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ウレタン上のスマイル
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今日はお家のお皿が6つも割れてた。寝る部屋の壁の染みも、昨日よりずっと大きくなってた。どうしよう、やっぱりもうダメなのかな。せめて誰かと一緒に背負えたら、なんて思っちゃう私は酷い人だね。
この生活が終わったら嫌だなあ。同じアクターの子もみんな優しいし、子どもはみんなかわいいし、乃美ちゃんのことも大好き。でも私がダメになるだけじゃなくて、乃美ちゃんたちのことも巻き込んでしまったらそれはもっと嫌。私はみんなを笑顔にするのが仕事なのに、誰かが不幸になるなんて悲しすぎるもん。だからやっぱり、私が全部背負わないといけないね。
最近はね、何をしてても胸が苦しいの。
鉛筆で塗りつぶしたみたいに、頭がぐちゃぐちゃになる。目の前にテレビの砂嵐みたいなのが見えて、その中にあの子の顔が浮かぶ。ザーって音がずっと耳の中で鳴ってて、せっかく来てくれるみんなの声も聞こえなくなることがある。
九九の7の段がわからなくなる。信号はどっちが止まれか忘れちゃう。当たり前のもの、知ってるはずのことが、どんどん塗りつぶされていくんだ。
ねぇ乃美ちゃん、やっぱりあのこと、乃美ちゃんに話しちゃダメだったかな。もし、乃美ちゃんがあの子を見てしまったらごめん。でも、私がちゃんとあの子に言うから。私だけにしてって、お願いするからね。
あのとき、気付いてくれてありがとう。私を気遣ってくれてありがとう。
やっぱり私、紗夜ちゃんと会えてよかった。
*
「み、みなさぁ~ん。メイディちゃんが、遊びに来てくれましたよぉ~お」
左手で描いた線みたいに不安定な声が、エントランスの前で響いた。
乃美紗夜の志望した職種は受付だ。箱の中でチケットを販売するアルバイトに応募した。だがこの遊園地はどうやら、人が足りていないらしい。午後にはチケットを求める列も減少することから、紗夜は当遊園地のキャラクターであるメイディちゃんのアテンドスタッフ、つまり付き添いを兼任させられた。
遊園地に行った経験は多くない。キャラクターに付き添いの人間がついているとは知らなかった。だから「アテンドもお願いできる?」と聞かれたとき、どんな仕事かまったく想像がつかなかったのだ。キャラクターのそばに付き添ってサポートする。サポートとはなんだろう。キャラクターに付き添う……守る……SPのような感じだろうか? 顔が怖いとよく言われるから、悪い客を跳ね除けるくらいならできるかもしれない。そう思い、うっかり頷いてしまった。
実際は想像とまったく異なっていた。たしかに、時折子どもが仕掛けるキャラクターへの攻撃を静止することはあった。だがメインの仕事は、キャラクターの手助け。つまり。
「あっ! メイディちゃん、えー……お腹をさすって……? 腹痛……? あ、いや空腹! お腹が空いちゃったのかな!」
メイディちゃんの言いたいことをジェスチャーで汲み取り、明るい笑顔で通訳し、円滑なコミュニケーションを促すことだった。
明るい笑顔。相手の意思の汲み取り。紗夜がこの世で最も苦手な二大要素といっても過言ではないだろう。とても向いていない。黙っているだけで「怒ってる?」と聞かれることの多い紗夜は、つくづくそう感じた。
*
「乃美ちゃん、さっき男の子のこと教えてくれてありがとう!」
「いえ、それが私の仕事ですから」
子どもがメイディちゃんの後ろでずっとアピールしていたが、メイディちゃんはそれにしばらく気づけなかった。仕方ない、メイディちゃんは視界が不明瞭なのだ。そんなときにそれとなくメイディちゃんを促すのも、紗夜の仕事だった。
「それよりすみません、ジェスチャー読み取るの下手で」
「ううん、私のほうこそうまくできなくてごめん。じゃあさ、次はどんなジェスチャーするか打ち合わせしよっか?」
「ありがとうございます。助かります」
メイディのキャラクターアクター……着ぐるみの演者である如月あゆみは、笑顔の印象的な人だった。背の低いその人を初めて見たときは年齢が分からず、おずおずと歳を尋ねたものだった。
『えっとね、ちょうど先週誕生日だったんだけど。19になりました』
『えっ』
なんとも失礼な感嘆詞を吐いてしまった。その小柄な女性は、予想だにせず紗夜よりも年上だった。
『あ、びっくりしてる。大丈夫だよ、よくあるから。昔は小さいこと気にしてたけど、今はよかったって思う。こんな仕事できるんだもん』
彼女はそう言って、いたずらっぽい笑みをこぼしていた。
紗夜と正反対に、あゆみは歩く遊園地のような人だった。人付き合いの得意な、明るくて優しい女性。頼り甲斐があるけれど、同時にいつまでも童心を忘れない人。黙っていたって、どんな子どもにも好かれる天性の持ち主だ。
初めて会ったときのことを回想しながら、紗夜はあゆみの顔を見る。異なる部署ながらも、人なつこいあゆみのおかげで二人はすぐに打ち解けられた。
「如月さんはほんと、みんなを笑顔にするために生まれてきたような人ですよね」
「…….えへへ、嬉しいな」
思っていたことを言っただけであり、褒め言葉のつもりだった。あゆみもそれを聞いて、嫌な顔はしなかった。それなのに、なぜか。
口にした直後、ほんの一瞬、紗夜は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。これは口にしてはいけなかったのではないかと、本能が自身を咎めるように。なぜそう感じたかは、自分でもわからなかった。
*
「如月さん、体調悪いですか」
どこか青白く見える横顔に声をかけたのは、午後のグリーティング前のことだった。
「調べました。アクターは、コスチュームが重くて重労働だって。無理しないでください」
「……えー、なんか嬉しいな。でも、もう慣れたからそんなに重くないよ。運動してるから、こう見えて結構力あるし。仕事は全然元気にやれてるよ」
あゆみは笑顔を向け、そう続ける。いつもと同じ。どこから見ても当たり障りのない微笑みだ。優しい。心が温まる。
でもそれは、あゆみの感情を表すものではない。感情表現のツールではなく、誰かを幸せにするために作られたもの。そう見えてしまう。笑顔の仮面を、……着ぐるみをつけているようだった。
「……ありがとうね」
その言葉だけは、紗夜の目を見ずに放たれた。横髪に隠れて、その顔は見えなかった。
あゆみは明るく話を続けたが、「体調悪い」を否定する言葉だけは最後まで聞けなかった。
*
「お札、知ってますか?」
「おふだ?」
「あの、エントランス出るとこの扉に」
バックステージのとある場所にお札が貼られているのを、紗夜はずっと気にしていた。きっと幽霊が出るんだ、誰か死んじゃったんだ、とゲートスタッフの間でも噂になっている。先輩のあゆみなら知っているのではないかと、業務終了後に他愛ない世間話のつもりでそんな話題を振った。
「……あはは、それ違うよ! あのね、こういうところでは、工事のときに安全祈願でお札を貼るの。だから、お化けとかそういうんじゃないよ」
なるほど、と合点する。歪な期待をしていた同僚には悪いが、本気で怖がっていた人もいたので、明日真実を打ち明けよう。
ただ、少しだけ。彼女が答えるまでの間、1秒程度の沈黙があったことが妙に気になっていた。
「……乃美ちゃんは、こっちに小さい子がいるの見たことない?」
あゆみが口を開き、唐突に思える話題を提示する。いや、内容によっては唐突ではないのかもしれない。様子を伺うためにも、素直に話を続けた。
「こっち? バックステージにですか? ない……ですね」
「やっぱりそうだよね」
「如月さんは、見たことが?」
「……うんー」
曖昧な返事だった。
「子ども……間違えて入ってきちゃったとかですかね」
「でもその子、一度じゃなくて。何度も見たんだ」
彼女の言いたいことが分かってきた。そして、彼女がそれに対してどんな感情を持っているのかも。
あゆみの言うことを信じていないわけではなかったが、紗夜はあえてその存在を肯定したくなかった。自分が「それ」を肯定することで、「それ」は真実になってしまう。そうなれば、彼女はもっと不安になるのではないか。そう思っていた。
「……もしかして、子どもに見える大人の方じゃないでしょうか? アクターの方なら、身長が低くても頷けます」
キャラクターアクターはそのコスチュームの性質上、身長規定が設けられている。
「でも、明らかに幼い子なんだよね。それに、」
あゆみが言葉を切って、立ち止まる。思わず目を向けると、あゆみの顔は左脇を見つめていた。紗夜たちは乗ることのない、貨物用の古びたエレベーター。その隅を、取り憑かれたように見ている。表情は見えない。紗夜はただ、言葉を待った。
「……あっ! ごめんね、今日用事あるから!」
先ほど区切った言葉などなかったかのように、あゆみが長い通路の先へと駆け出した。紗夜は驚きに肩を跳ねさせたが、彼女の手の振りに応じてお疲れ様です、と頭を下げた。
*
「今日から春休みシーズンかぁ」
「……そうですね」
コスチュームの着付け部屋は、関連職種の人以外には非公開になっている。奥に用意されたその部屋へ向かうにつれ、人通りが少なくなる。廊下に、二つの足音だけが響く。
「たぶん朝からいっぱい人が来、」
「今日やめましょう」
前を歩くその手を掴んだ。紗夜を見たあゆみの目が、大きく見開かれている。その腕は、死人みたいに冷たかった。
「体調、治ってないですよね。さっきから、どことなく上の空です。ダメです、ただでさえ大変な仕事なんだから。この会社ホワイトだし、多分直前でも休めます。休めないんならそんな会社一緒にやめましょう」
「……すごい。気付いてくれたの、乃美ちゃんだけだよ。……ごめん、実はね」
あゆみが、は、と息を吸った。
「偏頭痛持ちなんだ。月に何回か、頭痛くなるの。でも薬飲んだし、もう効くと思う」
「それでも、今日だけは」
「違うの。だからこそ、やりたいの。あのね、私子どもの声聞くと、元気になるの。……乃美ちゃんと、一緒にいるときも。家にいるとね、いろんなこと考えちゃう。頭ももっと痛くなる。だから、行かせて?」
いつもの笑みだ。明るくて、優しくて、どこか遠い存在に思わせる笑み。光に満ちすぎていて、まるで人ではないかのような笑み。遠くて、同じ場所には立てないのだといつも感じる。誰にでも平等で、誰かのためだけにある表情。この人はいつも、本当の顔を見せない。
ただ、その言葉にだけは嘘がないと思った。
「……わかりました。でも、ダメそうだったらいつでも言ってください」
あゆみが頷いた。本当に、子どもみたいな笑顔だった。
*
眠たそうな警備員に挨拶をして、カードリーダーに社員証をかざす。ワードローブで課の名前とサイズを告げ、受け取ったコスチュームを片手に更衣室へと歩みを進めた。
いつもと同じ、下から三番目のロッカーに手をかける。今日も空いていた。途中で同じコスチュームを持つ後輩が現れたので、お疲れ様、と声をかける。
「今日からクリウェイのコンサートっすよね、混みそー」
「こういう日の朝番きついよね」
「ほんとそれな、です。メンバー見れないかなあ。乃美さんは見かけました?」
「ううん。でもコンサート10時だし、まだ入ってないんじゃない? 昼食のときとか、食堂行けば会えるかも」
「まじだ! 乃美さん、今日一緒に食堂で食べましょう」
「……いいよ。じゃあ、先行ってる」
早朝でも元気な後輩を横目に、裾を整えて出口に戻る。腕時計に目をやった。……11……7時55分。朝礼まではまだ、少し時間がある。
いくつもの扉とすれ違う。知らない課の事務所、食堂、園内に続くドア。貨物用エレベーターに差し掛かったところで、手の甲がすっと冷えた空気を受けた気がして、それが紗夜の足を減速させた。
今もエレベーターの脇を通ると、その隅を見てしまう。それから心に穴が空くようなとてつもない情動が押し寄せてきて、その痛みを誤魔化すように手のひらを握りしめてしまう。
切ったばかりの爪が食い込む。持て余すような眩暈の感覚に、意識を手放しそうになる。己の不器用さが、鈍感さが、愚かさが、今はただ憎い。
思わず逸らした視線の先に、メイディちゃんがいた。壁にデザインされたメイディちゃんが、その目が、紗夜を見つめている。劣化で所々かすれ、黒ずみだしているのに、その顔はいつも変わらぬ笑みを浮かべている。
あのとき紗夜が彼女の苦しみに気付いていれば、あゆみは今日で21歳だった。
この生活が終わったら嫌だなあ。同じアクターの子もみんな優しいし、子どもはみんなかわいいし、乃美ちゃんのことも大好き。でも私がダメになるだけじゃなくて、乃美ちゃんたちのことも巻き込んでしまったらそれはもっと嫌。私はみんなを笑顔にするのが仕事なのに、誰かが不幸になるなんて悲しすぎるもん。だからやっぱり、私が全部背負わないといけないね。
最近はね、何をしてても胸が苦しいの。
鉛筆で塗りつぶしたみたいに、頭がぐちゃぐちゃになる。目の前にテレビの砂嵐みたいなのが見えて、その中にあの子の顔が浮かぶ。ザーって音がずっと耳の中で鳴ってて、せっかく来てくれるみんなの声も聞こえなくなることがある。
九九の7の段がわからなくなる。信号はどっちが止まれか忘れちゃう。当たり前のもの、知ってるはずのことが、どんどん塗りつぶされていくんだ。
ねぇ乃美ちゃん、やっぱりあのこと、乃美ちゃんに話しちゃダメだったかな。もし、乃美ちゃんがあの子を見てしまったらごめん。でも、私がちゃんとあの子に言うから。私だけにしてって、お願いするからね。
あのとき、気付いてくれてありがとう。私を気遣ってくれてありがとう。
やっぱり私、紗夜ちゃんと会えてよかった。
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「み、みなさぁ~ん。メイディちゃんが、遊びに来てくれましたよぉ~お」
左手で描いた線みたいに不安定な声が、エントランスの前で響いた。
乃美紗夜の志望した職種は受付だ。箱の中でチケットを販売するアルバイトに応募した。だがこの遊園地はどうやら、人が足りていないらしい。午後にはチケットを求める列も減少することから、紗夜は当遊園地のキャラクターであるメイディちゃんのアテンドスタッフ、つまり付き添いを兼任させられた。
遊園地に行った経験は多くない。キャラクターに付き添いの人間がついているとは知らなかった。だから「アテンドもお願いできる?」と聞かれたとき、どんな仕事かまったく想像がつかなかったのだ。キャラクターのそばに付き添ってサポートする。サポートとはなんだろう。キャラクターに付き添う……守る……SPのような感じだろうか? 顔が怖いとよく言われるから、悪い客を跳ね除けるくらいならできるかもしれない。そう思い、うっかり頷いてしまった。
実際は想像とまったく異なっていた。たしかに、時折子どもが仕掛けるキャラクターへの攻撃を静止することはあった。だがメインの仕事は、キャラクターの手助け。つまり。
「あっ! メイディちゃん、えー……お腹をさすって……? 腹痛……? あ、いや空腹! お腹が空いちゃったのかな!」
メイディちゃんの言いたいことをジェスチャーで汲み取り、明るい笑顔で通訳し、円滑なコミュニケーションを促すことだった。
明るい笑顔。相手の意思の汲み取り。紗夜がこの世で最も苦手な二大要素といっても過言ではないだろう。とても向いていない。黙っているだけで「怒ってる?」と聞かれることの多い紗夜は、つくづくそう感じた。
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「乃美ちゃん、さっき男の子のこと教えてくれてありがとう!」
「いえ、それが私の仕事ですから」
子どもがメイディちゃんの後ろでずっとアピールしていたが、メイディちゃんはそれにしばらく気づけなかった。仕方ない、メイディちゃんは視界が不明瞭なのだ。そんなときにそれとなくメイディちゃんを促すのも、紗夜の仕事だった。
「それよりすみません、ジェスチャー読み取るの下手で」
「ううん、私のほうこそうまくできなくてごめん。じゃあさ、次はどんなジェスチャーするか打ち合わせしよっか?」
「ありがとうございます。助かります」
メイディのキャラクターアクター……着ぐるみの演者である如月あゆみは、笑顔の印象的な人だった。背の低いその人を初めて見たときは年齢が分からず、おずおずと歳を尋ねたものだった。
『えっとね、ちょうど先週誕生日だったんだけど。19になりました』
『えっ』
なんとも失礼な感嘆詞を吐いてしまった。その小柄な女性は、予想だにせず紗夜よりも年上だった。
『あ、びっくりしてる。大丈夫だよ、よくあるから。昔は小さいこと気にしてたけど、今はよかったって思う。こんな仕事できるんだもん』
彼女はそう言って、いたずらっぽい笑みをこぼしていた。
紗夜と正反対に、あゆみは歩く遊園地のような人だった。人付き合いの得意な、明るくて優しい女性。頼り甲斐があるけれど、同時にいつまでも童心を忘れない人。黙っていたって、どんな子どもにも好かれる天性の持ち主だ。
初めて会ったときのことを回想しながら、紗夜はあゆみの顔を見る。異なる部署ながらも、人なつこいあゆみのおかげで二人はすぐに打ち解けられた。
「如月さんはほんと、みんなを笑顔にするために生まれてきたような人ですよね」
「…….えへへ、嬉しいな」
思っていたことを言っただけであり、褒め言葉のつもりだった。あゆみもそれを聞いて、嫌な顔はしなかった。それなのに、なぜか。
口にした直後、ほんの一瞬、紗夜は心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。これは口にしてはいけなかったのではないかと、本能が自身を咎めるように。なぜそう感じたかは、自分でもわからなかった。
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「如月さん、体調悪いですか」
どこか青白く見える横顔に声をかけたのは、午後のグリーティング前のことだった。
「調べました。アクターは、コスチュームが重くて重労働だって。無理しないでください」
「……えー、なんか嬉しいな。でも、もう慣れたからそんなに重くないよ。運動してるから、こう見えて結構力あるし。仕事は全然元気にやれてるよ」
あゆみは笑顔を向け、そう続ける。いつもと同じ。どこから見ても当たり障りのない微笑みだ。優しい。心が温まる。
でもそれは、あゆみの感情を表すものではない。感情表現のツールではなく、誰かを幸せにするために作られたもの。そう見えてしまう。笑顔の仮面を、……着ぐるみをつけているようだった。
「……ありがとうね」
その言葉だけは、紗夜の目を見ずに放たれた。横髪に隠れて、その顔は見えなかった。
あゆみは明るく話を続けたが、「体調悪い」を否定する言葉だけは最後まで聞けなかった。
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「お札、知ってますか?」
「おふだ?」
「あの、エントランス出るとこの扉に」
バックステージのとある場所にお札が貼られているのを、紗夜はずっと気にしていた。きっと幽霊が出るんだ、誰か死んじゃったんだ、とゲートスタッフの間でも噂になっている。先輩のあゆみなら知っているのではないかと、業務終了後に他愛ない世間話のつもりでそんな話題を振った。
「……あはは、それ違うよ! あのね、こういうところでは、工事のときに安全祈願でお札を貼るの。だから、お化けとかそういうんじゃないよ」
なるほど、と合点する。歪な期待をしていた同僚には悪いが、本気で怖がっていた人もいたので、明日真実を打ち明けよう。
ただ、少しだけ。彼女が答えるまでの間、1秒程度の沈黙があったことが妙に気になっていた。
「……乃美ちゃんは、こっちに小さい子がいるの見たことない?」
あゆみが口を開き、唐突に思える話題を提示する。いや、内容によっては唐突ではないのかもしれない。様子を伺うためにも、素直に話を続けた。
「こっち? バックステージにですか? ない……ですね」
「やっぱりそうだよね」
「如月さんは、見たことが?」
「……うんー」
曖昧な返事だった。
「子ども……間違えて入ってきちゃったとかですかね」
「でもその子、一度じゃなくて。何度も見たんだ」
彼女の言いたいことが分かってきた。そして、彼女がそれに対してどんな感情を持っているのかも。
あゆみの言うことを信じていないわけではなかったが、紗夜はあえてその存在を肯定したくなかった。自分が「それ」を肯定することで、「それ」は真実になってしまう。そうなれば、彼女はもっと不安になるのではないか。そう思っていた。
「……もしかして、子どもに見える大人の方じゃないでしょうか? アクターの方なら、身長が低くても頷けます」
キャラクターアクターはそのコスチュームの性質上、身長規定が設けられている。
「でも、明らかに幼い子なんだよね。それに、」
あゆみが言葉を切って、立ち止まる。思わず目を向けると、あゆみの顔は左脇を見つめていた。紗夜たちは乗ることのない、貨物用の古びたエレベーター。その隅を、取り憑かれたように見ている。表情は見えない。紗夜はただ、言葉を待った。
「……あっ! ごめんね、今日用事あるから!」
先ほど区切った言葉などなかったかのように、あゆみが長い通路の先へと駆け出した。紗夜は驚きに肩を跳ねさせたが、彼女の手の振りに応じてお疲れ様です、と頭を下げた。
*
「今日から春休みシーズンかぁ」
「……そうですね」
コスチュームの着付け部屋は、関連職種の人以外には非公開になっている。奥に用意されたその部屋へ向かうにつれ、人通りが少なくなる。廊下に、二つの足音だけが響く。
「たぶん朝からいっぱい人が来、」
「今日やめましょう」
前を歩くその手を掴んだ。紗夜を見たあゆみの目が、大きく見開かれている。その腕は、死人みたいに冷たかった。
「体調、治ってないですよね。さっきから、どことなく上の空です。ダメです、ただでさえ大変な仕事なんだから。この会社ホワイトだし、多分直前でも休めます。休めないんならそんな会社一緒にやめましょう」
「……すごい。気付いてくれたの、乃美ちゃんだけだよ。……ごめん、実はね」
あゆみが、は、と息を吸った。
「偏頭痛持ちなんだ。月に何回か、頭痛くなるの。でも薬飲んだし、もう効くと思う」
「それでも、今日だけは」
「違うの。だからこそ、やりたいの。あのね、私子どもの声聞くと、元気になるの。……乃美ちゃんと、一緒にいるときも。家にいるとね、いろんなこと考えちゃう。頭ももっと痛くなる。だから、行かせて?」
いつもの笑みだ。明るくて、優しくて、どこか遠い存在に思わせる笑み。光に満ちすぎていて、まるで人ではないかのような笑み。遠くて、同じ場所には立てないのだといつも感じる。誰にでも平等で、誰かのためだけにある表情。この人はいつも、本当の顔を見せない。
ただ、その言葉にだけは嘘がないと思った。
「……わかりました。でも、ダメそうだったらいつでも言ってください」
あゆみが頷いた。本当に、子どもみたいな笑顔だった。
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眠たそうな警備員に挨拶をして、カードリーダーに社員証をかざす。ワードローブで課の名前とサイズを告げ、受け取ったコスチュームを片手に更衣室へと歩みを進めた。
いつもと同じ、下から三番目のロッカーに手をかける。今日も空いていた。途中で同じコスチュームを持つ後輩が現れたので、お疲れ様、と声をかける。
「今日からクリウェイのコンサートっすよね、混みそー」
「こういう日の朝番きついよね」
「ほんとそれな、です。メンバー見れないかなあ。乃美さんは見かけました?」
「ううん。でもコンサート10時だし、まだ入ってないんじゃない? 昼食のときとか、食堂行けば会えるかも」
「まじだ! 乃美さん、今日一緒に食堂で食べましょう」
「……いいよ。じゃあ、先行ってる」
早朝でも元気な後輩を横目に、裾を整えて出口に戻る。腕時計に目をやった。……11……7時55分。朝礼まではまだ、少し時間がある。
いくつもの扉とすれ違う。知らない課の事務所、食堂、園内に続くドア。貨物用エレベーターに差し掛かったところで、手の甲がすっと冷えた空気を受けた気がして、それが紗夜の足を減速させた。
今もエレベーターの脇を通ると、その隅を見てしまう。それから心に穴が空くようなとてつもない情動が押し寄せてきて、その痛みを誤魔化すように手のひらを握りしめてしまう。
切ったばかりの爪が食い込む。持て余すような眩暈の感覚に、意識を手放しそうになる。己の不器用さが、鈍感さが、愚かさが、今はただ憎い。
思わず逸らした視線の先に、メイディちゃんがいた。壁にデザインされたメイディちゃんが、その目が、紗夜を見つめている。劣化で所々かすれ、黒ずみだしているのに、その顔はいつも変わらぬ笑みを浮かべている。
あのとき紗夜が彼女の苦しみに気付いていれば、あゆみは今日で21歳だった。
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