出るそれは、辛くて苦しい時以外でも流れる温かいものなのだと俊之は今更ながらに知った。
『……おブス』
「誰がブスだ」
卒業おめでとう。教室の入り口に立っていた俊之の唯一の友人は、拍手をしてやると俊之の卒業を祝ってやった。『彼』らは卒業式にも出られなかったのだから、これが最後になるかもしれないのだからと、俺一人だけでも祝ってやろうとK君は俊之の目覚めを待っていたのだ。
「今のお前のほうがおブスだ。目なんかこんなに腫らしやがって」
『K、ありがとう。いままでありがとう。ずっと言いたかった。最後かもしれないからよかった。ありがとう……お前が友達で、本当によかった』
「……」
最後なんて寂しい事言うなよなんて、無責任な言葉をK君は吐くことはできなかった。この先『彼ら』がどうなってゆくのかはK君にもわからないのだから。このまま幸せな人生を歩むことができるのなら、俊之たちは元康と共に生きる道を選ぶのならば、彼らと言う存在はいつしか元康に溶け込んでしまう可能性もあるのだから。
だから、K君は俊之と固い握手を交わした。
「お前がどうなっても、俺らは友達だから」
「……ああ」
俊之は「元気で」と片手を軽く上げると、そのまま自分の席に向かい椅子に座って机に突っ伏し、眠りの姿勢に入った。身体を元康に返してやるのだろう。
K君は俊之が元康に切り替わる前に教室を後にした。友の門出を祝うには、彼がその場に居ない方が綺麗だと思ったからだ。
「……お別れは言えたかい?」
むくりとゆっくり起き上がった元康は、決して返事を返してくれない頭の中の同居人に
優しく声を掛けてやる。無事に卒業できたのは誰かたちのおかげなのだ。それが一人なのか複数なのかすらも元康にはわからない。
けれども「誰か」を卒業式にも出してやれなかった元康は、せめて卒場を迎えられたということだけでも伝えたく、教室で意識を少しだけ飛ばしてやった。黒板の卒業おめでとうは、元康の彼らに対する感謝の気持ちでもあった。
卒業後、元康も瀬那も別々の大学に通うことになった。瀬那は大学と家が近いので自宅から通うことになったが、元康は一人暮らしをすることになっている。その方が大学に近いという理由もそうだが、彼の両親がもう辛い思いをさせないように、最上家に関わらせないようにと暗に気遣ってくれたのだ。
「(父さん、母さんごめん)」
最上家との縁を切りたかったのは元康も同じだが、彼は瀬那を好きになってしまった。愛と言う言葉は少しだけ照れくさくてまだ着慣れない新品の洋服のようだが、しだいにすぐしっくりしてくるだろうという確信もあった。
「あ……」
校庭では最上家の人間と、もう一組の家族がいた。そこには瀬那と前に見かけた美少女もいる。家族ぐるみの付き合いといった様子で親密な空気が流れている。
「瀬那君がうちの娘と結婚してくれるなんて夢のようだなぁ」
「こちらこそ霧崎家とうちが親族になれるなんて、夢のようです」
「うちの瀬那を婚約者として迎え入れてくださって、本当にありがとうございます」
「もう、この子ったら瀬那君のことが大好きで、一目惚れなんですって」
和やかに会話するその言葉の一つ一つが元康の心を割れたガラスの破片のように傷つけてゆく。恐らく最上家にとってはかなりの優良案件である、良家の娘との婚約の話が家族間で進んでいたのだろう。瀬那は「何故」という困惑の表情を浮かべており、美少女……霧崎 美音(きりさきみおん)が腕にしがみついてくるのを遠慮がちに、けれどもはっきりと拒絶の意志と共に引きはがしている。
「瀬那、美音ちゃんになんて失礼なことを!」
「こらこら美音やめなさい、瀬那君はシャイなんだから」
「そうだ、ゆっくりこれから仲良くなっていけばいいさ」
「それでは夜の食事会でまたお会いしましょう」
霧崎家の人たちは高そうな車に乗り込み、一足先にその場を後にしたようだ。後に残されたのは、息子の心などそっちのけで野心を抱いた最上家両親と、顔を青ざめさせ絶望の表情を浮かべている瀬那の三人だった。
「……父さん、母さん。どういうことなの?俺何も聞かされてないけど」
「瀬那あなたはね。霧崎家の娘さん、美音さんの婚約者になるのよ」
「名誉なことだぞ、あの霧崎家と家族になれるなんて!おまけにとても美人じゃないか。お前の隣に並ぶのにふさわしい令嬢だ」
「無理だよ、俺には恋人がいる」
「……その子には悪いけど、別れなさい。あなたも学生時代に遊べてよかったでしょう」
「お前に暴力を振るわれた時も父さんたちは黙って見過ごしてやったんだ。次はお前が親孝行しなさい」
最上家の両親は、元康に対してだけではなく実の息子に対しても毒親だった。今までは元康というスケープゴートがおり、また結婚という話もなく瀬那自身が恋人を作らないように監視を続けてきたので、これといった歪みを感じずに瀬那は生きてゆくことができた。
悪意が無い分余計にたちが悪く、最上両親にとって瀬那はこれまで見目の良い愛玩用の子であったが、今は自分たちの将来のため息子を贄扱いにしたということなのだろう。
「そんなの勝手すぎる!俺は嫌だよ!……元康?」
瀬那と目線が合った瞬間、全てを目の当たりにした元康は意識を失い、この日から24歳になるまで、一度も外へ浮上することはなくなった。
桜の淡い花弁がひらひらと、初恋と元康の粉々に割れた心のように儚げに舞っていた。
『可哀想にね、辛い?』
灰紫色の髪にキラキラしたグリーンの目を持つ少年は、どこでもない場所の奥底、深く深く沈んだ暗い場所で膝を抱えて蹲る元康にそっと声をかける。
『辛いのは、時間が解決してくれるんだって』
それまで僕が君の記憶を預かっててあげるから、君は少し寝なよ。灰紫色に頭を優しく撫でられると、元康はそのまま眠りについた。それはいつ目覚めるかもわからない深い眠りで、主人格の異変に真っ先に気付いた宮本俊之が『何をしている!』と怒鳴り声をあげて駆け寄ってきた。
『……元康?』
『どうしたの』
『あれ、久しぶりに目が覚めた』
『皆、どうした』
『ちょっと、どうしたのよ』
『ねえちょっとなんで?!』
これまで眠りについていた他の人格たちも次々に目を覚まし、本来そこに居てはならない人物が眠りこけているのに驚いている。
どこでもない場所の一角に、水月元康がいた。誰が用意したのか白い保健室にあるベッドに身を横たえてスースー眠りについている。相当に眠りが深いのか揺さぶっても起きず反応すらない。
『どういうことなんだよ……』
困惑する俊之は掻きむしるようにして頭を抱えている。卒業してこれから彼には幸せな人生が待っているのではなかったのか。よほど衝撃的なことがあったか、もしくは彼が「もう生きていたくない」というぐらいに傷つきでもしない限り、このように眠りにつくことはないはずだと俊之は思う。
慌てふためく彼らから少し離れた場所で、水槽の脳みそはきらりきらりと灰紫色の身体とグリーンの目を輝かせながら、静かにその情景を眺めていた。
『ともかくだ』
俺達は「水月元康」を演じ続けなくてはならないと、宮本俊之はここで生きていくためのルールを告げた。元康がこれから通う大学は箔恵木学園ほどの厳しいところではないが、これから先もお互いに助け合って「水月元康」として生きていかねばならないと俊之は方針を定めた。
基本的に授業や日常生活は俊之の管轄だが、何かトラブルがあった時はゼラ、セラ、ソラ、家事料理などは雫や李衣菜と分担させることにした。
ルールというのは実に簡単で、人格たちが外に出る際は皆「水月元康と名乗ること」「元康として振る舞うこと」それのみであった。
『新しい人格が生まれた時も説明がやりやすいように、この辺に貼っておくか』
俊之は壁に『外出時は水月元康を名乗ること、元康でいること』と書かれたポスターのようなものを張りつける。丁度元康が一人暮らしを始めたのも、彼『ら』のことが元康の両親にばれるリスクが少なくて良いだろうと、人格たちは各々前向きに考えているようだ。
「……ハロー。いやぁ、束の間の別れだったな。綺麗に収まんないもんだねぇ、あの感動のお別れは何なのよもう」
『全くだ、こんな形で会いたくなかったよ。久しぶりK』
大学生活に少しだけ慣れかけた頃、俊之は唯一の友人であるK君とコンタクトを取っていた。日の当たる爽やかなカフェテラスで、爽やかさとは程遠い男たち二人が近状報告をしている。この場所を指定したのはK君だが、彼は存外甘いものが好きなようで今はアフタヌーンティーを楽しんでいるようだ。
『……状況を聞きたい』
「うん……その前に、お前瀬那に会った?」
『それがさっぱり、他の奴らはわからないけど俺は一度も奴と接触を取れていない。ラインに連絡はちょくちょく来るんだけどな』
「ごめん」や「今日は用事があって」と、元康との接触を避けるような文が続いていることを俊之は伝えた。
「実は、最上瀬那は霧崎家の娘さんの婚約者にさせられたそうで」
『は?』
かなりの良家の娘さんで、最上に一目惚れしたらしい。最上家にとっても太いパイプになるだろうし、資金援助もあったらしくあの両親なら絶対に断る話じゃないだろうとK君は掴んだ情報を伝える。
『あの糞野郎!!』
清潔でお洒落なカフェテラスにふさわしくない暴言を吐く俊之に「どうどう」とK君は荒れ狂う馬を宥めるように落ち着かせてやる。
『これが落ち着いてられるかよ……!元康、だから卒業式の後に……』
俊之の推測として、元康は卒業式の日にたまたま最上家と霧崎家が会って婚約者の話をしているところを目撃してしまったのだと察した。その後、彼は心に受けた衝撃により耐えい切れず意識を飛ばし、数秒で入れ替わった俊之の目には、冷たい眼差しを向ける最上家両親と困惑した様子でこちらを見つめている瀬那の姿があった。
「なるほど、そこから元康は戻ってこないと」
『それどころか、今元康は眠りについたまま起き上がってこなくなった』
「眠り姫になっちまったってわけか……」
『……見かけによらず少女趣味だなおブス』
「あ?」
今のK君は、大学生活と並行して行っている暴露系動画配信者としての活動の方が、乗りに乗っている状況なのだろう。暗めの細いジーンズに動きやすいようにスニーカー、そしてパーカーにジャケットのあまり目立たないラフな格好はいいとして、怪しさ満点なサングラスとマスクを身に着けるようになっていた。
なお、彼は今もサングラスは修学旅行で買ったものを愛用している。
「で、婚約者の話だけど。最上瀬那は乗り気どころか断ろうと必死みたいだ。霧崎家はまだ話が通じるみたいだけど、どうやら最上の両親が相当な毒親らしくてなかなか逃げられないみたいだよ。厳しいなぁ親に恵まれないって」
『……』
俊之は瀬那を含めた最上家に恨みがあったが、元康が傷つけられたのも他人だからあの程度で済んでいたのかと思うと、背筋にゾクリと冷たいものが走った。
これが昔のように憎き元康の仇のままであれば、俊之としては瀬那ざまぁで済む話だが、何せ元康は瀬那を好いているのだ。好いているからこそ突然湧いて出た美少女婚約者にショックを受けてしまったのだろう。
俊之自身としては複雑な思いがあるが、それでも元康と瀬那には幸せになってもらいたかった。
『悔しいけど、あいつが元康以上に他の奴を愛せるとは思えない。というか奴が元康以外の人間を愛せるとも思わない』
「俺も、それはそう思う」
あの元康限定で執着心の塊のようなアイツが、他の奴に目を向けるかねとK君も同意する。まあ、聞くところによると大学卒業?下手すれば結婚するまでは清い交際を続けさせるそうですよ、相手は良家のお嬢さんですもんねとK君は「ケッ」と吐き捨てるように情報を流す。
余談ではあるがK君の下半身の清らかさ事情については、彼に精通が来て早々にそこら辺の女性で捨て去ってしまったので、清いという言葉には反吐が出る思いなのだろう。恐らくは。
「何よ今時清い交際って。マンコが何個かかってきても穢れるアタイじゃないわよ!!」
『K、大丈夫か、お茶足りてるか?』
友人のあまりにもお上品過ぎる言葉遣いに、窘めるため頭上にポットのお茶をかけようとしている俊之をK君は「ごめんごめん足りてる足りてるやめてやめて」と阻止しつつ、声のボリュームを少しだけ絞って一口大の可愛らしいケーキやスコーンを貪り始めた。
『雫』
『……何?』
ある日、体調でも悪いのかと気遣う俊之の前に、顔を赤く染めた雫の姿があった。『彼女』が図書館から帰って来た時から思えば様子がおかしい。
そして、別の日には李衣菜が同じように顔を赤らめて、物思いに耽ることが増えたように思える。嫌な予感がした俊之は『彼女たち』を問いただした。
『あの、あのね。ええと……ものすごくカッコいい人に声を掛けられて、その』
『私も……それからホテルに行って、やっちゃった』
『は?』
別人格も「水月元康」として生活しているので、心が女性であっても言動は男子として気を使っていた。二人の前に現れた「彼」は「元康、会いたかった……!」と彼の知り合いなのだろうか、或いはそれ以上なのか熱烈に二人を求めてハグをし、そのままなし崩しにホテルに連れ込まれて行為に至ったのだという。
無論雫と李衣菜が「彼」と遭遇したのはそれぞれ別の時間別の場所なので、上記のようなやり取りが二度行われたということになる。
『……待て、ものすごーく嫌な予感がしてきた。その色男の名前は?』
『……』
『隠してもお前たちのためにならないぞ、言えよ。吐け』
数多の人格と共存している俊之は基本的には平和的な人格だが、優先順位の一番は元康なので反抗的な態度を取るなら彼は決して容赦をしなかった。最悪害を成す人格については消すこともためらわずに、冷酷にやり遂げるであろう。
最初は言いよどんでいた彼女たちも諦めたのだろう。答えは聞くまでもなく、彼女たちは口をそろえて『……最上瀬那』と答えた。
『最上瀬那と!?お前ら瀬那とヤったのか?瀬那だとわかってやったのか!』
これは、どう捉えたらいいんだと俊之は悩む。今まで眠りこけていた二人が直接瀬那に会ったことはないにせよ、それでも瀬那のことは知っていたはずだ。
瀬那の名前を聞いてもそのまま行為を止めずにヤリ続けるとはどういうことだ、この尻軽、アバズレ、ヤリチン、元康に謝れと彼ら彼女らを激しく罵ってみるが、外側から見れば浮気も本命も全て瀬那×元康で完結してしまっている。
そう、少なくとも瀬那の中では浮気にあたらず、すべてが元康とした行為ではあるのだ。
また、二人の身体の相手が同じ最上瀬那と知った雫と李衣菜は互いに罵り合っており、ちょっとした地獄絵図のようだった。
『でも、最上瀬那、なんかおかしかった』
『うん……元康のことが好きで好きでたまらないというのは、確かに伝わって来たんだけどさ』
少し冷静になった雫と李衣菜は、性交中の出来事などを思い出した。曰く、彼は最初の内は『可愛い、君だけが好きだよ、愛している』と言っていたくせに、次第に『君は俺の知ってる元康と違う……ねえ、彼はどこ?彼を出して、彼を呼び出してくれたらもっと気持ちよくしてあげてもいいよ』という謎の台詞を吐いたという。
『なんか、私たちを別人格と気づいたような感じで……優しかったけどどこか心が無くて』
まるで行為は蕩けるほどに優しいけれど、心がそれに伴っていないセフレみたいな扱いだったと彼女たちは語る。「元康を出して」と何度も繰り返されてしまい、雫も李衣菜も元々が恋愛を司る人格であったためか『あんなに誰かの代わりにされて、心が冷たくなる思いをするぐらいなら、もう瀬那とはしたくないし会いたくない』と口をそろえて言った。
『助けて俊之』
『あいつ、やばい。何なんだよ』
『拷問だ、俺達の身体も心も持たない』
次に白旗を上げてきたのはゼラ、セラ、ソラの三人だった。どうやら瀬那は「まだ会ったことのない元康」に会うたびにまるで元康本人に出会ったかのように愛を囁き、化け物じみた野生の勘で『彼ら』が別人格と察すると途端に「元康を出して」と優しくはあるが、愛のない快楽の責め具や尋問のようなセックスをして、元康を引きずり出そうとしているようだった。
彼らが口々にその様子をセフレと称するのもそのためだろう。雫や李衣菜と異なりゼラ、セラ、ソラは元康に恋愛感情などないので尻を掘られた屈辱と、それを上回る快楽に屈した悔しさしかないのがまだ救いと言えば救いだった。
それにしても苦痛や暴言、屈辱などにはめっぽう強い三人も快楽には弱く音を上げてしまうとはと、俊之は瞬時に『別の人格を立てる必要があるか』と冷酷な思考を巡らせた。
その後も、元康が男性(瀬那)と性交してから生まれたアンシィや、発展場やバーへ赴くために生まれたであろうマックスやTAKAという人格たちも、皆瀬那の元康探しの餌食となった。
身体の相性が合った一部の人格は、元康以外愛されることはないと痛いほどわかっていながらもそのまま瀬那とセフレのような関係を続けているようだったが、当然他の瀬那を求める他の人格と衝突し罵り合いすべての人格と破局寸前まで迎えているようで、元康の脳内人間関係は泥沼化しこじれに拗れまくっていた。
『どうしたらいいんだ、何とかしてくれ……』
「どうにもしようがねえ……」
酒が飲める歳になった俊之とK君は、居酒屋の座敷席で二人して仲良く頭を抱えていた。二日酔いでもなく頭痛でもなく、瀬那の元康探しによって人格たちの脳内治安がとんでもないことになっているためだ。
「何をどうしたらそんなことになんのよ」
『俺にもわからねぇよ』
「もしかして、俊之も瀬那と寝」
『気持ち悪ぃこと言うな、んなわけねえだろ』
もし『俺』が出ているうちに何かけしかけてきたら、アイツのチンポも睾丸も引きちぎってやる、二度と悪さをしないようになと黒い憎悪を吐き出すと、全然関係のないK君が「ひぇっ」と己の股間を庇うように押さえた。全くノリの良い男ではある。
人格たちが共有する身体は元康のものなので、瀬那とセックスをしたかと問われたのなら「Yes」になってしまうが、高校卒業後は俊之の人格の時に瀬那と遭遇したことは無く、彼の人格が瀬那とセックスは疎か、直接対話すらしたことはない。よって辛くも『彼』の心の純潔は守られたまま、ということになるのだろう。
『俺以外の人格がセフレ連合軍になって瀬那と戦ってくれてるんだよ。人間関係はぐちゃぐちゃで壊滅的だけどな……』
「酷すぎる……」
多少爛れた性生活をしてきたK君がドン引きするぐらいに、瀬那の性欲はすさまじかったようだ。
「……でも、おかしくないか。最上瀬那は「元康を出せ」の一点張りなんだろう。奴はお前たちの状況を知ってるのか?」
『知らないはずだし……元康も伝えていないと思う』
「まあ、最上も頭は悪くないから。元康が何らかの心の病だったり障害を抱えているということは気づいたのかもしれない。それでもわからないのがやっぱり最上の行動だよ」
元康の別人格に気付きながらも、そのまま性交に進む理由。そして「元康を出せ」という言葉は、まるで彼が他の人格を潰そうとしているように見えた。「お前たちはお呼びでは無い」と言わんばかりに、他の人格を優しく蹂躙し、消すか潰そうとしているようにも見える。
「あいつは無意識に、他の人格たちを一人一人消滅させようとしてるんじゃないか?」
解離性同一性障害の対処方法としてそれはもっとも良くないやり方だが、他の人格が消えれば残された元康が戻って来ると瀬那は考えているのかもしれない。
そんなことをすれば屍を乗り越えるように、次から次へと元康の心を守るために数多の人格がゾンビのように生み出されてゆくだけだというのに。K君の考えに俊之は全身の肌を粟立たせた。
『ここどこぉ、やだぁああお家帰りたい、うぁあああん!』
俊之たちの前に、小さな男の子の人格が現れた。元康が生きていくための力にはとてもなれなさそうな、小さくて無垢で弱すぎるその人格は「夏樹(なつき)」と名乗った。
彼はそれぞれの人格たちが外で自身の名を名乗ることができないストレスと、そして瀬那に愛してもらえず、元康代わりの性の捌け口として利用されていることへの心の悲鳴とストレスから生まれた人格だと俊之は判断した。
その人格はなっちゃんと皆から呼ばれるようになり、可愛がられた。これも人格たちのストレスの捌け口としての役割だ。彼らは自分より弱くて頼りない人格を可愛がることで、『彼ら』は心の均整を保とうとしている。
『なっちゃん、どこ行くの』
『お砂場!』
夕方過ぎの子供がいなくなった時間帯に、夏樹は赤いバケツと黄色いシャベルを持って砂場に遊びに行った。成人男性がそのようにして熱心に公園で遊んでいる姿は悪い意味で人の目を引くので、人がいない時間帯で遊ぶように彼は他の人格からも注意を受けていた。
「ねえ、何をしているの?」
『……砂のお城作ってるの』
運悪くというべきか、たまたま公園を通り過ぎようとした最上瀬那の目に砂場で遊ぶ夏樹、外側から見れば元康の姿が目に止まってしまった。
……最上瀬那は、かなり早い時期から最愛の恋人元康の様子がおかしいことに気付いていた。学生時代も時折見せるまるで他人のような彼の様子に違和感を覚えており、その決定打となる起因が卒業式の日だった。
元康が瀬那の前からいなくなってしまったのが、突然現れた身に覚えのない瀬那の婚約者、霧崎美音という存在を元康が知った瞬間であることも理解していた。
高校時代に幾度か瀬那の前に現れた、瀬那に対して良い感情を抱いていない『あれ』が元康に成り代わっていると初めのうちは思っていた。しかしよくよく観察しているうちに、『あれ』以外の別の『誰か』も元康の身体を使っては現れ、次第にいろんな人間が元康を抑え込み、支配しているように瀬那には感じられた。
解離性同一性障害というものについては、瀬那も知識として知っていた。
だが彼は他の人格に興味がなく交流するつもりなど毛頭なく、瀬那を押し込めて隠してしまった人格たちには敵意しかなかった。彼は確証を握るため、新しい『誰か』と会うたびにそれが元康であるかを確認し、異なれば情が無いセフレのように扱った。
それは元康以外の人格には興味がないという牽制であり、酷い男を演じることで瀬那の前にそれらが出てこないようにするための、最も誤った人格の潰し方だった。
これまでに、何人もの『誰か』を抱いただろうか。その身体は元康だというのに中身だけが異なっており、瀬那は気味の悪さを覚えていた。
「君のお名前は?」
『なっちゃん!』
最上瀬那は、ついに元康の別人格の一人を明確に捕らえることに成功した。この人格はまだ幼いのだろう、初めのうちは一緒に砂場で遊んでやり、城作りにも付き合ってやった。
「おにいちゃん……や、やぁ」
「ああ、元康可愛い」
「ぼく、もとやすじゃないよぉ。やめて、いやぁ」
「元康、どうして出てきてくれないの?ねえ、元康に会いたいよ……俺には元康しかいらない」
この人格にも瀬那という存在を知らしめ、そして二度と出てこないようにトイレに連れて行き、その身体に悪戯をした。最悪であることは前提として、まだ幼い人格に対しては指で少し苛めてやるだけだった。流石に性行為には進まず、精を吐き出させて気をやってしまったなっちゃんの身体を清めて服を着せると、瀬那は元康を抱えて病院へと連れて行った。
「元康、必ず俺が元に戻してあげる……大好きだよ」
慣れない場所に連れてこられて最初に現れた人格はストレス耐性があるゼラ、セラ、ソラだったが、次第に混乱するように瀬那やもしかしたら俊之すらも把握していないさまざまな人格が現れては消え、極度の興奮状態を抑えるために鎮静剤を打たれた元康の身体は、プツンと糸が切れるように再度意識を飛ばした。
そこで初めて、水月元康は自身の診断が下されることになった。
『……ここは』
いつの間にか自室に寝かされていた宮本俊之は、ベッドの横に見覚えのない診察カードがあることに気付いた。
「……気づいた?」
『……最上、瀬那』
「お前、高校時代に見た覚えある。昼休みや休憩時間に元康を俺から引きはがそうとしてたから、よく覚えてる」
お前は嫌いだよと、瀬那は冷めた目線を投げつける。元康や話に聞いていた他人格とは違いすぎる態度の悪さに苛立ちを覚えるが、不思議と俊之を別の人格として見てくれる瀬那に対しては、不快な思いはそれほど感じられなかった。
「元康がいなくなった理由、わかる?」
『……お前のせいだろ』
俺達は元康の幸せを願っていたし、お前と元康が一緒になることも容認していた。だけどあのお金持ちの婚約者のことを知って、元康は壊れちまったんだ。
深く傷ついた元康は眠っちまって……そのまま起きてくれなくなった。どうすりゃいいんだよ、お前あの人と結婚するのかよ、なんで元康を裏切ったんだと俊之は怒りの感情を吐露する。
「……違う。元康を裏切ってなんていない。あの人と結婚なんてするもんか!元康以外はいらない」
『じゃあ、婚約者とは縁を切れたのか』
「……」
『まだ、切れてないのか?』
「……先手を打って、既に婚姻届不受理申出は出している」
毒親が故に、最上両親との婚約解消の交渉は難航しているのだろう。
ただし、瀬那は霧崎家には頭を下げて「最愛の恋人がいます」と結婚ができないことを事前に伝えており、幸いなことに常識的な霧崎家両親たちは「勝手に話を進めてしまい申し訳ない」と瀬那の気持ちを汲み取ってくれていた。
不受理申出の話も、霧崎家の両親が彼に早急に対応するようアドバイスをくれたのだ。けれども最上家両親はまだ二人のことを諦めておらず、霧崎家も仕事の関係上彼らに対して強くは出られず困っているようだった。
また、自称婚約者となった霧崎美音に対してはきちんと恋人がいることを両親と美音の前で伝えており、霧崎家の両親にも「もう諦めなさい」と説得されている。
しかしその後も瀬那がいくら会わないようにしても冷たい態度を取っても美音は一歩も引かずに、ひたすら病的なまでに今も瀬那に執着しているのだという。
『……そんなことがあったのか。なあ最上。俺も、元康のことを考えているつもりで、具体的には何もできていなかった。彼を辛いままにさせてきた。元康を病院に連れて行くという考えまでは正直思い至らなかったんだ。最上、ありがとう』
自分たちが他とは異なるということは理解していたが、それが病院に行ってどうにかするようなものだというところまで、考えが及ばなかったことを俊之は恥じた。無論自身が陥っている状況が異常事態だと認めるのに心の葛藤があったのも事実だ。
「……え?」
長年の宿敵に頭を下げられ、瀬那は動揺する。この際だからと、俊之はいつから人格が分離したのか、現在はどのような状況になっているのかなど事細かに説明をする。彼らの最終目的も元康の復活であることと、そのために自身らが人格統合しても構わないことを伝えたうえで。
『最上瀬那』
「なに」
『一発殴らせてもらってもいいか』
瀬那は無言で頷くと、俊之から顔面に重たい一撃をもらった。彼が他の人格を、自身の身体を使って惑わせ蹂躙させたことは事実であり「元康」に対して誠実な態度で無かったことに怒りを覚えたからだ。
そして、人格の一つ一つを彼らの理解なしで消滅させるということの非道さと、そんなことをしても逆効果であることもこんこんと説いた。
「申し訳なかった……元康が貴方たちにどこかに隠されて、連れ去られてしまったのだと思い込んでいた。それで怒りに駆られてしまった」
『そうなる前になんでもっと話をしようと思わなかった……?お前のおかげで他の奴らの人間関係は最悪だったよ。おかげで人格統合どころの話じゃない。バラバラだよ』
「ごめんなさい。本当に悪かった」
『もうアイツらとセフレ、やめてくれるか?』
「……うん。もう元康としかしないし、したくもない」
『それ、本人が戻って来たらちゃんと言って謝れよ、殴られても耐えろよ。なっちゃんのことなんかアイツ本当にブチ切れると思う。正義感の強い奴だから』
「……ああ」
『それと、ほかの奴らが許すか許さないかは、俺としては正直あまり興味が無い。もし他の奴らと会って暴言吐かれても受け止めろよ』
「……勿論だ」
彼らも最愛の元康の一部なんだからと、瀬那は初めて自分の元康『たち』へしてきたことへの残酷さを、心の底から悔いていた。
『反省したんなら次に進もう。なあ、俺達と共同戦線を張らないか』
「……どういうこと?」
『法的にはもう、自称婚約者とは絶縁と無視でいいんだろうけどな。お前は婚約者とちゃんと別れたい、俺達は……俺は少し不本意だが結局はお前と元康が一緒になることを望んでいる。元康の幸せが一番だから。終了条件の一つとしては、とりあえず婚約者を幻滅させたらいいんだろう?』
「うん……向こうから縁を切ってくれたら最高だね」
『今すぐには無理かもしれないけど、仲間達にも協力してもらって一芝居打とうと思ってる』
そのためにはやっぱり元康には早く起きてもらわないとだな……と遠い目をする俊之に「俺も全力で元康を支える」と彼の前に手を差し出した。躊躇することなく俊之も瀬那の手を握りしめ、二人は握手を交わした。その日から、元康の治療が始まった。
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