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第1章
28.黒闇
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近頃、ヘルマンは夜遅くまで執務室に留まっていた。
多少離れてはいるが、同じ屋根の下である。寝る直前まで執務室にいることも、以前は珍しくはなかった。
公爵位を継いだばかりのころは、慣れない仕事に覚えきれない勉強の毎日で、屋敷の居住スペースには寝るときにしかいなかった。
今ではそんなことはなく人間らしい生活を送っていたが。
仕事が残っているのは、日中執務室にいなかったからである。
数日そんなことを続けていたら、ついにフェルナンドに嫌味を言われ始めた。いい加減にしないといけないとわかっていたが、解決策もないままずるずるとこんなことを続けている。
いつまで続けるかと聞かれれば、自分の中で整理がつくまで、だろうか。
――情けない。
そう思った時、ドアをノックする音が聞こえる。
執事長が夜食でも持ってきたのかと思ったが、来たのはヒリスだった。
ユリアの診察はつづけているため、こうして定期的に報告に訪れる。
夜遅くに来るのは珍しかったが、ヘルマンは気にせず招き入れた。
「――今日は遅いんだな」
「街まで出ていたので、遅くなってしまって」
「何か飲むか?」
「いえ、すぐ帰ります。夜は十時までに寝ないと」
流石に補佐官時代はそんなに早く寝ていなかっただろうが。ヒリスは時々こういうよくわからないことを言う。
付き合いも長く、実は補佐官と公爵というよりは、友人としていた期間の方が長い。それでもつかみどころのないところは初対面の時からあった。
ヒリスはヘルマンと対面に座った。
「どうですか、仕事でユリア君は」
「少しずつ始めているんじゃないか?報告書も問題はない」
「本人は焦っているようですがね」
「そのうち落ち着くだろう」
ヒリスは探るような目を向けた。
「――何か、ありました?」
「何か?」
「ユリア君と」
「何もない」
その言葉に嘘はなかった。
ユリアとヘルマンの間には何もなかった。
問題はヘルマン自身の中だけだ。
ヘルマンはそう思っている。
「厄介ですねえ」
ヒリスが言うので、ヘルマンは怪訝な顔をした。
「なんだ」
「いえいえ。人って、自分でそうだと思ってると、断言できちゃいますから。厄介だなあ、と言う話です」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「うーん……ユリア君の話ですけど、気をつけて見てあげていただきたいです。仕事に復帰して疲れが出てくる頃だからなのか、別の原因か」
なんとも曖昧な言い方である。
「?不調なのか」
「それはまだ、なんとも。あまり弱音を話してくれるタイプじゃないですからね」
つらいことを、つらいと自覚しないようにしている子だ。きっとそうしないと前に進んで来れなかったんだろう。
「立ち止まることを許されないと思ってる子だから。苦しくても震える足のまま歩き出そうとする。時々休めるように手助けはしてあげないといけません」
「わかっている」
ルイスがいるせいで、立ち止まってはいられないと奮い立つ。しかしそのルイスも間違いなくユリアの心の支えになっている。
せめてユリアがつらいとき、助けを求められたらいいのだが。ただの主従関係にそれを求めるのは難しいのかもしれない。
――もう少し様子を見るかな。
ヒリスはそう思い、ヘルマンにそれ以上言うのはやめた。
夜も遅くなってきたのでさっさと退室することにする。
「ヘルマン様も、ちゃんと夜は寝ないとダメですよ。自覚してないだけで、作業効率はぐんと落ちてますからね」
ヘルマンはこれには手を振って答えた。
ユリアは自分にしがみつくルイスの寝顔を見ていた。
ここ数日、どんどん眠れなくなってきている。
このままではいけない。
「顔色が良くないよ。本当に眠れてる?」
今日もヒリスに心配されてしまった。それには笑顔で返しておいた。
まだ笑える。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせていた。
――大丈夫じゃなかったらどうなるんだろう。
ふいにそんな思いが頭をよぎって、そのあまりの恐ろしさに逃れたくなる。
そっとベッドから抜け出して、ルイスが気づかないか注意深く見てみる。寝息が変わらないのを見て、ユリアはそっと外に出た。
真夜中である。
しん、と静まり返った寮を出て、特にあてもなく歩き出した。
もう冬と言ってもいいくらい冷たい空気だ。落ち葉を集めた山が庭園のあちこちに積まれている。
そっと歩きながらユリアは空を見上げた。
ヘルマンと最後に見た空は、もっときれいに見えたのに。今は星もまばらで、霞んで見える。
はあ、と息を吐いてみる。白くなるかと思うほどの寒さだったが、そんなことはなかった。
時折見張りの騎士が巡回しているので、それに会わないよう、人気のない場所を選んで散歩する。
もっと前。公爵邸に来る前は、眠れなくてよくこうして歩いていた。
冷たい風に吹かれると身が引き締まって、少し頭がすっきりするような気がして。心が落ち着くのとはまた違うが、ある意味安心できる感覚があった。
足が疲れるほど歩き回れば帰って寝られるだろうか。
重い足取りでユリアは歩き続けた。
食欲も落ちてきて、ろくに眠れていない。
ユリアはふらふらとよろめきながら歩いていた。
以前迷い込んだときは公爵邸のことをよく知らなくて、ヘルマンの寝室からの裏道に迷い込んだんだった。
手足の先が冷たくて感覚がなくなっていく。
それでもユリアは歩き続けた。
歩き続けてさえいれば、恐怖が追いかけてこないような気がする。
何から逃げているのかもわからないままに、漠然とした恐怖におびえ、ただ手足を動かしていた。
だって次に失敗をしてしまったら、きっともう戻れなくなる。失望されたくない。
今ならまだ取り返せるはずだ。もっとちゃんとして、そして……。
「よくやった、って……」
ユリアのか細い声は風の音にかき消された。
次に強い風が吹いた時、それに倒されるようにしてユリアは意識を失った。
それは細木が折れるような、いかにも頼りない姿だった。
ヘルマンは久しぶりに寝室から外まで降りてきていた。
寝室からの裏道の広場である。
ヒリスの言葉がずっとどこか引っかかっていた。
ユリアの具合はまだよくないらしい。顔色が悪いと言っていた。
どうにも気になってしまう。それならば顔を見て声をかければいいのだが。
つい避けてしまう。必要以上に避けてはいけないだろうと思っているのだが。
ヘルマン自身にも、もう少し時間が欲しかった。
――今でもまだ感触が残っている。
力を入れたら折れそうなほど細い体。支えてやらねば倒れてしまいそうな。あの子はこの腕の中で震えていた。大丈夫だと声をかければ、あの子はやがて落ち着きを取り戻したのだ。この腕の中で。自分がいなければ生きていけないのだと思った。
しかし、頼りないように見えて、あの子はしっかりと歩き出した。ならばそれを喜んで送り出すべきだ。
ヘルマンは拳を握りこんだ。
引き止めたかった。行くな、ずっとここにいろと言ってしまいたかった。縛り付けたいような衝動に驚いて、慌てて抑え込んで、――こうして今、避けている。
ユリアは補佐官候補の一人であり、ただ、公爵領において傷を負ったから療養していただけだというのに。
ユリアの身が委ねられたときの、あの感覚……。
自分の中にいる怪物を決して起こしてはいけない。
ふとミヒルの行き過ぎた欲望が頭をよぎる。あれと同類などと絶対に認めたくなかった。
報告書は提出していたし、仕事はできているようだ。まだ病み上がりなのだから、もう少し長い目で見て、ヒリスにフォローしてもらいながら健康を取り戻していくだろう。
仕事も自分ではなく、フェルナンドに教わればいい。まだ若いのだからゆっくりと育って補佐官になっていけば。
言い訳ばかりだ。ヘルマンは情けなさにため息をつく。
――寝るか。
そう思い、部屋に入ろうとしたとき。
とすん、と。
何かが落ちたような、倒れたような音がした。
普段なら特に気にしない音なのに、妙に胸がざわつく。
なんだろう、この嫌な予感。音のする方へ少し歩を進め、それを見てヘルマンは弾かれたように駆け出した。
まさか。あれは。
少し遠いところに倒れている人影。誰かもわからないのに、なぜかそれがユリアであると確信した。焦りが、心臓を鷲掴みにしたようだった。
呼びかけることもできず、もっと早く駆け寄れと自分に苛立ちながら走る。
道に倒れたユリアを抱き上げ、ヘルマンはぎょっとした。
軽い。
白く透き通るようだった肌が、今は血色をなくしている。唇は土色で半開きになっていた。頭を打ったのかもしれない。少し出血している。
「――り、あ」
恐怖で身が竦む、というのを、ヘルマンは初めて体験した。声も出ない。
「ユリ、ア……ユリア!」
呼びかけに反応はなかった。氷のように冷たい手足だったが、幸い、脈はある。
ヘルマンは上着でユリアを包み込み、素早く抱きかかえた。
こんな夜中にここで呼んでも誰も来ないだろう。
急いで屋敷に戻り人を呼ばなくては。
「ユリア、しっかりしろ、ユリア……!」
何度呼んでも反応はない。それでも呼びかけずにはいられなかった。
何があった?どうして……。
順調に回復していると思っていたのに。あとは自分が邪魔さえしなければ……。
「体が限界だったんでしょう」
夜中にたたき起こされ、寝間着のままでヒリスは診察をした。
特に大きな異常はない、という。異常がないのに意識がなくなるのかというヘルマンへの回答である。
「栄養も、睡眠も足りず、精神的に追い詰めらて、身体が動きを止めたんです。これといった病気ではなくても、血が流れなくなり、酸素が足りなくなって意識を失う。そうやって限界のところで身体を守ろうとしているんでしょう」
暖房の利いたヘルマンのベッドにとりあえず寝かせ、今は寝息が聞こえてきている。ただ寝ているようにも見える。しかしその顔色はものすごく青い。
「これほど……やつれているとは、思わなかった」
ヘルマンはずっと拳を握りしめていた。愕然としたまま、ヒリスの診察を見守るしかなかった。
動揺してユリアを抱えたままヒリスの部屋を叩き、すぐに来いと叫んでユリアをここに寝かし、そこからずっと動けずにいる。
「そうですね。私も倒れるほどとは。最低限食べられているようには思ったんですが。やはり精神的に参っていたんでしょうね」
「精神的に……?あの事件のショックから回復していないということか」
「……どうでしょう。それはまた話してみないとわかりませんが」
ヒリスも首を傾げた。
事件の後遺症に苦しめられているのかもしれない。あるいは、ほかに不安なことがあるのかもしれない。
ある程度は予想していた。それでもユリアに仕事をして寮に戻っていいと思ったのは、驚くほどの速さで回復していったからだ。無理をしているのではなく、彼は持ち前のしなやかな強さで、みるみると回復していった。それも危なげなく、しっかり芯があったように思えた。土台があるのだと思えたから、許可したというのに。
最近は不安そうにしていた。何かに揺らいで焦っていた。それが何か、話していてもなかなか見えてこなかった。
そういえば、ぽつりとご主人様とつぶやいていた。
ヒリスはまさか、とヘルマンを見た。ユリアと同じくらい青ざめている。冷淡なところはあっても無情ではないこの人が何かを……とは考えにくいが。
「ヘルマン様から見て、ユリア君はどうだったんですか」
「………………」
沈黙にヒリスは怪訝な顔をする。
ずっと経過を見ていたのだから、何かしら気づいたことはあるのではないかと思ったのに。それほどユリアの状態がショックだったのかと思ったが、どうやら違うようだ。
ヘルマンの顔に一瞬後悔の色を見て、ヒリスははっとした。
「ヘルマン様、まさか……」
ヘルマンは両手で顔を覆った。椅子に座って顔を伏せているからもう表情は見えない。
「お会いになっていない……?ずっと?」
ヘルマンは語らなかった。
「なぜです」
それへの返答も、ない。
しばし沈黙が流れた。
「何か言ってくださらないと」
ヒリスが呆れたようなため息をついた。
ヘルマンのこんな様子も初めて見る。まるでらしくない。
側にいてやりたいと言っていたではないか。ヘルマンの常にないその様子を見たからこそ、ユリアの不調にも急ぐ必要はないと思っていたのに。
ふと、窓の外が白み始めたのを見て、ヒリスはやれやれ、といった。
「私はとりあえずルイス君の様子を見てきます。連れてきたらいいですよね。ユリア君の鍵をお借りしますよ」
「―――ああ」
ヘルマンは顔を見せないままにそう答えた。
ヒリスは呆れたように視線をやって、部屋を出て行った。
朝になってヒリスはルイスと共にやってきた。
昏睡、というか眠っているユリアを見て、静かに出ていく。
ヒリスが迎えに行った時も、ベッドの上で目は開いていて、静かにこちらを見つめていた。非常にびっくりしたものだ。
目が覚めてユリアがいないのに気づいて、それでも泣きもせずじっと待っていたらしい。
――おそらくルイスは、ユリアが不眠に悩んでいることを知っていたのだろう。それで夜中に抜け出ていたことも。だから黙ってユリアを待っていた。
この子はどんな気持ちで、夜中のベッドで一人ユリアを待っていたのだろうか。
ユリアが公爵領で寝ていることを告げて一緒にやってきたのだが、それでもユリアをそっと見るだけ。
「ルイス君、今日はここでゆっくりしたらどうかな」
ヒリスの提案にルイスは首を振った。
「ううん。しせつ、いく」
「でも、心配でしょ?いてもいいんだよ」
「ルイ、いないほうが、リアたくさんねれる」
ルイスは頑なだった。ヒリスは無理には勧めず、一緒に朝食をとって施設へ送っていった。
ヘルマンはフェルナンドにユリアが倒れたことを伝え、付き添うつもりで寝室でユリアが目覚めるのを待った。
多少離れてはいるが、同じ屋根の下である。寝る直前まで執務室にいることも、以前は珍しくはなかった。
公爵位を継いだばかりのころは、慣れない仕事に覚えきれない勉強の毎日で、屋敷の居住スペースには寝るときにしかいなかった。
今ではそんなことはなく人間らしい生活を送っていたが。
仕事が残っているのは、日中執務室にいなかったからである。
数日そんなことを続けていたら、ついにフェルナンドに嫌味を言われ始めた。いい加減にしないといけないとわかっていたが、解決策もないままずるずるとこんなことを続けている。
いつまで続けるかと聞かれれば、自分の中で整理がつくまで、だろうか。
――情けない。
そう思った時、ドアをノックする音が聞こえる。
執事長が夜食でも持ってきたのかと思ったが、来たのはヒリスだった。
ユリアの診察はつづけているため、こうして定期的に報告に訪れる。
夜遅くに来るのは珍しかったが、ヘルマンは気にせず招き入れた。
「――今日は遅いんだな」
「街まで出ていたので、遅くなってしまって」
「何か飲むか?」
「いえ、すぐ帰ります。夜は十時までに寝ないと」
流石に補佐官時代はそんなに早く寝ていなかっただろうが。ヒリスは時々こういうよくわからないことを言う。
付き合いも長く、実は補佐官と公爵というよりは、友人としていた期間の方が長い。それでもつかみどころのないところは初対面の時からあった。
ヒリスはヘルマンと対面に座った。
「どうですか、仕事でユリア君は」
「少しずつ始めているんじゃないか?報告書も問題はない」
「本人は焦っているようですがね」
「そのうち落ち着くだろう」
ヒリスは探るような目を向けた。
「――何か、ありました?」
「何か?」
「ユリア君と」
「何もない」
その言葉に嘘はなかった。
ユリアとヘルマンの間には何もなかった。
問題はヘルマン自身の中だけだ。
ヘルマンはそう思っている。
「厄介ですねえ」
ヒリスが言うので、ヘルマンは怪訝な顔をした。
「なんだ」
「いえいえ。人って、自分でそうだと思ってると、断言できちゃいますから。厄介だなあ、と言う話です」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「うーん……ユリア君の話ですけど、気をつけて見てあげていただきたいです。仕事に復帰して疲れが出てくる頃だからなのか、別の原因か」
なんとも曖昧な言い方である。
「?不調なのか」
「それはまだ、なんとも。あまり弱音を話してくれるタイプじゃないですからね」
つらいことを、つらいと自覚しないようにしている子だ。きっとそうしないと前に進んで来れなかったんだろう。
「立ち止まることを許されないと思ってる子だから。苦しくても震える足のまま歩き出そうとする。時々休めるように手助けはしてあげないといけません」
「わかっている」
ルイスがいるせいで、立ち止まってはいられないと奮い立つ。しかしそのルイスも間違いなくユリアの心の支えになっている。
せめてユリアがつらいとき、助けを求められたらいいのだが。ただの主従関係にそれを求めるのは難しいのかもしれない。
――もう少し様子を見るかな。
ヒリスはそう思い、ヘルマンにそれ以上言うのはやめた。
夜も遅くなってきたのでさっさと退室することにする。
「ヘルマン様も、ちゃんと夜は寝ないとダメですよ。自覚してないだけで、作業効率はぐんと落ちてますからね」
ヘルマンはこれには手を振って答えた。
ユリアは自分にしがみつくルイスの寝顔を見ていた。
ここ数日、どんどん眠れなくなってきている。
このままではいけない。
「顔色が良くないよ。本当に眠れてる?」
今日もヒリスに心配されてしまった。それには笑顔で返しておいた。
まだ笑える。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせていた。
――大丈夫じゃなかったらどうなるんだろう。
ふいにそんな思いが頭をよぎって、そのあまりの恐ろしさに逃れたくなる。
そっとベッドから抜け出して、ルイスが気づかないか注意深く見てみる。寝息が変わらないのを見て、ユリアはそっと外に出た。
真夜中である。
しん、と静まり返った寮を出て、特にあてもなく歩き出した。
もう冬と言ってもいいくらい冷たい空気だ。落ち葉を集めた山が庭園のあちこちに積まれている。
そっと歩きながらユリアは空を見上げた。
ヘルマンと最後に見た空は、もっときれいに見えたのに。今は星もまばらで、霞んで見える。
はあ、と息を吐いてみる。白くなるかと思うほどの寒さだったが、そんなことはなかった。
時折見張りの騎士が巡回しているので、それに会わないよう、人気のない場所を選んで散歩する。
もっと前。公爵邸に来る前は、眠れなくてよくこうして歩いていた。
冷たい風に吹かれると身が引き締まって、少し頭がすっきりするような気がして。心が落ち着くのとはまた違うが、ある意味安心できる感覚があった。
足が疲れるほど歩き回れば帰って寝られるだろうか。
重い足取りでユリアは歩き続けた。
食欲も落ちてきて、ろくに眠れていない。
ユリアはふらふらとよろめきながら歩いていた。
以前迷い込んだときは公爵邸のことをよく知らなくて、ヘルマンの寝室からの裏道に迷い込んだんだった。
手足の先が冷たくて感覚がなくなっていく。
それでもユリアは歩き続けた。
歩き続けてさえいれば、恐怖が追いかけてこないような気がする。
何から逃げているのかもわからないままに、漠然とした恐怖におびえ、ただ手足を動かしていた。
だって次に失敗をしてしまったら、きっともう戻れなくなる。失望されたくない。
今ならまだ取り返せるはずだ。もっとちゃんとして、そして……。
「よくやった、って……」
ユリアのか細い声は風の音にかき消された。
次に強い風が吹いた時、それに倒されるようにしてユリアは意識を失った。
それは細木が折れるような、いかにも頼りない姿だった。
ヘルマンは久しぶりに寝室から外まで降りてきていた。
寝室からの裏道の広場である。
ヒリスの言葉がずっとどこか引っかかっていた。
ユリアの具合はまだよくないらしい。顔色が悪いと言っていた。
どうにも気になってしまう。それならば顔を見て声をかければいいのだが。
つい避けてしまう。必要以上に避けてはいけないだろうと思っているのだが。
ヘルマン自身にも、もう少し時間が欲しかった。
――今でもまだ感触が残っている。
力を入れたら折れそうなほど細い体。支えてやらねば倒れてしまいそうな。あの子はこの腕の中で震えていた。大丈夫だと声をかければ、あの子はやがて落ち着きを取り戻したのだ。この腕の中で。自分がいなければ生きていけないのだと思った。
しかし、頼りないように見えて、あの子はしっかりと歩き出した。ならばそれを喜んで送り出すべきだ。
ヘルマンは拳を握りこんだ。
引き止めたかった。行くな、ずっとここにいろと言ってしまいたかった。縛り付けたいような衝動に驚いて、慌てて抑え込んで、――こうして今、避けている。
ユリアは補佐官候補の一人であり、ただ、公爵領において傷を負ったから療養していただけだというのに。
ユリアの身が委ねられたときの、あの感覚……。
自分の中にいる怪物を決して起こしてはいけない。
ふとミヒルの行き過ぎた欲望が頭をよぎる。あれと同類などと絶対に認めたくなかった。
報告書は提出していたし、仕事はできているようだ。まだ病み上がりなのだから、もう少し長い目で見て、ヒリスにフォローしてもらいながら健康を取り戻していくだろう。
仕事も自分ではなく、フェルナンドに教わればいい。まだ若いのだからゆっくりと育って補佐官になっていけば。
言い訳ばかりだ。ヘルマンは情けなさにため息をつく。
――寝るか。
そう思い、部屋に入ろうとしたとき。
とすん、と。
何かが落ちたような、倒れたような音がした。
普段なら特に気にしない音なのに、妙に胸がざわつく。
なんだろう、この嫌な予感。音のする方へ少し歩を進め、それを見てヘルマンは弾かれたように駆け出した。
まさか。あれは。
少し遠いところに倒れている人影。誰かもわからないのに、なぜかそれがユリアであると確信した。焦りが、心臓を鷲掴みにしたようだった。
呼びかけることもできず、もっと早く駆け寄れと自分に苛立ちながら走る。
道に倒れたユリアを抱き上げ、ヘルマンはぎょっとした。
軽い。
白く透き通るようだった肌が、今は血色をなくしている。唇は土色で半開きになっていた。頭を打ったのかもしれない。少し出血している。
「――り、あ」
恐怖で身が竦む、というのを、ヘルマンは初めて体験した。声も出ない。
「ユリ、ア……ユリア!」
呼びかけに反応はなかった。氷のように冷たい手足だったが、幸い、脈はある。
ヘルマンは上着でユリアを包み込み、素早く抱きかかえた。
こんな夜中にここで呼んでも誰も来ないだろう。
急いで屋敷に戻り人を呼ばなくては。
「ユリア、しっかりしろ、ユリア……!」
何度呼んでも反応はない。それでも呼びかけずにはいられなかった。
何があった?どうして……。
順調に回復していると思っていたのに。あとは自分が邪魔さえしなければ……。
「体が限界だったんでしょう」
夜中にたたき起こされ、寝間着のままでヒリスは診察をした。
特に大きな異常はない、という。異常がないのに意識がなくなるのかというヘルマンへの回答である。
「栄養も、睡眠も足りず、精神的に追い詰めらて、身体が動きを止めたんです。これといった病気ではなくても、血が流れなくなり、酸素が足りなくなって意識を失う。そうやって限界のところで身体を守ろうとしているんでしょう」
暖房の利いたヘルマンのベッドにとりあえず寝かせ、今は寝息が聞こえてきている。ただ寝ているようにも見える。しかしその顔色はものすごく青い。
「これほど……やつれているとは、思わなかった」
ヘルマンはずっと拳を握りしめていた。愕然としたまま、ヒリスの診察を見守るしかなかった。
動揺してユリアを抱えたままヒリスの部屋を叩き、すぐに来いと叫んでユリアをここに寝かし、そこからずっと動けずにいる。
「そうですね。私も倒れるほどとは。最低限食べられているようには思ったんですが。やはり精神的に参っていたんでしょうね」
「精神的に……?あの事件のショックから回復していないということか」
「……どうでしょう。それはまた話してみないとわかりませんが」
ヒリスも首を傾げた。
事件の後遺症に苦しめられているのかもしれない。あるいは、ほかに不安なことがあるのかもしれない。
ある程度は予想していた。それでもユリアに仕事をして寮に戻っていいと思ったのは、驚くほどの速さで回復していったからだ。無理をしているのではなく、彼は持ち前のしなやかな強さで、みるみると回復していった。それも危なげなく、しっかり芯があったように思えた。土台があるのだと思えたから、許可したというのに。
最近は不安そうにしていた。何かに揺らいで焦っていた。それが何か、話していてもなかなか見えてこなかった。
そういえば、ぽつりとご主人様とつぶやいていた。
ヒリスはまさか、とヘルマンを見た。ユリアと同じくらい青ざめている。冷淡なところはあっても無情ではないこの人が何かを……とは考えにくいが。
「ヘルマン様から見て、ユリア君はどうだったんですか」
「………………」
沈黙にヒリスは怪訝な顔をする。
ずっと経過を見ていたのだから、何かしら気づいたことはあるのではないかと思ったのに。それほどユリアの状態がショックだったのかと思ったが、どうやら違うようだ。
ヘルマンの顔に一瞬後悔の色を見て、ヒリスははっとした。
「ヘルマン様、まさか……」
ヘルマンは両手で顔を覆った。椅子に座って顔を伏せているからもう表情は見えない。
「お会いになっていない……?ずっと?」
ヘルマンは語らなかった。
「なぜです」
それへの返答も、ない。
しばし沈黙が流れた。
「何か言ってくださらないと」
ヒリスが呆れたようなため息をついた。
ヘルマンのこんな様子も初めて見る。まるでらしくない。
側にいてやりたいと言っていたではないか。ヘルマンの常にないその様子を見たからこそ、ユリアの不調にも急ぐ必要はないと思っていたのに。
ふと、窓の外が白み始めたのを見て、ヒリスはやれやれ、といった。
「私はとりあえずルイス君の様子を見てきます。連れてきたらいいですよね。ユリア君の鍵をお借りしますよ」
「―――ああ」
ヘルマンは顔を見せないままにそう答えた。
ヒリスは呆れたように視線をやって、部屋を出て行った。
朝になってヒリスはルイスと共にやってきた。
昏睡、というか眠っているユリアを見て、静かに出ていく。
ヒリスが迎えに行った時も、ベッドの上で目は開いていて、静かにこちらを見つめていた。非常にびっくりしたものだ。
目が覚めてユリアがいないのに気づいて、それでも泣きもせずじっと待っていたらしい。
――おそらくルイスは、ユリアが不眠に悩んでいることを知っていたのだろう。それで夜中に抜け出ていたことも。だから黙ってユリアを待っていた。
この子はどんな気持ちで、夜中のベッドで一人ユリアを待っていたのだろうか。
ユリアが公爵領で寝ていることを告げて一緒にやってきたのだが、それでもユリアをそっと見るだけ。
「ルイス君、今日はここでゆっくりしたらどうかな」
ヒリスの提案にルイスは首を振った。
「ううん。しせつ、いく」
「でも、心配でしょ?いてもいいんだよ」
「ルイ、いないほうが、リアたくさんねれる」
ルイスは頑なだった。ヒリスは無理には勧めず、一緒に朝食をとって施設へ送っていった。
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公爵令息レオンは、王子アルベルトとその寵愛する聖女リリアによって、身に覚えのない罪で断罪され、全てを奪われた。
婚約、地位、家族からの愛――そして、痩せ衰えた最果ての辺境地へと追放される。
しかし、それは新たな人生の始まりだった。
前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。
そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。
共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。
だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。
彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。
一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。
これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。
痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!
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