消えゆく反響

flowersound

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深夜の駅は、どこか非現実的な空気をまとっていた。人気のないホームに立つ久瑠美は、手持ちぶさたにスマートフォンを眺めながら、風に煽られる髪を直す。いつもの深夜バイト帰りの光景――のはずだった。だが、その日は妙にアナウンスの声が耳に残る。

「本日をもって、駅のこの声は廃止となります」

長年聞き慣れていた淡々としたアナウンスが、まるで別人の声のように急に生々しく響いた。久瑠美は思わずスピーカーの方へ顔を向ける。いつもどこか機械的な口調だと思っていたそれが、今日は落ち着かないほどに人間味を帯びている気がする。

列車到着までしばらく時間がある。ホームのベンチに腰掛け、検索エンジンに「駅 アナウンス 廃止 理由」などと思いつくままに打ち込んでみる。しかし公式の情報らしきものは見つからない。すると、不思議な書き込みに行き当たった――「この駅のアナウンスは、ある音声技術者が亡き恋人の声をもとに作ったらしい」というもの。

「そんな都市伝説めいた話が、どうして今さら…」と久瑠美は呟いた。バカバカしいと思いつつ、興味は否めない。もし本当だとしたら、どういう経緯なのか。

ホームに足音が響く。終電間際にもかかわらず、年配の駅員が巡回しているようだ。久瑠美は躊躇しながらも、「あの、すみません」と声を掛けてみる。しかし駅員は、急いで終電案内のパネルを直している様子で、「私も詳しくは知らないよ。ただ、スピーカーの設備を新しくするらしいから。あの声も今日が最後だね」と一言だけ言って立ち去った。

残された久瑠美は、駅員の言葉を反芻しながら、都市伝説の書き込みをもう一度読み直す。亡くなった恋人の声。その人が生きていた証。まるで今も駅に留まっているかのような“想い”が実在するならば、それが今日で消えてしまうのかもしれない。

やがて、ホームがふわりと静まり返った頃、不意にアナウンスが流れ始める。
「まもなく、〇番線に電車が到着いたします」
おなじみのフレーズなのに、耳を澄ませばどこか切ない調子を帯びている。

――一度途切れたら二度と聞くことはできない声。

その考えが頭をよぎると同時に、久瑠美の胸は妙に締めつけられた。衝動的に、スマホで録音できないか試してみようと決意する。スピーカーの下に移動し、録音アプリを起動。けれど、電車が来るまでにその声をきちんと拾えるのだろうか。

「…この声が消えるなんて、なんだか寂しいな」

小さく呟いた瞬間、ホームの照明がわずかに瞬いた。風が吹きつけて髪が乱れる。録音ボタンを押す直前、アナウンスは一瞬だけノイズを伴い、次の放送を告げようとした気配を見せる。

しかし、次の瞬間――
「……」

ブツッという空虚な音がしただけで、スピーカーは沈黙した。まるで電源が落とされたかのように、ホームは深い無音に包まれる。

「えっ……終わっちゃったの?」

思わず口を開く久瑠美。録音アプリのタイムコードは動いているのに、そこには何も収まらない。ただしんとした夜の気配だけが音声ファイルに刻まれていく。

まもなく電車が到着するとの表示が点灯し、ホームの奥からライトがにじむように見え始めた。久瑠美はがっかりしたようにスマホを閉じ、バッグにしまう。タイヤの軋む音と共に電車が滑り込んでくると、ドアが開いた。

「はぁ…残念だな……」

足取り重く車内に乗り込み、空席に腰を下ろす。午前様になるまでアルバイトして、その帰り道がいつもと同じようで違う。まるで劇が終わった後の舞台裏にいるみたいに、張り詰めた静寂が神経をささくれ立たせる。

ドアが閉まる。ふっと息をついたときだった。小さな、けれど確かな声が耳を掠める。

「ありがとう…」

誰の声? いや、誰もいないはずのホームから届く声だろうか。

思わず顔を上げると、ガラス窓越しに見えるホームは明かりが落ち始めていた。その光景はまるで深い海底に沈む都市のように、静かに息を潜めていく。もしかすると幻聴かもしれない。疲れた身体が奇妙なイタズラを仕掛けてきただけかもしれない。

けれど久瑠美は、その声の温もりを否定することができなかった。乗り込んだ電車がゆっくりとホームを離れ始める中、彼女は窓越しに目を凝らす。どこかで確かに手を振るような気配がある――そう思わせるほど、見慣れた駅の風景が今夜は少し違って見えた。

しんしんと夜の闇へ溶けていく駅の姿を見送りながら、久瑠美は胸の奥に残る静かな震えを感じる。そして思う。この世界には、目には見えなくとも誰かが大切にしていた想いが、生き残り続けている瞬間があるのかもしれない、と。

カタン、カタン、と電車の心地よいリズムが続く。乾いたアナウンスの声はもう聞こえない。けれど、その声が確かに今ここにあったことだけは、久瑠美の記憶に深く刻みつけられたように思えた。

ふと運ばれてきた風が、彼女の耳元をかすめる。まるで誰かがもう一度「ありがとう」とつぶやいた気がした。夜の窓にうつる自分の表情は、それを聞き届けるようにわずかに微笑んでいる。

そうして電車は、静かにトンネルの闇へと消えていった。駅のアナウンス――彼女にとっては初めて意識する存在だったが、同時に最後の別れでもあった。その不可思議な時間の名残を抱きながら、久瑠美は深夜の帰り道を噛みしめる。

次にあの駅を利用するとき、そこには新しいアナウンスが流れるだろう。けれど、あの声が完全に途切れてしまったとしても、ほんの一瞬でも誰かの想いに耳を傾けた記憶はきっと消えない。

静寂のホームに残ったかもしれない“ありがとう”の反響を、彼女はそっと胸に抱えながら、長い一日の終わりを迎えた。
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