二枚目同心 渡辺菊之助

今野綾

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みずのかみ

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 今日も今日とて着物の帯に二本差しを、反対側には着物にりゅうを付け、菊之助はざっざと草履を鳴らして歩いていく。これぞ日本晴れというほどの、見事に晴れ上がった青空であった。

 今日は越後屋高久と両国橋で待ち合わせていた。
両国橋で落ち合って、徒歩かちあゆみにて深川の富岡八幡宮に行くことになっていた。子連れであったが、二人には徒歩みで行くことしか頭になかった。何故なら、前に船に乗り慣れない貸し本屋松一という男を船に乗せ、盛大に酔われて散々な目にあったからである。

 橋の袂にて手代を連れて佇んでいた高久は明らかに若旦那中の若旦那、品の塊が形を成しているようであった。一重の着物は柄もなく控え目なのに、それでも持って生まれた輝きで、なんとも目を引いた。
 すたすたと重りを引っ提げ高久の元へ、金魚売りや飴売りを横目に歩いていく。因みにちらりと盗み見たりゅうは、やはり棒手振りなんかに興味を示すことなく、無表情で菊之助の着物にくっついて歩いていた。

 高久も早めに人混みから菊之助を認めて、早々にまずは一つ頭を下げる。そして、高久に辿り着いた菊之助に改めて深々と頭を下げ直した。

「これは菊之助様」

「ああ、挨拶はいいぞ、待たせたな」

 菊之助は先回りして、長い挨拶に断りを入れるせっかちぶりである。それは既に約束事になっているので、顔を上げた高久は別段困った顔も見せなかった。

 高久の供である手代が深々と頭を下げ、顔を上げるとりゅうを見下ろし手を差し伸べてみた。

「同心様のご迷惑になるから、こちらへ移っちゃどうだい?」

 手代の言葉を聞き、菊之助は腕組をし、斜め右下のりゅうを見下ろしたし、高久もりゅうの反応を待った。手代の広げられた手をりゅうは見ていた。しかし、見ているだけで一向にそちらに移る気配はない。

「だよなぁ」

 自分の屋敷でも散々試したが、菊之助以外はとんとお断り。一応、越後屋に居たのだから、手代の顔は知っているだろうし、もしやと思ってみたが、やはり駄目であった。

「まぁ、これだけしっかり握っておるしよ、迷子の迷子ってぇことにはならんだろ」

 少々重いがまぁ良いと言った具合に歩き出した菊之助に、飛脚が通りすぎるのを待って高久も並んで歩き出した。菊之助と高久、半身遅れたりゅう、そして高久の所の手代と言う順で歩いていく。

「今日は亀吉親分は一緒ではないのでございますね」

「あんなせっかち、連れて歩くと体から火を噴くわ。歩くのだって馬鹿みたいにせっかちだからよ」

 高久は柔らかく微笑んで
「りゅう坊もおりますゆえ、深川で落ち合うのでございますね」
と、言い当てるので、まぁなと菊之助は返す。

 まぁしかし、さすがは江戸の三大祭り。皆、今日は一様に深川方面へと歩いていくから面白い。両国橋あたりでもこれほどの人が八幡宮を目指すんじゃ、酷い混みようだろうと、菊之助はうんざりしながら歩いていく。

 昨日、日が傾き始めた頃に戻ってきた亀吉は、深川近辺の分かる限りの迷子石を巡ってきたが、それらしき貼り紙はなかったと言っていた。今日も早い時間から出だし、もう一度確認してから落ち合う予定になっている。

「亀吉も、こりゃあ迷子石を巡るのに苦労するなぁ」

 菊之助がぼやくと
「やはり、なんの手掛かりも見つけられませんでしたか」
と、高久が答える。そして、そうそうと、思い出したようでこんなことを言った。

「日本橋の魚河岸に通ってきている棒手振りが、りゅうを見たと言うので、詳しく聞いて参りました」

「ほぉ」

「魚を仕入れに来た棒手振りが、魚河岸で魚が上がってないか見に参ったそうなんでございます。
なんせ、あの長雨、あまりに商売が出来ないので何でもいいから手に入らないかと考えたらしいのです。しかし、まぁ駄目だと分かって帰ろうとした時分じぶん、うちの二つ先にある店の軒で、小さな子供がぼんやりしておったと言うことでございました」

 歩きながら、引っ張られてずれた着物を戻しつつ、菊之助は首を回す。

「雨だったろ? その子がりゅうのじだって証拠は? 」

「ございませんが、逆に雨なのに子供が一人そんな所に居るのは不自然でございます。たぶん、それがりゅう坊であることに、間違いないかと」

 うーん。と、菊之助は唸って見せて、数歩口を閉じたまま歩いてから、高久を見る。

「魚河岸帰りの棒手振りか。それは随分と朝がはぇな」

 高久は頷いて見せて
「りゅう坊の住まいは、余程、日本橋近辺か、若しくは遠い江戸の外ということになりましょう」
と答えた。

 町には木戸があり、明け六つ(朝六時)にしか開かない決まりになっている。魚は新鮮さが命であるから、魚を扱うものは木戸が開くのを待ち構え、こぞって飛び出して来るのが普通である。だから、それを考えれば、りゅうが日本橋に居た時刻がいかに早いか分かる。木戸が開いて魚河岸で魚がないと知った棒手振りが帰ってくるまでの間に越後屋の近くに居たなら、子供の足だ、深川に住んでいるとは考えにくい。若しくは木戸などない農村住まいであるなら、暗いうちから出てくればあり得るだろうと言うことになる。

「深川じゃあねぇのかよ。しかしそんなら、何故にこんなにりゅうのじは深川の祭りにこだわるのか……ただ、連れていかれたことがあるだけってぇ話なら、歩き損だぞ」

 亀吉の亀のような顔を思い出して、熱心に迷子石を巡っても、深川には貼ってないよなぁと、顎を擦った。

「まぁ、なにもせずに手をこまねいておりますよりは、深川くんだりまで行くのもよろしいかと。祭りも見ることができますから」

 何とも前向きな、高久らしい言葉だった。不満の一つや二つ、口に出してもばちは当たらんだろうになどと、思いつつ首を縦に振る菊之助だった。

 河岸に植えられている柳がゆらゆらと長い枝を揺らしている。何分暑い盛りなので、目に見えて風を感じられるのは涼を感じられて良い。

「んで、梅野はどうだったよ?」

 しれっと吉原遊女である『枯れ木の梅野』の話を持ち出してみた。柳同様それはもう涼しい顔をした菊之助であった。

「またぁ、菊之助様も人が悪うございます。何もございませんでしたから」

 そう答える高久は少しばかり汗が吹き出しているように見えなくもない。

「白状致しますと」
 そこまで言うと、チラッと後ろを伺う。どうやら自分の手代には聞かれたくないようで、声を潜めて続ける。

「梅野は本当にどうでもよく、私は……昔入れあげた女に会って参りました」

 今度は菊之助が汗を吹き出させる番であった。
まさか、そう来るとは思いもしていなかったので、正直"こりゃ、やぶ蛇であった"と、困ってしまうところなのだ。

 高久も菊之助も、若い頃に吉原遊女に骨抜きにされて、高久は親に吉原には二度と行くなと言い渡されていたし、菊之助もこっぴどく叱られた身である。それを、前の事件の時に、是非にと言われて高久を吉原に連れていったのは何を隠そう菊之助なのだ。
このままでは、世話になりっぱなしの越後屋の大旦那に顔向けが出来んと冷や汗ものの話なのだ。

「ええってぇと、高久よ……何をしに」

 などと問うのは野暮天であるが、聞かずにはいられないだろうよと、菊之助は自らに言い訳をする。

 高久はゆっくり頷いた。

「もちろん……」

「もちろん……」

 言葉を繰り返さずには居られない菊之助に、高久が目尻にくしゃりと皺を滲ませて可笑しそうに言う。

「ただ、様子を見て参っただけでございますよ。元気かと、そう言った会話を交わして参りました」

 菊之助はほんの少し腹が立って、横を歩く高久に体当たりした。された方の高久は笑いながら揺れるし、着物の虫になっているりゅうも引っ張られてよろけた。

「俺が困るとわかって話をしたな!」

「ふふ、そのような事は」

「いいや、今笑ったじゃねぇか!」

 滅相もないと高久はゆっくり顔をほころばさせて、よろけたりゅうを気遣う視線を送った。

「実はその人は寝付いておりました。長年の無理がたたったのでございましょう。しかし、良い旦那が付いているようで、しっかり食事も食べられているという話でございました」

「そうか」

 遊女は寝付いてしまうと稼ぐ事が出来ず、そうすると大抵は食うにも困る状況に陥り、やがて死んでいく事が多い事は菊之助も高久も知識として知っていた。

「早いうちに治すのが良かろうよ。なんだってそうだ、悪い箇所があれば早め早めに手を打っておけば大事にならんさ」

 菊之助が言うと
「ええ。差し出がましいとは思いましたが、一時は夢を見させて貰った身、少しばかりの気持ちを置いて参りました」
と、高久がしんみり返した。

「もう、行くでないよ」

「そう致します」

 入り浸るからではない、治るかどうかわからぬから菊之助が言ったのを汲み取って、高久ははっきりとそう約束をした。

 弱っていくのは見ていて辛い。居なくなられてもまた辛い。出来れば、どこかで健やかに生活していて欲しいと思うのは、少しばかり身勝手ではあるが、そんな風に思わずにはいられない。菊之助はふと右側に付けたりゅうを見下ろして、こやつの親もとにかく元気でおってくれと願っているであろうと思う。捨て子であろうと、迷子であろうと、だ。

 深川に近づくにつれ、いよいよ人通りも激しさを増してきた。

 もちろん、人が居るところには、商いを目当てに人が集まる。
 元々大きな深川八幡宮である、水茶屋なんかが道の端にあり、今日はその合間を露店が埋めていた。鰻辻売うなぎのつじうり団扇うちわで炭を煽って香ばしい香りを漂わせているし、しゃぼん売りは「ふきたまや、ふきたまや」と言いながらぷくぷく泡を出しながら歩いていた。親に手を引かれた子供が泡を指差して、しきりに何かを言っている。大方、あれが欲しいとねだっているのだろうと予測はついた。

「りゅう坊や、ほらあちらをご覧。飴細工売りだよ。欲しくはないかい?」

 高久は担ぎ屋台を道に置き、鋏で熱心に兎を作っている飴細工売りを指して、りゅうを誘った。中腰でわざわざ目線まで合わせて聞いているのに、りゅうはどこ吹く風で、やはり興味は示さない。

芥子之助けしのすけ(曲芸師)でもおればなぁ。でも、りゅうのじが好きなのは石ころかもしれねぇしな」

 菊之助も子供の目を引く物はないか、周りを気にしながら歩いているが、やはり人の数が尋常ではない。押し合い圧し合いにはならなくとも、ぶつからないように歩くだけでも骨がおれる。しかも、人によって風が遮られ、川から上がってくるはずの風が届かなくなって、暑いのなんの。数日前は恋しいと思っていた太陽も、今じゃ顔も見たくもないと、まるで若き女子おなごの恋模様である。

「菊之助様、亀吉親分とはどちらで合流なさる予定でございましょうか?」

 あまりの賑わいに、亀吉と落ち合えるのか不安を抱き始めた高久が、菊之助にとうとう聞いてきた。

 問われた菊之助は渋い顔になって、永代橋の袂だとぼそりと答えた。

「それは西でございましょうか? 東でございましょうか?」

 高久の更なる問いに、ますます菊之助が渋い顔付きになったのを見て
「なるほど、西でございますね」
と、高久が困ったように先を見渡した。

 現在いる場所は東側で、亀吉に逢うためにはこの混み合う永代橋を渡って西に行かなくてはならない。それは誰でも顔をしかめたくなるほど、難儀な事であった。

「まさか、これほどとはな。前に一度ここの祭りには来たことがあったんだが、もうちっと風通しが良かったぞ」

 言い訳のように菊之助が口にすると、高久はすかさず
「左様でございましょう」
と同調してみせる。

「長雨で延びに延びましたから、江戸っ子の祭り好きを刺激したのでしょう。焦らされたらますます行きたくなるのが人の心というものでございますし」

 しかし、それにしても、だ。人が多すぎる。江戸中の人間が押し寄せて来たんじゃないのかと疑いたくなる混みようだ。

「おい、聞いたかい? この先、永代橋が止められてるって話だよ」

 前の白玉売りが隣のからから売り(おもちゃ)に困ったように話しかけているのを、菊之助が耳に止めた。

「なんでも一橋ひとつばし治斉はるなり様が船で通るってぇ話を聞いたよ……」

 そういう事かよ……と、口について文句が出そうになるのを菊之助はぐっと堪える。時の将軍、徳川家斉の父である治斉が船で通りがかっているとは、なんとも運が悪い。橋の上から命を狙う輩がおるかもしれぬから、人を止めるのは分かる。分かるが、なにもこんな日に通らんでも良かろうよ。橋の先が通行止めになって詰まっているからこの混みようなのかと、理解できたはいいが、それは参った。

 人垣の先にどうにか橋の欄干はちらちらと見えてはいる。しかし、確かに牛の歩みよりものんびりと、動いているのかいないのか分からぬ速度で人の波が揺れていた。

 菊之助は着物に付いたりゅうを見下ろした。小さな子供は大人に紛れて分かりにくく、居ないように勘違いされ、先ほどから何度も押されてよろめいているのが着物の引っ張り方で伝わっていた。しかも、空気はますます淀んで辛かろう。

「高久よ」

「はい、菊之助様」

「すまぬが、りゅうとこちら側で待っていてくれぬか?」

 高久は行き先を見つめ、そして菊之助越しにりゅうを見た。

「しかし、今は菊之助様のお着物から離れる様子がございませぬ。宜しければ私が橋の向こうに行きまして、亀吉親分さんを連れて戻って参りましょ」

 そのように相談をし始めた時だった。急に、りゅうがくいっと顎をあげて、耳を傾け何かを聞いている素振りを見せた。その時、後ろを歩いていた越後屋の手代が「た、大変でございます!」と、血相を変え青ざめた顔をして二人のもとに体を寄せた。

「暑かったので少し人混みを避けて歩いておりましたら、見えたのでごぜぇます! 橋が……橋が……」

 青ざめたひょろっと背の高い手代を見上げ、菊之助が
「落ち着け。なんだ」
と、問うと手代がごくりと唾を飲み込んだあとに続けた。

「橋が途中で落ちやした!」

「なに!」

 驚いた菊之助は、更に驚くことになる。なんと、今まで死んだ魚のように呆けた顔をしていたりゅうが、菊之助の着物を離し、小さいことを良いことに人々の合間を掻い潜って、橋へと走り出したのだ。

「おい! なんだってぇんだ! あの野郎!!」

 菊之助の悪態も届かず、みるみるうちにりゅうが姿をくらましてしまった。あんなぼやっとしていたのに、まるで別人と思うようなすばしっこさ。菊之助は直ぐ様、家紋の入った羽織から腕を抜き、それを高久へと押し付けて言う。

「良いか、高久。一大事だ、これを」

 そう言うと、腰に差してあった十手を後ろ手で引き抜いて、高久の持つ己の羽織の上に置いた。

「出来るだけ川岸の茶屋辺りに拠点を作れ。溺れた者を引き上げ、温めなくてはならん。火を炊き、船を手配しろ!」

 高久はやや顔色を変えて、頷いた。頷いたものの、乗せられた十手に目が釘付けになっていた。それはそうだ。同心の持つ十手を預かるなどと言う話は聞いたこともない。

「しかしながら、十手は菊之助様のお命と同等で……」

「そうか、じゃあ俺の命、お前に託した。良いか、一刻を争うぞ。何かと十手は役に立つ。さあ、行け!」

 戸惑いながらも高久は頷き
「菊之助様……、無理は、本当に無理はなさらないでくださいませ」
と、絞り出すと、小さく頭を下げて言われた通り人の波から外れていった。何度も振り返りながら去っていく高久のその後を、越後屋の手代が追う。

 溢れ返る人は事態を飲み込めておらず、未だ橋へと流れていた。祭りにうかれた話し声や、物売りの上げる声で、そんな大事なことが起こっていようとは露知らず、皆、橋を目指して流れていた。

 菊之助は前に居た人々を掻き分けて、橋へ橋へと進む。

「この!  いてぇじゃねぇか、このぼん……く」

 菊之助に退かされた男は威勢良く文句を口にし、腰にささった二本差しを見て、慌てて口をつぐんだ。

「皆のもの退け! 退け! 橋が落ちたぞ!」

 大声で人を掻き分けていく菊之助の声にさすがに周囲がざわつき始めた。しかし、声が届かない所に居る者は橋へと行こうとするから、人の流れがなかなか変わらない。
 
 それでも人を掻き分け、どうにか橋の端に辿り着くと、そこにりゅうの姿があった。

「りゅうのじ、てめぇ! はぐれやがって!」

 首根っこを掴んで自分の方を向かせると、りゅうはそれまでのりゅうではなく『なにか別のりゅう』になっていた。見た目は変わらず、しかし目には力が入り、なんとも言えない力を纏っている気がして、菊之助は我が目を疑った。

「菊之助、欄干を行け!」

 りゅうが初めてハッキリと話した。しかも、どこから声が出ているのか定かではなく、菊之助が色んな事で呆気にとられていると、りゅうがもう一度
「欄干の上だ」
と繰り返した。

 はっと我に返り、バサバサと草履を脱ぎ捨てた。

「おめぇに、菊之助呼ばわりされる覚えはねぇ!」

 そう言うと、欄干に手をついて、ぐいっと体を引き上げた。

 それは恐ろしい光景だった。
 太鼓橋は綺麗な曲線を描いているはずであった。しかし、真ん中あたりでバッサリ切られて川面が見える。その川面へ、パラパラと橋の残骸と共に悲鳴を上げ人も落ちていく。川の上へと視線を凝らせば、既に多くの人間たちが水に浮かんで助けを求め、手を伸ばしていた。それなのに、上からまだまだ人が降り注ぐ。そう、人々が橋の方へと押し寄せて来ているからたちが悪い。橋がないのに、押されて押されて人が落下していくのだ。これでは被害が拡がるばかり。

 足の裏に木の感触をしかと感じて、手を脇差しと太刀にかけた。そのまま柄を握ると、目釘を確かめ鞘より抜刀した。そして、天高く掲げてみせると、刃が太陽の光を受けてきらりと煌めいた。

 既に菊之助の真下周辺には「ひぃ」と、悲鳴が上がり始める。菊之助は大きく息を吸い込んでから、たたたっと欄干を両手に刀を持ったまま駆け出した。

 人々の喧騒。仄かに鼻に届く、木材の香り。足を止め、一度しっかり瞼を下ろし大きく息を吸い込んでから、意を決してくわっと目を開けた。

「静まれぃ! 良いか皆の者、引き返せ!! 橋の先を目指す者は容赦なく斬り捨てるぞ!! 下がれぃ!」

 声を張り上げ、刀で向かう先を印す。

「橋が落ちたぞぉ! 早く引き返せぃ! 我は同心、渡辺菊之助であるぞ、言うことを聞かぬものは容赦なく切る! わかったら、戻れ!」

 言っているそばから、橋が揺れ、更に崩落していく。人々が、異変をやっと感じ取って橋から逃れようと我先にと引き返していく。
 川の反対側でも、人々の阿鼻叫喚が見て取れたし、今も尚、ぱらぱらとまるで木の葉のように人が川へと落ちていくのが分かる。

「急げ! 子連れはしっかり我が子を抱いて行け!  目を放すんじゃねぇぞ」

 崩落していく橋の縁を見て、はたと総毛立ったような顔をし鞘に刀を納めると、欄干から飛び降りて、菊之助は橋が崩れた場所へと、無理矢理人を掻き分けて進んでいく。

 見えたのだ、りゅうくらいの子供が崩れ掛かった橋の上で必死になって何かを掴んでいるのを。
逃げようと必死な人の流れを掻き分けて掻き分けて、四苦八苦しながらどうにか欄干の上で見た子の元にたどり着いた。そして、その子の下げられた手の先に、更に小さな子供がぶら下がっているのを見つけた。

「坊よ、よく堪えた」

 汗と涙にまみれた必死の形相で、手を離すまいとしている子に声を掛ける。橋に腹這いになって、手を伸ばし、宙に浮く三つ位の子の腕を掴んだ。

「痛いが堪えろよ」

 宙に浮く子は恐怖で涙することすら忘れ、強ばった顔で見上げていた。周りで大人達が悲鳴を上げながら次々に落ちていく。さぞかし怖かろう。下を見れば高さもあり、しかも地獄絵図さながら、手を高く掲げ助けを求める人また人。子に声を掛けてから、渾身の力で引き上げる。ぶら下がっている子は小さいのに余りに重く、しかも汗ばんだ手が滑るので、こめかみが引きつらせ、歯をぎりぎりならしながら何とか橋の上へと上げた。

「早く行け! 橋がまた落ちる前に」

 引き上げたと共に二人に声を掛けるのが精一杯であった。年長の子がぴょこっと頭を下げると、小さな子の手をとり、その場から逃げていく。

 その時、また橋が大きく揺らぐ。ぐらぐらと揺れる合間にピシピシと嫌な音が混ざり、木場にいるかのような濃厚な木の匂いを感じた時──菊之助の体の下にあった木がすっと力を無くしたように消え失せた。

 こりゃ……死んだな。案外、冷静にそんな風に思っていたのも束の間、体が何かに包まれたような気がした。

『着物を脱ぐのだ、菊之助』

 届いた声に驚いた時、一瞬菊之助の体は持ち上げられたような感覚を感じ、背中が弓なりに反った形ですうっと優しく入水した。

 水の中はそれこそ大渋滞であった。溺れまいと暴れもがく足や腕、揉みくちゃにされながら浮いたり沈んだりする橋の残骸。菊之助は泳ぎに少しばかり自信があったが、浮き上がろうとすると、溺れた者の足場にされ再び沈み、それならと水を掻いて場所を変えようと試みたが、どっしり水を含んだ着物がまとわりついて、いよいよ息が苦しくなってきた。口に含んだ空気を懸命に逃しまいとして、口を一文字に引き結んだまま、帯を解いて刀を手にし、着物を脱ぎ捨てた。そして間一髪、ぎりぎりのところで水面に顔を出し、息を吸い込んだ。と、思ったらまた顔を蹴られて水中に逆戻り。こん畜生め、俺の唯一の取り柄の顔に!!  などと、思いながら、目を凝らし川の流れを見定めて、水の中より隙間がありそうな場所へと泳ぎ進む。

 再び顔を水の中より出せば、見定めた通りそこは人が疎らでなんとか手足を自由に動かせて、岸へと向かうことが出来た。とうとう水を滴らせ河原に立った時、両手に刀を握りしめたまま、重い体をゆっくりと返して、振り向けば……やはりそこは悲鳴や助けを求める声、浮き沈みを繰り返したり、浮きっぱなしのままおかしな角度で流れていく老若男女たち。

 河原だとてひどい有り様であった。
 打ち上げられているのは尖った木材ばかりではなく、ピクリとも動かぬ人の群れ。助けようと寄ってくる人々は、動きを見せた者をとにかく担いでいく。
 無念な気持ちで顔を歪ませ下を向くと、驚く事にりゅうが横に立ち尽くしていた。

「な! お前、いつからそこに!!」

 驚きはまだある。りゅうの着物は濡れていなかった。全く元のままの、りゅうであった。

「おい!」

 声を掛けてもだんまりの、正真正銘のりゅうである。しかし、りゅうにかまけてばかりはいられない。なんとしても、一人でも多く人を助けねばならないし、なにより菊之助自身、見下ろして気がついたのだが、体の至る所擦り傷だらけで手当てをした方が良さそうだった。

 水中で揉みくちゃになった際、いつの間にか橋の板っ端で体中に傷を負ったらしかった。木片が刺さった脇腹は風が吹くたびに、ひりひりするし、化膿したら厄介だ。

「とりあえず、あれだな。高久と合流せねば」

 河原でのびたように横たわる人々を縫って歩き出した。河原も命からがら川より這い上がった者や、助けようと駆け寄る者たちで溢れていた。

 ふと、思い至って振り返る。

「りゅうのじ。掴まるところがなくなったろ? 流石に刀を捨てるわけにはいかんのだ。しっかり着いてこい」

 すると、てくてく寄ってきたりゅうが菊之助が唯一身に纏っているふんどしを両手で掴んだ。

「そこかよ。まぁ、あんまり引っ張ってくれるなよ? ん、お前、流石に石は手離したか。始めからそうすりゃいいんだよ」

 しっかり握られた褌。褌が解けたところで別に困りもしないがな。

 軒を並べる水茶屋に目を凝らし、人が沢山世話しなく出入りを繰り返している辺りを目指して歩き始めた。

 救いは太陽の光が降り注ぎ、冷えた体がもう乾き始めていることだった。素足に熱々の丸い河石を感じながら歩いていく。辺りは騒然としていて、ひどい騒ぎであった。

 河原を上がり、水茶屋がしっかり見えるようになると、着物を絞って貰う者、熱い茶を出して貰う者、泣きじゃくる子を困り顔であやす水茶屋の娘など、皆一様に疲れた様子だった。
 そして、帯に十手を差して、てきぱきと指示を出し続ける高久も容易に見つけることが出来た。こんな時、見慣れた顔を見つけるとなんだか分からぬが、急に気持ちが解れて座り込みたい気持ちになるのだと知る。

「りゅうのじよ、分かるか。高久だぞ」

 つい、そんなことをりゅうに話しかけたくなるくらい、安堵していた。そんな風に話していたら、先に高久の方から菊之助たちに気がついて、慌てた様子で近くにあった長羽織を掴んで寄ってきた。

「菊之助様! 菊之助様! よくぞ、お戻りくださいました。もしか……しなくても、川に落ちたのでございますね! さぁ、ここに座って下さいませ。ここでございます。ああそれより、とにかくこれを身に纏って、いやいやもっと大事な預かりものである十手を……」

「落ち着け、高久。帯がないからとりあえず、十手はお前が差していてくれ。それは羽織るから、こっちに」

 いつも落ち着いている高久が余りにあたふた、よく話すので菊之助は苦笑しながら差し出された自分の長羽織に腕を通した。

「先ほど、うちの手代に古い着物を持って参るように申し付けました。いずれ届くと思いますので、それまで……それにしても、よく戻ってくださいました」

 冷静さを取り戻したと見せかけ、また最後は少々涙ぐんだりするから、菊之助は高久を素足で蹴った。

「めそめそするんじゃねぇよ。江戸一の若旦那だろうよ、しっかりせぇ」

「ええ……申し訳ありません。しかしあれでございますね」

 高久は浮かんだ涙を拭って、なぜか笑い出す。

「なんでぇ?  泣いたと思ったら、急に笑って気色がわりぃじゃぁねぇか」

「いやぁ、着物を着ないと二枚目というお噂はかねがね耳にしておりましたが、確かに確かに、しっとり髪の褌姿、まるで歌舞伎役者のようでございました。なんとも絵になるお姿で、お噂通りでございますね」

「おめぇ、何を言うのかと思えば、そんな事。今さら過ぎて聞き飽きたわ!  はよ、怪我人の手当てをせい!」

 腰を掛けたまま菊之助が再び容赦なく高久を蹴り、高久はやたらと嬉しそうにしながら采配を振るいにいった。

 去っていった高久を見届け、竹で組まれた椅子に一緒に座っていたりゅうを覗き込んで言う。

「そんなに良かったか? まぁ、洒落ものの高久に褒められるっつうのは、悪くねぇな。な、りゅうのじ」

 珍しく目を合わせたりゅうが、何を思ったのか視線を落とし、引き締まった菊之助の腹あたりを見た。そして、目に留まった木の破片に焦点を合わせ、無言のまま、一気にそれを引き抜いて見せた。

「だっ!  何か言ってから抜きやがれってんだ!  いてぇだろ!」

 菊之助が喚くと、りゅうが初めて笑みを浮かべたのだった。
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赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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