空はこんなに青いのに~とある祟りの話

雷尾

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空はこんなに青いのに~とある祟りの話

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 その村に魅入られてしまえば、もう終わりだ。生涯をその村で過ごすことになる。
土地だけは広大にあり、自給自足には事欠かない恵まれた地にあるその村は、けれどもどこか排他的で徐々に人が絶え、そのうちにゆっくりと死にゆくような場所だった。

 Tは中肉中背と呼ぶには華奢な身体つきで、少し勝ち気だけれども優しい男だった。
Mは男性でありながらT以上に小柄で色が白く、折れてしまいそうな細い身体付きと庇護欲をそそるような愛らしい容姿の持ち主だ。
Mのきゅるんとした眼差しを向けられてしまうと、どんな人間もその目に心を奪われてしまうからと、Tはいつも気が気ではなかった。

 TとMは恋人同士だったが、古い考えを持つ者が多い古い小さな村では、それを受け入れられることは難しい。ひっそりと息を詰める様に、じくじくと慎重に二人の恋は思いを募らせ、時に辛さやもどかしさに身を捩じらせながらも、次第に愛へと転化されてゆくはずだった。

 一度目は、TとMの関係がMの家族にばれたことだった。もうほとんど没落しきっているというのに家柄と世間体を気にしたMの一族は、TからMを奪い去るようにして二人の仲を物理的に引き裂いた。

「……金輪際息子に関わらないでもらいたい」

 あえて「M」ではなく「息子」と呼び、Tと同じ性であることを強調されたのは、今でもTの心に影を落とす。今でこそ多様性の時代だが、この村だけはまるで時が止まったかのように、今でも古い常識に縛られている。

「このまま、二人で遠いところに行こうか」

「……ううん」

 Tに後ろから抱きしめられながらMは、どこか惚けたように「ごめんね」と、静かに返事を返す。

大切な家族だから。その一言で別れはあっけなく、さらに「それでもずっと好きだから」と、Mは残酷で優しい言葉を追いうちのようにかける。
それがまるでエールのようで、息が詰まるような檻から一人逃げだしたTは、地方などの名前が頭に付かないその国の首都となる都市にやってきた。

 二度目は、Tに親友と呼べる者ができた時。SNSを通じて同じ趣味で知り合ったその人物の名はCという。

「Tってさ、まつ毛長いよな。肌も色白で綺麗だし」

「……そうか?」

「ん、まあ可愛いというよりは地味だけどよく見たらキレイ系? だけど……黙っていればね。生意気で性格くっそ勝ち気だろTってさ」

「男相手に何言ってんだお前」

「あ、そういうの良くないんだ。多様性の時代でしょ今は」

 性自認だとかそういう話も難なく受け入れてくれる、いや気になどしていないのだろうCの存在がTにとっては心が救われるようであった。

「……俺もねぇ、ちょっと身体がめんどくさいことになってて」

 Cの見た目は長身痩躯でさらさらした黒髪の男性のようだが、その身体は女性であった。心が男性のCは、心と体がちぐはぐで一致しておらず困っているのだと言う。

「なんつーの。身体に合わない着ぐるみ着せられて徒競走出てる気分?」

 からからと笑うCに、Tは何と言っていいかわからず「そうか」と一言呟いてから、そのまま俯いてしまった。

「なあT、俺恋人ができたんだ」

 Cがスマホで写真を見せてくれたその人物は、故郷に置いてきたTの恋人、Mだった。呆然とした様子のTに、Cは「Mは女の子みたいなもんだから」とはにかんだ笑みを浮かべる。

「同じ趣味つながりで知り合ったんだ。そうしたらこんなにかわいい子、いままで見たことなくて。Mは頼りないところもあるけど、なんだかそれも可愛らしくて守ってあげたくなるんだ。田舎暮らしは俺も不安だけど、Mの傍にいてやれたら安心するだろうしな。
……俺だったらMの子供も産んでやれる。村の爺婆に文句も言われないだろ?俺はこの身体が嫌いだけど。子供を1~2人産んだら、そうだな。性別適合手術も考えている。その時にはもうこの身体もお役御免ってことで」

愛する者のために未来を見据えているCの目には、一切の迷いはなかった。

「男の子の中で一番好きなのはT! 女の子の中で一番好きなのはCなんだ」

 スマホの画面越しに久しぶりにあうMは、やはり残酷にTの、そして密かにCの心まで抉った。Cと結婚して幸せになるね、これからもよろしくねT。ずっと親友だよ。
 言葉のナイフはTの心を容赦なく抉ってゆく。

「なあ、T。結婚式には」

「……いかない」

「……え」

「いけない」

「どうして、俺はお前を親……」

「好きな人が、俺以外の誰かの手によって幸せになるところは見たくないから」

 TはMと同郷であることと、かつて恋人であったことを端的に述べると「さよなら、恋人と親友。幸せになってとは、今は言えないのが申し訳ないけど」と、その場に立ち尽くしたCをそのままに、TはCとスマホ越しのMの前から足早に去っていった。

 息を切らせて自室に戻る前、見上げた空は青かった。忌々しい閉鎖的な村でいつか見た空とそれだけは同じだ。あの時と同じ夏の匂いが、憎らしかった。

 人は幸せだと、他人の不幸には鈍感になる生き物なのかもしれない。SNSやメールにMやCからTを気遣うような無遠慮なメッセージが入る度に、彼の心は傷だらけになってゆくというのに。

「故郷も、友も、好きな人も全部捨てないとだめか」

 少しだけ困った様に笑うと、目から零れる滴はそのままにTはCと、大好きだったMをブロックした。何時か心が凪ぐまで。少しだけのさよならのつもりのそれは、気づけば数カ月数年と経っていた。

「なあ、今度の休日ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」

「あ、どこ?」

 Tの職場の同僚である徒上(あだかみ)という男は、所謂オカルトマニアというやつで。周囲の人間から散々止められ「そのうち死ぬぞ」と脅されても心霊スポットや廃墟に行くことをやめない男だった。
 徒上は黙っていればとてつもないイケメンに入る部類の顔の良い男ではあるが、俗世間からの煩わしさから自信を遮断するように、全身黒ずくめの服に長く伸びた黒髪と、外見を整えることにちっとも頓着しなかった。そして、彼自身がある種の怪奇と呼ばれても差し障りが無い程度には、彼の周囲ではいつも不思議なことが起こる。

「秘密。ね、旅費も全部俺が負担するからさ。ミステリーツアーってことで」

「……移動はお前の運転か」

「うふふぅ」

「……酔い止め代も請求していいか」

 徒上は愛車としてハマーを持っているが、軍用四輪駆動車の用途にそっているのかいないのか、その運転は大変荒々しかった。

 Tと徒上の出会いはとある雨の日のこと。Tがバーテンダーとして働いているバーの裏口で蹲っているTを介抱したのがその始まりだ。
徒上は恋愛というものに無頓着で、それどころか男にも女にも、ひょっとしたら人間にすら興味を抱いていないであろう変人で、親友と恋人を一度に失ったせいか、恋愛は疎か友情という感情すらわからなくなってしまったTとは不思議と馬が合った。

「おはよう!早いねぇTは」

「おう、今日はよろしく」

 Tは律儀な性分で、待ち合わせ時間の10分前には到着する男だ。いつだったかの時に待ち合わせ時間丁度に現れたTは徒上に対して「遅れて申し訳ない」と深々と頭を下げ、何事に対しても比較的ルーズな徒上は、軽くTに引いていたこともある。
 その日も、気が遠くなるようなどこまでも続くような青空だった。

 長い高速道路を抜けた先は、見慣れた光景があった。懐かしさを感じるよりも体がそれを拒絶したかのように、じわりじわりと背中に嫌な汗が滲んでゆく。小休憩がてら寄ったコンビニも「この先○○㎞」と書かれたスーパーの場所を知らしめる大きい看板も通り過ぎて、どんどん過疎化した場所へハマーは向かってゆく。

「……T顔色悪いね、吐きそう?水飲む?」

「いや、大丈夫」

 少しだけ気遣うように徒上はTにちらと目線をやるが、Tはそれどころではなかった。広大なだけの土地も、細々と存在するあまり実りの良くなさそうな畑も、子供の頃通っていた廃校も、かつての恋人と逢瀬するために行き交った畦道も。
全てが懐かしくて悍ましくて、同じ日本だというのに涼しく、意識が遠のくような涼やかな風も全てが彼にとっては恐ろしかった。

「ついた。○○村。ここねぇ、数年前に」

「どうして」

 Tのかつての故郷は、廃村となっていた。古ぼけた建物は手入れをされておらず一部が崩れ落ち廃墟そのものとなっている。彼がここに居た頃も建物は古ぼけてはいたが、それなりに趣があり、歴史を感じるしっかりとした造りだったはずだ。

「村も家も、人がいなくなると死ぬんだよ。ほら、ここなんか草が生え散らかしちゃってさぁ」

「……」

 行こっかぁと徒上は場違いに陽気な声を上げて、村の中を散策する。首にはカメラをぶら下げており、時折写真を取りながらフンフン鼻歌交じりで歩みを進めているが、存外その速度は速い。

「この村にはねぇ、神様がいたんだけど」

「……」

確かに村には神は居るが、それは崇め奉られるようなものではない、どちらかと言えば厄神のようなものだった。Tが子供の頃より踏み入れてはいけないと厳しく言われていた、村の山奥にはその神を祭る小さな小さな神社があったそうだ。
その神社には年に一度、決められた日に村でも特別な人間しか赴くことが許されない地であったとTは記憶している。

「……写真、撮らなくていいのか」

「撮るよ」

 パシャリ、パシャリと。徒上は何故かTばかり写す。

「俺じゃなくてさ、村のほら廃墟とか畑とか」

「それはいい、もう飽きるほど見たから」

「……?」

 Tと村の写真を撮りたいのだと徒上は言う。彼にシャッターを切られる度、うだるような暑さも蝉の声もどこかに遠ざかってゆくのを感じた。
 ゆらゆら遠くの方で地面を溶かす陽炎も、虫の声すらしない異様に静かな畦道も、目の前の男もかぎりなくリアルだというのに、どこか現実離れしている。

 早く早くと無邪気に急かす徒上に背中を押されて、Tは通っていた校舎や登下校中に何度も見た駄菓子屋、代わり映えのしない退屈で懐かしいはずの光景を尻目にとある家の前にやってきた。

 玄関の鉢植えの下を覗き込むと、鍵があった。田舎特融のおおらかさに不用心だなと思うこともなく、引き戸を開けると靴も脱がずにそのまま上がり込む。母も父もいないものの、部屋は誰かがそのまま突然いなくなってしまったかのように、食器や畳みかけの衣類などが残っている。
異様なのはそれだけではなく、部屋やふすま一面にドス黒い液体がこびりついていた。

「……この数年で、何があった」

 かつてのTの家に足を踏み入れた者は、誰がどう見ても似たような感想を抱くだろう。よくない事件に巻き込まれたかのように、非常にわかりやすく惨たらしく荒らされているが、そこに人だけが切り取られてしまったかのようにいなくなっていた。

「久しぶりの帰省、どうだった?」

 後ろの男はTの質問に答えてくれない。言葉を紡ごうとすると「ついて来て」とまた別の場所に連れていかれてしまう。大人しく従ってしまう自分もどこかおかしいのだろうか、とTはぼんやり考えた。

 そこはMの家だった。手で触れるのも憚られるぐらいに黒い液体がべっとりと付着している。血液であればとっくに乾燥しているであろうそれは、今でもぬめりを帯びてポツンポツンと滴り落ちている。

「血じゃ、ないのか」

 まるで家そのものから流れでているかのようなそれは、人間が流すには量が多すぎる。そして今でもひっきりなしに流れ出ているそれの正体がわからず、Tは数歩後ずさる。

「怖がりT」

 耳元で揶揄うように徒上が囁くと、彼は躊躇なく玄関のドアを開けた。まるで「それ」が徒上の手から逃れようとしているかのように、気持ちの悪い付着物は彼の手に着くことがなかった。

「おじゃまします」

 場違いに礼儀正しい徒上が玄関から上がり込むのを見届けると、不本意ながらTも後に続く。外観と比例して中はまだ人が暮らしているだろうと思えるほどには綺麗に整っていた。徒上が無遠慮にふすまを開けると、畳張りの和室には二組の布団が敷かれており、夫婦の寝室だろうと想像できた。
 部屋の端には文机が置かれており、その上には比較的真新しそうな手帳が乗っている。全体的に古めかしい和室の中で、手帳だけがこの村から取り残されたかのように、どこかおかしかった。

「……読んでみたら?」

「でも、人の手帳」

「ううん」

 きっと多分、君宛だから。徒上はおかしなことをさらりと当然のように言う。Tは後ろから抱き付く様に手を添えて、無理やり手帳の頁を開かせようとしている徒上の手をパシリと払った。

「読むけど、離れろ」

 お前の目にまで止まっていいものかはわからない。Tの言葉に徒上も「うん」と返事をした。

 ○月○日
村の人たちは、俺達を変わり者夫婦として見ていたようだが、それでも「嫁の身体が頑丈そうで子供を産むにはちょうどいい」と、俺にとって残酷な台詞を吐く。
 ……彼は、天使のような笑みを村人たちに向けるだけで、そんな俺を庇ってくれることはなかった。

 気晴らしに俺は、村の中を散策し「行ってはならない」と言われている山奥にも足を踏み入れた。鳥居が連なる小さな神社は、誰も訪れない場所にしてはいやに手入れされており確かにここには何かがいる、そう思わせるような場所だった。
 くいっとごく軽く、誰かに俺の服を引っ張られる感覚を覚えたのは気のせいだろうか。

 ○月○日
 わけもなく苛立ち、また反対に気分が落ち込むようになったのは環境の変化かと思っていたが。どうやら俺は妊娠したらしい。彼はとても喜んでくれたがどこか他人事のようで、まるで女友達の妊娠を喜ぶような、そんな見えない透明な壁のような距離がどこかにあった。

 ○月○日
「運動したほうがお腹の子供にとっても良いから」
 村の人たちの考えは少しばかり古いみたいだ。平気で畑仕事や近所の困りごとなどにも深夜問わず駆り出される。それは老若男女問わず、俺のような安定期前の妊婦も例外ではなかった。

深夜や早朝、昼過ぎの炎天下などに課せられる重労働は子を宿した俺には地獄のようだった。けれども彼は、この村の権力者の息子のようで肉体労働は免除されていたようだ。都会と変わらない内勤の仕事を細々とやっているようだ。

 ○月○日
 今日、お腹の子が、星になった。

 ○月○日
「またすぐに作ればいいよ」
「流産なんて珍しいことでもねえし」
村人は無遠慮に俺を励ましに来てくれる。誰のせいで子が流れることになったというんだ。彼は、村人がいる間は遠巻きから困った様子でこちらを見ているだけだ。

○月○日
 -興味本位で山へ向かわなければよかった。

 ○月○日
 狂っていたのはどこからだろうか。彼……Mと付き合った時からか? Tと離れた時からか。私がMを受け入れた時から?お腹に赤ちゃんができた時から?赤ちゃんが星になってしまった時から? もうわからない。いつから私が俺じゃなくなったのか。心と体がちぐはぐで苦しい、Mはあんなに可愛かったのに今では何の感情も抱けない。
 俺、本当はTのことが好きだった。

 ○月○日
 神様は本当にいた。人間にとって都合のよくない、無かったことにされていた神がこの村に居た。彼は俺の願いを叶えてくれるという。

 ○月○日
 死体が見つからない。死体が見つからない。死体が見つからない。どこに駆け込んでも数多の血は流れているというのに村人がどこにも見当たらない、Mもいない。この村から死臭が漂っているようだ。こんな日にふさわしいのは赤黒く塗りつぶされた空だというのに、空は気持ちの悪いぐらい青い。

 ○月○日
 目の前に、身に覚えのない愛しい我が子がいる。空に還ったんじゃ、なかったんだね。

 ○月○日
 神様、もしも、次があるのなら。

「読んだ?」

 肌が触れてしまいそうなほどに近く、徒上は居た。

「これ……」

「俺のお母さんの日記」

 は?と怪訝そうに首を傾けるTの反応はもっともで、手帳がかつての親友Cが書いたものであれば、Cの妊娠の時期と目の前の成人男性が生まれた時期とはどう照らし合わせても合うことは無い。
時間がループでもしているのかと、ホラーゲームじみた考えに苦笑してみると「違うよ」と目の前の男は優しく、けれども即座に否定した。

「ちっちゃくて、自分では生きられない赤ちゃんの身体をもらった。そのかわりに願いを叶えてやったんだけど」

 Tが徒上と出会ったのは数年前の話だ。MとCと縁を切った後のはずで、その数年の間に星になりそこねた赤子がこの男になった、ということだろうか。

「馬鹿らしい」

 こんなの無理やりだ、設定がおかしい。つまらないホラー小説を読まされているようだとTは鼻で笑うが、目の前の男は至極真面目にTの方を見つめている。

「俺ねえ、本当は徒上じゃなくて」

 彼は自身の本当の名前を名乗ると、Tの顔色はサアッと青白くなる。それは確かにこの村の神であり、よそ者が知るはずのない名でもあった。

「……村人の最後の生き残りの俺を、殺しに来たのか」

 わざわざ都会まで追ってきて。Tの言葉に徒上は「ううん」と笑顔で首を横に振る。

「母さんがね、都会に執着していたみたいだから。どんなところかなって思って」

 Cの執着先が都会ではなく、一人の男性であることを彼は知った。意図せず捻じれて全てを裏切られ恋も友情もその境がわからなくなってしまったTは、徒上の目には美しいものとして映った。

「血は争えないってやつ?」

 強力な執着とどす黒い念を身に纏わせた男は、Tを後ろからぎゅうと抱きしめる。重力とは異なる、地面から黒い手が伸びてTを引きずり降ろそうとするその重みは、命を散らせていったこの村の住人達の未練と恨みだろうか。

「好きだなぁ。うん、大好き」

 すりすりと首筋に顔を摺り寄せるその姿だけは、まるで懐いた大型犬のようだというのに。身体に纏わりつく人間が感じ取ってはならない気配に、Tの背筋は凍り付くようだった。

「……徒上、帰ろう」

「どこに?」

「街だよ。俺達の住んでる。お前、住む場所がないなら俺の家に居ればいい。だから、こんなつまらない村早く出て行こうぜ」

 最後の言葉が震えていたことを、徒上に悟られてはいないだろうか。Tの内心などさらりと無視し、徒上は「うん!」と存外明るく返事をしてくれた。彼の愛車が村の入り口にあることだけが、現世とのつながりを感じさせてくれるようで、Tを酷く安堵させた。

 仇神(あだがみ)とは古くよりこの村にいる災厄で、禍津日かとTが問えば「そんなに立派でも有名なものでもない」と、徒上は何故か照れくさそうに答える。
 仇神は敵討ちや復讐の神で、その代償はとてつもなく大きいが、やり場のない思いを抱えたCの仇を討ってくれたのだろうとTは考える。

「……本当に、それだけだと思う?」

 何とも言い難い眼差しでこちらを見据える仇上の目は、とても暗くて闇に吸い込まれてしまいそうな色をしている。

「裏切られた人なんて、どこにでもいるでしょう……俺の目の前にも」

「俺は、そんなことは望んでない」

 まっすぐに現実だけを見据えているTの姿に、仇上は「そう」とだけ返してやる。彼の指先がわずかに震えているのを見つけると、例えようもないぐらいに愛しい眼差しを向けながら。

 徒上はTと寄り添って眠るのが何よりも好きらしく「今は誰とも恋愛をしたくない」というTの気持ちも尊重してくれるが、何故か毎回同じ布団に潜り込んでくることだけはやめなかった。

 Tは真夜中が怖かった。眠気に意識を飛ばしてしまえるのであればそれでよいが、時折目が覚めた夜中の空気が何よりも恐ろしかった。
 ぼんやり天井を眺める時、白い壁を見つめる時、カーテンから仄かに漏れる月の光を見つめている時、突然塗りつぶされたような不自然な黒い闇が、ジッパーを思い切り開いたかのように嫌な音を立てて現れる。

 闇からは、見知った顔ばかりがぽっかり空いた黒い穴のような目で、こちらを見つめてくる。家族、かつての級友たち、村の人たち、駄菓子屋のおばあさん、それから。

「どうして」

 かつて愛した人が恨めし気にTの方へ手を伸ばす。どうしてTだけが無事なのか、どうして突然連絡が取れなくなったのか。どうして、こんなに大好きだったのに。数年前までは残酷で抉るような言葉たちも、今のTには響かない。

「Mの好きと俺の好きは違ったんだね」

 そう返してやるTの心もからっぽで。涙のようにコールタールのようなどす黒い液体を目や口からぼたぼた滴らせたMが、縋りつくようにTの方へ両手を爪を立てて伸ばすが、いつもそれを止めるのは、同じく目にぽっかりと空いたCだ。

「ごめん」

「気にしてないよ」

「……Tが、好きだった」

「それは……ごめん」

 応えることができなくて。その言葉にCは毎回絶望の表情を浮かべ、それから悲しそうな笑みに表情を切り替える。もう何度このやりとりを繰り返しただろう。終わりはいつもあっけなく、激高したMがCの手を逃れてTに襲いかかろうとした刹那、いつも徒上の手によって闇の境は無慈悲に閉じられてしまう。

「……何度、俺に同じものを見せれば気が済むんだよ」

「えへへ」

 それはT次第だよ、と彼は返す。徒上は、仇神は敵討ちの神なのでTの気がすむまで「彼ら」が苦しむ様を何度でも何度でも見せつけようとする。
 けれどもそれ以外の理由があって、仇神は誰かに見せびらかしたかったのだ。
 神である自分が初めて人に恋をした姿を。好きになった人と幸せそうに過ごしている様を。

 災厄の歪んだ恋心などわからないTは、窓際に立ち空を見上げる。

「明日も晴れかな」

 誰に問いかけるわけでもない独り言に、仇神は「青空だよ、きっと」と満面の笑みを浮かべた。
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