1 / 1
***
しおりを挟む
深夜の駅は、どこか非現実的な空気をまとっていた。人気のないホームに立つ久瑠美は、手持ちぶさたにスマートフォンを眺めながら、風に煽られる髪を直す。いつもの深夜バイト帰りの光景――のはずだった。だが、その日は妙にアナウンスの声が耳に残る。
「本日をもって、駅のこの声は廃止となります」
長年聞き慣れていた淡々としたアナウンスが、まるで別人の声のように急に生々しく響いた。久瑠美は思わずスピーカーの方へ顔を向ける。いつもどこか機械的な口調だと思っていたそれが、今日は落ち着かないほどに人間味を帯びている気がする。
列車到着までしばらく時間がある。ホームのベンチに腰掛け、検索エンジンに「駅 アナウンス 廃止 理由」などと思いつくままに打ち込んでみる。しかし公式の情報らしきものは見つからない。すると、不思議な書き込みに行き当たった――「この駅のアナウンスは、ある音声技術者が亡き恋人の声をもとに作ったらしい」というもの。
「そんな都市伝説めいた話が、どうして今さら…」と久瑠美は呟いた。バカバカしいと思いつつ、興味は否めない。もし本当だとしたら、どういう経緯なのか。
ホームに足音が響く。終電間際にもかかわらず、年配の駅員が巡回しているようだ。久瑠美は躊躇しながらも、「あの、すみません」と声を掛けてみる。しかし駅員は、急いで終電案内のパネルを直している様子で、「私も詳しくは知らないよ。ただ、スピーカーの設備を新しくするらしいから。あの声も今日が最後だね」と一言だけ言って立ち去った。
残された久瑠美は、駅員の言葉を反芻しながら、都市伝説の書き込みをもう一度読み直す。亡くなった恋人の声。その人が生きていた証。まるで今も駅に留まっているかのような“想い”が実在するならば、それが今日で消えてしまうのかもしれない。
やがて、ホームがふわりと静まり返った頃、不意にアナウンスが流れ始める。
「まもなく、〇番線に電車が到着いたします」
おなじみのフレーズなのに、耳を澄ませばどこか切ない調子を帯びている。
――一度途切れたら二度と聞くことはできない声。
その考えが頭をよぎると同時に、久瑠美の胸は妙に締めつけられた。衝動的に、スマホで録音できないか試してみようと決意する。スピーカーの下に移動し、録音アプリを起動。けれど、電車が来るまでにその声をきちんと拾えるのだろうか。
「…この声が消えるなんて、なんだか寂しいな」
小さく呟いた瞬間、ホームの照明がわずかに瞬いた。風が吹きつけて髪が乱れる。録音ボタンを押す直前、アナウンスは一瞬だけノイズを伴い、次の放送を告げようとした気配を見せる。
しかし、次の瞬間――
「……」
ブツッという空虚な音がしただけで、スピーカーは沈黙した。まるで電源が落とされたかのように、ホームは深い無音に包まれる。
「えっ……終わっちゃったの?」
思わず口を開く久瑠美。録音アプリのタイムコードは動いているのに、そこには何も収まらない。ただしんとした夜の気配だけが音声ファイルに刻まれていく。
まもなく電車が到着するとの表示が点灯し、ホームの奥からライトがにじむように見え始めた。久瑠美はがっかりしたようにスマホを閉じ、バッグにしまう。タイヤの軋む音と共に電車が滑り込んでくると、ドアが開いた。
「はぁ…残念だな……」
足取り重く車内に乗り込み、空席に腰を下ろす。午前様になるまでアルバイトして、その帰り道がいつもと同じようで違う。まるで劇が終わった後の舞台裏にいるみたいに、張り詰めた静寂が神経をささくれ立たせる。
ドアが閉まる。ふっと息をついたときだった。小さな、けれど確かな声が耳を掠める。
「ありがとう…」
誰の声? いや、誰もいないはずのホームから届く声だろうか。
思わず顔を上げると、ガラス窓越しに見えるホームは明かりが落ち始めていた。その光景はまるで深い海底に沈む都市のように、静かに息を潜めていく。もしかすると幻聴かもしれない。疲れた身体が奇妙なイタズラを仕掛けてきただけかもしれない。
けれど久瑠美は、その声の温もりを否定することができなかった。乗り込んだ電車がゆっくりとホームを離れ始める中、彼女は窓越しに目を凝らす。どこかで確かに手を振るような気配がある――そう思わせるほど、見慣れた駅の風景が今夜は少し違って見えた。
しんしんと夜の闇へ溶けていく駅の姿を見送りながら、久瑠美は胸の奥に残る静かな震えを感じる。そして思う。この世界には、目には見えなくとも誰かが大切にしていた想いが、生き残り続けている瞬間があるのかもしれない、と。
カタン、カタン、と電車の心地よいリズムが続く。乾いたアナウンスの声はもう聞こえない。けれど、その声が確かに今ここにあったことだけは、久瑠美の記憶に深く刻みつけられたように思えた。
ふと運ばれてきた風が、彼女の耳元をかすめる。まるで誰かがもう一度「ありがとう」とつぶやいた気がした。夜の窓にうつる自分の表情は、それを聞き届けるようにわずかに微笑んでいる。
そうして電車は、静かにトンネルの闇へと消えていった。駅のアナウンス――彼女にとっては初めて意識する存在だったが、同時に最後の別れでもあった。その不可思議な時間の名残を抱きながら、久瑠美は深夜の帰り道を噛みしめる。
次にあの駅を利用するとき、そこには新しいアナウンスが流れるだろう。けれど、あの声が完全に途切れてしまったとしても、ほんの一瞬でも誰かの想いに耳を傾けた記憶はきっと消えない。
静寂のホームに残ったかもしれない“ありがとう”の反響を、彼女はそっと胸に抱えながら、長い一日の終わりを迎えた。
「本日をもって、駅のこの声は廃止となります」
長年聞き慣れていた淡々としたアナウンスが、まるで別人の声のように急に生々しく響いた。久瑠美は思わずスピーカーの方へ顔を向ける。いつもどこか機械的な口調だと思っていたそれが、今日は落ち着かないほどに人間味を帯びている気がする。
列車到着までしばらく時間がある。ホームのベンチに腰掛け、検索エンジンに「駅 アナウンス 廃止 理由」などと思いつくままに打ち込んでみる。しかし公式の情報らしきものは見つからない。すると、不思議な書き込みに行き当たった――「この駅のアナウンスは、ある音声技術者が亡き恋人の声をもとに作ったらしい」というもの。
「そんな都市伝説めいた話が、どうして今さら…」と久瑠美は呟いた。バカバカしいと思いつつ、興味は否めない。もし本当だとしたら、どういう経緯なのか。
ホームに足音が響く。終電間際にもかかわらず、年配の駅員が巡回しているようだ。久瑠美は躊躇しながらも、「あの、すみません」と声を掛けてみる。しかし駅員は、急いで終電案内のパネルを直している様子で、「私も詳しくは知らないよ。ただ、スピーカーの設備を新しくするらしいから。あの声も今日が最後だね」と一言だけ言って立ち去った。
残された久瑠美は、駅員の言葉を反芻しながら、都市伝説の書き込みをもう一度読み直す。亡くなった恋人の声。その人が生きていた証。まるで今も駅に留まっているかのような“想い”が実在するならば、それが今日で消えてしまうのかもしれない。
やがて、ホームがふわりと静まり返った頃、不意にアナウンスが流れ始める。
「まもなく、〇番線に電車が到着いたします」
おなじみのフレーズなのに、耳を澄ませばどこか切ない調子を帯びている。
――一度途切れたら二度と聞くことはできない声。
その考えが頭をよぎると同時に、久瑠美の胸は妙に締めつけられた。衝動的に、スマホで録音できないか試してみようと決意する。スピーカーの下に移動し、録音アプリを起動。けれど、電車が来るまでにその声をきちんと拾えるのだろうか。
「…この声が消えるなんて、なんだか寂しいな」
小さく呟いた瞬間、ホームの照明がわずかに瞬いた。風が吹きつけて髪が乱れる。録音ボタンを押す直前、アナウンスは一瞬だけノイズを伴い、次の放送を告げようとした気配を見せる。
しかし、次の瞬間――
「……」
ブツッという空虚な音がしただけで、スピーカーは沈黙した。まるで電源が落とされたかのように、ホームは深い無音に包まれる。
「えっ……終わっちゃったの?」
思わず口を開く久瑠美。録音アプリのタイムコードは動いているのに、そこには何も収まらない。ただしんとした夜の気配だけが音声ファイルに刻まれていく。
まもなく電車が到着するとの表示が点灯し、ホームの奥からライトがにじむように見え始めた。久瑠美はがっかりしたようにスマホを閉じ、バッグにしまう。タイヤの軋む音と共に電車が滑り込んでくると、ドアが開いた。
「はぁ…残念だな……」
足取り重く車内に乗り込み、空席に腰を下ろす。午前様になるまでアルバイトして、その帰り道がいつもと同じようで違う。まるで劇が終わった後の舞台裏にいるみたいに、張り詰めた静寂が神経をささくれ立たせる。
ドアが閉まる。ふっと息をついたときだった。小さな、けれど確かな声が耳を掠める。
「ありがとう…」
誰の声? いや、誰もいないはずのホームから届く声だろうか。
思わず顔を上げると、ガラス窓越しに見えるホームは明かりが落ち始めていた。その光景はまるで深い海底に沈む都市のように、静かに息を潜めていく。もしかすると幻聴かもしれない。疲れた身体が奇妙なイタズラを仕掛けてきただけかもしれない。
けれど久瑠美は、その声の温もりを否定することができなかった。乗り込んだ電車がゆっくりとホームを離れ始める中、彼女は窓越しに目を凝らす。どこかで確かに手を振るような気配がある――そう思わせるほど、見慣れた駅の風景が今夜は少し違って見えた。
しんしんと夜の闇へ溶けていく駅の姿を見送りながら、久瑠美は胸の奥に残る静かな震えを感じる。そして思う。この世界には、目には見えなくとも誰かが大切にしていた想いが、生き残り続けている瞬間があるのかもしれない、と。
カタン、カタン、と電車の心地よいリズムが続く。乾いたアナウンスの声はもう聞こえない。けれど、その声が確かに今ここにあったことだけは、久瑠美の記憶に深く刻みつけられたように思えた。
ふと運ばれてきた風が、彼女の耳元をかすめる。まるで誰かがもう一度「ありがとう」とつぶやいた気がした。夜の窓にうつる自分の表情は、それを聞き届けるようにわずかに微笑んでいる。
そうして電車は、静かにトンネルの闇へと消えていった。駅のアナウンス――彼女にとっては初めて意識する存在だったが、同時に最後の別れでもあった。その不可思議な時間の名残を抱きながら、久瑠美は深夜の帰り道を噛みしめる。
次にあの駅を利用するとき、そこには新しいアナウンスが流れるだろう。けれど、あの声が完全に途切れてしまったとしても、ほんの一瞬でも誰かの想いに耳を傾けた記憶はきっと消えない。
静寂のホームに残ったかもしれない“ありがとう”の反響を、彼女はそっと胸に抱えながら、長い一日の終わりを迎えた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今更家族だなんて言われても
広川朔二
ライト文芸
父は母に皿を投げつけ、母は俺を邪魔者扱いし、祖父母は見て見ぬふりをした。
家族に愛された記憶など一つもない。
高校卒業と同時に家を出て、ようやく手に入れた静かな生活。
しかしある日、母の訃報と共に現れたのは、かつて俺を捨てた“父”だった――。
金を無心され、拒絶し、それでも迫ってくる血縁という鎖。
だが俺は、もう縛られない。
「家族を捨てたのは、そっちだろ」
穏やかな怒りが胸に満ちる、爽快で静かな断絶の物語。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる